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hhoshibaの日記:「宇宙の中心は勇気だ」part2 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-08-16

オリンピック雑感

| 12:39 | オリンピック雑感を含むブックマーク オリンピック雑感のブックマークコメント

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「リオ・オリンピック」をさっぱり観ない。余儀なくニュースで取り上げるので、“ああ、そうか“という程度のことで終始しているが、もう中盤に差し掛かってきているんだよね。

1996年の「アトランタオリンピック」をアメリカで観ていた。これがまるで面白くない。

アメリカはスポーツの大地である。Sportsというのは英語じゃなくてアメリカ語なんだよねって思うくらいだ。この広大で多様性に富む国土は様々なスポーツが可能だし、その設備もリッチだ。さらに加えて、新たなスポーツを次々と“発明“してきた。(バスケットボールアメリカン・フットボール、サーフィン、カヌー、ハングライダースケートボード……などなど枚挙にいとまがない。)

アメリカに存在する駐車場の総面積は概算でプエルトリコに匹敵する」という統計があったが、同じく三分の一くらいはバスケット・コートの総面積になるじゃないの?って思う。屋外駐車場の敷地の中には必ずと言っていいほどバスケットが設えられている。

話を戻して、その「アトランタオリンピック」。

日本人にはあまり馴染みがない種目でルールも知悉していない競技も含めて“くまなく“アメリカ人の選手が出場している。それらを丹念にテレビカメラは追いかけるのだが、視聴している日本人のこちらとしてはinvolveなんかさっぱりできない。

当たり前だ。オリンピック視聴というのは、オリンピック憲章の底流に流れる相互理解の世界市民なんかじゃなく、偏狭なナショナリズム(国家主義)の切っ先を改めて研磨して鋭くさせるための装置じゃないのかって思うくらいに、極めて“国粋的“心持ちで没入するものだ。

今やっている「リオ・オリンピック」も「日本選手」が金だ、やれ銅だ、でニュースにされる。その他の悲痛な顔の選手はほんの申し訳程度に触れる。(頑張って頑張って、それでも4位とか8位になった選手にも賞賛とか顕彰があってもいいのじゃないかとは思う。「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」とか能書きこいていたんじゃね?)

つまり、同じこの“大運動会“を世界で等しく観ているようでも、それぞれの国の人々はそれぞれのフィルターで掬い上げてきたものを観ていて、それを「オリンピック」と見做しているだけなんだ。

オリンピック憲章」の6章目には……

オリンピックムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある」

……ってかっこよく謳っているが、画に描いた餅なんだよ。一番自己撞着を起こしているのは「難民選手団」だと思う。

オリンピックはずいぶん長いこと「平和でより良い世界を作ることに貢献」してきたんじゃないの?だが、お題目だけで未だになんの力にもなっていないってことだよね。「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」という言葉のなんと虚しいことか。四年に一度オリンピックを開いたところで、相も変わらず戦争は終わらないし、テロは続き、難民はとめどもなく流れ出てくる。

さらにさらに。

古代オリンピクを復活させたクーベルタンの精神とはウラハラのオリンピック組織委員会マフィア化、巨費化、権利ビジネス化、果ては、アスリートそのものへ国家ぐるみでのパトロン化(ステート・アマ……まあこれはプロの参加許容で薄まったけど……)、 ドーピング問題、年齢詐称国籍移動……。まるで、詐欺詐称、ごまかし、賄賂、イカサマなどなど“悪のデパート“状態。贅肉ダブダブ、ラードどろどろで賞味期限はとっくに切れている。クーベルタンの精神などどこを探してもカケラも微塵さえもない。虫眼鏡を使っても、ない。

これらバックヤードの薄汚い話は自然と漏れ伝わってくるわけで、一般の人々にもシラケを蔓延させている。

かてて加えて、友人がボソッと呟いた極めて日本的なことが一番しょんぼりと項垂れるかもしれない。

「このなかから、また国会議員が出てきたりするんだろうな。小脳だけ発達したバカ議員がね……」

やるせないねぇ。はぁ〜……。

(完)

※これはFacebookタイムラインの8月9日の「松本薫」と8月10日の「アトランタオリンピック」を纏めて加筆編集したものです。

2016-08-15

民は愚かに保て……か?

| 11:07 | 民は愚かに保て……か?を含むブックマーク 民は愚かに保て……か?のブックマークコメント

軽井沢で二日連闘で息子とゴルフ。ブルーマークのバックティからやろうという。受けて立ったのはいいが、毎ホール、ティーショットで常に80ヤード前後は置いていかれて、ゼーゼーハーハー。ヘトヘトで新幹線で帰京。

夜の9時頃、帰宅した途端に風呂の蛇口が壊れて、水が出っぱなし。盆休みで人がいるのかどうか?とにかく、電話をすると水道局の下請けのテクニシャンが一時間ほどで来てくれて、あっという間にフィックス。「もう相当に古くてガタ来てますね」「ま、もう16年ほどは使ってますから……」

その同じ日、エアコンが効かない。翌朝、これまたメーカーの修理セクションに電話。明日の日曜日10時には伺いますと。

そこへ軽井沢からの宅急便のゴルバッグが届く。

日曜朝。坊さんが棚教を上げに来る朝でもあり、両テンパイ

坊さんも来て、エアコンのテクニシャンも到着。坊さんはカミさんに担当を任せ、こちらはエアコン担当。

ちらっと室内のエアコンを見て、「室外機の不調ですね」とポツリ。室外機のカバーを外して、「あ、やはり冷媒ガスが抜けてますね。30〜40分で治ります」

額に汗しているその30前後の男の頼もしいことと言ったら。

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オランダジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン の『民は愚かに保て』 という名著がある。「見えない権力」をさらに強固にしているのは大新聞と官僚であると喝破した著作。“擬装民主主義国家“の病根にメスを入れている。


だが、この二日間で感じたのは、日本の労働力(技術、サービス)の品質の高さだ。

どっこい!「民は賢い」ということだ。

このダンドリの良さ、オン・スケジュールへの実直さと柔軟さの両立というのは、日本が米作農業で永年培ったものだと誰かが言っていた。つまり、「米つくり」というのは周年で気まぐれな天気天候を睨みながら、段取りに次ぐ段取り。段取りの結晶のようなもの。それが民族のDNAに落とし込まれているんだという。

アメリカで同様のケースが発生して、テクニシャンを待つのに、軽く3日から一週間は掛かる。それで直れば、幸運だ。

かつてニューヨーク・タイムスが、ボディショップ(車修理)に車を出して、使用前・使用後の状況を密かに調査したところ、以前より車の状態が悪くなったのが全体の30%くらいあったのにはひっくり返ったが、これがアメリカの現実。

アメリカ人男性の重要な教養科目にDIYがある。これはもちろん開拓者魂の一環で丸太小屋を自ら作り、生活周り用品も自分で工作するという伝統に依っていることはもちろんのことだろう。だが、現在ではアメリカ人自身がその種の労働力の質を信じてないことが、Do It Yourselfへドライブを掛けていると思う。

私は必ずしも、“日本は素晴らしい““日本民族は優秀だ““日本に生まれてよかった“音頭をアホのように楽しげに歌う人ではない。だが、この二日間の出来事にはうむむむ!と唸らされた。

それにしてもだ。

日本の行政官僚、大新聞は日本の無辜の民の優秀さ・賢さに甘えているんじゃないの?と深々と思う。

(完)

2016-07-30

チャンプ

| 22:22 | チャンプを含むブックマーク チャンプのブックマークコメント

叔父の影響もあったのだろう。(七段だったか……を持っていた。)高校時代は柔道をやっていたが、二段をとったところで、受験勉強に入って止めた。

大学に入り、体育の時間に何かを取らなきゃならなかった。オサレなテニスなんて思ったが、貧乏学生とすれば、用具、コスチュームにカネが掛かるのが、痛い。却下。

柔道着なら汗臭くとも、高校時代のものがあるぞとエントリーしたが、抽選に漏れた。さあ〜てと、と見渡してみたら、ボクシングが定員に満たずで、アキがある。単位のこともあるので、渋々そこに潜り込んだ。

講師は思案の外で、年寄りで、小柄で、優しい人柄であつた。彼だったから、ドロップアウトしないで、続けたのだと思う。

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ボクシング・グローブとは言っても、スポンジがたっぷり入ったアマチュア用のもので、プロ用のモノと比較すると2倍もある。それをそれぞれの受講生が両手嵌めている風景は「のらくろ二等兵」(古い!)の集団のようで滑稽の二文字。


その“おじぃちゃん“から、足の運びと基本のキを習う。つまり、ジャブ。ストレートでもなければアッパーカットでもない。左から繰り出すジャブ。相手もジャブ。そのジャブを右のグローブで右か左に流して、それに交差するように左のジャブを打ち込む……というもの。それをステップと連動させながら体育の授業のある週一回、倦まず巧まず実直に反復練習をする。来る日も来る日もこれだけ。

夏休みが明けてからは、ボクシング部員のアシスタントとのスパーリングが始まる。こちらと大して年齢が変わらぬ彼は、ただただガードだけで一向に攻撃はしてこない。カマキリのように両肘を掲げて、それで顔面と腹部のすべてをガードする。それに苛立ち、闇雲にジャブ(これしか習ってない。フックなど知らない。ボディブローも知らない)を打ち込むが、悉く阻まれて、こちらだけがゼーゼーハーハーと肩で息をする羽目になる。“一人相撲“なのだ。彼は学生なので、決してプロではないが、専門家とトーシロの余りの技術の差にしょんぼりとする。

秋の体育祭。ボクシングのトーナメントがあり、受講生は全員参加だという。面映ゆいが、体重測定などをしてみたり……。当時は55キロあるかないほど。バンタム級だという。

よくデビュー仕立ては“三回戦ボーイ“と言われるが、このトーナメントではそれ以下の二回戦のみ。校舎の屋上が試合場。ロープも張られて、ゴングとか時計も用意されている。そしてリングの周りには少なくはない観客……とは言っても学生たちだが……が取り巻いている。

最初の相手は、顔面蒼白で緊張していた。おじぃちゃん先生から教わったジャブでマッチに臨む。何回かのファイトの後、彼の鼻から鼻血が出始める。タオルがリングに投げ入れられた。ドクターストップだという。“へ、こんなで?““ぽよんぽよんのグローブだぜ“と思う間もなく、レフリーがボクの右手を高く上げる。その間、2分ほど。

二戦目も三戦目も同様にドクター・ストップでTKO(テクニカルノックアウト)だ。ただ、こちらの気持ちがだんだん変化してくる。ジャブが相手の顔面に入る。正確にいえば鼻に入る。鼻が赤くなる。“もう少しだ“と思った後にに2、3発で鼻血が出る。そこを構わずジャブを畳み込むと、鼻血が飛び散る。「黒い愉悦」ってヤツだ。そして、白いタオルが投げこまれて終わる。“もうちょっと楽しみたかったのに……“と微かだが確かには思った。こういう感覚ってプロのボクサーにも絶対あるよね。

今考えて不思議なんだが、体育でボクシングをやっていても、テレビ中継のプロ・ボクシングには全く興味はないし、観たこともなかった。

いよいよ、決勝の4戦目のファイナルになった。相手はいかにもカッコつけでプロボクサーのような体の動きをして“俺ってデキルぜ“というデモンストレーションをしてくる。プロの試合をよく見ているのかもしれないし、近所のジムに通っているのかも知れない。こちらにはフットワークと左のジャブの「馬鹿のひとつ覚え」しかない。

ゴングが鳴る。声援が飛ぶ。ただし、相手にだ。二、三回の小手調べ的なジャブの後、彼がウエービング(足はそのままで、状態を左右、後にそらす)で背を後ろに反らしたの乗じて、ステップを詰め、ほとんど真下に向かって顔面へのジャブを打ち込む。連続で5、6発はお見舞いした。彼は完全に逆上して、野獣のような唸り声をあげ、アッパーカットでやってくる。これが空振りになったときにはガードがガラ空きになる。そこを連続でまた5発ほど畳み込む。“もう鼻血が出てくる頃だ“と思いながら。獣を狩りに行き、追い詰めてゆく邪悪な愉悦だ。

見ると、顔面が血で染まっている。タオルが投げ入れられたが、そのタオルを彼はリング外に放り投げる。殴られただけでは承知できない。もっと戦わせろっていうサインだ。ゴングが連打され、レフリーが止める。その間、1分半くらい。

信じられないことだが、4戦ともTKOだ。みんな3分以内で始末した。

思いがけずにチャンピオンベルトが用意されていて、それを腰に巻いてリング中央で両手を掴まれて高々と挙げられた。観客が拍手しているが、前々から気になっていた可愛い娘も拍手しているのが目の端に見えて、それが嬉しかった。(でも、それだけのことで、どう発展することもなかったことを、蛇に足のように付け加えておく。)

それと、リング脇の例の“おじぃちゃん先生“がこちらを見て“うんうん“と頷いてくれたのも嬉しかった。彼の教えを愚直に守った弟子だったからね。「チャンプ」になったのは私の人生で後にも先にもこの一回だけ。ひとえに彼のお陰だ。

相手の反応を様子見をする」などの意味で「ジャブを出す」っていう。本気で殴りに行っていないジャブ。そのジャブだけでチャンピオン・ベルトを腰に巻くというのも、“めでたさも中くらいなりおらが春“というむずかゆさはありつつも……、ま、いいか。

このことで、つくづく感じたことはスポーツとか芸事というのは基本が誠に大切だということだ。私の到達できたことってボクシングの中の1%にも満たないのだろう。でも、結果はミラクルであった。

以来、ボクシングをやったことはないし、試合も観ない。ボクシング・グローブさえ嵌めたこともない。(第一、持っていたことがないし……)


閑話休題

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WBCバンタム級チャンピオン長谷川穂積 というボクサがーいる。ファイタータイプではなく芸術的アウトボクシングをやる。すでに妻子がいた彼が初めてWBCのタイトルホルダーになったとき新聞から取材を受け、それに返したのコメントが……

「チャンプ……チャンピオンってなんやろ?自分より強いヤツにまだ会ってないだけ……」

こんなコメントが言えるがボクサーがいるのか?!彼はその後、強いと評判のボクサーをわざわざ選び(ときにはファイトマネーを彼自身が拠出したという噂もある)、そして10度の防衛に成功し5年間世界王座を守り続けた。

彼が本当の「チャンプ」。

(完)

2016-07-23

聖なる踊り子

| 20:43 | 聖なる踊り子を含むブックマーク 聖なる踊り子のブックマークコメント

「牛に連れられて善光寺詣」の如く、渋谷のCafe Boemiaへ出向いている。

 ベリーダンスを見に行こうと歩いている。ベリーダンス?うむ。エジプト中東…ジプシー(ロマ)…マタ・ハリ…官能と倦怠…というちょっと怪しげな連想のみが湧いてくる。

確かバルセロナだかで一度は観ているはずなのだが。

牛では決してない若くてハンサムな弁護士とともに歩いている。彼の女友達がやはり弁護士なのだが、これがまた聡明な上に綺麗で可愛い人。その彼女がベリーダンスを踊るというので、それが“撒き餌“になって、「東急ハンズ」の奥手の路地を歩いている。その路地の奥に店はあった。ダンス・スタジオとかホールを思っていたのだが、案に反して広めのカフェ。その通路で踊るらしいのだ。お代は飯代だけ。そうなのか……。

前後左右をよく心得えずに来てしまったが、FOX-TVの『アーリー・My Love』に出てきそうなその女性弁護士のお師匠さんが中村インディアという人で、ま、いわば「インディア一座」のパフォーマンスってことらしい。

「じゃ、千円札なんか挟んじゃっていいの?」

「そういうことをするところじゃないので、おやめください」

とそのハンサム弁護士

……「前後左右不案内」と言ったが、左隣は真矢みきを若くしたような美人と相席だ。左はとても充実している。神様に丁寧に案内されている。

20時30分からパフォーマンスが始まる。まず中村インディアのソロのダンスから口開け。

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……彼女の踊りにずっと釘付けになってしまった。

日本人としてさえ小柄な方だろう。だが、そのしなやかでバランスのとれた肢体が不思議な運動率で全身の部位が動いている。止まっているところは一つもない。波動というべきか?

天分と鍛錬がここまで昇華させたのかなって思う。その上、セクシーといえばこれ以上ないような表情にも心奪われる。

何れにしても、人は自分の得意分野をやっていたり演じている時が最高に美しい表情になる。ハレルヤ!だ。

「女とは精製された不純物にほかならない」というアイロニックな言葉があるが(そうして、このにこごりは男の大好物だったりする、そしてときには身を滅ぼす)、インディアはそれを酒精分にまで純化させ、そしてそれが馥郁たる芳香を放つ。

  

人類・医学・植物・心理・物理・動物・海洋生物これら全てに学位を持ち動物行動学で博士号を持つライアル・ワトソンの著作に『未知の贈り物』というのがある。物語と科学的考察を見事に融合させた不思議な読み物である。

インドネシアの小さな島にたどり着き、少女ティアに出会う。その不思議な島で、暮らすうちにライアル・ワトソンは、マクロであり、同時に、ミクロでもある量子力学やあらゆる分子が波動という動きを続けると言うことなどがその古い小島の政(まつりごと)の中に脈を打っている事に、愕然とする。ティアは“聖なる踊り子“でもあった。彼女が踊ることにより、人間を消し去ったり、火事を起こす力を持っている。

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(↑これはCafe Boemiaのものではありませんが……)

そのテイアとインディアとをダブらせながら彼女の踊りに心も感受性もこそげて持って行かれていた。視線を外すことなくずっと見ていた。観ていた。

彼女は幼い時から、踊ることが好きでクラシックバレー英国にまで留学している。22歳の時にたまたま訪れたトルコ国境の村で、形式美のクラシックバレーとはまったく異なるフリースタイルの踊り(チフテテリ?)に遭遇して心が震えたらしい。それからこの踊りに没入していったという。

講談社主催のミスiD1214(新しい時代にふさわしいまだ見たこともない女の子の発掘……)オーディションに出場して特別賞をもらったのだが、その時の審査員のコメントがステキだ。

「時代が違えば一国の運命を狂わす踊り子」(竹中 夏海:振付師・女優)

「彼女ならダンスで王国を滅ぼすことも、作ることも出来る」(山崎 まどかコラムニスト、ライター、翻訳家

私がインディアのファンになったとしても、彼女には何のメリットもないが、当分ファンでいよう……と考え考え渋谷駅に向かう。雨はもうすっかり上がっていた。

(完)

2016-06-21

おもてなしって何ものだ?

| 22:26 | おもてなしって何ものだ?を含むブックマーク おもてなしって何ものだ?のブックマークコメント

オリンピック招致滝川クリステルプレゼンテーション以来、「おもてなし」があたかもA級市民権を獲得したかのようで誠に鬱陶しい。日本の文化が涵養した日本ならではの「おもてなし」と、最上級形容詞のように持ち上げられているのも笑止千万である。

「おもてなし」って和語表現にすると、なんとなくニュアンスが雅(みやび)な趣なのだが、漢語表現で普通に「応接」「接遇」っていえば済むことじゃないのか?

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関西大学 文学部 国語 国文学専修の乾善彦 氏の説明によると、
「もてなす」は語源をたどると「もて」と「なす」に分解でき、なす(成す)は「そのように扱う、そのようにする」という意味があり、それに接頭語の「もて」が付いたもの。
「もて」というのは「もて騒ぐ」、「もて遊ぶ」などのように、動詞に付属して「意識的に物事を行う、特に強調する意味を添えるのだそうだ。

つまり、「もてなし」というのは“意識的に扱って目的を遂げる“ということになる。心の襞に入り込み、こちらの思いの方向に操作するという概念がむんむんとするではないのか?それに、美化語の「お」をつけて「おもてなし」で一丁上がりだ。

だから、「おもてなし」→「表無し」→「裏がある」というのは、穿ち過ぎで、それこそ裏読みに過ぎる。とはいえ、どうにしても、これには梅雨時のジトジトした湿気のように“打算“とか“損得勘定“がしっとりと含まれているとは思う。

この「おもてなし

」の類語を考えてみても、「おもんぱかる」「忖度する」「空気読む」「裏読みをする」「深読みをする」「寝技」「政治」「深慮遠謀」

「打算」「トラップに掛ける」……などと世故に長けた大人の像ばかり……。美しいか?

加えて、「日本ならではの……」と冠頭詞のように必ずつく。だが、英語でいうentertainとかhospitalityとどこが異なるのか?treatmentとはどうだ?もっと喜ばせるにはsurpriseというものさえ彼らは用意する。それらより、コレは上等なものなのか?

いずれにしろ、日本の文化のなかの「おもてなし」と彼らのそれらとの間にある差異は文化とか習俗の違いから誘導されてくるものに過ぎず、日本のものがが彼らのものより高度で洗練されているなんて思う事自体が“世間知らず“だ。

この「もてなし」とか「人蕩らし」で太閤にまで上り詰めた秀吉という人物を我々の歴史のなかに持っている。“今太閤”と言われた田中角栄もいる。確かに彼らは素晴らしい人材かも知れないが、必ずしも日本人の「理想的人物像」でもない。(むしろ、善と悪が溶け合った「トリック・スター」なんだろうとは思う……。)

なのに、サービス職、営業職もしくはそれに近い職種についている人間は、この「もてなし」「気配り」の周辺でこれらの“人蕩らしサクセス・ストーリー“を上司・先輩から耳たこで聞く羽目になる。

営業職には営業職としての“本懐”の部分がある。「コア・コピタンス」(競争力)といわれる芯棒である。それにも関わらず、競争力のすべてが“人蕩らし”術とか「おもてなし」法に寄せられて語られるのはいかにも跛行的ではないのか?

さらに悪い事に、「おもてなし」というのは“底なし沼”である。ここまででいいという線引きがいつもない。仮に自分の裁量で線引きなんぞすると、「思慮が足りない」「営業センスに欠ける」時には「社会性に欠ける」などと責められ「頭は常に全回転、八方に気を配って一分の隙もあってはならない」などとお叱言を食らう。

すべての人がセールスマンとか、ホテルマンとかフライト・アテンダントや(アメリカなどの)チップ収入のレストランのウエイターの態度・物腰でいいわけはない。だが今やそうじゃない業種の者にも、常態的にというか、同調圧力的に“サービス残業“→「給料以上の使役要求」”を強いることになっている。どんどんと“ブラック企業”への一本道の上を走る。

われわれはタフなシリンダーと敏捷なピストンが欲しいのだ。それらを円滑に動かすために潤滑油が必要なだけだ。最高の純度と粘度の潤滑油を追い求めたところで、シリンダーとピストンが旧弊でガタの来ているものならどうしたって救われない。何の意味もない。本と末とを転倒してはならない。

日本の粋とか優雅さを煮詰めたような京都。その京都の「おもてなし」……。

「ちょっと上がっていきなはれ」「お茶漬け食べていきなはれ」「お茶もう一杯入れましょか」は、京都ではすべて「はよ帰れ!」という意味だという。永らく権力への奥座敷、貸座敷であった京都コンプレックスで凄みのある反語法。ソシュール記号論における「シニフィエ」のごとく、もしくは「暗喩」のごとく、この“素振り“をも読み込み飲み込む教養が「おもてなし」を受ける方にも必要だということだ。これこそが「おもてなし」の本質を衝いているように思える。

(完)