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hhoshibaの日記:「宇宙の中心は勇気だ」part2 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-07-30 チャンプ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

叔父の影響もあったのだろう。(七段だったか……)高校時代は柔道をやっていたが、二段をとったところで、受験勉強に入って止めた。

大学に入り、体育の時間に何かを取らなきゃならなかった。オサレなテニスなんて思ったが、貧乏学生とすれば、用具、コスチュームにカネが掛かるのが、痛い。却下。

柔道着なら汗臭くとも、高校時代のものがあるぞとエントリーしたが、抽選に漏れた。さあ〜てと、と見渡してみたら、ボクシングが定員に満たずで、アキがある。単位のこともあるので、渋々そこに潜り込んだ。

講師は思案の外で、年寄りで、小柄で、優しい人柄であつた。彼だったから、ドロップアウトしないで、続けたのだと思う。

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ボクシング・グローブとは言っても、スポンジがたっぷり入ったアマチュア用のもので、プロ用のモノと比較すると2倍もある。それをそれぞれの受講生が両手嵌めている風景は「のらくろ二等兵」(古い!)の集団のようで滑稽の二文字。


その“おじぃちゃん“から、足の運びと基本のキのようなものを習う。これは……相手の右ストレートをこちらの左手で右に払うように押し下げかわし、それに交差するように右ストレートを打ち込む……というもの。それを週に一回、倦まず巧まず実直に反復練習をする。来る日も来る日もこれだけ。

夏休みが明けてからは、ボクシング部員のアシスタントとのスパーリングが始まる。こちらと大して年齢が変わらぬ彼は、ただただガードだけで一向に攻撃はしてこない。カマキリのように両肘を掲げて、それで顔面と腹部のすべてをガードする。それに苛立ち、闇雲にストレート(これしか習ってない。フックなど知らない。ボディブローも知らない)を打ち込むが、悉く阻まれて、こちらだけがゼーゼーハーハーと肩で息をする羽目になる。“一人相撲“なのだ。彼は学生なので、決してプロではないが、専門家とトーシロの余りの技術の差にしょんぼりとする。

秋の体育祭。ボクシングのトーナメントがあり、受講生は全員参加だという。面映ゆいが、体重測定などをしてみたり……。当時は55キロあるかないほど。バンタム級だという。

よくデビュー仕立ては“三回戦ボーイ“と言われるが、このトーナメントではそれ以下の二回戦のみ。校舎の屋上が試合場。ロープも張られて、ゴングとか時計も用意されている。そしてリングの周りには少なくはない観客……とは言っても学生たちだが……が取り巻いている。

最初の相手は、顔面蒼白で緊張していた。おじぃちゃん先生から教わった基本のキでマッチに臨む。何回かのファイトの後、彼の鼻から鼻血が出始める。タオルがリングに投げ入れられた。ドクターストップだという。“へ、こんなで?““ぽよんぽよんのグローブだぜ“と思う間もなく、レフリーがボクの右手を高く上げる。その間、2分ほど。

二戦目も三戦目も同様にドクター・ストップでTKO(テクニカルノックアウト)だ。ただ、こちらの気持ちがだんだん変化してくる。ストレートが相手の顔面に入る。正確にいえば鼻に入る。鼻が赤くなる。“もう少しだ“と思った後にに2、3発で鼻血が出る。そこを構わずパンチを畳み込むと、鼻血が飛び散る。「黒い愉悦」ってヤツだ。そして、白いタオルが投げこまれて終わる。“もうちょっと楽しみたかったのに……“と微かだが確かには思った。こういう感覚ってプロのボクサーにも絶対あるよね。

今考えて不思議なんだが、体育でボクシングをやっていても、テレビ中継のプロ・ボクシングには全く興味はないし、観たこともなかった。

いよいよ、決勝の4戦目のファイナルになった。相手はいかにもカッコつけでプロボクサーのような体の動きをして“俺ってデキルぜ“というデモンストレーションをしてくる。プロの試合をよく見ているのかもしれないし、近所のジムに通っているのかも知れない。こちらにはフットワークと右ストレートの「馬鹿のひとつ覚え」しかない。

ゴングが鳴る。声援が飛ぶ。ただし、相手にだ。二、三回の小手調べ的なジャブの後、彼がウエービング(足はそもままで、状態を左右、後にそらす)で背を後ろに反らしたの乗じて、ステップを詰め、ほとんど真下にに向かって顔面へのパンチを打ち込む。連続で5、6発はお見舞いした。彼は完全に逆上して、野獣のような唸り声をあげ、アッパーカットでやってくる。これが空振りになったときにはガードがガラ空きになる。そこを連続でまた5発ほど畳み込む。“もう鼻血が出てくる頃だ“と思いながら。獣を狩りに行き、追い詰めてゆく邪悪な愉悦だ。

見ると、顔面が血で染まっている。タオルが投げ入れられたが、そのタオルを彼はリング外に放り投げる。殴られただけでは承知できない。もっと戦わせろっていうサインだ。ゴングが連打され、レフリーが止める。その間、1分半くらい。

信じられないことだが、4戦ともTKOだ。みんな3分以内で始末した。

思いがけずにチャンピオンベルトが用意されていて、それを腰に巻いてリング中央で両手を掴まれて高々と挙げられた。観客が拍手しているが、前々から気になっていた可愛い娘も拍手しているのが目の端に見えて、それが嬉しかった。(でも、それだけのことで、どう発展することもなかったことを、蛇に足のように付け加えておく。)

それと、リング脇の例の“おじぃちゃん先生“がこちらを見て“うんうん“と頷いてくれたのも嬉しかった。彼の教えを忠実に守った弟子だったからね。「チャンプ」になったのは私の人生でこの一回だけ。ひとえに彼のお陰だ。

このことで、つくづく感じたことはスポーツとか芸事というのは基本が誠に大切だということだ。私の到達できたことってボクシングの中の1%にも満たないのだろう。でも、結果はミラクルであった。

以来、ボクシングをやったことはないし、試合も観ない。ボクシング・グローブさえ嵌めたこともない。(第一、持っていたことがないし……)


閑話休題

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WBCバンタム級チャンピオン長谷川穂積 というボクサがーいる。ファイタータイプではなく芸術的アウトボクシングをやる。すでに妻子がいた彼が初めてWBCのタイトルホルダーになったとき新聞から取材を受け、それに返したのコメントが……

「チャンプ……チャンピオンってなんやろ?自分より強いヤツにまだ会ってないだけ……」

こんなコメントが言えるがボクサーがいるのか?!彼はその後、強いと評判のボクサーをわざわざ選び(ときにはファイトマネーを彼自身が拠出したという噂もある)、そして10度の防衛に成功し5年間世界王座を守り続けた。

彼が本当の「チャンプ」。

(完)

2016-07-23

聖なる踊り子

| 20:43 | 聖なる踊り子を含むブックマーク 聖なる踊り子のブックマークコメント

「牛に連れられて善光寺詣」の如く、渋谷のCafe Boemiaへ出向いている。

 ベリーダンスを見に行こうと歩いている。ベリーダンス?うむ。エジプト中東…ジプシー(ロマ)…マタ・ハリ…官能と倦怠…というちょっと怪しげな連想のみが湧いてくる。

確かバルセロナだかで一度は観ているはずなのだが。

牛では決してない若くてハンサムな弁護士とともに歩いている。彼の女友達がやはり弁護士なのだが、これがまた聡明な上に綺麗で可愛い人。その彼女がベリーダンスを踊るというので、それが“撒き餌“になって、「東急ハンズ」の奥手の路地を歩いている。その路地の奥に店はあった。ダンス・スタジオとかホールを思っていたのだが、案に反して広めのカフェ。その通路で踊るらしいのだ。お代は飯代だけ。そうなのか……。

前後左右をよく心得えずに来てしまったが、FOX-TVの『アーリー・My Love』に出てきそうなその女性弁護士のお師匠さんが中村インディアという人で、ま、いわば「インディア一座」のパフォーマンスってことらしい。

「じゃ、千円札なんか挟んじゃっていいの?」

「そういうことをするところじゃないので、おやめください」

とそのハンサム弁護士

……「前後左右不案内」と言ったが、左隣は真矢みきを若くしたような美人と相席だ。左はとても充実している。神様に丁寧に案内されている。

20時30分からパフォーマンスが始まる。まず中村インディアのソロのダンスから口開け。

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……彼女の踊りにずっと釘付けになってしまった。

日本人としてさえ小柄な方だろう。だが、そのしなやかでバランスのとれた肢体が不思議な運動率で全身の部位が動いている。止まっているところは一つもない。波動というべきか?

天分と鍛錬がここまで昇華させたのかなって思う。その上、セクシーといえばこれ以上ないような表情にも心奪われる。

何れにしても、人は自分の得意分野をやっていたり演じている時が最高に美しい表情になる。ハレルヤ!だ。

「女とは精製された不純物にほかならない」というアイロニックな言葉があるが(そうして、このにこごりは男の大好物だったりする、そしてときには身を滅ぼす)、インディアはそれを酒精分にまで純化させ、そしてそれが馥郁たる芳香を放つ。

  

人類・医学・植物・心理・物理・動物・海洋生物これら全てに学位を持ち動物行動学で博士号を持つライアル・ワトソンの著作に『未知の贈り物』というのがある。物語と科学的考察を見事に融合させた不思議な読み物である。

インドネシアの小さな島にたどり着き、少女ティアに出会う。その不思議な島で、暮らすうちにライアル・ワトソンは、マクロであり、同時に、ミクロでもある量子力学やあらゆる分子が波動という動きを続けると言うことなどがその古い小島の政(まつりごと)の中に脈を打っている事に、愕然とする。ティアは“聖なる踊り子“でもあった。彼女が踊ることにより、人間を消し去ったり、火事を起こす力を持っている。

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(↑これはCafe Boemiaのものではありませんが……)

そのテイアとインディアとをダブらせながら彼女の踊りに心も感受性もこそげて持って行かれていた。視線を外すことなくずっと見ていた。観ていた。

彼女は幼い時から、踊ることが好きでクラシックバレー英国にまで留学している。22歳の時にたまたま訪れたトルコ国境の村で、形式美のクラシックバレーとはまったく異なるフリースタイルの踊り(チフテテリ?)に遭遇して心が震えたらしい。それからこの踊りに没入していったという。

講談社主催のミスiD1214(新しい時代にふさわしいまだ見たこともない女の子の発掘……)オーディションに出場して特別賞をもらったのだが、その時の審査員のコメントがステキだ。

「時代が違えば一国の運命を狂わす踊り子」(竹中 夏海:振付師・女優)

「彼女ならダンスで王国を滅ぼすことも、作ることも出来る」(山崎 まどかコラムニスト、ライター、翻訳家

私がインディアのファンになったとしても、彼女には何のメリットもないが、当分ファンでいよう……と考え考え渋谷駅に向かう。雨はもうすっかり上がっていた。

(完)

2016-06-21 「おもてなし」って何者だ? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

オリンピック招致滝川クリステルプレゼンテーション以来、「おもてなし」があたかもA級市民権を獲得したかのようで誠に鬱陶しい。日本の文化が涵養した日本ならではの「おもてなし」と、最上級形容詞のように持ち上げられているのも笑止千万である。

「おもてなし」って和語表現にすると、なんとなくニュアンスが雅(みやび)な趣なのだが、漢語表現で普通に「応接」「接遇」っていえば済むことじゃないのか?

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関西大学 文学部 国語 国文学専修の乾善彦 氏の説明によると、
「もてなす」は語源をたどると「もて」と「なす」に分解でき、なす(成す)は「そのように扱う、そのようにする」という意味があり、それに接頭語の「もて」が付いたもの。
「もて」というのは「もて騒ぐ」、「もて遊ぶ」などのように、動詞に付属して「意識的に物事を行う、特に強調する意味を添えるのだそうだ。

つまり、「もてなし」というのは“意識的に扱って目的を遂げる“ということになる。心の襞に入り込み、こちらの思いの方向に操作するという概念がむんむんとするではないのか?それに、美化語の「お」をつけて「おもてなし」で一丁上がりだ。

だから、「おもてなし」→「表無し」→「裏がある」というのは、穿ち過ぎで、それこそ裏読みに過ぎる。とはいえ、どうにしても、これには梅雨時のジトジトした湿気のように“打算“とか“損得勘定“がしっとりと含まれているとは思う。

この「おもてなし

」の類語を考えてみても、「おもんぱかる」「忖度する」「空気読む」「裏読みをする」「深読みをする」「寝技」「政治」「深慮遠謀」

「打算」「トラップに掛ける」……などと世故に長けた大人の像ばかり……。美しいか?

加えて、「日本ならではの……」と冠頭詞のように必ずつく。だが、英語でいうentertainとかhospitalityとどこが異なるのか?treatmentとはどうだ?もっと喜ばせるにはsurpriseというものさえ彼らは用意する。それらより、コレは上等なものなのか?

いずれにしろ、日本の文化のなかの「おもてなし」と彼らのそれらとの間にある差異は文化とか習俗の違いから誘導されてくるものに過ぎず、日本のものがが彼らのものより高度で洗練されているなんて思う事自体が“世間知らず“だ。

この「もてなし」とか「人蕩らし」で太閤にまで上り詰めた秀吉という人物を我々の歴史のなかに持っている。“今太閤”と言われた田中角栄もいる。確かに彼らは素晴らしい人材かも知れないが、必ずしも日本人の「理想的人物像」でもない。(むしろ、善と悪が溶け合った「トリック・スター」なんだろうとは思う……。)

なのに、サービス職、営業職もしくはそれに近い職種についている人間は、この「もてなし」「気配り」の周辺でこれらの“人蕩らしサクセス・ストーリー“を上司・先輩から耳たこで聞く羽目になる。

営業職には営業職としての“本懐”の部分がある。「コア・コピタンス」(競争力)といわれる芯棒である。それにも関わらず、競争力のすべてが“人蕩らし”術とか「おもてなし」法に寄せられて語られるのはいかにも跛行的ではないのか?

さらに悪い事に、「おもてなし」というのは“底なし沼”である。ここまででいいという線引きがいつもない。仮に自分の裁量で線引きなんぞすると、「思慮が足りない」「営業センスに欠ける」時には「社会性に欠ける」などと責められ「頭は常に全回転、八方に気を配って一分の隙もあってはならない」などとお叱言を食らう。

すべての人がセールスマンとか、ホテルマンとかフライト・アテンダントや(アメリカなどの)チップ収入のレストランのウエイターの態度・物腰でいいわけはない。だが今やそうじゃない業種の者にも、常態的にというか、同調圧力的に“サービス残業“→「給料以上の使役要求」”を強いることになっている。どんどんと“ブラック企業”への一本道の上を走る。

われわれはタフなシリンダーと敏捷なピストンが欲しいのだ。それらを円滑に動かすために潤滑油が必要なだけだ。最高の純度と粘度の潤滑油を追い求めたところで、シリンダーとピストンが旧弊でガタの来ているものならどうしたって救われない。何の意味もない。本と末とを転倒してはならない。

日本の粋とか優雅さを煮詰めたような京都。その京都の「おもてなし」……。

「ちょっと上がっていきなはれ」「お茶漬け食べていきなはれ」「お茶もう一杯入れましょか」は、京都ではすべて「はよ帰れ!」という意味だという。永らく権力への奥座敷、貸座敷であった京都コンプレックスで凄みのある反語法。ソシュール記号論における「シニフィエ」のごとく、もしくは「暗喩」のごとく、この“素振り“をも読み込み飲み込む教養が「おもてなし」を受ける方にも必要だということだ。これこそが「おもてなし」の本質を衝いているように思える。

(完)

2016-06-17 「引き寄せの法則」ってなんだ? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

*[脳・意識]

世に「引き寄せの法則」というものがあるらしい。

いわゆる啓発書っていうもの。この類は最近では全く読まない。遠い以前は何冊か読んだ。でも、「啓発本」で“啓発“されたことなんかこれまで一度もないからだ。本屋でコレを見かけたとしても、“またかよ、チッ!“って心で呟いて通り過ぎたと思う。

誰かの言葉だったと思うが、

「目標を立て願ったからといって、そこへ到達できるかどうかはわからない。だが、願わないで立ち止まっていては、可能性はゼロだ」

がストン!と腑に落ちる。おっしゃる通り。明確にゴールを設定し、的確な方法論を考え、刻苦勉励する。それでも、到達率は高くはない。ラックとかタナボタってそうそうはない。でも、願わなければ、何も始まらない。

また、伝説の独学の学者エリック・ホッファーの言葉も一種詩的でステキだ。

「史上しばしば、行動は言語の反響(エコー)であった」(『情熱的な精神状態』)

これは、われわれの人生で幾度かは経験してきたことなので深く頷く。

獲得したい像(イメージ)をクリアに言語化をする。その言語が脳内の“エコー・チェンバー“で、いつも木霊している。それにいざなわれて行動に移される。

ところで、これって「言霊」と置き換えてもいいんじゃないか?と思う。

われわれの文化には「言霊信仰があるし、それが古代ギリシャ語のlogosとも大いに重なり合う。かの如く、いろんな民族それぞれがまるで「意伝子」(「ミーム」:リチャード・ドーソン)で伝播したかのように“言葉の力“や“念ずる力“の信仰を持っている。

さてと。

心理学者は“願う“とか“念ずる“ということを「意識」と普遍化して考える。

「意識したものだけ、情報として入ってくる」。われわれの脳はそのようにできている、という。

こういう情報社会に生きているわけだから、自分の意識の方向をちょっと移動するだけで、……つまり、アンテナ指向性を狭く鋭く設定すれば、自分にとって必要な情報が雪崩れを打って入ってくる。そして、その玉石混交をふるい分けるフィルタリングさえ間違わなければ、自分なりの考察、洞察、思想を一次元以上アップして構築できる。そして、そのコンセプトをもって行動に移す。

たまたまハウジングメーカーの担当になった時、それまで一切目に入らなかったその関連の情報とか広告がわんさと音を立てるように目に飛び込んできて立ち眩みするくらいな経験をしたことがある。

ま、これが“引き寄せ“と言えば言えるかもしれないのだが。そこまででいい。それに精神主義とかスピリチャルが含まれたり加わってくることにはぞっとしない。そういう怪しげなものでシュガー・コーティングしてくれなくていい。

学生時代から論理とか唯物論に馴染んできたので、こういう類の唯心論にはどうしてもいかがわしく感じるタチなんだなぁと自己分析はしているんのだが……。

いずれにしろ、日本の諺で「類は友を呼ぶ」「噂をすれば影をさす」「笑う門には副来る」などなどがあるが、「引き寄せ」などと大上段に振りかぶらなくてもこれくらいでいいんじゃない?

ま、アレだ。「精神主義」とか「根性」とか、もしくは「スピリチャル」ってことが蛇蝎のようにキライなんだと思う。

『心でっかちの日本人ー集団主義文化という幻想』(山岸俊男)という「いじめ」を解析した本がある。見事な良書である。このタイトルの「心でっかち」というのは山岸さんの造語である。もちろん、「頭でっかち」の反対語である。「頭でっかち」が論理、考察を第一に物を考え過ぎるということとするならば、「心でっかち」とは情緒とか精神論で考え過ぎるということになる。つまり、

「なんでもかんでも心の問題にするな。原因は構造にある」

というのが彼の警告である。

加えて最近、ラノベの作家だという 永島裕士 (@BSJokerT2CRX) さんがtwitterで次のように呟いている。

「本当にやってる人間、取り組んでる人間っていうのは具体的で物質的な話をするんだ。なぜなら世界は精神じゃなく物理で動いてるから。ごく当たり前のことなんだけど、これがやってない人間には分からないし、分かってても語るべき情報もノウハウもないから話す内容がどんどんスピリチュアルになっていく」(May 17, 2016)

まったく、その通り。

……と、ここまで「引き寄せの法則」関連の本を一冊も読んだこともないのに、この“法則“について“いかがなもの?“というスタンスで書き進めてきた。この“法則“から何らかの火の粉が我が身に降りかかってきたわけでもないのに……。加えて、とんでもなくアサッテの方向への“文句たれ“を言っている気もしてきた。

この「引き寄せの法則」を信じたり、ノウハウを日常に取り入れたり、ゴールに到達すべく精進している人を非難とか弾劾する気はさらさらない。「信じるものは救われる」ということだけでも尊い。……多分。

それにしても、福島原発事故で家を捨て避難した人、熊本地震で家の下敷きになった人に、「引き寄せの法則」はどういう説明を用意しているのか?どういう因果を引き寄せたのか?ぜひ、聞いてみたい。

「人を呪わば穴二つ」とか「泣きっ面に蜂」とかは言わないんだろうね?

 (完)                                

2016-06-01 『舟を編む』読書ノート

『舟を編む』読書ノート

| 22:01 | 『舟を編む』読書ノートを含むブックマーク 『舟を編む』読書ノートのブックマークコメント

友人の推薦があったからだろう、通りがかりの本屋でマラソンランナーが給水場所でペットボトルの水をさらうようにこの本を買ってしまった。

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舟を編む』とは随分と衒ったタイトルだなと思ったが、読み始めて間もなく判った。つまり「大渡海」という国語大辞典——言葉の大海原を漕ぎ行く小舟に喩えているーを出版するまでの悪戦苦闘物語。

登場人物は馬締光也、林香具矢、西岡、岸辺みどり、松本先生の5人がメインのキャスティングだが、ほぼまじめ(馬締)君のワンマン・ストーリー。いや、「大渡海」が本当の主役なのかもしれん。

作者の取材というか仕込みが丁寧で、リアリティが持つ迫力がある。どんどん背中を押されるように読まされてしまった。

作家は私とって始めての「三浦しをん」。

……「シオン」というのは「シオニズム」の語源で、もともとはイスラエルの古名じゃなかったのかな?彼女がシオニストかどうかは知らない。

とあれ、彼女のレトリックにほほう!と思うことがしばしば。

いくつかをピックアップしてみよう。


・ ポットの脳天をじゃこじゃこ押し、急須にお湯をつぎたす。

・ ……と骨折する勢いで首をかしげたくなる……

・ 「こりゃまた、壮絶にうだつが上がらなそうだな」

・ 「あいかわらず、目の覚めるような不細工だなあ」

・ 温泉のようにこんこんと湧く、苦い感情の源をたどると、なんとも情けない結論にたどり着く。

・「は?!」突如として霊界からの声が聞こえたと言わんばかりに、麗美が目を開く。

・ そしてなにも言わないまま、西岡の頭を胸に抱き寄せた。水面に落ちたきれいな花を救うように。

・ 馬締とちがい、西岡は必要ならば嘘を八百でも千でも並べ立てられる。

・ 冬の午後の淡く白い光が、キャンパスに差している。葉を落としたイチョウの枝が、空にひび割れを作っている。

・ 整理されるのを待つ膨大な言葉の気配が、夜の廊下ににじむようだ。

・ ・「あーうーあーうー」その声は低く間断なくつづいている。産気づいた虎でも飼っているのか?

・ 男は主任の威厳の片鱗もうかがわせず、机の上を手探りしている。

・ 岸辺が机に歩み寄ると、営業部長たちは二手にわかれて即座に道をあけた。海を割ったモーゼになった気分だ。

・ 松本先生は顔を上げ、美しい蝶をつかまえた少年のように微笑んだ。


日本ではそれほどレトリックが発達してこなかった。俳句和歌のようなショートな定型詩では極端に字数が限られているので、どうしても隠喩などのレトリックが多用されるが、小説においてレトリックを使うのは“上質な書き手“とはみなされないという話を聞いたことがある。

だが、翻訳を数多くこなしてきた村上春樹の作品はその翻訳の作業の影響なんだろう、星の数ほどのレトリックで散りばめられている。彼がベストセラー作家になるにつれ、小説におけるレトリックは日本でも一般的なものになってきたように思う。

三浦しをんも相当にレトリックを寵愛しているように見える。

それはともかく、これを読み終わって辞書・辞典に対して深い愛情とリスペクトを払うようになった。

(完)