骨信仰

焼き場って言っていたものが火葬場になり、最近ではもっぱら斎場と言う。そこへ親類ならお付き合いすることになる。時間が来て火葬炉の前に立っていると、係員が台車に乗った焼きたての熱々を皆の前に引きずり出してくる。
(この係員も昔は「隠亡」<おんぼう>と言ったものだが、差別語に当るといって使われなくなった。)
その係員が必ずといっていいほどいうのが、「立派な骨ですね」だ。「病が長かったのか、骨はボロボロですね」とか「脆い骨ですね」とは決して言わない。
ここでいつも失笑しそうになる。“骨になってから、褒められて一体誰が嬉しいんだい?”ってその度に思うからだ。
それから二人一組で骨を骨壺に納めて、残りを係員が手際よく拾って行くが、喉仏を御子仏として総ての骨の上に乗せ、さらにしゃれこうべを天蓋のように覆い全作業終了。

“生者必滅会者定離”“色即是空”の仏教の教えでは、死んだら全て無に帰するはずだ。なのに、この骨に対する執着って一体なんだ?是空では決してない。

遠く天竺(インド)に生まれた仏教が小乗と大乗に分かれ、中国や朝鮮を経由するうちに変異し、さらに日本に渡って来てから日本の土俗やアミニズムと混淆して今のようなカタチになり、「骨信仰」も混ぜたのかな?

この「骨信仰」と仏教の教義とは根源的には関係ないとは思う。インド語由来なのだが、もともと骨のことを「シャリ」という。漢字では「舎利」。従って釈迦の骨を奉ってあるのは「仏舎利」という。分骨の際、粉々にしたさまが米粒に似ているので、それを粋がりの寿司屋が「シャリ」とか「銀シャリ」といい始めたらしい。

こうしてみると、骨に対しての畏怖とか愛惜などの念というのは、われわれ日本人だけが持っているものでもなさそうだ。ひょっとして、人類のDNAに刻み込まれたものなのかもしれない。
象が自分たちの墓場に行き、さもいとおしい気に兄弟や親の骨を鼻で撫で回しているのをみて、やはりそうなんだなって妙に納得するところはあった。

この骨の形を保持しながら遺体を焼くのにはなかなかの技術が必要らしい。アメリカの火葬場ではそんな小細工を使わずに最高火力でガーッと焼き上げる。
義弟がハワイで客死した。当地の火葬場で焼いた。ゆえに、骨壺に入っていたのは遺骨ではなく、サラサラとした遺灰であった。そのとき気がついたのだが、「遺骨」というのは「死して土に還る」への“踊り場”を作ってくれるのだなァ……と思った。遺族が心を折り畳む時間差をこしらえてくれる。義弟は「遺灰」へいきなりなってしまい、さっさと「土に還ってしまって」いて、なんともよりどころがなく切なかった。

白州次郎が「葬式無用戒名不用」と遺言した。自分もそうしようと思っている。なんだかワケの分らん寺の坊主にこれ以上あぶく銭を払うのはもう我慢がならない。さらに遺灰にして、それを散骨にして貰おうとも思ってもいる。

「人間は元来一人で生まれて一人で死んで行くのである」
田山花袋も言っていることだし。

(完)