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2013-11-04 「声」の書評家----------- 倉本四郎

新潮2010年5月号で発表した書評家・倉本四郎についての原稿をUPします

私は、『ポスト・ブックレヴューの時代 倉本四郎』上・下巻(右文書院)という本を編纂しています

倉本四郎書評を集めたものです。その下巻を出した際に書いたものです。




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「声」書評家---- 倉本四郎


 書物を巡る無数の声が、そのテクストには響き渡っていた。倉本四郎書評の特徴を一言でいうならこのようになる。2003年、59歳で亡くなってから倉本の仕事は急速に忘れられようとしている。そのため、この書評家のことをまったく知らない読者も多いだろう。書評の魅力を語っていく前に、簡単に倉本のことを紹介したい。


 倉本は約20冊の著作を遺している。その仕事を大きく分けると3つになる。一つは敬愛してきた澁澤龍彦の系譜に連なる絵画などの視覚的な対象を使って幻想的博物学を語る著作。『鬼の宇宙誌』、『フローラの肖像』などがそれにあたる。次が小説。彼は『海の火』という恋愛小説を、晩年には『往生日和』、『招待』など老境をテーマにした作品を書いていた(藤枝静男へのあこがれを倉本はもっていた)。そして三番目が中心的仕事となる書評だ。書評集には『出現する書物』や、私が編纂した『ポスト・ブックレビュー時代 倉本四郎書評集』上・下巻などがあるのだが、実はその書評群のほんの一部だけが著作になっているに過ぎない。というのも倉本は「週刊ポスト」で1976年から97年までの間、毎週書評を書き続けてきたのであり、その膨大なテクストすべてを書物にすることはほとんど不可能なのである


 ということもあり、ここではそのすべてに目を通してきた私が、倉本四郎が作り上げた特異な書評空間を再現してみせようと思う。

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テクストが多数の人々に読まれ、語られる。その幸福


 21年間もの長い時間をかけて倉本が「週刊ポスト」で書き続けてきた書評ポスト・ブックレビュー」。そのテクストの多くは、書物を紹介する地の文インタビューが交互に置かれる形で構成されていた。

 インタビューに登場するのは、その著者の場合もあるが、テーマに関心のある者、研究者も登場、時には一冊の本について複数の人間が並ぶこともある。


 どんな人物が登場しているのか紹介しよう。

 著者では、立原正秋(『たびびと』)、色川武大(『怪しい来客簿』)、島尾敏雄(『死の棘』)、藤沢周平(『春秋山伏記』)、高田宏(『われ山に帰る』)、松山巌(『闇の中の石』)等々。


 テーマ関連では、『息子と私とオートバイ』(R・M・パーシグ)という60年代米国の文化変革を背景にしたバイク旅行の本では、彼の国の文化事情に精通している枝川公一架空植物へのユーモア溢れる命名がポイントになる本『平行植物』(レオレオーニ)では、ハナモゲラ語で売り出していたタモリなどが登場。

 

 複数パターンは、植草甚一の『いい映画を見に行こう』に対して紀田順一郎久保田二郎種村季弘が順に出てきては、当時(70年代中期)突然起こったJ・J氏ブームの理由をそれぞれの言葉で語っていた。

 

 こうした人物たちが語りだすインタビューが、本を紹介する地の文モンタージュされるのである。例をお見せしよう。『五味康祐代表作集1』についての書評である


  五味の『寛永の剣士』に於ける剣豪同士の決闘場面から、それは始まる。

「彼は六左衛門が刀の柄に手を掛け、猫背から窺いつつ進むのを見て叫ぶ。『お手前の鞘の勝ちじゃ』/六左エ門の気が、瞬間にゆるむ。これも人性の『微妙である。ゆるみは『微妙』に対してタカをくくることだといってもよい。武蔵はそこで踊り込んで首をはねる」


 こうした作品から抜き出された一場面の「描写」の後に、インタビューが挿入される。語るのは文芸評論家秋山駿

「――あなた殆ど熱烈な五味康祐読み手とききましたが。

秋山 昭和31年の『柳生武芸帳』以来だね。それまでも時代小説のファンだったが、あれは何か特別な経験だった。『週刊新潮』に連載されていたのだが、毎週買った。読み捨てにできずに家に持ち帰って読み返す。仲間が七、八人いたが全員そうでね、それも回し読みせず、面々が買って読むんだよ。

―――随分な執着ですね。

秋山 喫茶店に集まっても話題はそれさ。十兵衛と霞の多三郎はどっちが強いか論じ合うわけよ。あれは『柳馬場』の章で立ち合うことになるわけだけど、相打ちでね、どちらが勝ったのかは分からないわけ。その分からないところが深みとみえてね、吉川英治の本を初め武芸に関する専門書まで読み漁ったよ」


 ひとつテクスト印刷され多数の人々に読まれ、様々な言葉で語られること。その幸福を語る秋山の声。インタビューの相手として選ばれたのは、文芸評論家であり名うての時代小説読み手であるという理由によってだろうが、ここで登場する秋山は多くの人が集う場所たまたま取材された者のようだ。まるでテレビの街頭インタビュー雰囲気だ。


 この雰囲気は「喫茶店に集まっても話題はそれさ」という言葉があることで醸し出されているとともに、もうひとつポスト・ブックレビュー」が書物についてコメントする者を、複数印刷された書物を取り囲む複数の読者の一人として、捉えているところからきている。その認識があるからこそ「読み捨てにできずに家に持ち帰って読み返す。仲間が七、八人いたが全員そうでね」や「十兵衛と霞の多三郎はどっちが強いか論じ合うわけよ」という言葉が、なんともいえぬ幸福感に包まれるのだ。


 倉本の書評の中に登場する者たちは権威をもった者として扱われない。著者以外の者はそれが研究者だったとしても無数の読者の一人として登場し、自分が出会った一冊の書物について楽し気に語りだすのだ。書物をダシに自分経験を語る者が多い。中には読んでもいないのに調子よく語りだす者さえいる。そんな楽し気な声に比して著者たちの声は少しばかりの陰翳をもつ。書物を前に自由な読みを行う読者に対して、こちらはオリジナル原稿を一束書き上げなければならなかった必然性を語るのだが、それは苦しく、時に滑稽な声として書かれている。こうして書物を巡る無数の声が響き渡っているのが「ポスト・ブックレビュー」の特徴だ。



週刊誌独自の方法論で書かれた書評


ポスト・ブックレビュー」は「週刊ポスト」の1976年5月7日から開始され、1997年9月5日号で終了したロングラン連載書評である

 取り上げた本は約千冊。小説からルポルタージュ詩集批評集、学術書、写真集、辞典まで、まさにノンジャンルのあらゆる本を扱っている。ページは全部で3ページ、文字数約3600字から4000字で書かれている。


 この書評は、テクストの書かれ方に特徴があるので触れておきたい。週刊誌の記事は、出版界の中でも際立って独特な方法で作られている。ひとつの記事は事件などの情報を集めてくる取材記者と、最終的な原稿のまとめ役であるアンカー担当編集者集団製作で作られている。その方法が初期「ポスト・ブックレビュー」では採用されていた。


 倉本と編集者の話し合いで取り上げる本が決定されると、取材記者がその本に関する情報を集める。さらにテーマ関係する人物を探し出す。著者インタビューは倉本と編集者が行い、テーマに関連する人物への取材の多くは取材記者が行った。そこで集められた取材原稿を基に、倉本が最終原稿を書き上げていたのである


 こうした週刊誌独自の方法論とともに、週刊誌ならではの機動力も語っておくべきだろう。その書評をいくつか読んでいくとわかるのだが、著者が北海道在住であれば北海道に飛び、京都の店がテーマであれば京都に趣いている。さらに長時間の飲食をともにするインタビューが行われたと想像できる原稿もある。それなりの金銭を使った機動力は大手出版社が出す週刊誌ならではのものだろう。コンピュータが普及していない時代に大量の情報が集まる週刊誌編集部という機能を使っての情報収集、人脈作りが前提にあることなどは、個人が本を読み原稿を書き綴っていく一般的書評とは異質のものだ。「ポスト・ブックレビュー」最大の魅力である、複数の声が響き合うテクスト特性は、こうした機動力を基盤に作られていたのである


 しかし、気の合う取材記者仕事を離れたこと、82年より署名原稿になったことによる倉本の作家性の自覚が強まったことなどの理由で、80年代初頭より製作体制は変わっていく。一人の書評家が本を選び読み、それについての原稿を書くという一般的スタイルになっていった。

 だが書物を巡るインタビューは初期より少なくなっているとはいえ、やはりそれは重要な要素となっており、多声的なテクストの味わいは変化していない。「ポスト・ブックレビュー」でどんな声がどのように響きあったのか、耳を傾けてみよう。


◆書物のテーマを実際に生きた者が登場するインタビュー


ポスト・ブックレビュー」のインタビュー部分を読んで関心するのは、「識者」と扱ってしかるべき批評家研究者たちを、前述しように「読者の一人」としてうまく捉え直しているところである。連載が始まった70年代後半を青年として過ごした者として、文化革命後のその「権威」を小馬鹿にする空気に満ちていたことはよく覚えている。こうした時代の風潮も反映していたのだろう。また当時は、文芸批評でいえば作家論を乗り越えた作品論が、次に作家に死の宣告を告げるテクスト論へパラダイムを変えていこうとしている頃であり、読者という存在批評の中でうっすらと浮かびあがってきた時代ではあったということも関係しているかもしれない。だが所詮それは文学理論。こちらは週刊誌に載る書評である。100万人のサラリーマン読者に取り囲まれ、週一回で書評を書いていかなければならない作業は、文芸批評理屈通りにはいかなかったはずだ。


 いわゆる文化人を識者として奉るのではなく、もっと楽し気に書物を読む読者として自由に声を発してもらうために倉本はいくつかの仕掛けを用意した。そのひとつが対象となる書物のテーマに関わる生き方を実際にしてしまった人物として書評の場に呼び込むことである。一例をお見せしよう。


 書物は『昭和20年11月23日プレイボール』(鈴木明)。戦争によって各地に散らばっていた野球のスター選手を呼び集め、戦後初のプロ野球試合を開催させるために奔走する、ルポルタージュであるテーマ敗戦直後の組織論。呼び込まれた声の主は哲学者久野収


「――確か阪神ファンでしたね。

久野 うん。これはキッカケが運動にあった。地元の共産党の連中と連絡をとる場所が、甲子園しかなかったせいだ。それまでは、少女歌劇の宝塚劇場でとっていたんだが、やばくなって変えたんだ。当時、普通試合だと観客が千程度。左翼のどこでと指定すれば、そこで会えた。プロ野球には、特高も目をつけていなかったんだ。それで、ぼんやり試合を見ているうちに、阪神びいきになったんです」


 こうしてプロ野球との出会いを語る久野は、この書物の面白さを「たとえば生花などの家元制、疑似天皇制的なものではない、自主的集団の形成史を、娯楽の面から書いたことにありますね」と語っていくのだが、次にモンタージュされる地の文では、再建を目指す選手たちの前に官僚主義者が立ちふさがっている場面が描かれる。


 かつてのスター・プレイヤーたちが手弁当で集まる東西戦だというのに、「今年、移籍した選手は出場できない」「戦前まで巨人にいた青田昇選手は出場拒否」といった命令が事務局から出されるのだ。これは当時起こっていた読売新聞労働争議から巨人軍再建の事態が関係していたのだろう。そして青田選手は「戦争に負けた。価値の大転換があった。しかし何故か皆が集まって何かを決めようとすると、古くさい一行が、重要なことを邪魔する」と呟く。その時、敗戦直後の「自主的集団の形成」がいかなるものだったかが見えてくるのである


 この書評には敗戦直後の組織論というテーマについて語る者はいない。そのテーマを実際に生きた者が登場し自らの経験を踏まえその書物の面白さを語っていくだけだ。その声は書物に収録された声と呼応し、戦後プロ野球の実質を浮かび上がらせるのである


 テーマを設定し、その出力の仕方をエピソードを配分しながら調整していく作者に対して、こちらは、そのテーマを実際に生きた者が登場し、その経験によって書かれているエピソードをより実感のあるものにしてしまう。書評の読者たちとともにその書物の一番おいしい部分をたいらげてしまおうという具合だ。


 その最も過激な例が『チャリング・クロス街84番地』(ヘレーン・ハンフ)の書評に登場する映画監督中川信夫の声であろう。この書物は、ニューヨーク在住の女性作家とロンドンのチャリング・クロス街84番地にある古書店店員の間で交された手紙だけで成り立っている小説だ。書物への愛情が男女間の情感へと微妙に揺れていくところなどウエルメイドプレイを観ているような雰囲気で、読書家の間で語られることの多い作品である。そのウエルメイドな物語の紹介のすぐ後に、『東海道四谷怪談』『怪異談 生きてゐる小平次』を監督した中川信夫の声が響き渡る。


「―――あなたは大へんな量の手紙を書かれるそうですね。

中川 ええ。大部分は葉書ですがね。ロケ先なんかで酒を飲みつつ、左手葉書を持って筆で書く。一日五十通、書いたことがあります。これが最高。

―――宛先はどういう……?。

中川 家族宛です。五人いますから、ひとりずつ書いて、犬や猫にも書いて、あれだって家族から(笑い)」


 中川は『チャリング・クロス街84番地』をまったく読んでいないはずだ。そんなことにおかまいなく手紙魔の驚くべき日常をその後も語るだけであるしかし人が手紙を通じて交信するというテーマを過激に生きるこの人物は、知り合いの俳優の妻が「何か淋しそうにしている」という理由だけで、「今日から一年間、電話がわりに一日一信送ると約束」してしまったというエピソードを突然語りだしてしまう。するとその経験はたちまち書物に書かれた女性作家古書店店員の間で交された言葉へと混じり合ってしまい、文通けが醸し出す情感が書評全体を染めあげる。こうして中川と同じくその本をまったく読んでいない書評の読者たちは、書物の一番おいしい部分を味わいつくしてしまうわけである


◆書く行為を深刻且つ滑稽に語る著者たち


 では肝心の著者たちの声は、「ポスト・ブックレビュー」ではどのように響いているのだろうか。先にも書いたが、それは苦しく、だからこそ滑稽な声として収録されている。出来上がった著作を前にした作家の落着いた言葉ではなく、そのテクストが生成される有り様を思わせる肉感的な言葉を引き出すために、倉本は執筆時の様子を作家たちに執拗に訊いていた。


『白い山』の書評ではその著者、村田喜代子が邦文タイプで執筆をしていたことを明かし「原稿を書くときは、これから何十万回打つのだな、アリナミンを飲まねばと、まず思う(笑い)。一字一字カチャーンと打つでしょ。腕力がいるんです」と語る。


『海狼伝』の白石一郎執筆のための儀式を話す。「まず緑茶・ゲンノショウコ・紅茶・抹茶と順に飲む。抹茶を飲んだ時点で、まったなしである覚悟する(笑い)。そして仕事場に入ると、パンツと肌着一枚になります。(略)この儀式なしには、準備運動不足で落伍するランナーみたいになります


 あるいは『世界大博物図鑑』の荒俣宏がこの全集を出したことによって金はなくなり「スタッフは過労で倒れ、もう限度を超えたありさまで」と告白するのに対し、倉本は「荒俣は、事務所の床に段ボールを敷いて寝ているという噂もあった」と笑っている。


死の棘』の島尾敏雄は、夫人のミホと登場。小説を自ら清書したことを明かすミホに倉本が「ここには狂ったミホが描写されてるのに!」と思わずいえば「でも、作品ですから」とミホが答え、傍らの島尾が頷いている。まさに執筆時の作家の生身が感じられるという具合だ。


 このようにして、書物を楽し気に読み語る読者たちと、書物を書く行為暮らしぶりを深刻且つ滑稽に語る著者たちの様々な声が、「ポスト・ブックレビュー」に収録されていたのである


◆書物を「描写」し続けること


 先に書いたように、このインタビュー部分と交互に置かれる形で地の文があり、そこで書物を紹介するというのが、その構成だ。紹介の仕方も独特である。倉本はあらすじを書かない。引用もほとんどしない。小説、学術書、写真集を問わず、書物の一場面を「描写」することに終始する。


 小説場合なら先に引用した五味康祐の作品紹介の「描写」をもう一度読んでいただきたい。網野善彦『異形の王権』なら「河原で僧が処刑されようとしている。合掌する僧のかたわらに放免がふたり。白地に派手な模様を摺った摺衣を着て立つ。左手、刑の執行に立ち合う検非違使庁の役人にまじり、さらにふたり。こちらも黒地ながらも派手な摺衣をまとう」と書く。あるいは篠山紀信の『SantaFe』の宮沢りえのヌードは「光っている。顔も、首も、すんなり伸びた鎖骨も形のよい乳房も。劣らずくっきりと輪郭を保って張った腰から、なだらかにカーウ゛を描きながら指先へと至る脚。下腹を隠す腕と手。それら全体が、発光しつつ、そこに、ある」と「描写」する。


 つまり、その書物にとって重要な光景を、小説なら物語クライマックス、学術書はテーマが一番見えやすい構図、写真集の核心の一枚を、倉本は自分の筆でなぞるようにして書いているのである。それが私がいう「描写」だ。なぜ倉本は「描写」という方法にこだわったのか。その意図を倉本はあっさりと初めての書評集『出現する書物』のまえがきで明かしている。


「声帯(形態)模写がひとつ批評行為であるならば、『なぞり』も書評となろうではないか


 声帯模写の芸人がモノマネをすることで、「ある人物」の「癖」を引き出すこと。その「癖」を見て、取り囲む観客たちが笑うこと、その「癖」をきっかけに観客たちが「ある人物」をもっと深く知るようになること。その全体が批評であるというのが前提の認識だ。


 そして倉本は、「ある人物」を一冊の書物に置き換えて、21年もの間、書物を「描写」し続けた。書物の「癖」を引き出すために、それによって書物をもっと深く愛してもらうために。そのことが書評であると信じて。


 これは倉本が書評を書く前にいくつかの週刊誌で人物ルポ仕事をしていたことと深く関わる。取材対象の人物の「癖」をモノマネした時、その人物の生き方を明かす鍵を拾うことがあることをその生業で会得していたからだ。倉本は、週刊誌体制で書評を書き始め、人物ルポ方法論を書物へと向けていたのである


ポスト・ブックレビュー」は、書物のモノマネと笑い声も混じる無数の声が交互に置かれる形で構成されている。その書評は全体として、楽し気な言葉の劇場になっていた。


  こうして再現してみせた倉本四郎書評空間が今、忘れられようとしている。そのことによって失われていくものは何かといえば、「ポスト・ブックレビュー」が軽やかに示したこと、書評とは自由で大胆なテクスト空間を構成できるものなのだという認識だ。現在書評の多くは、新聞雑誌での定型があまりに継続的に続いているため、ある面、書評家の技芸を楽しむようなジャンルになっている。そのため、この批評空間が自在な可能性をもっていることを忘却している。


 書物というモチーフは骨太で巨大なものなのだ。書物を前にして私たちもっと自由で大胆な行為ができるはず。そう、「ポスト・ブックレビュー」が採取した時代の声とは違う、今ならではの書物を巡る声が響き合う書評空間を作り上げることも可能なのだ。では、それはいったいどんな声なのだろう?

(「新潮2010年5月号)

2013-10-31 海の家時間

海の家時間

2013年10月、僕が仲間と編集していたメールマガジン「高円寺電子書林」が休刊になりました。

以下にpostしたのは、2012年8月号に掲載した「海の家時間」という記事です。


2012年8月、葉山海の家で、プルーストの『失われた時を求めて』をテーマに、対談を聞いたり、みんなで話合ったりする

「海辺のプルースト」という小さなイベントを行いました。


対談をしたのは、夏葉社島田潤一郎さんと校正者大西寿男さん。

島田さんは20代の時に「あたかもノルマのように日々プルースト読みをひたすら続けたという」人、

高円寺電子書林の編集部仲間でもある大西さんは、校正者として、ゲラで全編読みきった人。

お二人の対談は、なかなか聞きごたえがあるものでした。


メールマガジンの特集は、その対談の抜粋(構成・北條一浩さん)と、僕の原稿海の家時間」で構成されています


ここでは後半の僕の原稿だけ載せます

どうぞ、読んでみて下さい。


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海の家時間

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 とりとめもなく語った言葉記憶する

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 ○参加者のみなさん

 *構成/渡邉裕之

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 この夏、8月7日。僕たちは、神奈川県の葉山にある一色海岸に建つ海の家にいた。

 この海岸は葉山御用邸の裏手にある。たぶん、皇宮警察の警備体制と関係していると思うのだが、海水浴場がもっている猥雑さが薄い。東京からそれほど遠くない割には、どこかおっとりした美しい砂浜だ。

 

 プルーストの『失われた時を求めて』をめぐる対談をし、その後、参加者が思い思いの話をする会を、海の家で開こうと考えたのは、浜辺だったらリラックスできると考えたから、そして、この建築物が「時間の流れ」というものを深く感じさせてくれるという思いがあった。

 

 1990年代後半から葉山の海岸を筆頭に新しい形の海の家が注目されるようになってきた。従来の海の家と違うところは、カフェに近いくつろいだ空気感覚をもったスペースであること。そして、海の家若いスタッフたちの、バブル崩壊以降の再生デザイン文化を踏まえた、セルフビルドによる建築物だということが最大の特徴だ。

 

 彼らは夏が近づくと浜辺で小屋を作り始め7月上旬に店を開く。夏の間、人々は家族や友人、恋人と連れ立って浜辺の小屋に集まってくる。海を見ながら料理や酒を楽しんだり、音楽を聞く。

 8月の終わり、夏を惜しむ人たちが集うパーティー。そして次の日から解体工事が始まる。ただ壊すのではない。来年のことを考え、部材がまた使えるように配慮し解体する。そして浜辺から離れた場所にある倉庫への収納作業。収納の順番は、建設時の最後にセッティングされる食器類が最初で、一番に立てる木の柱が最後だ。終了の作業に来年への準備が含まれている。


 彼等の労働を見ていて、僕がいつも思うことがある。季節の巡りとともにゆったり動いていく「時のサイクル」だ。


 海の家は、夏だけ存在する小さな仮設の小屋だが、そのことによって「時間」を強く意識させる建築物なのだ。


 記憶をめぐって書かれている長大小説、『失われた時を求めて』、その書物について語りあう場所として、僕たちは海の家を想定した。


 海辺はゆっくり時間を味わえそうだった。そこに建つ海の家は、夏が終われば消滅し、秋以降は僕らの記憶だけのものになる。プルーストにはぴったりと思えたのだ。

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 プルーストの後は、ただただ言葉を交わして


 当日の夕方5時30分、僕たちは一色海岸の海の家「UMIGOYA」に集合した。目の前には相模湾、その景色の右の方、夕陽は傾いていて、伊豆半島へと落ちようとしていた。


 集まったのは10人、対談をする夏葉社島田潤一郎さんに、大西さんを含む僕たち「高円寺電子書林」編集部4人、それに編集部がお誘いした5人の方たちである


 小屋というよりは木で組んだ大きなテラスのような海の家の奥の席に、僕がみんなを案内していると、この土地の友人と目があって、「おっ、東京人ぽいなあ〜」といわれた。上半身裸でビーチサンダルあなたには、長ズボンに革靴の人もいる私たちは、そりゃ〜無粋な都会人でしょ、そんな私らがここで読書会をやっちゃうんだからね、と心の中で呟く。


 あっ、さっき大西さんが海の家のテーブルにうれしそうに並べた『失われた時を求めて』全13巻(集英社)を、もっとうれしそうな顔をして撮影をしているメンバーがいる。背中ビーチサンダル親父の皮肉な視線を意識しつつも、うわ〜、この歓びわかるな〜と思った瞬間、「海の家プルーストを読む」企画に没入してしまった。


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 「この小説は、記憶を扱っているのだけど、思い出し方が小説プロットとして思い出すのではなく、うまくいえない思い出し方で行っていて」や「京都のお寺でお墓参りした時も校正をしていて」「長編を書かなかった吉行淳之介は、長編を書くには目を瞑るところが必要だといったんです」「だったらプルーストは目を瞑っていない」そんな言葉が、潮風に流れていった。


 話の途中で夕陽が伊豆半島の山々に隠れ、それこそ「誰そ彼?」の暗闇になり、小さな電灯が点され、テーブルには奄美をテーマにした料理が並べられていく。


 島田さんと大西さんによるプルースト対談が終わった。けっこう聞き入ってしまったね、そういえば誰の携帯も鳴らなかった、めくるめく展開でした、それは大げさな! と笑いながら話しながら、ある人はバーカウンターにビールを買いにいき、ある者は、もう真っ暗闇の砂浜に降りていった。


 しばらくして、みんながそれぞれテーブルに戻ってきて自己紹介をしながら雑談が始まった。ひょんなことから荒川遊園」の話になった。荒川遊園は、都電の荒川線の沿線にある「散歩の達人」購読者が好きそうなシブイ遊園地だ。誰かがキングレコードが発足したのが荒川遊園場所だったんじゃないかなといってSPレコードの話をしだした。


 参加者の一人、書評紙の会社に勤めている高田雅子さんが、「今でもアナログレコードを作り続けている会社のフリーペーパーを、前に編集していたことがあるんですよ」という。話を聞くと非常に面白そうな内容だ。それから「高円寺電子書林」編集長の北條さんや大西さんがLPCDレコードの溝についての話をしだす。たぶん、先のプルースト対談に影響されているのだ、時間をパッケージする入れ物の話を僕たちはしている。


 本好きが集まったのだから、当然、記憶をパッケージする書物の話に流れていく。それが転じて書物が生み出す時間について。大西さんが組版時間関係を話す。タテ組とヨコ組では読むスピードは違うということ。その理由はまだわかっていなくて可読性という仮説がひとつあるらしい。人間の目は上下に動くのが苦手、左右に動く横組の方が速いスピードで読めるという。が、と大西さんは続ける、日本人はタテ組に慣れているから、そのスピードの差は他の文化の人とは違っていて……。


 組版の話の流れで、参加者の一人、詩の勉強会「ポエトリーカフェ」を主催しているPippoさんが、島田さんの夏葉社から刊行されている『さよならのあとで』(ヘンリー・スコット・ホランド著)に触れる。一編の詩だけを一冊にした書物だ。1ページ1行というページもあり、そして白ページもたくさんある書物。「一編の詩はひとつ世界なんだけど、一行にも世界があることを感じました」とPippoさん。


 書物というモノ自体に関わる時間ということなのか、北條さんが「古本世界初版でなければ買わないという人がいますよね、あれは何なのかな」という疑問を口にする。西荻の古書店音羽館スタッフである青年今野真さんが、「ザ・ファーストが一番偉いという価値観からきているんでしょうね。その価値観はきっとものすごく古くからあって、それこそ西洋近代以前、プラトンイデア論ではないですけど、ザ・ファーストから時間がたつほど、本質から遠ざかっていくという考えがあるのでは」と語った。


 なんかすごい意見じゃないか、彼はフランス映画研究していたそうだ。その後、話はどんどんそれこそ本質から遠ざかっていったのだが、そうだ、時間と本に関する印象的な話がそこであった。


 吉祥寺書店に勤めている服部ユキさんは、「私、人を待つことがぜんぜん苦にならないんです」と話した。それから「前に、本を読んで、私を待ってくれていた人がいたんです。私はその時、読書しながら待つ人の姿というものを初めて見たんですが、その佇まいがとてもきれいでした」と語った。今、この話は改札口脇に立って本を読む人の映像として、僕の記憶に残っている。


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 読書会の仲間が醸しだす時間を求めて


 このメールマガジン読書会をしてみたいと思っていた。読書会リードしてくれる人物も大事だが、メンバーの日常の「時間」が大切だと考えていた。


 今、僕たちは本が読めない。自分が本当に読みたい本をゆっくりと考えながら読む「時間」を失っている。


 忙しい日常の中で、なんらかの工夫を個人的に行って読書時間を作っていくことも必要なことかもしれないが、ゆったりとした時間、考えられる時間は、ある共同性がないと生み出せないのでは、と思っている。


 僕は自由ラジオ局とか劇団とか、同じアパートの仲間たちとか何組かの集団で生きた経験をもっている。そこにはその集団特有の時間が流れていた。こうした経験を踏まえていうのだけど、読書会の仲間たちを上手に作っていけば、そこに特有の時間を醸し出すことは可能だと思う。


 しかし、問題は、喫茶店か何かで行われる読書会時間以外の時間読書会のメンバーそれぞれの日常で、その会独自の時間が流れていくことができるかということだ。

 都市でバラバラに暮らす僕たちが、読書会メールマガジンを使って、ある流れをもった時間を共有することができないだろうか。


 メルマガ編集部のコアメンバーは、フリーランスで生きている者たちだ。劣悪な条件の労働を強いられることもあるが、時間はまあ自由に管理して生きてきた。


 僕は、こうして生きてきた知恵を、書物を作るというよりは、書物を取り囲む今の人々の暮らしのために使ってみたい、その一つに時間への取り組みがある。

 (このあたりは、編集部集団的考えというよりは、ワタナベ個人のものです。)


 読書会ではないけれど、僕たちはこの対談+雑談の会を、こうしたことも考え開いていた。


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 ◆夜の闇と選ばないこと、そして海を渡っていく家


 夜が深まっていく。いつのまにか島田さんがいないことに気づいた。どこにいっている? しばらくすると戻ってきた。


 「煙草を買いにいって道に迷っていたんです。葉山の夜はすごく暗くて。そしたら花火をしている外国人がいて、『煙草屋はどこですか』と聞いて教えてもらいました。暗い松林を歩きながら、この時間のことは忘れないだろうなと思っていました」


 北條さんが何かを思い出したみたいで話しだす。「鎌倉で、肝試しみたいなことをしたことがあるんです。外灯もないような場所で……鎌倉の夜は暗くて怖かったな〜。本当に何も見えなくて。あの闇の時間は忘れられない」


 Pippoさんが「恐怖ってのはね」といってこんな話をする。「メアリダグラスという文化人類学者の『汚穢と禁忌』(思潮社)という本があって、そこで恐怖を解明する文章があるんです。人は切った髪の毛や爪を怖がる。それは何故かというと、自分の体に付いていたものが切り離され外部にあると、人はそれを理解できない。だから切られた髪や爪を怖がるといってるんです。闇に対する恐怖もそれに近いところがあるんじゃないかな」


 そこで話を止めるのが怖いのだが、Pippoさん……。人の肉体には切り離すと闇となってしまうようなモノがあるということか……すごい怖いじゃないか。浜辺は真っ暗闇だ。

 詩を書いている首都大学大学院生篠田翔平さんが口を開いた。


 「先日、東京写真美術館で開かれた、写真家の川内倫子さんと現代美術作家内藤礼さんのトークショーに行ってきました。内藤さんが一番に聞いたことが『川内さんにとって選ばないことって、どういうことですか?』ということだったんです。写真を撮らない瞬間についての、それはなかなか答えられない質問でした。川内さんも困ってしまって……やはり撮る瞬間、選ぶ瞬間のことしかいえないんですね。それで記憶ことなんですけど、『これは覚えている』という瞬間があるんですね。では、『覚えてない』ってことはどういうことなんだろう? と思うんです。『覚えている』ことは、今の僕たちみたいに喋ることができるけど、『覚えてない』っていうことはどういうことなんだろう。プルーストとか読んでいると(1巻しか読んでないんですけど)『書かれること』と、『書かれないこと』と、そこの境目がわからない。選択っていうのをしていないと思えるのです。ここは書くけどここは書かない、あるいは、この消えている部分をこの書いている部分で代用しようという思考法ではない。そう思えるんです」


 それを聞いて、高田さんが、「選択」をテーマ研究活動を続けている学者シーナ・アイエンガーについて語りだす。


 「篠田さんの話からコロンビア大の心理学者について思い出しました。彼女は小さい時に目を患って全盲なんですよね。しかし、選択肢が限られていたからこそ可能性が広がった、自由になれた。そして大きくなって人間の選ぶという行為に興味を持ち、研究をはじめたそうなんです。その前の闇の話も関連させて考えると、彼女は闇の世界で『選択』について考え、そして自由を得たということになりますよね」


 海は真っ暗で、見えない分、海の広がりを強く感じる。波の音だけが大きく轟いている。


 そういえば、さっき北條さんがある映像の話をしていた。昨年の東日本大震災、津波によって様々なモノ、そして人が海にさらわれた。彼が見た映像は、「家がそのまま家のカタチをして太平洋を渡っていく映像だった」という。


 「不謹慎かもしれないけれど、美しいと感じました。忘れられない映像です」


 家は人に強い印象を残すカタチなのだと思う。家族記憶をパッケージしたカタチは忘れられなくなる。


 「だから、海を渡っていく家を見て北條さんは感動したんじゃないのかな」と僕はいった。


 人に強い印象を残すカタチがある。その一つが家で、それから書物があると思う。この日、参加者の何人かが、テーブルに並べられていた『失われた時を求めて』全13巻を撮影していた。海辺をバックにそれは魅惑的なモノだった。


 しかし、書物は撮影したが、この海の家の建物を撮影した人はいなかったんじゃないかな。でも海の家という言葉がみんなの頭の中に残って、映像として浜辺に建つ家のカタチとして記憶に残るのかもしれない。「こうして僕らは集まった」


 この対談+雑談の会。その時間だけに終わらないような仕組みができないかと、僕たち「高円寺電子書林」編集部は思っていた。


 北條さんは、「長い時間を相手にする」というテーマを踏まえて、『失われた時を求めて』全巻読破を成し遂げた2人の対談を企画した、大西さんは語るだけでなく、プルーストの手書きのノート原書をモチーフにしたお土産を作って皆に渡した(この人の愛情深さといったら……)、そして僕は、この夏が終われば消滅してしまう浜辺の舞台を用意した。


 いろいろと考えてはいたが、行えたのはこの程度のことだった。書物をめぐる時間に対して、また何か仕掛けたいと僕たちは思っている。


 そうそう、このメールマガジン発行人である茶房高円寺書林の原田さんも、もちろん参加した。なんか楽しそうだったね。原田さんが撮影した写真と文章で、当日の様子がわかる記事が、茶房高円寺書林のブログ(☆)で見られる。こちらもよろしく!

 ☆ http://kouenjishorin.jugem.jp/?eid=1937


 そして参加者のみなさん、夏葉社島田潤一郎さん、ありがとうございました。

 みなさんが、この記事を読んでいる時には、もうあそこには砂浜があるばかりです。

 

2012-12-11 福島の親子にみみをすます

福島の親子にみみをすます


今度の日曜日2012年12月16日私たちにとって重要選挙が行われます

争点は、なんといっても「原発」だと思います

その原発に対する考えをまとめる一材料として、以下の原稿をUPしました。

福島子どもたちに関するレポートです。

できれば、この文章を読んで、選挙に行っていただければと思います



この文章は、私が参加するメールマガジン「高円寺電子書林」(12月10日配信)に

掲載されたものです。

なるべく多くの人に、この時期に読んでいただきたいと思い、

著者の小野洋さんの承諾を得て、掲載させていただきました。

                           (渡邉裕之)


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●──[メールマガジン 高円寺電子書林]2012年12月 vol. 009 掲載



■緊急提言レポート

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 福島の親子にみみをすます

 ──「明石であそぼう! たこ焼きキャンプから

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 小野

 (福島子どもを招きたい! 明石プロジェクト 代表

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 昨年(2011年)の夏に引き続き、今年(2012年)も福島県内の子どもたち30名、保護者4名を招いて、2週間にわたる保養キャンプをおこないました。

 保養キャンプは、放射線量の高い地域に住む子どもたちの被曝を減らし、体内に取り込まれた放射性物質を排出させ、野外で思い切り遊ぶことなどを通して子どもたちの健康を回復させようという目的で、被災地を離れておこなわれるキャンプです。

 チェルノブイリ原子力発電所事故から26年経ったベラルーシ共和国では、今も国家的プロジェクトとして保養キャンプ実施されています

 東日本大震災後、日本各地でも多数の市民団体などが保養キャンプをおこなうようになりました。

 私たち福島子どもを招きたい!  明石プロジェクト」は今年、7月27日から8月9日まで兵庫県明石市と佐用郡佐用町の2か所で、「明石であそぼう!たこ焼きキャンプ〜今年は佐用も!  しかコロキャンプ」(注1)という名前実施しました。


──注1  ●「しかコロ」というのは、佐用町の商工会青年部の方たちが、2009年の大水害から復興を目指して町おこしのために開発した商品「しかコロッケ」のことです。郷土の食材である鹿肉を使っています。今年のキャンプ名には、佐用町の方たちの多大な協力に感謝する思いも込めて、こうした長い名前つけました。


 ◆たくさんの支援とご協力を得て


 今年は昨年の突貫工事のような準備を避け、半年以上もかけて準備を進めてきたのですが、しなければならないことが本当に多くて、資金集めや協力団体への連絡、ボランティアさんたちとの打ち合わせ、プログラムの準備などを直前まで忙しくこなす日々が続きました。

 しかしながら、多くの方々の熱心なご協力により、キャンプスムーズに進み、子どもたちも充実した時間を過ごすことができました。

 明石では、歓迎会やお好み焼きづくり、小学校プールを借りきっての水遊び、明石公園での夏祭り、市役所訪問、魚の棚や天文台見学などを楽しむことができ、佐用町では、幼稚園小学校での交流会、川遊び、西はりま天文台や昆虫館の見学などが、地元団体のご協力で実施できました。

 とくに佐用町では、町が宿泊施設を無償提供してくださり、商工会青年部のみなさんが「しかコロッケ」や「ホルモン焼きうどん」の炊き出しをしてくださるなど、絶大な支援を受けることができました。食材に地元の有機野菜も届きました。

 子どもたちのお世話をしてくださったボランティアの方たちも、昨年から引き続いての方が多く、こちらの指示がなくてもすばらしい働きをしてくれました。

 心配だった会計も、寄付は予想より多く集まり、支援イベントで資金を集めてくださる方が次々に現れ、スタッフもたこ焼きの屋台で資金作りに努めたりして、十分な資金を集めることができました。300枚作った支援Tシャツも、多くの方に購入していただくことができました。


 ◆去年とは違う、子どもたち


 去年と違って今回は、期間の前半、熱中症になったり、やけどに近いような日焼けをしてしまう子がいて、今年の異常な暑さだけでなく、ふだん野外にあまり出ていないことによる影響、あるいは放射線による影響なのかと考えさせられたりしましたが、期間後半は元気を取り戻し、夏祭りには全員参加することができました。保護者の方からも、「たくましくなって帰ってきた」という声をいただきました。

 やけどのような日焼けをし、熱中症になりかけた子どもたちですが、アンケートでは、川遊びや川での釣りプール遊び、日中の野外での夏祭りなど、屋外の行事が「楽しかったこと」の上位を占めていました。

 夏祭りでは、子どもたちが作った「みこし」が練り歩き、昨年は食べるだけだったたこ焼きの屋台で、子どもたちが焼き手として活躍していました。ダンスグループの若者たちの指導でたった一日で仕上がった子どもたちのダンスも披露されました。

 それから、今年の特徴として、子どもも付き添いの親御さんも、マスコミの取材にまったく臆することなくうけ答えてしてくれた、ということがあります

 新聞ラジオ、テレビの取材があり、どちらかといえばシャイなお母さんたちが不愉快な思いをしないか、子どもたちもどんな話をするのだろうか、と心配していたのですが、お母さんたちも自分のことばで福島の状況がよくわかるように話してくださったので、ほっとしました。

 子どもたちに至っては、大人顔負けなくらい堂々と放射能検知器の説明をしたり、ふだんの生活の話をしたりするのを、後日オンエアされたラジオ番組で聞いてびっくりしました。

 そうと決めていたわけではないのですが、キャンプ期間中に放射能や原発事故の話を子どもたちとすることは本当にまれで、ここまで話ができるとは思っていなかったのです。

 2週間のキャンプを終え、帰りのバスの中の子どもたちの様子を見るだけでも、今年の「たこ焼きキャンプしかコロキャンプ」が参加した子どもたちにとってどんなキャンプだったか、じゅうぶんわかるように思えたものです。

 スムーズにいった初日の明石へ向かう行きのバスとは違い、途中渋滞に巻き込まれ、15時間もの長旅となりましたが、子どもたちは元気で、深夜11時すぎの福島到着まで、DVD鑑賞やゲーム大会カラオケなどに興じていました。

 「いっそ日付が変わればいいのに。キャンプがもう一日のびたことになるから

 「帰りたくない! これからお母さんを連れて明石に戻りたい!」

 と言っていた子までいました。

 福島に着き親御さんたちに迎えられて、いよいよそれぞれの自宅に帰る別れ際は、昨年の第1回キャンプでは“今生の別れ”のような涙、涙の別れになったのですが、今回はスタッフに対しても子どもたちどうしでも、「またね!」とニコニコ笑顔のお別れでした。きっとまた会える、という子どもたちの信頼の重さを胸にずしんと感じる帰路でした。


 ◆リピーターをだいじにしたい


 そうなった理由の一つは、参加者のほぼ8割が昨年のリピーターだったことですが、それだけではなく、前回のキャンプが終わってからも、参加者との交流を続けてきたことにあると考えています

 昨年の12月には、スタッフ福島に出かけ、一泊二日で参加者子どもたち・親御さんたちと交流する「同窓会」を実施して交流を深めました。

 また、キャンプ終了直後から、翌年のキャンプに向けた準備の様子や、関西での福島支援の取り組みの様子などを定期的に発信し、参加者家族に、「私たち福島のことを忘れていない!」と発信し続けてきました。

 日常的な子育ての悩み相談などもふくめて、スタッフが親御さんたちとメールのやりとりをすることも、まれではありません。

 親御さんのキャンプ感想も、昨年は、「遠く離れた関西で、私たちのことを応援してくれる人たちがたくさんいることに感謝しています」というものが多かったのですが、今年は、帰ってきてからの様子として、こんな文章もありました。

 《去年のキャンプ後は、しばらくはボーと何も手つかずで、さみしさのあまりキャンプの様子はあまり話をしてくれませんでしたが、今年は、あんなことやこんなことをしたと、とっても嬉しそうに話をしてくれました。「さみしくない?」と聞いたら、「また会えるもん」と答え、ニコニコしていました。》

 《娘は、ボランティアの方々、マスター(注2)含めスタッフの方々を身内のように思っていて、毎年、夏休みになれば、会えるものだと思っていますクラス友達のことを話すように、キャンプに参加したお友達のこと、スタッフの方々のことを、色々話してくれました。》


──注2  ●「マスター」は小野キャンプネーム。参加するほとんどの親子は、この名前で私を呼んでいます


 《去年も参加しましたが、今年も帰ってくるなり「また来年も行きたい−。」と何度も言っていました。》

 今年のキャンプになるべくリピーターを優先して来てもらう、ということについては、募集の直前までスタッフのあいだで何度も話し合いました。もっと公平に、新しい参加者募集すべきではないか、という意見もあったのですが、一定の人たちとつながり続けるという意味で、今年はとりあえずリピーターをだいじにしていこうという結論になりました。

 実際、保護者アンケートには、「長期の休みごとにいろいろなキャンプ子どもを参加させているが、そこで一度友達になった子と二度と会えない」、「行くたびに新しいメンバーやスタッフに慣れなければならず、子どもストレスたまる」、などの声があり、同じ顔ぶれで繰り返し受け入れることの重要性が確認されました。

 他方で、《こんなにステキキャンプからこそ一度も参加したことのない他のお子さんに……と思います。実際、何か所か問い合わせたけどダメだった……という方が周りにたくさんいます夏休み中、ずっと家の中でゲームをしていた、とも聞きます。》という親御さんの声もありました。その謙虚さとともに、放射能の中で暮らさなければならない親の苦しみをあらためて感じました。

 だからこそ、今後も、まるで遠くにある親戚の家に遊びに来るような感覚で参加できる保養キャンプが増えていくことを願わずはいられません。


 ◆被災者の声にみみをすます


 昨年のたこ焼きキャンプ実施を機に、たくさんの福島の人たちと出会い、話を聞いてきました。

 たこ焼きキャンプ参加の保護者をはじめ、何人かの親御さんとは、幸いなことにとても親しく交流する機会を持ちました。

 その中で、福島(広くは放射線量が高い周辺地域もふくめて)で子どもを育てることがどんなにたいへんなことかも、うかがい知ることができました。

 震災から1年半以上経った今も、何一つ改善されていない状況が続いています

 除染は簡単にはすすみません。この夏、福島県内の多くの小学校プールが再開されましたが、許容される基準の0.25μSv(これ自体も安全はいえない)まで下げるため、保護者を動員して何度も除染したり、なかなか下がらないプールではグラインダーでコンクリートを削ったり、とうとうプール鉄板と人工芝を敷いたりした学校もあったと聞きました。(こんなことまでして子どもプールに入れないといけないという現実!)

 福島市内に住むある方の家では、空間放射線量が、自宅前の玄関で0.75μSv、庭で1.17μSv、飯館村の方角を向く物置のタレ流しのたまり水は、なんと31μSvあるそうです(いずれも地上1メートルで計測)。こんな家でも、除染の順番がまだまわってきていません。

 そんな状態であるのに、福島県全体として、もう復興に向かいたいという雰囲気が強く、あちこちで野外のイベントがおこなわれ、「まるで子どもをむりやり野外に出すためにやっているみたいだ」、という親御さんの声も聞きました。

 地域行政は人口流出させたくない、政府や御用学者はできるだけ被害を小さく見せたい、という意図があって「平常モード」を演出していますが、福島に住み続けることを決めた人たちが、もう放射能の心配をするのがしんどい、もうそうした話は聞きたくない、と耳をふさいでしまう気持ちをもつことは、人としてむりのないようにも思います

 できるだけ安全な食べ物を子どもに用意する、野外での遊びを制限する、夏休みなどに保養キャンプに参加させる、などの子どもを放射能から守るための努力を続けている親は、それだけでもたいへんなのに、そうした悩みを相談できる相手が少ない、保養の話をしただけでまわりからプレッシャーをかけられる、などのつらさが畳み掛けてきます

 今年の夏休み以降に話をした親たちの多くが、「もう疲れてきました」と言いました。

 みみをすませるほどに身を切られるような思いがし、「夏休みだけキャンプをする今の取り組みだけで満足していいのか」と、自分の中に疑問がわきあがってきます

 このような状況が放置されているにもかかわらず、何もなかったかのように原発を再稼働し、経済効率のみを優先して弱者のいのちをないがしろにしようとする社会の動きがあることに、深い危機感と怒りを感じています

 今のこの状況をつくった責任がある政府、電力会社、財界、そして大人である私たち一人ひとりが、状況をきちんと見つめ、被災者の声にみみをすまし、何をすべきか考えていく必要があると思っています


 ◆新たな動きが、全国で、福島で始まっている


 福島に残り、あるいは福島から避難して、子どもたちを放射能から守るために活動している人たちとも出会いました。

 ある方は、小さな娘さんをふくむ家族を関西に避難させ、ご自分福島に残って、保養キャンプを行政に取り組んでもらうために働きがけをし、国会に行ってロビー活動をし、といったさまざまな活動を精力的にしています

 しかし、彼自身も被災者なのです。今後どうやって生活していくのかといった悩みもつきません。

 そして何より、3歳というもっともかわいい盛りの娘さんと、年に何回も会うことができないという苦しみは、楽しく恵まれた子育てを父親として経験させてもらった僕にとってもっとも切なく感じることです。

 またある方は、原発事故の直後に避難し、今は県外で避難者の支援や保養キャンプに取り組み、福島避難したいと思いながら事情があって足を踏み出せない人たちの相談に乗る活動を、地道に続けています避難することをめぐって夫婦の対立になり、離婚して子連れ避難するという生活を続けながらです。

 「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク代表佐藤幸子さんも、長年福島の豊かな大地で続けてきた農的な暮らしをあきらめ、福島子どものため、原発を止めるための活動にいのちを燃やしています佐藤さんもまた、お子さんたちがいて、親としての当然の悩みを抱えながらです。

 そうした方たちも参加して、今、さまざまな動きが全国で、福島で始まっています

 一つめは、この9月に発足した、保養や避難の支援団体をつなぐネットワーク311全国受け入れ協議会」です。今年2月福島でおこなわれた「放射能からいのちを守る全国サミット」の流れを受けて、継続的なネットワークとして活動しています

 団体の交流や情報交換だけでなく、現地での親向けの相談会や、保養キャンプを紹介するホームページの運営、保養キャンプ経験蓄積のための資料収集などに取り組んでいます

 現在二十数団体が正規のメンバーとして加入し、私たち福島子どもを招きたい!  明石プロジェクト」も参加させてもらっています

 ☆  311全国受け入れ協議会ホームページ  http://www.311ukeire.net/

 二つめは、今年6月に国会で成立した「原発事故  子ども被災者支援法」(注3)にもとづく実際の施策市民の声を反映させるべく、被災者団体、支援団体、弁護士のグループなどが合同で立ち上げた「原発事故  子ども被災者支援法  市民会議」です。


──注3  ●  正式名称は「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者生活支援等に関する施策の推進に関する法律」。


 この支援法が成立したこと自体は、とても画期的ことなのですが、現実に予算を動かして被災者子どもの支援をしていく枠組みは、まだできていません。当事者に寄り添った支援を実現するためには、被災した福島当事者もふくめた市民からの国への働きかけが欠かせません。

 支援法自体は、理念法としてすばらしい内容を持っているので、ぜひ多くの方に知ってほしいと思っています

 ☆  原発事故 子ども被災者支援法 市民会議ホームページ  http://shiminkaigi.jimdo.com/


 ◆市民が開設した「ふくしま共同診療所


 そして三つめが、このほど福島に開設された「ふくしま共同診療所」です。

 福島県によっておこなわれている子どもたちへの甲状腺検査では、結節やのう胞が発見されても、大半が二次検査不要とされてしまっています

 低線量被曝の不安を抱える保護者が、一般の病院体調不良子どもを連れて行っても、たいていが「心配ありません」ですまされてしまい、多くの親が、病院に対して不信感を抱いています。そして、他県の病院にセカンドオピニオンを求めて駆け込んでも、福島医大から「セカンドオピニオンは必要ない」という圧力医師会を通じてかけられていて、診察を拒否されることもまれではないといいます

 そうした不安を抱える親子の心のよりどころとなるような病院として、「ふくしま共同診療所」を建設する運動が始まり、この12月市民から寄付金によって開設されたのです。

 そうした動き以外にも、福島に住み続ける母親たちが、自分たちでグループを立ち上げた例もあります。郡山市にある「安心安全アクション  in  郡山」は、自前の交流スペースを持ち、その場所安全な野菜の販売や、食品の放射能検査、さまざまな会合や保養相談会の窓口といった活動をしています

 ☆  安心安全アクション  in  郡山(3a)ホームページ  http://aaa3a.jp/

 このような親御さんたちをはじめとする当事者の活動が盛んになり、そうした動きと支援者がつながることで、福島での閉塞状況を打ちやぶる一つのきっかけが生まれるのではないか、と考えています


 ◆福島の親子とつながり続けていくために


 昨年の夏から、保養キャンプなどを通して福島の問題と向き合い、何をしたらいいのか、と常に考えてきました。

 最初はとにかく一分一秒でも、子どもたちを放射能から遠ざけたい、できれば避難を、という思いでしたが、今は、こうした苦難の中にいる親子ととにかくつながり続けることがいちばん大切なのではないかと思うようになりました。

 そんな悠長なことでいいのか、と問いかける声は、もちろん自分の中にもあります

 しかし、「このままここで暮らしていていいのか」という、もっと深い葛藤の中にいる福島の親子とつながり続けていくために、「たこ焼きキャンプ」を継続していくことは非常に大切だと思っています。──キャンプに参加した親御さんからの、次のような声に応えるためにも。

 《娘は福島生まれということだけで、お嫁に行けないかもしれないと考えることもあります。そんな暗い気持ちを忘れ、親子で夏休みらしい思い出をつくらせてもらいました。福島での暮らしを頑張る気力をもらいました。》

 《福島と兵庫、こんなに遠い所なのに、応援してくれる方々の心は、すぐそばにあるような気がして、心強いです。福島にいることを考えすぎると心が折れそうになります。そんな時に必ず、ブログを見て勇気をもらいます。懐かしく、去年のものも見たりして、笑い、涙し、モチベーションを上げます

 私自身の大げさですが、命綱です。》



福島子どもを招きたい! 明石プロジェクト

 メール : takocamp@gmail.com

 電話 : 090-9871-1419

 ホームページ : http://www3.to/takocamp

 ブログ : http://takocamp.exblog.jp/


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小野 洋(おの・ひろし)

福島子どもを招きたい! 明石プロジェクト代表

子育て支援子ども自然体験などに取り組む「スロースペース・ラミ」代表

1960年福島県生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京卒業後、神奈川県で中学教員経験

阪神淡路大震災の後、神戸誕生したフリースクール「ラミ中学校」のスタッフに。

パートナー、14歳の息子+猫1匹が家族最近の特技は、会議シンポジウムの司会進行役。

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メールマガジン 高円寺電子書林は、2012年現在無料で配信しています

手続きは、以下でお願いします。

http://kouenjishorin.jugem.jp/?cid=47

2011-10-11 ホットなボリス・ヴィアン!

ホットなボリス・ヴィアン! そして黒人音楽都市パリ     〜鈴木孝弥インタビュー

うたかたの日々』や『北京の秋』などを書いたフランスの作家ボリス・ヴィアン(1920-1959)。彼がジャズを愛し、自らトランペット演奏、またレコードに付いている「解説/紹介原稿」をたくさん書いていたことは、よく知られている。

こうしたライナーノーツ原稿を集めたのが『ボリス・ヴィアンジャズ入門』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。その本を訳した鈴木孝弥さんのお話を聞いてきた。

彼はレゲエ専門の音楽ライター。たとえば、雑誌ミュージック・マガジン」を開くと、孝弥さんがアルバム・レヴューのレゲエ・コーナーを担当している。

しかし、なぜレゲエ専門のライターフランス語の本を訳しているのか? その理由が興味深い。ヴィアンと関連しているのだ。

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黒人音楽の出力都市、パリ


ーーーなぜ、レゲエライターフランス語を? 

鈴木孝弥(以下、孝弥)  パリがレゲエの一大拠点になっているからです。

僕は1989年から94年までタワーレコード渋谷店仕事をしていました。昼間はジャズバイヤーやって、夜に「レゲエマガジン」などの原稿を書いたりしているという生活です。

それから同時にフランス映画も好きでよく見てたんですね。時は渋谷系の時代、ピチカート・ファイヴ小西康陽さんやサバービア橋本徹さんが、音楽とともにフランス映画を多数紹介していました。僕はそのちょっとからフランス映画にはまっていました。

で、海外旅行にでもと思った時、フランスに行こうと決めたのです。それで91年にパリに行きました。

そしてパリに着いて驚いた。町貼りのポスターを見ると、東京に来ないレゲエミュージシャンがいっぱい来ているんですよ!

ジャマイカの大スター、バーニング・スピアーとか、イエローマンとか、アイジャーマンとか、コートジボワール出身のレゲエ歌手アルファブロンディとかが頻繁に来ていることがわかったんです。


ーーーなんでそんなにいっぱい?

■孝弥 レゲエはヨーロッパ大陸の各都市で人気があり、一度上陸してしまえば、地続きだからバスで回れる。ボブ・マーリーの言う〈バビロン・バイ・バス〉ですが(笑)、どう回っても、そのツアー順路の交差点となる都市がパリなのです。

そしてうれしいことに、僕が好きなルーツレゲエミュージシャンがパリに多く来ていた。

ジャマイカ本国でも最近ルーツレゲエスタイル回帰してきていますが、当時バーニング・スピアーのような古典的なレゲエは、いわば年配向けの懐メロ扱いでした。若者流行ダンスホールスタイルが圧倒的に主流でしたから。でもフランスでは現在に至るまで、常にルーツレゲエが主流です。

その理由はいくつかありますが、重要なことは、フランスには旧植民地諸国だったアフリカから移り住んだ黒人たちが多くいるということ。この国に住んで搾取され、余所者扱いされてきた黒人たちが、ルーツレゲエに心情を託せるんですね。ルーツレゲエの基本精神はアフリカ回帰。在フランスのブラックディアスポラジャマイカのそれに共鳴している構図です。つまりフランスは、ルーツレゲエミュージシャンにとってダイレクトでピュアなリスナーが確実にいる場所なのです。そして、この音楽のよさが白人たちにも理解されて、今ではファンは白人の方が多いくらいです。


ーーーパリが、レゲエネットワークの大きな拠点であることを発見した孝弥さんはどうしたのですか?

■孝弥 いろいろ知りたいことがあり過ぎて、1週間くらいのヴァカンス滞在ではとても足りない。短い滞在では、レゲエも見たいライヴに当たらないし。それで3回旅行した3回目のパリで、だめだ、こりゃ、住まなきゃいけないな、と決心しました。それでタワーレコードを辞めて94年の秋にパリに行きました。フランスは大学の学費が無料なので、長く滞在するためにも、それから滞在許可証のためにも、大学に入ることは不可欠だった。それで、必死にフランス語勉強してパリ第3大学に入れてもらいました。とにかくそこに入るまでが、わが人生で一番勉強した時期ですね(笑)。それでなんとか、都合4年近くパリにいることができました。


ーーーそれでレゲエライターフランス語ができるようになったんだ。

■孝弥 パリ滞在中はけっこうライブに行ったし、セーヌに浮かべた船で行うサウンドシステムにもよくいった。ジャズ特に好きなのがモダンジャズの昔の演奏なので、ライブよりもむしろパリの専門のラジオ放送局を楽しんでました。

レコードを買うなら、レゲエジャズもはっきりいって東京の方がいい。東京世界中からレコードが集まってくる場所だし、バイヤー世界で最高の目利きが集まってるところですからね。

しかしですね、パリは音楽に対する愛情が半端じゃないです。ものすごく深い愛情を傾けている都市だということが住んでつくづくわかりました。

実はパリがレゲエの拠点となっている最大の理由は、その昔、アメリカで住みにくくなった黒人ミュージシャンを暖かく迎えたという歴史的背景があることではないかと考えます

それを踏まえて専門の音楽を流す放送局メディアがあり、その一部がレゲエに特化して愛情を傾けているわけです。

そして、戦後のパリで黒人ミュージシャンを暖かく迎えた人間たちの中心人物の一人が、ボリス・ヴィアンなのです。


ジャズに向うボリス・ヴィアンのホットな言葉


ーーーボリス・ヴィアンジャズに関する原稿の特徴は?

■孝弥 雑誌原稿場合は、ひと言で言って、かなりけんか腰ですね。「ジャズにはかっこいいもの、じゃないものがあり、また本物、偽物がある。お前ら本当にそれがわかるのか?」と読者に向う。そういったスタイルです。

アメリカジャーナリズムもけちょんけちょんに批判します。特に人種差別をするような奴らには容赦なかった。自分が愛するミュージシャン黒人ゆえに仕事がなく、ものすごい芸術家なのに、それ相応の扱いをうけていないこと。そういうことにものすごく怒っています

黒人ミュージシャンにとって、そんな音楽ライターがいるパリは特別な場所だったんじゃないかな。行けばフランスのファンが大歓びで迎えてくれる。曲はよく知っているし、レコード真剣に聴いてくれている。

それで住み着いてしまった人もいる。バド・パウエルなんかはその中でも有名な一人ですね。あと、50年代の初め、マイルス・デイヴィスは、「1年12ヶ月のうち、8ヶ月はパリにいたい」なんてことをいっていました。

アメリカジャズメンを暖かく迎え、やりたいことをしっかり理解し、コンサートオーガナイズし、アメリカレコード会社がつくらないなら、フランス録音・原盤で出す。フランスがそんなアメリカジャズに対する重要なサポート国になっていった過程で、ボリス・ヴィアンが果たした役割は非常に大きいのです。そうした土壌があって、映画死刑台のエレベーター」の音楽マイルスの録音が、「危険な関係」のアート・ブレイキー映画音楽がある。これは彼らを暖かく迎えてくれたパリのジャズ文化へのお返しみたいなもんですよ。


ーーー音楽を制作する側にいたヴィアンのライナーノート原稿は、どんな具合ですか? 売り物に付く解説/紹介の文章ですからね。

■孝弥 そこが面白いんです。商品を売る立場にいて、またレコード会社からギャラをもらっているにも関わらず迎合していないんですよ。

ただし雑誌原稿のようには直接的ではありません。だけど、わかる人にはわかる書き方をして、彼がダメだと思う音楽は批判しています

ボリス・ヴィアンの文章の魅力は、小説も含めて、なんともいえない捩じれ方にあると思います。単にひねくれているのではなくて、お尻がむずむずと痒くなるような捩じれ。それはひとりよがりや、わからない奴にはわからなくてもいいんだぜという不親切に感じる時もあるんだけど、その捩じれの奥にある彼の真意が感じられたときにニヤリとしてしまう。

まりライナーノート原稿に関して言えば、たとえ厳密な審美眼と強烈な好ききらいがあるヴィアンであっても、売り物に印刷される宣伝文ですから表現としては皮肉や反語法にまみれた、捩じれてよじれたものにならざるを得ないことが多々あるわけです。そんな中で確立されていった彼のテクストスタイルを楽しめるのが、この『ボリス・ヴィアンジャズ入門』なのです。


ーーー翻訳が難しそうですね?

■孝弥 レコードバイヤーとしてAからZまでジャズは一応聴いていますから、ヴィアンが好きな音楽、嫌いなものはわかりますしか表現の真意がどうしてもわからない時はフランス人の知り合いに聞きますしかフランス人でもわからなかったりする(笑)

褒めてるか、けなしているのかよくわからない文章というのは、ヴィアンだけの問題ではなくてフランス人言葉センスの問題というところもある。どっちともとれる言葉を日本では「玉虫色」とかいってネガティブに評価してしまいがちだけれど、彼らはどっちつかずの表現自体に慣れていて、それが修辞法として練られた表現であるなら積極的にOKしてしまい、その不明瞭さを味わうようなところがある。


●ヴィアンの奇妙な文体とアドリブ


ーーーヴィアンの小説の中に出てくる、独特のわかりにくさはどう思います

■孝弥 あのわからない文章ができた理由のひとつが、ジャズのアドリブ技法にある、と考えると理解しやすいと思います

スイングジャズは彼も好きだったけれど、あれはむしろダンスのための、いわば社交性、娯楽性に重点が置かれた音楽でした。白人社会の社交場でジュークボックスと化するだけのジャズに満足できなくなり、「あんな演奏は飽きたよ。オレたちはもっと芸術性を追求したいんだ」といって黒人ミュージシャンたちが産み出したのがビーバップスタイルであり、それがハードバップに変化していきます。いずれにせよポイントはアドリブです。白人がつくったミュージカルの曲でもなんでもいいからもってきて、そのテーマ主旋律)を頭とお尻において、その間の部分は全員好きなように順番にアドリブを展開させ、感覚独自性をアピールする。つまり、そのアドリブ・プレイを彼は小説にも導入したと考えるとしっくりくると思います


ーーーたとえば『うたかたの日々』の主人公たちが遊びにいくスケートリンク場で、奇妙な言葉が連なっていくところはアドリブ的ですね。女性スケーターが「大鷲のポーズ」を決めることによって、卵を産み落とし、その卵が割れ、殻を拾い集めに、日本語では「お小姓清掃隊」と訳されたフランス語古語を使って呼ばれている集団がやってくる言葉の流れとか。

■孝弥 スケートリンクというテーマを提示して、ミュージシャンソロをとるように自由なイメージで書いていく。イメージや展開の仕方が少々飛躍しても、スケートリンクというところに着地できればいいという感じでしょうね。

同じ方法論で文体の自由を追求したのがアメリカビートジェネレーション作家たちでした。彼らも黒人ジャズを愛し、その演奏のように詩や小説を書こうとした。ジャック・ケラワックトイレットペーパーのような長い巻紙を使って延々と原稿を書いていたというのは、延々と取り続けるソロのアドリブのようにずーっと意識が途切れず書き続けるためでしょう。


ーーー孝弥さんも音楽ライターとして、ボリス・ヴィアン意識してますか?

■孝弥 近づきたいという気持はある。ライターには、新しく生まれた音楽を世の中に紹介するのが仕事というスタンスの人がいます。それもわかるのだけれど、ただの宣伝マンになっていく可能性がある。特にアーティストインタビューを多くすると、仕事は増えて生活は楽になるだろうけど危険です。向こうがいいたいことを拾っていくうちに宣伝マンになっちまう。

僕は「あんたが勝手に作ったものは、こちらも勝手に評価する」という立場に立ちたいので、インタビューはあまりしないことにしています

アーティストとして世の中に音楽を出したんだから、人から何を言われてもいいと思うんです。だから俺も勝手に書く。鈴木孝弥として書いて、それは雑誌社に買ってもらう原稿からアーティストに何といわれてもかまいません。ぼくは好きなことを書くことしかやりたくないし、それで文章を買ってもらえなくなったらこの仕事は辞めます


ーーーボリス・ヴィアンみたいに、強烈な審美眼があり、文体がある音楽ライターって、日本にいますか?

■孝弥 「ミュージック・マガジン」でいえば、ジャズ批評松尾史朗さん。彼はヴィアンを彷彿とさせるくらい強烈な皮肉を書きますね。それから歌謡曲/Jポップ担当保母大三郎さん。厳しい審美眼と独自の文体をもっている人です。


ーーーヴィアンは59年に亡くなってしまうのだけど。そのことについてどう思います

■孝弥 ジャズでいうとビーバップハードバップまで彼は見られたということです。残念なことにフリージャズを見ることができなかった。聴かせたかったですね〜。

勝手なことをいわせてもらうなら、あと20年生きたなら、レゲエボリス・ヴィアンは絶対好きになったと思う。レゲエジャズ根底にはブラックディアスポラの問題があって、それが音楽を通して出ていく。そのプロセスは同じです。そこをボリス・ヴィアンはしっかり見れる人だと思う。

偏狭で無理解の白人どもに黒人ミュージシャンが食い物にされることを許せなかったヴィアンは、フランスにいるのだけど、ジャズファンとして海の向こうからアメリカ差別主義に対して徹底的に怒った。そんなことができる人は、音楽が変化しても、黒人音楽構造をしっかりと見れる人だと思います


●出力都市、もうひとつ物語


ーーーここで話を変えて、孝弥さんが『ボリス・ヴィアンジャズ入門』と(09〜10年の)同時期に出した翻訳書『ジャズミュージシャン 3つの願い』(パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター ブルース・インターアクションズ)について話を聞かせて下さい。

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■孝弥 翻訳といっても内容は、60年代ジャズメンを撮影した写真集プラスアンケートという体裁の本です。写真を撮ったパノニカは、イギリスの財閥ロスチャイルド家に生まれた女性で、そもそもジャズ好きな人でした。戦前彼女フランス人男爵結婚してフランスで子供をつくり、戦時中はレジスタンス運動を行ったりしています戦後は大使夫人になったのだけど、その暮らしがつまらなくなり、男爵離婚し、50年代の半ばに単身ニューヨークに渡ってしまう。そしてヴィアンが黒人音楽家を擁護したように、彼女自分の大好きなジャズミュージシャンたちを助けるわけです。なんてたってロスチャイルド家の人だから金はある。ミュージシャンパトロンになったり金を貸したり、住むところがない人には超一流ホテルスイート提供したりする。そこで夜な夜なセッションが始まりホテルからうるさいといわれて「出ていけ」といわれたら3倍の金をだして、演奏を続けさせるような人です。またレコード会社クラブとの契約トラブルが起きた場合彼女は乗り込んでいって黒人ミュージシャン側に立って解決していった。

そんな彼女を多くの黒人ミュージシャンが慕った。彼女にいろんな人が曲をプレゼントしています。たとえばソニー・クラークはズバリ「Nica」という曲を。ジジ・グライスは「Nica's Tempo」、ケニー・ドゥリューなら「Blues for Nica」、ホレス・シルヴァーは「Nica's Dream」とか、まだまだあります

そんな風に、パノニカと彼らはものすごい友情関係になっていくわけです。また、彼女アーティストでもあり、ずっと写真も撮っていましたが、そこでも彼らジャズミュージシャンを最新型のポラロイド写真撮影しました。

当時のレコードジャケットとか見ると、よくわかるのだけど、黒人ミュージシャン白人に舐められないようにと、ぴしっとスーツで決めていますよね。

しかし、パノニカの前ではくつろいでいた。そんな彼らの生の表情が記録されています。そして、ここが面白いのですが、パノニカはポラロイド撮影する際に「もしあなたの願いが、3つかなうとしたら何を願う?」と一人ずつ聞いていた。

この本には、その、300人くらいのミュージシャン写真と、彼らの「3つの願い」が集められているわけです。

家族とすこやかに暮らしたい」、「仕事が欲しい」、「人種差別がない社会」……いろいろな願いが書かれています


ーーーいい本だなあ〜。60年代出版されたものですか?

■孝弥 それが違うんです。ここにドラマがある(笑)! 彼女写真テクストをまとめて70年代出版社に持ち込みます

しかし、いかんせんジャズは大きく変わっていた。彼女がつきあったのはビーバップハードバップ期の人たちでした。その後、新印象派というのが出てきて、ハービー・ハンコックウェイン・ショーターとかが登場、フリージャズ後にはエレクトリックが導入され、フュージョンも出てくる。

戦後からハードバップ期までの動きと、そこから70年に入るまでの音楽スタイルの変化のスピード全然ちがった。さらにライヴァルのロック音楽が台頭してくれば、ジャズ自体内部に、新しい音楽として復権するための自己改革が加速するわけです。パノニカがその本を売り込んだときはもうそんな時代に入っていましたから、ニューヨークの出版社人間は、ここに登場している人たちは素晴らしいアーティストであることは理解しているのだけど、ネタとしては古くて「売れない」と判断し、出版を拒否するのです。

彼女は88年に亡くなりますそれから次のドラマが始まる。パノニカはフランスに子供を残していて、その子孫が「私たちのおばさんの念願だった本を出そう」と動きだす。しかし、今度はあのロスチャイルド家が「出してくれるな」と圧力をかけたのです。要するに、彼らにしてみれば、パノニカはロスチャイルド一族のはねかえり娘で、アメリカ黒人にいれあげた恥ずべき女、ってことだったんでしょうね。それで、またも計画が頓挫してしまった。

やっと本が出るのは、パノニカが死んでから20年後2006年のことです。フランスの出版社が出しました。その本を手に入れて感動したので、訳したのです。


ーーーアメリカではでなくて、やはりフランスなんですね。

■孝弥 フランスでの刊行を受けて、あとからアメリカ英語版が出版されました。でも最初は、フランス人のパノニカの孫娘が編纂し、フランスの出版社から出たフランス語版です。要するに、これもボリス・ヴィアンジャズテクストのように、フランスが出口となったアメリカジャズの記録、というわけです。

ーーーアメリカで生まれた黒人音楽にも関わらず、そこでは自由に表現できず、出力するところとして、フランス、パリがあったこと。その出力環境は今でもあるということ、そしてこの環境をつくりあげた一人としてボリス・ヴィアンがいるんですね。

興味深い話でした。

鈴木孝弥さん、ありがとうございました。

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鈴木孝弥さんのブログ

http://www.3cha40otoko-dico.blogspot.com/

出版予定

だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ? 〜ジャズエピソード傑作選』(ブリュノ・コストゥマル著・鈴木孝弥訳)

うから(エディシオン うから)より2011年11月中旬発売予定。

2011-08-29 浅川マキ、代々木忠

レヴュー「喫煙仕草は何を意味するか----DVD浅川マキがいた頃」について」


 このDVDを手渡された後、下北沢の老舗の音楽喫茶「いーはとーぼ」に行った。マスター今沢裕さんが浅川マキと親しいことを知っていたからだ。


 2010年1月17日、浅川は名古屋の「ジャズイン・ラブリー」での仕事宿泊していたホテルで、予定の時刻に現れないことを不審に思った店の人間によって発見されたという。今沢さんが知り合いの店の従業から聞いた話だ。情報を調べるためにネット検索はけっこうするが、彼女の死はこうして確認したかった。


 このDVDは、浅川が生前に発売を目指して製作していた作品だ。ライブ映像を中心に、映画館(池袋・文芸座)、ライブスポット(新宿・PITINN)、バー(新宿・ふらて)といった空間それ自体が魅力的に映し出されている。

 浅川の立ち位置は、ジャズブルースバックボーンにしたシャンソン歌手というものだが、約40年の活動の中で多彩な音楽表現をしていた。ここでも植松孝夫、渋谷毅、セシル・モンローたちとのジャズセッションの他に、元ルースターズ下山淳が強烈なギター音を響かせるロックをバックに唄う彼女の姿を見ることができる。   


 ライブ映像の間に原田芳雄柄谷行人が登場する。浅川はこのような男が好きだったのだろう。暗がりで酒を飲みながら寡黙に語り、時に熾烈なことをしてしまう男。こうした男の噂は、映画館や店に屯す人間たちによって伝えられていく。浅川が選んだミュージシャンたちも、最初このような「噂の男」として彼女の耳に届いたはずだ。


 彼女楽屋でバーのカウンターで、うつむき、そしてひたすら煙草を吸い続ける。ネット環境に耽っていて忘れていたが、それは新たな情報をキャッチしようとしている仕草なのだった。


浅川マキがいた頃 東京アンダーグラウンドーbootlegg-」(EMI MUSIC JAPAN)

(このテクストは、2010年の「嗜み」NO7<発売=文藝春秋>に掲載された)



小説代々木忠について』

「チュー!」

突然、目の前の痩せた映画監督がいった。

「チュー!」

その横の眼鏡を掛けた映画監督もわざとらしく口をとがらせいったのだ。

「代々木〜?」

そして恰幅のよい映画監督がそういった拍子に三人は一斉に笑ったのだった。俺の名前がそんなにおかしいか


 ここは新宿の弁護士事務所明日から日活ロマンポルノ裁判の公判が始まるというのに、三人の映画監督はふざけているのだ。共産党本部のある街と、ネズミの鳴き声の組み合わせが面白いのだ。俺以外は全員東大出、こんなことで笑っていていいのかと思ったが、打ち合わせの内容がよくわからない俺はただ黙って会議につきあうしかなかった。


「創造主体無視の弁論」「猥褻を如何に組織できるか」「映像芸術論すら解体せよ」……俺にとってはやたらメチャクチャ言葉が、ただでさえ狭い事務所にまき散らされ、三人の映画監督は口から泡をとばしながら、その言葉をいじっていく。ちっともいやらしい映画を撮れないくせに、言葉のいじり方はそれこそ猥褻で、聞いているだけで暑くなり、実際、事務所は、夏のようだ。開襟シャツの弁護士先生名画座の名画のように団扇を使っている。畜生、何もかも撮影所みてえに古くせえ! 気づいたのか弁護士先生、「ランニングの兄さんも監督さんだったのか」それを聞いて三人は「チュー!」「チュー!」「代々木〜」とやって、また大爆笑


……あれから10年。あの三人はどうしたことやら……。俺は旅館の一室で女を前にしてこんなことをいっている。

「暑くないかい?」

 女は首を振る。確かにこの部屋はさっきからクーラーが効き過ぎている。

「だけど、暑くないかい? それ取ろうか?」

 繰り返すと何故か女は上着を俺に渡す。その時、テクニックとして女の肩に触れるのだが、それは確かに熱い肌。

 振り向けば髪の薄いカメラマンも痩せた音響も、そして俺も青褪め震えていて……チャンスだ、男たちが目だけになる時間がやってきた。それを逃すまいと、俺はカバンから取り出す。それはウィ〜ンと音を出す。その音の背後に俺たちは固唾を飲んで全員隠れた。


……それからまた10年。恵比寿の真っ白いビルのワンフロアーで、俺はうちの会社で働きたいという青年面接をしていた。慶応大学に入ったのはいいが、広告代理店のようで何の希望もなかった。俺の言葉で救われたのだという。

 もっともらしいことをいっているが、こいつは「同時に撮っているな」と俺は睨んだ。目ではなく、あの空調の位置から見ていやがる。薄々気づいていたことだが、ここまで浮かび上がったのか、昔だったら神棚の位置だ。今、興味あることは?と聞いたら「地球温暖化です」


「嘘だ。絶対暑くなっていない」といったら、こいつは薄ら笑いをして浮上していった。空調の位置が海面か。アニメだな。空調の空中の慶応ボーイが「チュー」と口をとがらせた。そう、俺は貨物船ネズミ、そろそろ逃げ時だとわかっていた。

eineneinen 2011/08/29 14:40 ご無沙汰です。随分久しぶりのエントリですね。。。ご無事で何よりです。

hi-rohi-ro 2011/08/29 20:24 ご無沙汰しておりました。einenさん、暮らしぶり、持続しておりますね。素晴らしいです。雑誌「ミュージックマガジン」今月(9月)号に、「遺された人が亡き人と向きあうこと」について、コラム書いています。書店で立ち読みでも、どうぞ。

2010-05-24 アメリカンヴィンテージと動物の干物


アメリカンヴィンテージ動物の干物

ある夕方、一人の男と出会った。アメリカ古着を売っている店をかつて経営していた。年齢は50代後半だろうか。生ビールを呑みながら男はこんな話をした。


「店の若いのをアメリカに行かせて買い付けの旅をさせる。一月くらいの期間で年に2,3回行かせていた。そんな仕事をして数年たつと、そいつの顔つきが変わってくるんですよ。元々は原宿、アメリカンヴィンテージものの店で働くオトコノコだ。自分雰囲気の統一感をつくることもできるしキマッテいる子なんだ。顔はまあ美男子じゃないが髪型なんかでうまくまとめている。まあモテルでしょ。

そいつの顔が変化していく。

そんな野郎に久しぶりにあって顔を見る、相手はいつものように、あ〜ど〜も〜シャチョーなんて前と変らずいっているけど、その顔の統一感がなんだか崩れてる、前に会った顔とはどこか違うんだ。

崩れているのは、表情の一部がこわばっているからで。そのこわばりは、リーゼントの額の横に動物の干物のようなちょっと濃い茶色の少し硬めの皮膚がちょろっと出来てるからなんだ。

それを見るたびオレは、はあ〜と思うよ、いつも。

その硬くなった皮の部分を始めとして、顔が少しずつ変わってくるんだからね。なんというか、今風の小顔のオトコノコがこれをきっかけにして変っていく。最終的にはフィリピン人と大阪の場末を歩いている日焼けしたオジサンが混ざりあったような顔になるんだね。

1センチにもみたない小さなものですよ。だけど、俺はリーゼントの額に小さな動物の干物の皮を見つけると、すぐに思うわけよ、

ははあーん、こいつもケーケンしたんだって


うちの店に来るような子はアメリカにあこがれている。ミッキーカーティスさんの時代じゃないんだから東京だってそんなにわびしくはない、あこがれるこたぁーないのに先輩たちが日劇ロックンロールにあこがれてたのと同じようにアメリカに夢みてる。そんな野郎がアメリカに実際に行って見れば、先輩と同じように、そして俺と同じようにアメリカにうちひしがれるんですよ。興味深いことに。

うちひしがれるといっても、細かく見れば、俺たちの時代とは違ってるね。

俺たちのうちひしがれ方は、バラ色のガラス器が割れるような仕方だったもん。

だって冷蔵庫を開ければいつも大きな牛乳瓶があり、そこからゴクゴク冷たいミルクを飲んでいる金持ちだらけの国だったはずなのに、行ってみれば、それはひどいホテルの部屋の汚いキッチンガラス窓で。そして共同で使う冷蔵庫に飲み物や食べ物を入れておけばすべて同じ泊まり客に盗まれてしまうんだから。足下のタイルに散らばっていた牛乳瓶の破片を今でも俺は忘れないよ!


今の若い奴のはこれとは違う。白人女にうちひしがれるんだな。割れガラスの断片ではなくて、それは人の肌に変化してるんですね。時代の変化です。

たとえば、こう。レストランで金髪の女が自分の前を通り過ぎていく。まったく自分意識しないで。わざと知らんぷりしてんならいい、しかし、これは違う。まったく俺などいないという顔をして歩いていくんだよ。視界に自分がいないんだ。昔も今もそうだけど、白人の女にとって日本の男なんて埒外さ。

留学生? わかんねーなー、買い出しの商人には。商人は西部劇時代中国人のコックと変らないでしょ、今でも。

まあ、無視されても、そうされても別にいいぜと俺たち日本男児は思うんだな。遊びに来たわけじゃない、買い付けのために来たアメリカだ。別にPLAYBOYピンナップ女の子が好みじゃあない。カンケーネエなんてな。どんな野郎だって思うよ。

俺たちの時代と変わんねーよ、今の子だってさ、男の問題は普遍的なんだからさ、わかるでしょワタナベさんだって

今の小顔のオトコノコもそう、同じ、アメリカに行って白人の女に無視されればヘッ!なんて思うよ、ヘッ!なんて思うのだけど、壊されてんだよ、完全にハートが。

埒外を態度で示されるというのは、男にとってはやっぱりきついことなんだな!


ワカイモンが傷心の思いでホテルに帰る。階段を昇るブーツの足取りも重たい。そういや、デニムを何百本も埃ぽい倉庫でチェックし続けた一日だったんだってな。

そんな時だ、安ホテルで働いているヒスパニック女の子が何か水仕事をしながら、微笑みかけてくれんだな。

中南米の女の子の微笑みってのは独特なんですよ、暗いんだよ〜スペイン人ってほんとに徹底的に酷いことをしたんですね。ものすごく酷いことをされた後に放心して、ぼんやりつったっている女の瞳の暗さがあって、でも唇は自分に向って微笑みかけてんのさ。

やっぱり、そりゃあ、ハートが揺り動かされますよ。それで声かけちまう。

まあ、女の子の方にも笑いかけた理由があるのだけど、それはそれ、おつきあいが始まるというわけだ。しかし、こちとら買い付けの旅だから、一カ所にずっといるわけにゃいかない。次の日の朝のベッドで別れることになる。関係すべからく短いものだ。しかし、そうした女とのつきあいでも何かをやっぱり残すんだな。


ロードサイドの食堂でウエイトレスと交す自分のいい加減な英語を聞いて喜ぶその女の子笑顔、買ってあげた下着を身につけた時の戯けた身振り、持っている手鏡のとても細やかな銀細工、尾てい骨あたりに彫られたやっぱり日本とは違うタトゥー、ファラチオをする時に決まって垂らす唾の今まで味わったことのないような粘り気、ふと目を覚ますと暗がりの中、携帯電話の光が照らす彼女の黒い瞳……。

そんなケーケンがウチのオトコノコに何かをのこしちまうんですよ。

それがあれですよ、成田空港の到着ロビーかなんかで、痒い〜な〜なんて顔をこすってみるとできている動物の干物のような皮、リーゼントの額のところにね。

それは1センチも満たないものだよ、だけどそいつができると顔が確実に変りはじめるんです。なんていったらいいんだろうな……やっぱりそう、フィリピン人と大阪の場末を歩いている日焼けしたオジサンが混ざりあったような顔になっていくんです。

オレは関西が嫌いだから一度もいったことがないから、知らないけれど、心斎橋の近くにはアメリカ村っていうのがあんでしょ、あそこはそんな顔をした商売人がいっぱいいるところじゃないかな。不思議なことにそんな顔になりだすと、商売がいっぱしにできるようになるんですよ。だからね、そいつ店長候補です」

2010-05-11 食品工場とJ-POP

食品工場J-POP



から3年前のことだけど、僕は工場で働いた。手持ちの金がまったくなくなり、先の原稿料の支払いの予定もなく借金もできない状態だったので、京浜工場地帯の食品工場で働くことにしたのだ。ファミリーレストランなどに出荷する肉料理やスープなどを大量に造り、それを店で手早く調理しやすいように小分けにしてパッケージしていく作業が、オートメーションという言葉にぴったりの動きをする機械とともに、その工場では行われていた。


中国人、フィリピン人、アフリカ人、そして日本人の数十人の労働者が同じ白衣を着て白いマスクを付けて作業を行うのだった。白を基調としたまさに食品工場労働者の姿、この姿で同じような身振りで働くわけだが、それはひとつ集団ではない。中国人たちは他の国の人間と違って早朝から夜中までという信じられないくらい長い時間働いていたし、また中国人同士には何かしらの反目があり、たとえばトイレが汚れていれば「あれは福建省の人間がしたことだ!」という言葉が飛び交い、フィリピンの女の子たちはどこか陽気でバレンタインの日にはどんな男たちにもチョコレートを配り、もらったくせに「こいつらはフィリピンパブみたいだな」という日本人の男は嘲り、アフリカの背のすらりとした女の子は休憩室の暗がりで携帯電話をみつめていて、その黒い肌を照らす携帯の光はなんて美しいんだろうと僕は見詰めていた。そんな自分を背後から見ている視線を感じて振り向くと、仕事が出来ない新人の中年男の失敗を執拗に注意するやはり同じ日本人中年男、自由劇場の性格俳優、笹野高史そっくりの男が立っていた。機械を中心とするオートメーションの工場で、まるで機械のように働いているというのに人間たちはやはり機械などではなく実に愛嬌があり醜くエロティックで、そして時に悪意たっぷりの顔をする者たちだった。


このような者たちが機械ごとにいくつかのグループに別れて作業が行われる。たとえば大きな牛肉の固まりをスライスする機械があり、その薄い肉片はベルトコンベアに落ちて移動する。それを一枚一枚とってビニール袋に入れ、決まった枚数が入ったら横の台に置く、そこにはそのビニール袋を真空パックするためのビニールをプレスする係の者がいて、作業を手際良く行い、またその横には真空パックを箱詰めする補助的な仕事をする人間がいるという具合だ。その作業の要所、たとえば肉切りやパック作りを行う者と補助的な作業を行う者の関係中国人場合は夫と妻であったり、男とその恋人であったりするのだが、その前近代的関係性は過酷労働をより過酷にするようで、横にいるだけで疲れていくものだった。

工場では、このような集団労働が機械毎に行われ、ファミリーレストラン向けの肉料理やスープなどが大量に作られパック詰めされていくのだった。


そしてサウンドである

機械毎に機械に合わせた集団労働が同時に行われている工場内に、かなりの音量で音楽が流れているのだ。

流れていたのはJ-POP

若い音楽家たちが同年代人間に向けて作った、恋の素晴らしさを唄い、人を励まし、陽気に踊らせる音楽が続けざま流されていくのである

巨大な牛肉をスライスしていく機械の動きに「君の瞳の輝き」を歌う唄声が同調し、ベルトコンベアの肉片とともに「明日からまた歩き出していこうよ」の言葉が移動していき、いつ失敗するのかと執拗監視している笹野高史に似た男の頭上に子供じみた反抗のラップライム、常に何かに怒っている顔をしている中国人の夫と従順なその妻の作業に稚拙な打ち込みのリズムが鳴り響く。そして全体として、このJ-POPのサウンドは食品工場集団作業にぴったりなのだ。


J-POPは最低の音楽だ。僕はその時、心底感じ取ったのだった。

僕は音楽を愛しているから、様々な音楽聴く。だから今の若い音楽家たちが作ったポップスもよく聴くし好きな曲もある。

その素晴らしさについて、友人や恋人と話したい曲を数曲あげることもできる。

だがJ-POP全体は最低の音楽だ。

それはあの酷い工場労働にぴったりのサウンドだったことによって証明された。


僕はロックが学校の教室で話題になるようなことが稀な時代に、はっぴいえんどはちみつぱいなど、今のJ-POPの原点となるようなバンド出会い、それを愛してきた世代なので、「J-POPは最低の音楽だ」と認めることはとても哀しいことだった。

哀しくて哀しくて、僕を執拗監視する笹野高史をその場で殴りつけ、いつも片隅で静かに働いているアフリカの女の子の手を引いて、工場から脱出したいと思った。しかし、そんな時に流れてくるが、この音楽なのだ。

メイナード・ファーガソンの「ロッキーテーマ


これをどう解釈したらいいのだろうか。多分、工場でずっと流していた音楽は有線だと思うのだが、ずっとJ-POPを流していた放送が、ある時間になると決まって「ロッキーテーマ」になるのである

午前中であれば9時、10時、11時、12時。

工場で働く僕たちは、そのサウンドを聞くと、「ああ、やっと一時間たった、昼飯まであと二時間だな」などと思うのである。僕だけじゃない、中国人もフィリピンもアフリカも、あの笹野高史もそう思っていたはずだ。

なんという残酷音楽構成だろう。人生に失敗し貧しく惨めな男が、再起をかけ、もう一度希望をもち力強く生きていこうとする、そんな映画に流れる音楽を「ああ、やっと一時間たった、昼飯まであと二時間だな」と思わせるように聴かせる、その手口。

もし「悪魔DJ」というものが、この世に存在するとしたら、この音楽選曲そいつが行ったものだろう。しかし、そんなDJはいやしない。それが悪魔ではなく人間が実際に行ったのだという事実に僕は恐ろしくなる。

僕はその残酷さに押しつぶされ、あの男を殴り倒すことも、アフリカの娘との恋もあきらめてしまう。惨めに屈してしまう。そしてJ-POPへの憎しみだけが僕の身のうちに燃え上がるのだった。


そうだ、あの音楽の話もしておこう。

オートメーションの機械のリズムに妙にシンクロしているJ-POPの連なりの中で、何故か3時間に1回くらいかかる、特異な曲があった。「千の風になってである。僕が工場で働いていたその時期は、まだその曲のヒットが残り火のようにあった季節だったので流していたのだろう、「がんばれ、がんばれ」の歌詞やせわしないリズム音楽の連なりの中で「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という言葉をゆったりと唄いあげる音楽は、やはり異質なものとしてあった。

この歌は大ヒットしたにも関わらず批判する人が多い。大手広告代理店で働いた者は呪われてもしょうがないと僕は思っているので、批判が多いのもなんとなくわかるのだが、あの食品工場労働をしながら聴く千の風になって」は素晴らしかった。

J-POP全体の最終メッセージが「元気に働け」なのだと、単調で疲弊していく労働の中で肉感として納得し、それが疲労とともに入り込み、それに屈しようとするその時に天上から下りてくる「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という死者の歌声は実に甘美なのである

元気に働かされる今この時の国、この向こう側、彼方にある死者の国は、実に美しかった。午後遅い時間、疲れていればいるほどそれは美しかった……。


しかし、それは夢だ。教会の礼拝は日曜だけだ。音楽は終わる。

そしてまたJ-POPのサウンドがけたたましく鳴り響く。

巨大な牛肉をスライスしていく機械の動きに「君の瞳の輝き」の唄声が同調し、ベルトコンベアの肉片とともに「明日からまた歩き出していこうよ」の言葉が移動し、いつ失敗するのかと執拗監視している男の頭上に、子供じみたラップライム、常に何かを怒っている中国人の夫と従順なその妻の作業に打ち込みの稚拙リズムが鳴り響く、この騒々しいJ-POP生産現場

なしなし 2011/02/02 23:58 素晴らしいです。感動しました。気の利いた事も書けないくらい!

2010-04-14

たぬき書評、そしてTwitter、さらに正誤訂正

本日発売された「本の雑誌5月号で、出久根達郎さんが「たぬき書評」という原稿を発表しています。これは書評家・倉本四郎についての文章。味わい深い、そして出久根さんらしい謎のあるエッセイです。どうぞお楽しみ下さい。


この「謎」については、今月末に出る「彷書月刊」で発表する私の原稿でも少し触れます。「彷書月刊」の今度の特集は「松尾邦之助」だそうです。松尾邦之助は昭和5年から敗戦まで読売新聞のパリ特派員として活動していた人物。パリ仕込みの自由人とか。


先週からTwitterを始めました。

http://twitter.com/hirohut


ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集 上巻』の正誤訂正表を下巻に、投げ込みの形で訂正を入れましたが、上巻だけをお買い上げの方もあると思うので、このblogに載せます。


「上巻の正誤表

上巻で以下の誤りがありました。お詫びして訂正いたします。

目次

一九八〇の項

チャリング・クロス街84番地』ヘレーン・ハンク→ヘレーン・ハンフ

P192

タイトル著者名  ヘレーン・ハンク→ヘレーン・ハンフ

P400 

協力者氏名

山口雅代→山口雅枝

P405

1984

1月1日 『鎖』北方謙三 講談社  入ル

1月13日1月6・13日」


それと、下巻で誤りがありましたので、これも訂正を。

「まえがき xページ 7行目

呼んでいて→読んでいて

P288 3行目

『フローラ 花の肖像』→『フローラの肖像』」


そしてP305

初期「アンアン」で、澁澤龍彦ジャンヌ・ダルク絵本を訳していると書きましたが、正しくは「矢川澄子」です。

この間違いは矢川澄子さんに大変申訳ないと思っています」


渡辺洋さんに指摘された)下巻の誤植を付記します。

「p.xi 5行目

著者リスト→著書リスト

p.166 7行目 

親父に→親交に

p.264 2行目 

彼女自分のために→彼女自分のために

つづく3行目の 振舞い は島尾さんの原文では 振る舞い

でした」

渡辺洋渡辺洋 2010/05/11 18:51 下巻も面白かったです。amazonに簡単な感想書きました。誤植は後で忘れなかったらメールします。。。

hi-rohi-ro 2010/05/13 11:26 洋さん、amazonの件、ありがとうございます。そして誤植、反省しています。上に訂正を追加しました。

2010-02-01 アジアハウス論

ここで何度か触れた山形国際ドキュメンタリー映画祭出会ったスペース「アジアハウス」についての原稿を掲載します。

雑誌「CITY&LIFE」で書いた山形国際ドキュメンタリー映画祭についてのレポートと重なる部分がありますが、異なる視点で書いています。





●アジアハウス


 「アジアハウス」というスペースを紹介しよう。山形市本町にある小さな古い4階建てのビル改造したものだ。1階はカフェ、2〜4階は山形国際ドキュメンタリー映画祭外国人関係者用の宿泊施設、地下1階はレクチャーなどが行なわれるスタジオになっていた。映画祭期間中(2009年10月8〜15日)、宿泊施設をメインにしたスペースである

 カフェでは閉館された市内の映画館の座席が使われている。まちの記憶を上手に使ったインテリア1990年代以降現れた、古い建物をリノベーションしたカフェなどで多く見られる手法である。カフェ部分だけではない、シンプルな家具、押し付けがましくないアート感覚、どこか懐かしい空気感……、建物全体がここ10数年のカフェ文化で培われてきたスペース感覚で満たされていた。

 この場所で、アジアハウス設営に携わった人物に話を聞いたのだが、その人の口からドキュメンタリー映画作家小川紳介監督の話が出た時、とても新鮮な感じを覚えた。

小川さんたちは、この山形に来て、カメラをまわすまでに数年かけているという。その時間をかけているということ、その方法にはまちに開かれたアートを行おうとしている僕たちが学ぶべきものがある」という言葉だ。

 この山形国際ドキュメンタリー映画祭は、山形市の市政100年記念行事を考えていた行政関係者から声をかけられた小川監督がきっかけとなって1989年から開催されてきた。そのため関係者から話を聞けば、(92年に亡くなっている)小川監督の話は、立ち上げに関わる重要人物として当然何度も出てくることになるのだが、アジアハウスで聞いた先の言葉はそうしたものとは違っていた。ある世代にとっては非常に政治運動的な小川監督率いる小川プロ実践が、アートとまちの関係を考える視点から新たに解釈されていたのである

 ここで私は、かつて「三里塚シリーズ」など反体制文化の中の最も先鋭的な作品を製作してきた小川プロ実践と、今年映画祭に登場したカフェ空間的な宿泊施設を結び、アジアハウスがもっている意味考察してみたい。

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小川プロ生活現場と闘争現場を結ぶ想像力

 山形国際ドキュメンタリー映画祭は、89年より2年毎に開催、今年で第11回を迎えた。2005年まで山形市が、07年の前回からNPOとなった山形国際ドキュメンタリー映画際が主催している。

 第1回を準備している時期に小川監督によって集められた地元の人々と市役所の人間が初めての映画祭を運営しだした。

 山形映画祭で興味深いのは、まちの人々が映画を見に来るだけでなく、映画祭に関連する居酒屋や新聞編集部宿泊施設の運営にかなり積極的に参加しているところだ。そのひとつ映画祭宿泊施設として機能したアジアハウスについて語るために、まずは映画祭前史ともいうべき小川プロの活動を振り返ってみよう。

 1968年小川プロは三里塚闘争の現場に入り撮影を開始、以降「三里塚シリーズ」七部作を連続的に発表していく。その6作目『三里塚・辺田部落』(73年度作品)は、激しい闘争シーンを写し撮っていたそれまでの作品とはうってかわって、辺田部落という共同体で暮らす人々の姿、言葉、表情を前面に出し、それを通して空港闘争が描かれているというものであった。この上映活動の中で小川プロ山形という土地に出会うことになるのだが、ここで作品自体の意味を考えてみたい。

 60〜70年代文化闘争から生まれた思想課題の一つに、具体的な闘争現場自分生活現場をどう結びつけるのかというテーマがあったと思う。たとえばデモに行っている仲間と、職場で働いている自分を結びつける想像力や、遠く離れたベトナムと自分が関連する企業や学校がどう関連しているのかということが真摯に問われ、その答えとして様々な実践が試みられた。

 その一つとして、小川プロが行なった試みは、闘争現場の中に生活現場発見し深く潜行することだった。具体的には三里塚の農民と寝食を共にして撮影をすることであり、共同体運命に絶えず自分行為をひきつけていく農民たちの言葉を聞き入ること、表情をとらえることだった。その実践の積み重ねとして出来あがったのが、映像として過激な闘争シーンがほとんど出てこない『辺田部落』だったのである

自分生活と闘争現場を繋げていく考え方は、社会変革に向けての積極的な行動に繋がっていくが、同時に社会変革集団の規律に安易に繋がっていく危険性をもっている。こうした想像力自己幻想内にある限り正しいが、集団幻想になる時、集団内部でメンバーの戦闘性の評価に繋がっていき、その最も極端なケースは「総括」、「粛正」へと変貌していく。社会変革を目指す集団には常にそうした問題を抱えているし、小川プロもそのような傾向をもった集団であったことは忘れてはならない)

 『辺田部落』は高い評価を受けたが、小川プロ内部では大きな問題を抱えたようだ。共同体には深く入り込んだが、その要となる農作業が充分に撮れていないという問題だ。もちろん映像としてはかなり撮影されていたが、それは「農作業は汗であり苦労であり、という形でしか迫れてない」と「総括」されたのである。そこで彼らは「僕たちが村いちばんの田植えができるようにならないと、農作業は撮れない」と決意する(1)。生活現場へのより深い潜行である

 小川プロは73年5月より『辺田部落』の全国上映活動を始める。これは同時に、自ら農作業を行なう次の根拠地を探す旅でもあった。東北上映を担当していた小川氏はこの旅で、翌年、山形県上山市牧野部落への移住を誘うことになる農民詩人たちと出会う。その誘いを受け小川プロは準備期間を経て、76年牧野部落に本格的な移住を行ない映画づくりを始める。そこで製作された代表作が13年もの時間をかけた『1000年刻みの日時計 牧野物語』(86年)だ。240年前の一揆を村人たちがプロ役者たちと一緒に再現していくシーンを核に共同体の歴史や文化がゆったりと展開されていく作品である。そして、この土地で培った人間関係の中から映画祭開催の話が持ち上がるのである


山形ドキュメンタリー映画祭スペース史

 アジアハウス。古ビルリノベーションしてできあがった映画祭用の宿泊施設には実は前史がある。同じ名前の施設が97年の第五回より山形の住民の一人によって、自宅を期間中宿泊施設に転用して運営されていたのである。その名が示すように、当初はアジア諸国からきた映画関係者に向けてつくられた施設であった。

 市民自分の家や店をアジアの映画関係者に開放していくこと。それはこの映画祭ならではの来歴と関係している。1989年10月、第1回目の映画祭が開催されるのだが、発起人の一人である小川監督はアジアのドキュメンタリー映画活性化を目論んでいた。しか現実としては80年代のアジア諸国でドキュメンタリー作品はまだ多く撮られていなかったこと、冷戦時代末期の各国の政治情勢の影響などで、かなり難しい試みとなった。

 それでも招待された映画作家たちの交流は90年代以降隆盛するアジアのドキュメント映画の流れを作ることに繋がっていた。そしてもうひとつ山形に滞在したアジアの映画作家関係者たちの姿は、このまちの人々に強い印象を与えることになる。

 それはファミリーレストランなどで一杯のビールだけで長時間話し込んでいる姿、あるいは喫茶店で注文したコーヒー一杯の値段が、その人の国では一日分の食費と同じ金額だったという話……。こうした見聞し噂された話が山形の人々に共有され、アジアの関係者にも安心して飲みながら話すことができる居酒屋をつくろうというアイデアになっていく。そこでできたのが、93年の第3回からオープンした「香味庵クラブ」だ。

 漬け物屋のレストランとなっている店舗を期間中夜間借り受け、午後10から午前2時まで営業する店だ。客は入場料として500円を払うと一杯の酒とおつまみを渡される。後はどこかの席に紛れ込み、今日見た映画の話などをきっかけに話し始めればよい。その後、もっと飲食をしたければ、非常に安い値段で酒や山形名物の芋煮などが注文できるというシステムの店だ。

 映画祭期間中というお祭り気分と映画好きという仲間意識が合わさって、自由なコミュニケーションが展開できるのが、この店の魅力だ。この楽しさを求めて映画祭に来るリピーターも多く、今では世界映画関係者にKomianの名はかなり知れ渡っているようだ。香味庵を一段階目として映画祭をめぐるコミュニケーションスペースの進展はさらに続く。

 映画祭目的の一つであるアジアのドキュメンタリー映画活性化は、90年代中期から徐々に現実化してくる。ビデオ機材の普及などによって、昔に比べれば格段に安い資金で映画製作できるようになったからだ。できあがった作品は、他の作家を刺激し新たな映画が生まれる。また映画製作を目指す若者たちも多くなっていく。90年代中期以降、山形国際ドキュメンタリー映画祭にやってくる中国、台湾、韓国などの映画関係者学生たちが増えていったのだ。

 こうした状況の変化に応える形で香味庵の宿泊施設版が必要とされてきた。招待者はホテル宿泊できるが、それ以外の外国人宿泊が問題となっていたのである。97年、山形市の市民の一人が自宅の倉庫を開放してアジアハウスという宿泊施設をオープンする。30人くらいの人たちがザコ寝するようなところだったらしい。その人はたちまち宿泊施設での人々の交流に魅せられ、倉庫を改造しカラオケ機材を手に入れるなど、より積極的に運営していくことになる。このあたり、香味庵の楽しさを考えるととてもよくわかる。しか家族の方が亡くなったなどの理由で、2005年の第9回を最後にその活動は終了した。

 そして今度の第11回に新たに登場したのが、私が訪れたアジアハウスなのである


山形R不動産から始まる

 アジアハウスプロジェクト山形市にある東北芸術工科大学学生卒業生たちを中心にして行われた。

 出発点は、昨年から大学で教えるようになった馬場正尊准教授が提案した「山形R不動産」というプロジェクトだった。建築家であるとともに、東京R不動産というリノベーションができる物件を紹介する不動産業を仲間と営んできた馬場准教授は、着任早々学生たちに山形市内の空き物件を探すことを呼びかける。探し出した物件を使って、不動産業ではなく、まちなかで暮らすことを提案するプロジェクトとして設定されたのが山形R不動産だ。

 何故、「まちなかで暮らすプロジェクト」なのか? 馬場准教授は、大学ホームページで次のように書いている。

「今、日本じゅうの商店街は空洞化に苦しんでいる。同時に、さまざまな活性化案が考えられているが、どれもなかなかうまくいっていない。それは商業地を、商業再生再生しようとしているのに無理があるのではないか? 僕らの提案は、まちなかを『住む』エリアとして捉え直すこと」だと(2)。

 最初に手掛ける物件山形市本町にある元旅館ビルに決まった。この建物は三沢旅館という名前だったことから「ミサワクラス」と呼ばれる。プロジェクト始動する直前、馬場准教授は、このスペースにただ学生たちが住むだけでは、まちを活性化する企画としては弱いのではないかと考えだす。そこで同じ大学の美術館大学センター主任学芸員の宮本武典さんに相談することにした。

 宮本さんは東北芸工大の美術館、美術大学センターを拠点に、地域に開いた美術活動を続けてきた人物だ。最近では、山形湯治場、肘折温泉でのアートイベント「肘折版現代湯治2009」の運営の中心を担っている。絵画や舞踏などの作品が発表されたイベントだが、核になっているのは、開催地にアーティストが出かけていき、そこで作品を作り出していくアーティスト・イン・レジデンスという方法だ。

 宮本さんがミサワクラスからアジアハウスへの流れを説明してくれた。

馬場さんの相談は、ミサワクラスを一種のアーティスト・イン・レジデンスができるスペースにするために、作品製作を行っている若者を紹介してくれということでした。暮らしながら同時に表現ができる場所ということをより鮮明にしたいということだったのです。そこで僕が漆工芸や映像表現を行なっている卒業生などを紹介、馬場研究室学生たちと併せて12人の若者たちが、住み込みながら改造していく作業がこの春から始まったのです。その作業の中から映画祭のある10月にこの企画のプレゼンテーションをしようという意見が出てきました。映画祭世界から人を呼べるクオリティと規模をもっている。デモンストレーションするにはよい機会だと思ったわけです。その時、ちょうどミサワハウスの隣のビルが借りられることがわかったのでした」

 使われなくなったビルを改造し、そこで住むことと表現することを同時に行うことで、山形のまちを活性化する企画。それを多くの人に知らせること、また支援者をみつけることを目的に、隣のビルでの映画祭期間中のプレゼンテーションが考えだされた。そして映画祭事務局との折衝が行われていく中で、外国から来る人々を宿泊させていく施設を作るという話にまとまっていく。これがミサワクラスの隣にあるアジアハウスの成り立ちだ。

 9月から改築が行われ全部で11人が宿泊できる施設とカフェ、スタジオを備えたアジアハウスができあがった(宿泊は一泊1000円の予定だったが旅館法などの関係で最終的に無料となった)。スタジオでは開催期間中、馬場准教授民俗学者赤坂憲雄さん、アートディレクター北川フラムさんなども参加する連続レクチャーも行われた。


●カフェというスペースの意味

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 宿泊スペースを実際に見てきた。そこはドミトリー(相部屋)になっており、貨物の運搬などで使う木製パレットで組まれたベッドが置かれていた。「移動」という言葉喚起させるパレットが旅人の寝床になっていること、映画スクリーンのように人の顔などがコピーされた窓のカーテン2003年映画祭で上映された中国のドキュメント作品『鉄西区』<王兵監督から引用されていた画像だった)、まちの記憶に結びつく、カフェに置かれた閉館された映画館の座席……、こうした表現の仕方は今回のプロジェクトの要となるものだろう。

「僕はこの大学に5年前に来て、地域に開いたアートの試みを続けてきました。その経験を踏まえていうなら、山形の一般の人々はアートへのニーズはそれほどもっていません。これは日本の地方都市の現実だと思うのですが、ではどうするか。ひとつ方法として、まちなかに出ていって、暮らし必要機能性もったアートを作る方法があると思います。たとえば家具だけれども作家表現としてつくられたモノ。今回のベッドや人顔がコピーされたカーテンなどはその一例だと思います」(宮本さん)

 この「機能性と表現の一体化」は、冒頭に述べたアジアハウス全体に感じられる「カフェ文化に培われたスペース感覚」と深く結びついていると思う。90年代隆盛してきた自営系のカフェの特徴は、飲食をサービスするという機能自己表現が一体化されているということだった。店の経営者の多くは70年代以降、飲食店やその他の施設できめ細かく行われるようになったサービス子供の頃からあたりまえのように享受してきた人たちだった。そして大人になり自分に身についた非常にきめ細かいサービス行為サービス産業の末端労働としてではなく、自己表現として行ったのが、自営系カフェの労働だった。

 こうしたカフェのあり方は、機能性と表現の一体化という彼らのテーマスムーズに結びつくだろう。実際宮本さんは、自分らしいカフェを目指す人たちにとっての手本ともいうべき店、那須のSHOZO CAFEのオーナーとミサワクラス若者たちを引き合わせてもいる。

 そしてまちに開かれたアートについての話がさらに展開する中で出てきたのが、先述した小川監督の話だったのである


アーティスト・イン・レジデンスの視点から小川プロを視る

「まちの暮らしに入っていく機能性と表現の一体化というミサワクラスやアジアハウスの試みは、結果が出るのにとても時間がかかるものです。今まで山形で行ってきた経験から考えたことは、アートと地域の関係を深めるためには時間必要だということでした。東京と違って山形ゆっくりとした時間が流れています。そのスロー時間に沿っていかなければならない。しかしそれをマイナス要因とせず僕らはプラスとして考えたい。経済状況の影響もあり、ひとつの企画に長いスパンでつき合うのが難しくなってきている時代からこそ、そのことは大切です。そこで思い出すのが小川さんたちでした。彼らは、この山形に来て、カメラをまわすまでに数年かけているという。その時間をかけているということ、その方法の中に僕たちが学ぶべきものがあると思うのです」

 かつて小川プロは、闘争現場生活現場を結びつける試みの一つとして、渦中の共同体に入り込む方法をとった。その共同体の要となる農作業を理解するために、農村に移住共同体想像力と結びつく形で作品をつくりあげた。この実践が地域に開かれたアート表現共同体時間に沿った表現行為として新たに捉え直されているのである。この解釈小川プロをどうしても先述した60〜70年代文化の文脈を通して見てしま自分には新鮮だったのである

 確かに小川プロが農村に住み込み農作業を自ら行い映画作品を作り上げたように、ミサワクラスの人々はまちに住み、映画祭期間中だけではあるが宿泊施設を営み、そこを使って彼らが考えるアート表現を行った。

 多分アジアハウスの人々は小川プロが強い決意でそうしたのとは違って、いくつかの流れが重なって考え出したアイデア割合気軽に実行したのだと思う。

 ということもあり、スペースの意味を強く主張してはいない。そこで私は、ドキュメンタリー映画祭宿泊施設として機能したアジアハウス意味を、もう少し明確化してみたいと思う。


アートフェスティバル旅人が示すもの

 2000年代になってから、各地域で行われているアートフェスティバルが話題になるようになり、観客も多く集まるようになってきた。

 山形ドキュメンタリー映画祭に行ってみても、非常に若い参加者が多いということが印象的だった。関係者に聞くと「95年くらいかボランティアになるために来る人が増え、また最近になって若い人たちが非常に増えていることに驚いている」といっていた。増加の理由を聞くと「91年に開校された東北芸工大の学生の参加とそのネットワークの影響、近年各地の大学映像系の学科が増え、その教師に過去映画祭関係した人々がなっており、教え子を送り出しているのではないか」という答えが返ってきた。

 実際、若者たちとも話したりしたが、気になる映画を見にきたというマニア的な人はあまり多くなく、山形という地域に根づいた映画祭を体験しにきたという人たちが多かったようだった。

 今、各地域で行われているアートフェスティバルの観客が増えているとしたら、ある作品をぜひ見たいがためにそこに行くというよりは、地域文化の中に置かれたアート作品を地域の雰囲気とともに楽しみたいという人たちが多くなっているからだろう。また実際の増加数がそれほどの数ではなくとも、メディアアートフェスティバル意識的に取り上げられるのは、アートを含む様々なものを地域文化の文脈の中にいったん入れ込んで楽しむという流れが今、目立ってきているからだろう。

 これは資本主義経済の進展がある限界にまで達した社会の成員が、次なる時代生き方として「コミュニティを大切にする生き方」を強く意識したことと深くつながっている現象だと思う。

 これから私たちはいやおうなくグローバルな状況の中で生きるが故にローカル意識した暮らし志向していくだろう。といっても前近代にあった地域に縛りつけられたローカル暮らしではなく、常にグローバルなネットワークが同時に存在する、あるいは移動の可能性を常にもっているローカル暮らしだ。

 そのような暮らしを中から、さまざまな物事をコミュニティの文脈で見ていく考えが一般的になり、そこからアートコミュニティ意識して楽しむために、各地で行われるアートフェスティバルへと出かけていく人たち、旅するアート鑑賞者たちも多く出てくるに違いない。

 私が山形のアジアハウスで見たものは、そのような旅人が使う可能性をもった宿泊施設だった。そのように見えたのは、宮本さんと地域とアート関係性について話したからだろう。またドキュメンタリー映画祭のための宿泊施設だったということも大きい。ドキュメンタリストは基本的に旅する人たちだ。それも、人や物事をコミュニティの文脈で捉えながら旅をする。その中の小川プロは長い年月をかけてコミュニティに溶け込み、農作業をコミュニティの文脈から捉えていった。

 またカフェ的空間性も、その見方に影響を与えていた。大きな資本を背景にしていない自営系カフェを私が評価しているのは、経済がもう進展しない世界での生き方をバブル崩壊以降、もっとも早くこの日本社会に自然な形で見せてくれたことだった。アジアハウスがカフェ的なスペース感覚をもっているアートフェスティバル用の宿泊施設であったことは、経済発展以降の定常化社会を旅するアート鑑賞者を想像できて、とても共感できたのである


(1)『三里塚・辺田部落』についての1973年小川監督の発言(『映画を穫る』(小川紳介著 筑摩書房より)。

(2)「山形R不動産と、小さな旅館の復活」

 http://www.tuad.ac.jp/adm/architecture/topics/011/

2009-04-05

1991年キヨスク

週刊現代を買った客に300円からの釣り銭50円を渡すと、右のほうでスポニチを抜き取った中年の男が無言で100円玉を差し出そうとしている。それを受け取った瞬間「マイルド!」という声が聞こえ、500円が週刊文春和田誠のイラストの上に置かれるのを目で確認。マイルドセブン釣り銭の280円を左手で渡し、右手では今クールミントガムを抜いた毛深い手が渡す100円をもらうと同時に左手はさっき売れた週刊現代の補充の一冊をもう置いている!


1991年の朝のキヨスク販売員仕事の様子を描写すると、このようになる。


販売員を客が接する時間は約6秒(客が商品を選ぶ時間3秒+お金のやりとり3秒)、しかも同時に5人の客を相手にするのは普通のことだ。

こうした状況に対応しなければならないキヨスク販売員は、独特の技をもった技術者だった。


まずは計算技である。キヨスクでいちばん売れる商品の組み合わせはなんといってもタバコ新聞の組み合わせだ。いちばん売れているタバコマイルドセブン。だから220円+90円=310円の計算定型である。「マイルド」といいながら新聞を抜き取っている人を認識すれば、すぐに310という数字が浮かんでくるし、グリーンやレッドのけばけばしい色彩であればスポーツ紙になるので320という数字が浮かび上がる。


定形外計算はどうなるか? たとえば280円と230円の組み合わせ(週刊パーゴルフとビールのカップリングがそれになる)。こういう計算は百の単位から計算する。十の単位から計算すると、百の単位の和を出すと同時に繰り上げたりする計算をしなければいけないので間違いやすいのだ。だから2+2で4として、8+3で11、次に4を5にして、すぐに週刊パーゴルフとビールの組み合わせが「510円!」と答えられるのだ。たわいもないコツといえばそれまでだが、一度に5人の客を相手にするという途方もない状況に対応する基本的計算術がこれなのだ。


次に釣り銭技。たとえばマイルドセブンを客が買ったとする。多くの客は300円を出す。とすると80円のお釣りになるわけだが、それを釣り銭箱から10円玉をいちいち8枚出して客に渡していては時間がかかってしまう。早い対応をするために販売員たちは、あらかじめつくっておいた10円玉4枚、100円玉を4枚にしたものをピラミッド状にしておく。これを「釣り銭づくり」の作業という。

この4という数がミソで、販売員に聞いてみてわかったのだが(とくに100円玉)4枚はお釣りに使うには自由に対応できる枚数なのである。


以上書いたのは、先にも触れたが1991年の駅のキヨスクを私が描写した文章だ(『キヨスク 駅の世相店』<1991年 INAX>所収のテクストを加筆、後略したもの)。

ご存知のように、今はこのような光景は存在しない。書いた技術もすでにない。バーコードの読み取り、レジ導入、消費税、そして会社の方針変更などの理由によって消滅した。

新聞のたけのこ挿しなど残存しているものもあるが、ここには書いていない様々なキヨスク販売技術をもった女性たちはもういないようだ。(あの希望退職者が予想より多かったという話は有名だが)2005年あたりが消滅の境目かなとも思っている。


キヨスクのあの技術、今は使われないとしてもあの技術をもっていた女性たちは、本州ではほとんど現場には残っていないというのが私の考えだか、どうだろう?

北海道、四国、九州は、技術をもっている女性たちはどうなっているのか?  

このあたりのこと、知っている人がいれば教えていただきたい。

roseirosei 2009/04/05 17:31 ちょうどこの頃、黄金時代の「こち亀」に、キヨスクを題材にした話があります。
あの小さな店構えから、客が望めばネクタイでも爪切りでも取り出してしまう。
アナログの最先端をゆく魔法使いのようなおばちゃんたちの姿は、
僕の記憶にも色濃く残っています。

hi-rohi-ro 2009/04/06 20:01 昨年は、ある要件があって「こち亀」を読んでおりました。
その話、探してみようかな〜(あの量だから大変そうだけど)。
キヨスク(キオスク)ものには今、興味津々ですから。
さてさて、roseiさん、久しぶりです。会いたいですね〜。
あの新宿の中華料理店の近くにスペインと日本の居酒屋がまざったような店
みつけました! それから茅場町に焼き鳥を自分で焼きながら飲む、とても気持のよいスペースの店も発見しました(川沿い)!

風の旅人風の旅人 2009/04/15 08:56 まだ関西には健在ですよ〜

hi-rohi-ro 2009/04/15 11:58 ありがとうございます。
今月末、座談会で大阪に行くので、いくつか見てこようと思っています。
関西といっても、ローカルなところの方がいいのかな。