2005-04-11
■論理と感情は両立します
恋愛や結婚に対するスタンスなどに関して話をすると、「ヒデさんって感情とか無いの?」と言われることがある。
そりゃだれだって感情はあるだろう。
物事を論理的に考えるということと感情を無視するということを同義に考えてしまう人がわりと多い気がする。
発言小町にもこのようなトピックが立っていた。
このトビ主さんが考えている"悩む"という行為はどうやら、対応策を模索することなく悶々とするという意味のようだ。
このように考えるのが感情なのであって、論理というのはそれと相反するものであるという考えなのである。
論理で割り切れないのが感情だということだ。
そのように決めてしまったら、もう物事を論理的に解決することは出来ない。
僕は問題を論理で解決するのが好きだが、決して感情が必要無いと考えているわけではない。
そもそも「論理で解決するのが好き」というのすら感情だ。
感情が発生するのは、生き物が生きていく上で都合のよい状況を心地よいと感じるようにプログラムされているためなのだから、感情を満足させること自体が生きていることの目的であると言ってもいい。
問題は、"感情は論理では解決できない"と考えてしまうことなのだ。
例えば何か欲しいが手に入りにくい物があるとする。
「手に入らないのは分かるけど、私は感情の人だからどうしても欲しい!この気持ちは論理ではどうにもならない」と考えて悶々としてしまう人はもうこの問題を解決することは出来ない。
「これが欲しいが、どうすれば手に入るのか。」と考える人の方がそのものを手に入れることができる可能性は高まる。
つまり、論理的に考える人こそ自分の感情をより満足させようとしている人なのだ。
また多くの場合感情は定量化でき、例えば金額などに換算できる。
先ほどの例のように何かが欲しいときに、「この気持ちはお金に換算できない」などということは無いのだ。
例えば「犬が飼いたい。お金の問題じゃない」と言っている人でも、「犬を飼うのに一億出せるか」と聞けばほとんどの場合はNOのはずだ。
じゃあ1000万は、100万はと考えていけば、犬を飼うことに対して自分が払ってもいい対価というのは明らかになってくる。
具体的なイメージを持つために、それだけの金額を稼ぐのに必要な労力や同じ金額で可能になるほかの楽しみなどをリストアップしてみるとなお良い。
それらを全て考慮して犬を飼うかどうか決めればいいのだ。
その結果犬を飼わないことに決定しても「やっぱりあきらめきれない」と"悩み"続けるのは単にエネルギーの浪費であって愚か者なのである。
先日ケーブルテレビを解約したところ、全ての民放の写りが劇的に悪くなった。
僕は普段テレビを見ているときはノイズがあってもさほど気にならないしそもそもテレビをあまり見ないのだが、山本梓の出ているテレビ番組だけは全て録画してエンコードして保存しておりこの時はノイズが非常に気になる。
ケーブルテレビを再契約しようかと考えていたが、これによって一ヶ月3800円の費用がかかる。
山本梓の出演する番組は月に10本弱であるので、1本に500円払う計算になる。
500円はテレビ番組1本に払っていい金額だろうかと論理的に考察した結果、録画はあきらめて山本梓のDVDや写真集を買うことにした。
#追記[2005.04.15] この記事にはたくさんのサイトからリンクしていただいて、昨日などは(比喩でなく)普段の100倍ほどのアクセスがありました。
リンクしていただいたサイトは"リンク元"からたどってほぼ全部見させていただきましたが、僕が言い足りなかったところや考えてみなかった切り口からの言及などがたくさんあって参考になりました。
色々な人の意見が聞けるのはやはり楽しいものですね。
- http://d.hatena.ne.jp/tetotan/20050413
- http://d.hatena.ne.jp/caprin/20050413
- http://d.hatena.ne.jp/foursue/20050413
- 感情が神聖化されてることについて。
- http://d.hatena.ne.jp/kanoke/20050414
- http://d.hatena.ne.jp/Su-37/20050413
- http://d.hatena.ne.jp/inelsur/10000413
- http://d.hatena.ne.jp/snow446/20050414
- http://d.hatena.ne.jp/tsumayouji/20050414
- http://d.hatena.ne.jp/B-FACTORY/20050415
- 思慮の深さの違いです。
- http://d.hatena.ne.jp/pmoky/20050415
- http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20050415
- http://d.hatena.ne.jp/inelsur/20050415
- http://d.hatena.ne.jp/sia/20050415
- 論理と感情は対立する概念か
- http://d.hatena.ne.jp/msks/20050415
- メモ53「情緒と論理の使い方」
- http://d.hatena.ne.jp/okgwa/20050424
- http://d.hatena.ne.jp/drunker/20050508
- http://d.hatena.ne.jp/nuc/20050514
- 論理的な感情論
- http://d.hatena.ne.jp/mmbs/20050415
出てきて現実に引き戻されました。
ある程度の欲望ならともかく人生の一大事になってくると
金額の定量化が非常に難しくなるのが問題ですね。
修学、就職、結婚、あたりが絡んでくると危険。
そして私も悶々と悩んだりしてます_| ̄|○
所詮我々の理解には限界があるわけですから全てを見通して判断をすることは無理なわけですが、少なくとも自分が納得できるだけの根拠を揃えられるように最大限の努力をするのが大切ですね。
具体的な対応策を考えることなくただただ「困った困った」にはならないように気をつけています。
その上で判断が最終的に誤っていても建設的な反省を行い、”たられば”で”悩む”ことが無いようにしてたいと思っています。
>「手に入らないのは分かるけど、私は感情の人だからどうしても欲しい!この気持ちは論理ではどうにもならない」と考えて悶々としてしまう人
このくだりを見て、私が真っ先に連想したのは「デモで日の丸を焼いたり、すぐに感情的な行動に走ったりする韓国人たち」の姿です。私は2002年W杯サッカーで韓国が内外に醜態をさらした時以来、どうしてあの国の人は論理的な行動を取れる人が少ないのだろう?と感じ、あの国の人々の心理を抽象化した概念・『恨(ハン)』にたどりつきました。が、これもよく調べてみると、結局は「社会的マナーの学習や論理思考訓練を受けていない、手前勝手な駄々っ子・ストーカーの主張」でしかないことに気づき、大いに落胆したものです。
聞けば、あの国の文字であるハングルは「漢字の読み」用に作られたものでありながら、現在の韓国では漢字教育がほぼ全廃されているため、さながら日本で言えば「新聞・雑誌が『全部ひらがなかローマ字書き』で書かれているような状態」だそうです。そのためでしょうか、あの国は読書熱というものがあまり無く、それゆえかまともな書店・古本屋がほとんど無い(仮に古本などがあっても、すでに漢字を読める人が激減しているので、国内では資料的価値が失なわれている)そうで、これでは「論理的に物事を考える人」があの国に少ないのは当然の事だろうなと納得した次第。
僕の知っている範囲の韓国や中国の人はだいたい話の通じる人たちですが、こちらもやはり日本に来ている人たちということで偏ったサンプルになってしまっていますしね。
日本語とはなにかを日本語で説明するのがトートロジーではないように、論理のすばらしさを論理で説明することはトートロジーではないと思います。
最もこれが公理系に対する自己言及であるということを考えると、それ自体はそもそも論証不可能であるかもしれないということがゲーデルによって証明されています。
という数学ジョークはさておき、僕が主に言いたかったのは論理のすばらしさではなく、論理的に考えるということは感情を放棄するということではないのだということでした。
ろくに推敲もしてないので読み返してみてもかなり舌ったらずな文章ですが、そこはご勘弁を。
2次元よりも3次元!なアナタに
芸能関係の最新情報をGET!