2009-01-20
■「内向け」では問題
一所懸命"独自"なことを言おう言おうとして、返って当り前のことを言っているのに本人は悦に入っている、というのはあまりかっこのよいものではない。そうならないように自戒。
内田樹という方のブログに「足元を見よ」というエントリがあった。
宮崎はハンガリーの記者の「日本の観客と世界の観客の違いを意識しているか」という質問にこう答えている。
「実は何もわからないんです。僕は自分の目の前にいる子供達に向かって映画をつくります。子供達が見えなくなるときもあります。それで中年に向かって映画をつくってしまったりもします。でも、自分達のアニメーションが成り立ったのは日本の人口が一億を超えたからなんです。つまり日本の国内でペイラインに達することができる可能性を持つようになったからですから、国際化というのはボーナスみたいなもので、私達にとっていつも考えなければいけないのは日本の社会であり、日本にいる子供達であり、目の前にいる子供達です。それをもっと徹底することによってある種の普遍性にたどり着けたらすばらしい。それは世界に通用することになるんだ、って。」(『熱風』、2009年1月号、スタジオ・ジブリ、p・61)
私はこれこそ彼の慧眼を示す言葉だと思う。
日本のクリエイター(知識人も含めて)の中で、「自分の仕事が成り立ったのは日本の人口が一億を超えたからなんです。日本の国内でペイラインに達することができる可能性を持つようになったからです」ときっぱり言い切れる人が何人いるだろう。
特別「慧眼」というほどのことではないでしょう。日本語で仕事をしている以上それは仕方のないことではなかろうか。「日本のクリエイター(知識人も含めて)」というが、三木鶏郎だろうが小林秀雄だろうが本居宣長だろうが「日本の人口」相手に「ペイライン」を達してきているわけで。単にアニメ映画というメディアに対する「ペイライン」という特殊なものについて言っているに過ぎない。
元々「「内向け」で何か問題でも?」ではフィンランドのノキアを引き合いに出して「わが日本にはせっかく世界でも希なる「内向きでも飯が食えるだけの国内市場」があるのである。そこでちまちまと「小商い」をしていても飯が食えるなら、それでいいじゃないか。」と言っているのが批判を受けて「足元を見よ」と上に挙げたように反論をしているようなのだが、そこで言っている「私たちの国では「国内的なニーズに合った仕事」をしているだけでとりあえず飯が食えるという事実の「重み」を忘れてはならないと思う」なんていうことはあまりに当り前過ぎて、力んだところでたいていの人にはあっさりと首肯されてしまうことなのではないか。
ジブリが「ペイライン」に達したのは、それこそ世界に出ていってくれたトヨタやホンダやソニーのおかげであろう。本田宗一郎はその著書の中で「このままでは世界の自由化の波にのまれてしまうことは必至である。世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険をおかして新鋭機械を輸入して勝負するか、私は後者を選んだ」と述べている。はっきりと「内向きではいけない」と言っているわけだ。
「日本語」という足枷が大きくある文筆業とほとんどない製造業(それゆえに「世界」で成功できた)とを比較すること自体、論理的に適切ではない。元々ノキアを引き合いに出して、批判されるとジブリを持ち出すのは姑息なすりかえに思われてしまうのでは。
私たちが普遍性にゆきつく隘路があるとしたら、それは足元からしか始まらない。
と本人は悦に入って終わっているのだが、これと「内向き」は何にも関係がない。先の本田宗一郎で言えば手元のエンジンをどうデザインするか、改善するかということで、「世界を見る」ことと背反関係にはない。
もともと周りばかりを見ている人に対して「足元を見ろ」はあるのであって、足元ばっかり見ている人にさらに「足元を見ろ」とは言わないだろう。