三国機関

ナチス独逸にはゲシュタポがあった。ソ連にはゲー・ペー・ウーがある。何れも秘密の国家警察機関である。この秘密警察は一国一党の独裁政治形態を有する国家にとっては必要とする。
第二次近衛内閣から東條内閣に到る間は、軍部の力が絶頂に在った頃である。日本の一切の政治は陸軍の指導下に一国一党の姿に於て運営せられて居た。故にわが陸軍も御多分に洩れず、極秘裡に、秘密警察組織をもって居た。その名は三国機関である。
この秘密機関の創設は、板垣陸軍大臣時代の末期昭和十四年の四月である。創設当初はゲシュタポ的の性質を帯びたものではなかつた。その目的はスパイの防止を主とした単純な防諜機関であり、その内容は貧弱なものであつた。所在地は麴町の萬平ホテルで、その秘密事務所は、このホテルの一室を占有するに過ぎない有様であつて、人員も僅少であつた。従ってその活動範囲もスパイ行為の追及のみに限られ、追及の対象は主として外国人であつた。そしてその管轄は憲兵司令官に属して居た。
昭和十五年七月、東條氏が陸軍大臣になると、憲兵政治の好きな氏は早速この機関に眼をつけた。そして直ちにこの機関を大臣直轄とし、その内容を拡充して政治部門と防諜部門の二つに分かち、之をゲシュタポ式の組織とした。その指揮者には三国直福中将を選び、優秀な憲兵将校と政治情報の蒐集に堪能な民間人を起用して機関員とした。この機関を三国機関と呼ぶに到つたのは此時からである。
この機関の存在を知るものは大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。本部の所在地は最初牛込若松町の砲工学校内であり、事務所は同校の気象研究室を充てていたが、太平洋戦争の開始と共に市ヶ谷の陸軍省内に移転した。この機関の特徴は機密費が極めて豊富であつたことと、捜査の実行のためあらゆる最新の科学的資材を完備して居たことである。
科学的捜査資材とはなんであらうか。その一つは録音機である。この録音機は極度に小型な精巧なものであつて、之を部屋の壁の中に装置すれば、その部屋の中で取り交はされる総ての音声が記録せられる。又バンド止め兼用のスパイカメラもある。このカメラは路上で行き違つた人の面影を突差に而も確実に撮影することが出来る。その外に精妙な電話窺取器材,暗号解読の電気装置など近代科学の粋を集めたあらゆる捜査器材を備へて居た。中野正剛氏の東條内閣打倒の陰謀に関し、伸つ引きならぬ証拠を摑んだのは、電話の窃取と交詢社内に装置せられてあつた録音機の賜物である。
東條氏によつて完成せられた日本のゲシュタポである三国機関も、その防諜部門は民間に対してあまりに大なる害毒は流さなかつた。何んとなれば太平洋戦争開始後は内地に於てはスパイ的存在が殆んどなかつたためである。然し政治部門の活動は、アンチ東條の政客や団体を戦慄せしめた。
政治部門に集まつた情報は大小となく殆んど毎日三国氏から東條氏に直接通告せられた。東條氏はこの通告に基いて、必要と見れば直ちに憲兵隊に通じ、逮捕或は取り調べの実行を命じた。
東條氏の性格の最大の欠点は自己を信ずることが極めて強く、偏狭であつて猜疑心の深い所にある。従つて氏は阿諛と佞弁(*ねいべん)を好み、極度に直諫を忌み嫌う。三国機関の政治部門に属する機関員は最もよく東條氏の性格を知つて居た。彼等は東條氏のこの弱点に乗じてその意を迎へ自己の立身出世の具に供した。故に彼等の蒐める情報は概ね東條氏をして満足の意を表せしむるものが多かつた。
昭和二十年(十九年の誤り)七月、人心既に東條氏を去り、客観的情勢は著しく東條内閣に不利となり、その存続は全く不可能となれる状態に於て、東條氏が尚且執拗に政権に囓ぢりつかんとしたのは主としてこの三国機関が東條氏に阿(*おもね)つて、政治情勢の真相を伝えなかつたためである。
太平洋戦争の勃発以後、東條氏が最も力を注いだのはアンチ東條の運動を弾圧することであつた。三国機関の政治部門はこの目的のために殆んど全力を注いだ。
私(*田中隆吉)は東條氏の性格より判断して、三国機関の存在が東條氏の国内情勢に対する判断を誤らしめ国家の運命に暗影を投ずることを恐れ、戦争勃発の直後、三国機関の廃止を進言した。そのとき私*は(*三国機関の)政治部門が流す害毒を詳細に述べて廃止の必要を力説し、若し強いて残置するとすれば防諜部門のみに止(*とど)むべきであると主張したが、東條氏は反対に、戦争の勃発は盛々(*ますます)その重要性を増加したと主張して私*の進言を一蹴した。
三国機関の活躍は巧妙且迅速であつた。昭和十八年一月、東條氏が肺炎を病んで高熱に苦しみ議会の再会(*ママ)を延期したときの話である。その頃私は伊豆の長岡温泉に滞在して居た。ある日の午後大和館の一室で宇垣一成氏と東條氏が退陣した場合の対策に就て密議して居た。会談半ばに東京の憲兵司令部から宇垣氏に向つて、「何を話して居るのか。貴方は何時田中(*隆吉)の所から家に帰るのか」と電話して来た。この一事は私の周囲に三国機関の手先が動いて居り、その行動が極めて迅速であつたことを立証する。
又昭和十九年の春、近衛氏は私に
「私の行動は詳細に東條が知って居る。電話の内容や、訪問客の人等は兎も角会談の内容まで知って居るのには驚く」
と語った。私は(**近衛)氏に対し三国機関なるものの存在とその内容を打ち明けて氏の行動の慎重なるべきことを忠告した。その年の秋、内大臣官邸で木戸氏に面会したときに、木戸氏も私に
「東條内閣時代には私の行動は事細かに東條が知つて居た。電話は勿論、宮中で人に会つたときの話の内容すら知つて居た。今になつてもどうしてあんなに詳しく知つて居たかその理由が判らぬ」
と言った。氏は私が近衛氏の場合と同様に、三国機関の内容を詳細に説明したため始めて疑問を解いた。
中野正剛氏が昭和十八年の九月、警視庁で取り調べを受けたときには、証拠不十分で無罪放免となつた。憲兵は東條氏の命令で再び中野氏を逮捕した。取り調べは厳重を極めたが中野氏は終始頑強に事実を否認し続けた。然し最後に憲兵が、交詢社(*銀座にある実業家の社交クラブ)の一室で中野氏と東方会の幹部とが会談をした内容を録音に依つて中野氏に聞かせたので、流石の中野氏も終に前言を翻さざるを得なくなつた。中野氏の自裁の原因は恐らくこの録音にあるのではなからうか。
(昭和十六年)十二月七日正午に日本に到着したルーズベルト大統領の親電が、同日夜に到つて始めてわが外務省に手交せられ、天皇の手許に到達するのが著しく遅れたのは、この三国機関が裏面に於て活躍したためである。その方法は極めて簡単である。電信線をある一定の時間、遮断すればよい。この種の操作は三国機関に取つては朝飯前の仕事である。翌八日(昭和16年12月8日)、アメリ国務省に手交すべき日本の最後通牒が、予定より遅れて、真珠湾攻撃と殆んど同時にハル長官に交はせさられたのも亦この(*三国)機関の活動の結果である。それは、六ヶ絛から出来て居たこの電文の最後の一ヶ絛を、数時間遅らしたためである。この方法も亦極めて簡単である。前と同様にある時間を限つて電話線に故障を起させればそれで十分である。
昭和十九年七月小磯内閣が成立してから杉山陸相の下に柴山兼四郎中将が次官に就任した。氏は就任と殆んど同時にこの機関を解散した。明敏なる氏はこの機関の害毒がそのもたらす効果に比してあまりにも甚大であることを知つたからである。
私は若し三国機関なるものが存在しなかつたならば太平洋戦争は起つて居なかつたと思う。何となれば東條氏の国内情勢判断の資料は議会の言論や、大政翼賛会が蒐めた報告には全然之を無視して、主として三国機関のもたらす政治情報を基礎として居たからである。三国機関の政治情報が常に東條氏の意を迎ふるに汲々として居たことは既に述べた。彼等は太平洋戦争勃発の直前、只管(*ひたすら)東條氏の開戦決意を狩り立てるのに有利な情報のみを提供した。高慢にして思ひ上がれる東條氏はその情報によつて、一億国民悉く開戦を欲して居るものと速断しアンチ東條の空気は絶無であると過信した。
昭和十六年十二月九日、即ち太平洋戦争勃発の翌日の夜のことであつた。私は三宅坂の大臣官邸に東條首相兼陸相を訪れて、兵務局が蒐めた国民情報を忌憚なく述べた。その要旨は次の通りであつた。
「この戦争の勃発は、国民には全く寝耳に水である。一般国民は国際情勢の推移には全く無知であつて、その真相を把握して居らぬ。故に唯政府の言う所に盲従して居るのがその実情である。然しインテリ階級は、軍部を恐れて口にこそ言はぬが多くは反対である。私の恐るるのはこのインテリ階級の態度である。戦争が長期に亙ると必ずこのインテリ階級の態度が国民に反映する。その結果は反戦思想の台頭となつて、国民の結束が破れる。故にこの戦争は可及的早期に終結せしめねば、惨敗に終るであらう」
之に対し東條氏は不機嫌な態度で次の様に答へた。
「それは杞憂だ。三国機関の情報では、寧ろインテリ階級が挙つて戦争を欲して居る。故に自分は国民全部の信頼があることを確信して居り、この戦争は必ず勝利を以て其局を結ぶことを疑はない」
と。一事が万事である。三国機関が東條氏を誤つた罪は重い。然し誤られた東條氏の罪は更に重い。反省なき思ひ上がれる愚昧が生んだ結果である。・・・(同上書、新風社版 97~104頁、長崎出版版 96~103頁)

吉田松陰

吉田松陰は当時の思想家佐久間象山から学びます。象山は幕末期に幕府の昌平坂学問所の教官となった佐藤一斎に学んだ。一斎は表向きは朱子学だが、実は陽明学の学者です。陽明学は中国、明代中期に王陽明によってとなえられた学問で中国では王学、または彼の出身地から姚江(ようこう)の学というが、陽明学というのは、日本の明治期にはじめられた呼称です。
中国宋の時代は、新興の知識人たちが科挙試験を通じて官僚になるという近世的社会になったので、当時の知識人の子弟は、科挙の試験に及第して官僚になることを人生の目標にしていた。王陽明もまたそのための勉強をしながらも、聖賢になるために学問をするのだという気持ちをもっていた。28歳で最終試験に及第して役人の道をすすむことになったが、年少の武宗が即位すると劉瑾(りゅうきん)一派の宦官たちが勢力をもって横暴をはじめ、彼らに批判的だった王陽明はむち打の刑をうけて貴州の竜場にながされた。左遷されて貴州の竜場という僻地(へきち)にながされたとき、倫理的実践の方法に深くなやんだ。朱子は事事物物、個別に理を追究することからはじめるべきだという「格物窮理」の説を修養の方法としたが、この方法によるなら、まずは四書五経などの経書をよみ、外から知識として理をまなび、それからそれを実践するという「知先行後」となる。
しかし僻地にあっては、書籍もなければ読書も思うにまかせず、中央とはことなる異文化の中で通常の礼法は通用しない。彼は朱子流の方法では解決がつかないことをさとり、倫理的判断をみずからの純粋な心意にもとめることにした。つまり自己の心こそ理であると考え、「心即理」の説をとなえる。政変によって中央にかえることができたのち、彼はこの考えを発展させて学問をすすめる。経書観についても、経書の言葉はほかでもない自分の心を書きしるしたものだと解釈し、朱子格物致知を重視するのに対し、誠意(心の意念を純粋にたもつこと)を重視する。しかしここで、聖人が今この境遇にあったらどうするであろうと考え、「心即理」、つまり、わが心こそ道理なのだ、わが心を基準にして行動すればいいという境地に目ざめた。そしてやがて「知行合一」つまり知識と行動が一体のものだということであり、朱子の「知先行後」に反対して「知行合一」を考えた。

吉田松陰は、主宰した松下村塾で、久坂玄瑞木戸孝允高杉晋作伊藤博文山県有朋らをそだてた。明治維新の推進役となった彼らは、「知行合一」という一種の過激思想(テロ)が行動の源かもしれませんね。吉田松蔭の松下村塾に「知行合一」の掛け軸があったと言われています。

知ることと行うことは同じでなければいけない、知っていても実行に移さなければそれは知らなかったということになる、少なくとも周りの人から見ると。
支配層には行動を起こさない朱子学が都合の良かったのに対し、行動に出る陽明学は危険因子と見なされ革命的とされます。三嶋由紀夫曰く革命哲学。

 

 三嶋由紀夫曰く

 行動哲学としての陽明学はいまや埃の中に埋もれ、棚の奥に置き去られた本になった。別な形で、朱子学が復興しているなどといわれながら、朱子学の一分派ともいわれる陽明学は、ごく一部の愛好者を除いて、その名のみが知られているのが現状である。アメリカでは陽明学を研究している三人の学者がいるそうだが、日本では陽明学の家といわれる二、三の学者の家に伝承されるばかりで、政治家や、現実的な行動家のよって立つべき基本的な哲学としてのメリットは、おおよそ失われたといってよい。
 このことには、現在の老人支配の日本において、ちょうど大正教養主義の洗礼を受けて育った世代が、知的指導層を占めているために(一例をあげれば、志賀直哉氏、武者小路実篤氏のような自樺派や、故小泉信三氏を象徴とする開明派、「心」グループの知的風土とその影響下にある中壮年層の知的指導層)、陽明学がそれらの世代の青年期に、意識的に忌避されたこともあずかっている。
 乃木大将の死とともに終った陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかった。過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなった。というのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、昭和初年にいたって、このように否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の温床となったために、ますます大正知識人に嫌われる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあえて伝えまいとした有害な「黒い秘教」になったのである。
 一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪い去った。北一輝のような日本的革命思想の追究者は、孤立した星であった。マルクシズムが陽明学にとって代り、大正教養主義・ヒューマニズムが朱子学にとって代ったということもできるであろう。朱子学の、なかんずく、荻生徂徠のような外来思想の心酔者は、大正知識人にとってもむしろ親しみやすかった。しかし国学陽明学はやりきれぬ代物だった。国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になった。インテリは触れるべからざるものになったのである。
 今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒しているいくつかの思想的タブーがあり、武士道では『葉隠』、国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがって天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされている。そういうものを何か「いまわしい」ものと考えるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落している。西欧的合理主義の移入者であり代弁者であるところに、自已のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なお日本知識層の気質の底にひそんでいる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまわしいもの、醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つであったのである。
 現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いている。すなわち、西欧化近代化の文明開化主義の明治政府と、その戯画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを批判し、あるいは「教育」する立場に矜(ほこ)りを見つける。マルクシストさえ、近代化の方策の差というのみで、近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児であるという点で、矛盾はない。
 現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派という様相を呈するであろう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあったよりも激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなった現在、菌にも耐性ができて、大ていの薬では利かなくなったのである。
 さて今まではといえば、たとえば丸山真男氏の『日本政治思想史研究』における陽明学の取り扱いにも見られるように、氏はそのかなり大部の著書の中でわずかに一頁のコメンタリーを陽明学に当てているに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学であるとなし、陽明学朱子学の理の内包していた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失った、と説いている。
 しかしながら陽明学は、明治維新のような革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印していた。陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
 大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの二本の柱にあると思われる。フランス革命はルソーの楽観的な哲学の裏にマルキ・ド・サドの深いニヒリズムを隠し、一方ではジエラル・ド・ネルヴァルが言っているように、多くの見神論者の群れを革命の前駆として輩出しながら、ジャコバン党員ですらスコットランドのフリー・メーソンの本殿へお告げを承りに行ったこともあった。また、二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッガーの準備した能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの『二十世紀の神話』が、ナチスのミスティシズムを形成した。
 革命は行動である。行動は死と隣り合わせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜(とりこ)にならざるを得ないのは人間性の自然である。
 明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によって準備された。本居宜長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがって平田篤胤、さらには林桜園のようなミスティックな神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培った。
 また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学明治維新的思想行動のはるか先駆といわれる大塩平八郎の乱の背景をなし、大塩の著書『洗心洞箚記(さっき)』は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいうぺき西南戦争の首領西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であった。また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打っており、一度アカデミックなくびきをはずされた朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へおりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあずかるのである。
 主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによって善悪を超越する哲学であるこの陽明学という危険な思想は、丸山氏のいうところの、まさに逆を行って、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派という仮面に隠れながら、その実、もっとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かって進んでいった。その「良知」とは、単に認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入って創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、武士的な行動原理と思われる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもっとも危険な消息を伝えるものであった。
 ところで、現代において陽明学がふり返られるとすれば、どのような見地からであろうか。ここ数年来の大げさな革命的言論と、それについに相伴うことのなかった革命的行動の蹉跌との間には、現代政治と社会、政治理念と行動との間における真っ黒な深淵が暗示されている。われわれは、いまその深淵の上を閉ざす弥縫(びほう)的な「平和」にたぶらかされているが、やがてその深淵は人間精神の上にもっと恐ろしい形で再現することは十分予期されるのである。それは認識と行動とのギャップ、認識と行動とが相纏綿し相疎外するアンビヴァレンツ的関係の始まりであり、政治における無効性と有効性との対立であり、政治的理念が無効性のかなた、およそ銀河系のかなたに追いやられる如く、追いやられていくこちら側に、理念不要の現実政治の退屈きわまる術策と妥協とが横たわり、一度精神の問題に思いをいたすと、人々はこの二つのものの間の目のくらむほどの深淵に直面せざるをえない状況がきているのである。
 ごく手近な例をとっても、全学連運動の帰結は、単に警察力の増強という物理的理由によって、たちまち理論的破綻に瀕していった。全学連運動、いわゆる新左翼の思想の根底には認識と行動との一致、陽明学にいわゆる知行合一のエトスが潜在していると思われるのだが、またそれによってこそ、単なる蒼ざめた認識者としての大学教授達は心底から脅かされたと察せられるのだが、いま警察の規制によって民青的焼香デモに甘んじざるを得ない彼らは、民青に対してただ自分達の認識の差を保持するだけになってしまった。
 しかし、行動に現われない認識が何ものでもないことを主張したのは新左翼自身のはずであるから、もはや行動に現われない認識の形で優劣を競うことは、相手の土俵に入ったも同じである。この矛盾に逢着するとき、かれらが行動の基盤とした能動的なニヒリズムは失われて、そのいわば逆、受動的なオプティミズムに陥らざるを得ないであろう。革命の機会を待望し、ただ待ち、待ちこがれてその機会に向かって周到な準備を重ね、あらゆる妥協を容認し、その方法論においてどのような矛盾撞着(どうちゃく)も平然としてのみ込むような楽天主義は、もはや知行合一とは無縁のものになってしまう。そしてそのとき、新左翼もまた、あれほど憎んだ体制側の政冶の次元と同じ次元に立つことになるのである。
 もちろん、彼らをこのような窮地に陥れたのは警察力の物理的増強のみではない。一つは彼ら自身の内面の問題であり、またその内面に反映していた大衆社会状況の問題でもある。大衆社会状況に処するのに、認識と行動との合致をもって対抗することが、そもそも論理的矛盾であって、大衆社会を巻き込むためには、「大衆社会こそは認識と行動との背反にその存在理由のすべてをもつ」というところに着目しなければならなかった筈である。まさに反陽明幸的な思考方式こそ、平和な時代の大衆社会を成立せしめる最大の基盤であった。なぜなら、大衆社会は道理の感覚によって動くことを求めず、それ自体の物理的法則によって動こうとするからである。
 認識至上主義が、結局、物理的法則に陥らざるをえぬとは、何たる皮肉な状況であろう。大衆社会状況とは、人々が危惧しているように、文化の低俗化の一途を辿るものではない。閑暇が与えられれば、より高いより洗煉された知的快楽が求められるのは当然で、人々の「認識欲」は増すのである。このためには、種々な贅沢な芸術(まがいのもの)や娯楽が用意され、一方では情報化社会の趨勢がこれを満足させる。ニュースも豊富、哲学も豊富、人々は「知る欲求」を満足させることに事欠かないのだ。現代、「あなたはスポーツがお好きですか」ときかれて「はい」と答える人は、大ていの場合「見るスポーツ」を意昧している。「野球が好きです」ということは、おおむね「野球をやること」ではなくて「野球を見ること」を意味している。これほど大衆社会における認識至上主義と、無道徳無制限の好奇心の満足を求める傾向を、明示しているものはない。
 認識至上主義はニュートラルである。また、超道徳的であって無倫理である。しかし、ニュートラルでありえ、無倫理でありえているのは、行動に自已を投入しない以上当然のことであり、行動はいやでも中立性の放棄と倫理的決断を要求する。それがいやだから行動しないという心理は、行動しないから行動を永久に恐れるという次の心理に至って、悪循環に陥る。この悪循環がオートマチックに働いて、その動きが物理的法則を形づくる。そこには認識と行動の乖離(かいり)がはじめから予定されているのであるから、知行合一のような哲学は、はじめから無意識裡に忌避されているのは当然であろう。そして富める大衆社会の政治行動は、決して我身に傷を負わぬという保証の下に、良心的なポーズを満足させる小さな小さな冒険に類するものになるであろう。一寸した薬味の利いた、薄荷のような淡い反体制的な感情が、拡大された中間層の基本的色調になるであろう。
 もはや「道理」は要らない。「道理」はガタピシして、持ち運びのたびに、壁のあちこちに傷をつくる厄介な家具であり、その上ノスタルジーと関わりがあるから、あまりに「主観的」なのである。思い出は要らない。消費経済の時代に歴史や伝統が何だろうか。何でも使い捨てればよいのであり、自分の教養のひけらかしに必要な骨董だけをとっておけばよいのである。そのためには政府は文化財の保護を抜け目なくやってくれており、文化とは安全無類なものになった。多少の難解さは、暇つぶしのパズル遊びのために必要である。しかし、ゆめゆめ、認識と行動をつなごうなどという野望を起さなければよいのである。そういう野望を起さぬ限り、あらゆる文明の産物、生活を快適ならしめるあらゆる新製品は、すべてわがものになるのであり、わざわざ手製爆弾などを不自由な思いをして作らなくてもよいのである。ニヒリズムは不要なのだ。 

三島曰く

私はさっき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するということを言った。陽明学の時代にはニヒリズムという言葉はなかったから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に表われている。
 「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚というものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを良知によって弁別し得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとえば壷が毀されると壷を満たしていた空虚はそのまま太虚に帰するようなものである、といった。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、その壷すなわち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に遍在する太虚に帰することができるのである。
 その太虚はさっきも言ったように良知の極致と考えられているが、現代風にいえば能動的ニヒリズムの根元と考えてよいだろう。ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまうことは、森鴎外も小説『大塩平八郎』の中でそれとなく皮肉に指摘している。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のようであるが、いったん悟達に達してまた現世へ戻ってきて衆生済度の行動に出なければならぬと教える大乗仏教の教えには、この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されている。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動ともいうことができるのである。
 陽明学をごく簡潔に説明したものとしては、井上哲次郎博士の『王陽明の哲学の心髄骨子』という古い論文がある。この論文を概説すると次のようである。明代の哲学者王陽明朱子哲学の反動としておこった人であるが、朱子哲学が二元論であったので、これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるいは平等主義的な傾向を与えて陽明学を体系づけた。
 陽明学のいくつかの理論的な柱には、
 一、理気一元説
 二、致良知
 三、知行合一
 四、四箇格言
 などがある。
 一、理気一元説。朱子は「理気決してこれ二物」と言って、理気二元論を唱導しているのであるが、王陽明はこれに対し理気一元論を唱えて「理ハ気ノ条理、気ハ理ノ運用、モト二事アルニアラザルナリ」といった。その一元がすなわち良知なのである。
 二、致良知説。良知とは何かというに、倫理学者のいう良心と同じものではなく、むしろ、ウパニシャッドブラフマンのような唯一無二の宇宙の根本原理である。しかもこれは創造的作用があり、陽明も、「良知ハ是レ造化的ノ精霊、這些(しゃしゃ)ノ精霊、天ヲ生ジ、地ヲ生ジ、鬼ヲ成シ、帝ヲ成ス、皆是レヨリ出ヅ」と言っている。もともと各個人の胸の中には澄みきった鏡のような聖人が住んでいるのに、普通の人はそれに気づかない。この鏡の曇りをとり、これを明らかにすることがすなわち良知であって、『大学』にいう格物致知も、陽明は、この「良知を致す」ことだと解釈するのである。
 三、知行合一説。王陽明はすべてに一元論であるから「知八行ノ初メ、行ハ知ノ成ルナリ」と言っている。「知ッテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ」というのは、この知行合一説をもっとも簡潔に表明したものであって、この点が朱子の先知後行とは違っているところである。ここに認識と行動との一致というもっとも自然でまたもっとも厳しい主張が秘められている。陽明学はまた心学ともいわれるように、主観的唯心論的に認めた道徳的真理を、直ちに行動にうつさなければその認識自体が無効になるのである。行動がなければ認識すらない、そして行動に移らなければ認識は完成しない、ここに陽明学のもっともラディカルな思想の拠点がある。
 第四、四箇格言。四言教ともいわれ、陽明学の要点を四つの格言にまとめて言い表わしたものである。格言の第一は「善無ク悪無キハ是レ心ノ体」といい、心の本体というものは絶対的で宇宙の真理であるから、善悪を超越したものだ、というのである。第二に「善アリ悪アルハ是レ意ノ動」と言うのは陽明学における倫理学的な側面であって、善と悪が対立してきたときには必ず意志が動いてくる、また意志が動いてきたときにはすでに善悪の差別が生じてくる、意志がなければ善と悪の対立を道徳的行為にもちきたせることはできない、ということである。第三に「善ヲ知り悪ヲ知ル、是レ良知」というのは、良知が善悪を識別する良心的作用であると言っているわけであるが、良知がいわゆる良心の作用だけにとどまらないことは、前にも述べた通りである。第四の「善ヲ成シ悪ヲ去ル、是レ格物」というのは『大学』の格物致知の解釈であるが、それは単に善を行なうということだけではなく、また悪を退けて善を勧めるということだけでもない。認識それ自体の効用を認めない陽明は、格物ということ自体に万物の理を行動即認識の裡にきわめるということを意味しているのである。
 王陽明の哲学の中には、後代、西洋哲学とも類似するようなさまざまな萌芽があるが、簡単にいえば一元的唯心論であって、朱子哲学の二元的実在論と対立するものである。それは中国でも実際行動の上に大きな効果があったが、日本に移入されてから一層めざましく発展し、中江藤樹、熊沢蕃山を始めとして、林子平梁川星巌、大塩中斎、佐藤一斎、また西郷南洲横井小楠、真本和泉守、雲井竜雄、その他明治維新をいろどる幾多の偉大な星を、この思想は生んだ。
 ー以上の如きが、井上哲次郎博士の陽明学に対する概論である。
 そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに立てこもううとする人は、この狂熱を避けて通る。
 もちろん、認識と行動との一致ということを離れて考えてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては古人がすでに二つの道を用意していた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいわゆる脱自、陶酔、恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するという方法である。これは哲学の中の二つの潮流を形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表われとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現われた。
 陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。
 大塩平八郎については、森鴎外に『大塩平八郎』という作品があるが、このすばらしい文章で書かれた中篇の傑作にも、隙間風が吹いていることは否定できない。これは当然の話で、あくまでもアポロン的な鴎外は、大塩平八郎ディオニュソス的な行動に対して十分な感情移入をなしえず、むしろ一揆鎮圧に当った有能な与力坂本鉉之助のほうに視点をおいているのである。鴎外の自分が描く人物に対する共感は、多くはその人間が止むをえざる受身の行動をするときにかぎっている。『阿部一族』は我慢に我慢を重ね、忍耐に忍耐を重ねて爆発した行動によって鴎外に認められたのであり、『堺事件』もまた罪なくして責めを負った若い武士達の切腹に対する同情によって描かれ、『興津弥五右衛門の遺書』における乃木大将への心酔も、同じようなパッシヴな情熱への感情移入によるものであった。
 しかし大塩は違う。大塩の行動は義によって立ったとはいいながら、その蜂起の二つの大目的、腐敗した権力者の打倒と貧民救済とは、二つながら果しえず、むしろすべて逆目に出た。返り忠をした裏切り者がとりたてられ、大坂の無辜(むこ)の市民は暴動によって理不尽な損害を受け、しかも大塩の行動自体は完全な失敗に終ったのである。徒党の一昧は惨憺たる結末をとげ、平八郎親子も火の中で自らの命を絶った。こうした行動の無効性、反社会性について鴎外は批判的なのである。

 

 三島曰く

  陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。

 

吉田松陰曰く

 

 夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。

私心さえ除き去るなら、
進むもよし
退くもよし、
出るもよし
出ざるもよし。

一日一字を記さば
一年にして三百六十字を得、
一夜一時を怠らば、
百歳の間三万六千時を失う。

大器をつくるには、
いそぐべからずこと。

人間はみな
なにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も
変わりはない。

小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、
自分への約束をやぶる者が
もっともくだらぬ。
死生は度外に置くべし。
世人がどう是非を論じようと、
迷う必要は無い。
武士の心懐は、
いかに逆境に遭おうとも、
爽快でなければならぬ。
心懐爽快ならば人間やつれることはない。

今日の読書こそ、
真の学問である。

みだりに人の師となるべからず。
みだりに人を師とすべからず。

一つ善いことをすれば、
その善は自分のものとなる。
一つ有益なものを得れば、
それは自分のものとなる。
一日努力すれば、
一日の効果が得られる。
一年努力すれば、
一年の効果がある。

道を志した者が
不幸や罪になることを恐れ、
将来につけを残すようなことを
黙ってただ受け入れるなどは、
君子の学問を学ぶ者がすることではない。

大事なことを任された者は、
才能を頼みとするようでは駄目である。
知識を頼みとするようでも駄目である。
必ず志を立てて、
やる気を出し努力することによって
上手くいくのである。

過ちがないことではなく、
過ちを改めることを重んじよ。

自分の価値観で人を責めない。
一つの失敗で全て否定しない。
長所を見て短所を見ない。
心を見て結果を見ない。
そうすれば人は必ず集まってくる。

平凡で実直な人間などいくらでもいる。
しかし、事に臨んで大事を断ずる人物は
容易に求めがたい。
人のわずかな欠陥をあげつらうようでは、
大才の士は、もとめることが出来ない。


学問とは、
人間はいかに生きていくべきかを
学ぶものだ。

志定まれば、
気盛んなり。

決心して断行すれば、
何ものもそれを妨げることはできない。
大事なことを思い切って行おうとすれば、
まずできるかできないかということを
忘れなさい。

人間には精気というものがあり、
人それぞれに精気の量は決まっている。
この精気なるものは抑制すべきである。
抑制すればやがて溢出する力が大きく、
ついに人間、狂にいたる。
しかし、おのれの欲望を解放することによって、
固有の気が衰え、
ついに惰になり、
物事を常識で考える人間になってしまう。

君子は何事に臨んでも、
それが道理に合っているか否かと考えて、
その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、
それが利益になるか否かと考えて、
その上で行動する。

敵が弱いように、
敵が衰えるようにと思うのは、
皆、愚痴もはなはだしい。
自分に勢いがあれば、
どうして敵の勢いを恐れようか。
自分が強ければ、
どうして敵の強さを恐れようか。

 

至誠にして動かざる者は
未だこれ有らざるなり。

17、18の死が惜しければ、
30の死も惜しい。
80、90、100になっても
これで足りたということはない。
半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、
松や柏のように
数百年の命が長いとも思わない。
天地の悠久に比べれば、
松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。

世の中には体は生きているが、
心が死んでいる者がいる。
反対に、体が滅んでも
魂が残っている者もいる。
心が死んでしまえば生きていても、
仕方がない。
魂が残っていれば、
たとえ体が滅んでも意味がある。

学問をする眼目は、
自己を磨き
自己を確立することにある。

学問の上で大いに忌むべきは、
したり止めたりである。
したり止めたりであれば、
ついに成就することはない。

人を観察するのは、
目によってする。
胸の中が正しいか、正しくないかは、
瞳が明るいか、暗いかによって分かる。

今の世の中、
優れた人物がいないと人は言うが、
上の者が優れている人物を
好むということさえすれば、
人物がいないことを
心配する必要はない。

教えるの語源は「愛しむ」。
誰にも得手不手がある、
絶対に人を見捨てるようなことを
してはいけない。

人を信ずることは、
もちろん、遥かに人を疑うことに
勝っている。
わたくしは、人を信じ過ぎる
欠点があったとしても、
絶対に人を疑い過ぎる欠点は
ないようにしたいと思う。

どんな人間でも
一つや二つは素晴らしい能力を
持っているのである。
その素晴らしいところを
大切に育てていけば、
一人前の人間になる。
これこそが人を大切にするうえで
最も大事なことだ。

死して不朽の見込みあらば
いつでも死すべし、
生きて大業の見込みあらば
いつでも生くべし。

奪うことができないものは志である。
滅びないのはその働きである。

成功するせぬは、
もとより問うところではない。
それによって世から
謗されようと褒められようと、
自分に関することではない。
自分は志を持つ。
志士の尊ぶところは何であろう。
心を高く清らかにそびえさせて、
自ら成すことではないか。

賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。
責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、
真の忠臣孝子である。
武士たるものが覚悟すべきこと、
実にこの一点にある。

悔いるよりも今日直ちに決意して、
仕事を始め技術をためすべきである。
何も着手に年齢の早い晩いは
問題にならない。

思想を維持する精神は、
狂気でなければならない。

英雄はその目的が達成されないときには
悪党や盗人とみなされるものだ。
世の中の人から馬鹿にされ、
虐げられたときにこそ、
真の英雄かどうかがわかる。

法律をやぶったことについてのつぐないは、
死罪になるにせよ、
罪に服することによってできるが、
もし人間道徳の根本義をやぶれば、
誰に向かってつぐないえるか、
つぐないようがないではありませぬか。

人間が生まれつき持っているところの
良心の命令、
道理上かくせねばならぬという
当為当然の道、
それはすべて実行するのである。

利をうとんずるといふ事は、
必ずしも富を厭ひ
貧を欲するといふ事ではない。
貧富によりて少しも心を
みださないといふことである。
親思う心にまさる親心。

満開となれば、
やがて花は落ちる。
太陽は南中すれば、
やがて陰りはじめる。
人は壮年を迎えれば、
やがて老いていく。
百年の間、
必死で勉強すべきであり、
ゆったりとくつろぐ暇などない。

だいたいにおいて
世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、
あてにならぬものである。

和製ゲシュタポ三国機関


・・・16 和製ゲシュタポ三国機関
ナチス独逸にはゲシュタポがあった。ソ連にはゲー・ペー・ウーがある。何れも秘密の国家警察機関である。この秘密警察は一国一党の独裁政治形態を有する国家にとっては必要とする。
第二次近衛内閣から東條内閣に到る間は、軍部の力が絶頂に在った頃である。日本の一切の政治は陸軍の指導下に一国一党の姿に於て運営せられて居た。故にわが陸軍も御多分に洩れず、極秘裡に、秘密警察組織をもって居た。その名は三国機関である。
この秘密機関の創設は、板垣陸軍大臣時代の末期昭和十四年の四月である。創設当初はゲシュタポ的の性質を帯びたものではなかつた。その目的はスパイの防止を主とした単純な防諜機関であり、その内容は貧弱なものであつた。所在地は麴町の萬平ホテルで、その秘密事務所は、このホテルの一室を占有するに過ぎない有様であつて、人員も僅少であつた。従ってその活動範囲もスパイ行為の追及のみに限られ、追及の対象は主として外国人であつた。そしてその管轄は憲兵司令官に属して居た。
昭和十五年七月、東條氏が陸軍大臣になると、憲兵政治の好きな氏は早速この機関に眼をつけた。そして直ちにこの機関を大臣直轄とし、その内容を拡充して政治部門と防諜部門の二つに分かち、之をゲシュタポ式の組織とした。その指揮者には三国直福中将を選び、優秀な憲兵将校と政治情報の蒐集に堪能な民間人を起用して機関員とした。この機関を三国機関(*みくにきかん)と呼ぶに到つたのは此時からである。
この機関の存在を知るものは(*陸軍)大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。本部の所在地は最初牛込若松町の砲工学校内であり、事務所は同校の気象研究室を充てていたが、太平洋戦争の開始と共に市ヶ谷の陸軍省内に移転した。この機関の特徴は機密費が極めて豊富であつたことと、捜査の実行のためあらゆる最新の科学的資材を完備して居たことである。
科学的捜査資材とはなんであらうか。その一つは録音機である。この録音機は極度に小型な精巧なものであつて、之を部屋の壁の中に装置すれば、その部屋の中で取り交はされる総ての音声が記録せられる。又バンド止め兼用のスパイカメラもある。このカメラは路上で行き違つた人の面影を突差に而も確実に撮影することが出来る。その外に精妙な電話窺取器材(無線電信探知機)暗号解読の電気装置など近代科学の粋を集めたあらゆる捜査器材を備へて居た。中野正剛氏の東條内閣打倒の陰謀に関し、伸つ引きならぬ証拠を摑んだのは、電話の窃取と交詢社内に装置せられてあつた録音機の賜物である。
東條氏によつて完成せられた日本のゲシュタポである三国機関も、その防諜部門は民間に対してあまりに大なる害毒は流さなかつた。何んとなれば太平洋戦争開始後は内地に於てはスパイ的存在が殆んどなかつたためである。然し政治部門の活動は、アンチ東條の政客や団体を戦慄せしめた。
政治部門に集まつた情報は大小となく殆んど毎日三国氏から東條氏に直接通告せられた。東條氏はこの通告に基いて、必要と見れば直ちに憲兵隊に通じ、逮捕或は取り調べの実行を命じた。
東條氏の性格の最大の欠点は自己を信ずることが極めて強く、偏狭であつて猜疑心の深い所にある。従つて氏は阿諛と佞弁(*ねいべん)を好み、極度に直諫を忌み嫌う。三国機関の政治部門に属する機関員は最もよく東條氏の性格を知つて居た。彼等は東條氏のこの弱点に乗じてその意を迎へ自己の立身出世の具に供した。故に彼等の蒐める情報は概ね東條氏をして満足の意を表せしむるものが多かつた。
昭和二十年(*十九年の誤り)七月、人心既に東條氏を去り、客観的情勢は著しく東條内閣に不利となり、その存続は全く不可能となれる状態に於て、東條氏が尚且執拗に政権に囓ぢりつかんとしたのは主としてこの三国機関が東條氏に阿(*おもね)つて、政治情勢の真相を伝えなかつたためである。
太平洋戦争の勃発以後、東條氏が最も力を注いだのはアンチ東條の運動を弾圧することであつた。三国機関の政治部門はこの目的のために殆んど全力を注いだ。
私(*田中隆吉)は東條氏の性格より判断して、三国機関の存在が東條氏の国内情勢に対する判断を誤らしめ国家の運命に暗影を投ずることを恐れ、戦争勃発の直後、三国機関の廃止を進言した。そのとき私*は(*三国機関の)政治部門が流す害毒を詳細に述べて廃止の必要を力説し、若し強いて残置するとすれば防諜部門のみに止(*とど)むべきであると主張したが、東條氏は反対に、戦争の勃発は盛々(*ますます)その重要性を増加したと主張して私*の進言を一蹴した。
三国機関の活躍は巧妙且迅速であつた。昭和十八年一月、東條氏が肺炎を病んで高熱に苦しみ議会の再会(*ママ)を延期したときの話である。その頃私は伊豆の長岡温泉に滞在して居た。ある日の午後大和館(*旅館)の一室で宇垣一成氏と東條氏が退陣した場合の対策に就て密議して居た。会談半ばに東京の憲兵司令部から宇垣氏に向つて、「何を話して居るのか。貴方は何時田中(*隆吉)の所から家に帰るのか」と電話して来た。この一事は私*の周囲に三国機関の手先が動いて居り、その行動が極めて迅速であつたことを立証する。
又昭和十九年の春、近衛(**文麿)氏は私(*田中隆吉)に
「私(**近衛)の行動は詳細に東條が知って居る。電話の内容や、訪問客の人等は兎も角会談の内容まで知って居るのには驚く」
と語った。私は(**近衛)氏に対し三国機関なるものの存在とその内容を打ち明けて氏の行動の慎重なるべきことを忠告した。その年の秋、内大臣官邸で木戸(*幸一)氏に面会したときに、木戸氏も私(*田中隆吉)に
「東條内閣時代には私(***木戸)の行動は事細かに東條が知つて居た。電話は勿論、宮中で人に会つたときの話の内容すら知つて居た。今になつてもどうしてあんなに詳しく知つて居たかその理由が判らぬ」
と言った。(***木戸)氏は私(*田中隆吉)が近衛氏の場合と同様に、三国機関の内容を詳細に説明したため始めて疑問を解いた。
中野正剛氏が昭和十八年の九月、警視庁で取り調べを受けたときには、証拠不十分で無罪放免となつた。憲兵は東條氏の命令で再び中野氏を逮捕した。取り調べは厳重を極めたが中野氏は終始頑強に(*東條内閣倒閣計画の)事実を否認し続けた。然し最後に憲兵が、交詢社(*銀座にある実業家の社交クラブ)の一室で中野氏と東方会(*政党)の幹部とが会談をした内容を録音に依つて中野氏に聞かせたので、流石の中野氏も終に前言を翻さざるを得なくなつた。中野氏の自裁(*この後割腹自殺)の原因は恐らくこの録音にあるのではなからうか。
(*昭和十六年)十二月七日正午に日本に到着したルーズベルト大統領の(*天皇陛下宛)親電が、同日夜に到つて始めてわが外務省に手交せられ、天皇の手許に到達するのが著しく遅れたのは、この三国機関が裏面に於て活躍したためである。その方法は極めて簡単である。電信線をある一定の時間、遮断すればよい。この種の操作は三国機関に取つては朝飯前の仕事である。翌八日(*昭和16年12月8日)、アメリ国務省に手交すべき日本の最後通牒が、予定より遅れて、真珠湾攻撃と殆んど同時(*攻撃開始後となり騙し討ちとなった)にハル(*米国務)長官に交はせさられたのも亦この(*三国)機関の活動の結果である。それは、六ヶ絛から出来て居たこの電文の最後の一ヶ絛を、数時間遅らしたためである。この方法も亦極めて簡単である。前と同様にある時間を限つて電話線に故障を起させればそれで十分である。
昭和十九年七月小磯内閣が成立してから杉山陸相の下に柴山兼四郎中将が次官に就任した。氏は就任と殆んど同時にこの機関を解散した。明敏なる氏はこの機関の害毒がそのもたらす効果に比してあまりにも甚大であることを知つたからである。
私(*田中隆吉)は若し三国機関なるものが存在しなかつたならば太平洋戦争は起つて居なかつたと思う。何となれば東條氏の国内情勢判断の資料は議会の言論や、大政翼賛会が蒐めた報告には全然之を無視して、主として三国機関のもたらす政治情報を基礎として居たからである。三国機関の政治情報が常に東條氏の意を迎ふるに汲々として居たことは既に述べた。彼等は太平洋戦争勃発の直前、只管(*ひたすら)東條氏の開戦決意を狩り立てるのに有利な情報のみを提供した。高慢にして思ひ上がれる東條氏はその情報によつて、一億国民悉(*ことごと)く開戦を欲して居るものと速断しアンチ東條の空気は絶無であると過信した。
昭和十六年十二月九日、即ち太平洋戦争勃発の翌日の夜のことであつた。私(*田中隆吉)は三宅坂の(*陸軍)大臣官邸に東條首相兼陸相を訪れて、兵務局が蒐めた国民情報を忌憚なく述べた。その要旨は次の通りであつた。
「この戦争の勃発は、国民には全く寝耳に水である。一般国民は国際情勢の推移には全く無知であつて、その真相を把握して居らぬ。故に唯政府の言う所に盲従して居るのがその実情である。然しインテリ階級は、軍部を恐れて口にこそ言はぬが多くは反対である。私*の恐るるのはこのインテリ階級の態度である。戦争が長期に亙ると必ずこのインテリ階級の態度が国民に反映する。その結果は反戦思想の台頭となつて、国民の結束が破れる。故にこの戦争は可及的早期に終結せしめねば、惨敗に終るであらう」
之に対し東條氏は不機嫌な態度で次の様に答へた。
「それは杞憂だ。三国機関の情報では、寧ろインテリ階級が挙つて戦争を欲して居る。故に自分は国民全部の信頼があることを確信して居り、この戦争は必ず勝利を以て其局を結ぶことを疑はない」
と。一事が万事である。三国機関が東條氏を誤つた罪は重い。然し誤られた東條氏の罪は更に重い。反省なき思ひ上がれる愚昧が生んだ結果である。・・・(「裁かれる歴史ー敗戦秘話ー」、新風社版 97~104頁、長崎出版版 96~103頁)

天下とは天下の天下であって自然の天下である

万万人(万人の強調)は身も心も同じ同一の一人である。一人の人間がいったいだれを天子とし、だれを民とするのか。目の前の人々を見てみよ、背丈に大差なく、心もほぼ同じであり、みな同じ身体と心をもっている。よって自然において天子というものはありえない。天子とは私利私欲をもって上に立つという誤りを犯して以来、人間世界に出現したもので、これをしらずに尊いものとして奉るのは、とんでもない誤りである。こんなことも知らないとはひどい誤りである。さらにいえば、歴史上天子様が現れてからその下に初めて争乱が起こった、その後いつまでも天道を盗んで止むことがないので、争乱はいつまでも絶えることがない。天下をはなはだしく害するものであり、悪をはびこらせる道具である。
農とは生きること。習いも学びもしなくても、天地と一体となって耕し織ることによって、安らかに食い安らかに着て、少しの利己的な行いをするという罪がなく、まことの天子そのものである。このように農民こそ本当の生知・安行の天子である。
この農民への称号を盗んで、天道を掠めるものらの名としているのは、転倒した誤りである。
人間とは米穀を食べて成長するのだから、人間とは米穀そのものである。これ以外のありようはない。天子も食うことで生きている。死んでしまえば土にかえりもとの穀物、つまり食となる。したがって何を言い何を語ろうと、聖人の教説も説法も、泣くも喚くもすべて食のためである。
天子の初めは知に長け権謀を好んだ。そこで私心をもって勝手に天子となったのである。上にたって万民の天下をおのれ一人で私物化し、耕さずに貪り食って民人の上に君臨したために、いつしか贅沢になずむようになり、これが人の世を乱世とした始めでる。
「天子は民をわが子である」と言ったというが、はておかしきことを言うものである。
天子は耕さずに民の米穀を貪り食っているのだから、天子は民に養われておきながら「民はわが子」とうそぶくとは、なんたる高慢な言い草であろうか、おのれを飾って天地自然の法則を歪めておきながら、このような転倒したせりふを吐いているのだ、はなはだしい誤りである。
また、「民に施す」と言っているが、自ら耕さず、米一粒・銭一銭生み出しておらず、天子のものなどはただの一つもないのである。一体どうして民人に施す力があるというのであろうか、おのれは耕さず貪り食って常に民人の施しを受けておきながら、逆に民人に施すとはもってのほかである。
なにからなにまで民人に養われている身でありながら、それを省みずに民に施すと言っているのだ、おのれが民に養なわれている民の子でありながら、民はわが子などとほざいている。狂人とか言いようがない。
天下とは天下の天下であって自然の天下である。天子のものではない。だから勝手に天下とは譲ったり譲られたりするものではない。農民こそ天子である。

Japan Times の記事から「日本の厄介な歴史修正主義者たち」 2015-04-15

日本の厄介な歴史修正主義者たち(Japan Times, 14 April)
by Hugh Cortazzi(1980-84 英国駐日大使)
日本の右翼政治家たちは海外メディアの報道を意に介さないでいる。彼らが外国人の感情に対する配慮に乏しいのは、外国人を蔑んでいるからである。
右翼政治家たちは日本をすべての面で称讃しない外国人、日本の歴史の中に暗黒面が存在することを指摘する外国人を「反日」(Japan basher)、日本の敵とみなしている。このような態度は日本の国益と評価を損なうものである。
Frankfuter Allgemaine Zeitungの特派員が東京を離れる際に寄稿した記事を海外特派員協会のジャーナルの最近刊で読んで、私はつよいショックを受けた。この新聞は職業上私も知っているが、センセーショナルな物語を掲載したことはないし、つねに事実の裏付けを取っていることでドイツでは高い評価を受けているまっとうな新聞である。
この新聞の特派員が以前安倍政権の歴史修正主義に対して批判的な記事を書いたときに、フランクフルトの日本総領事が、おそらくは東京からの指示に従って、同紙の外信部のシニア・エディターを訪れ、記事に対する抗議を行った。
日本総領事は特派員の書いた記事が事実に反する証拠を示すことなく、この記事には金が「絡んでおり」、レポーターは中国行きのビザを手に入れるためにプロ中国的なプロパガンダを書いたとして記者と新聞を侮辱した。このような発言は単に不当であるのみならず、許すことのできないものである。
残念ながら、このケースは単独ではない。1月にはニューヨークの日本総領事がアメリカの評価の高い教育出版社であるMcGraw-Hillに対して、ふたりのアメリカ人学者が書いた「慰安婦」についての記述を削除するように要請した。出版社はこの要請を拒絶して、日本政府当局者に対して執筆者たちは事実を適切に確認していると答えた。
具体的に何人の「慰安婦」が日本帝国軍兵士のために奉仕することを強制されたのか数字を確定することは不可能だろう。だが、この忌まわしい営みが広く行われていたことについては無数の証言が存在する。売春を強要されたのは韓国人女性だけに限られない。
日本の歴史修正主義者たちは南京虐殺についても事実を受け入れることを拒絶している。この場合も、現段階では被害者の数を確定することはできない。しかし、日本人自身を含むさまざまなソースからの証言は日本軍兵士によって南京のみならず中国各地において無数の残虐な行為が行われたことを確証している。この事実を指摘する者はただ事実をそのまま述べているだけで、中国のプロパガンダに与しているわけではない。
私自身数ヶ月前に尖閣列島については論争が存在するという記事を書いた。北京の反民主主義的態度に対する私の反感は周知のはずだが、にもかかわらず、私もまた中国のプロパガンダを繰り返し、中国を利しているとしてはげしい罵倒を浴びた。
本の学校の歴史教科書について、英国メディアはそれが南京虐殺と「慰安婦」問題を控えめに記述しているという事実を伝えるに止めた。イギリス人戦時捕虜と強制労働者が泰緬鉄道建設において何千人死んだか、シンガポールと香港で、日本人がジュネーブ協定にも日本人自身の道徳律にも違背して、どんなふるまいをしたのかについて日本の歴史教科書に何が書いてあるか(あるいは何が書かれていないか)について、われわれイギリス人はこれまでコメントしたことがない。怨恨の思いを甦らせることで戦後の日英関係を損なうこと望まなかったからである。だが、もし日本人が歴史的事実を希釈したり記録から削除したりしようとするなら、それは両国の関係を傷つけることにしかならない。
日本の歴史修正主義者によって標的とされた学者やジャーナリストたちは、当然ながら歴史修正主義者たちが歴史資料から消し去ろうとしている事実をさらに掘り下げ、そこに耳目を集めるように努めるだろう。日本の歴史修正主義者たちのふるまいは私にはナチやソ連コミュニストが駆使したオーウェル的な「ダブルスピーク」や「二重思考」を思い起こさせる。
英国の知日派の人々は「アベノミクス」と国防問題に見通しについては意見がそれぞれ違うが、日本の歴史修正主義者を擁護する人はひとりもいない。
最近の曽野綾子によるアパルトヘイト擁護の論の愚劣さは英国の日本観察者に衝撃を与えた。日本ではこのような見解が真剣に受け止められ、活字になるということがわれわれにはほとんど信じがたいのである。安倍晋三首相がどうしてこのような意見の持ち主を教育政策のアドバイザーに任命することができたのか私たちには理解できない。
また、日本人の知的で教育もある人たちが『日本人論』家たちによって提出されている日本の独自性についての思想を流布しているのも、われわれ非日本人には理解しがたいことのひとつである。日本はたしかに独自な国だが、それを言えば世界中どこの国だってそれぞれに独自である。日本人は1億2千万人以上いる。全員が別の人間である。日本と日本人の性格についての一般化はせいぜい近似的なものにしかならない。
日本人論家たちは、歴史修正主義者と同じく、現実世界の外側にある泡の中で暮らしているように私には見える。明治時代の彼らの父祖たちと違って、彼らは日本の外にある世界をほんとうは知らない。彼らには現実の海外の友人がいない。彼らこそ経済的にも政治的にも急激にグローバル化している世界において日本がおのれの正当な地位を獲得するための努力を妨害しているのである。
バブル期において、ロンドンにはたくさんの日本人が行き来していた。だが、今では日本人の影は薄い。英国当局の学生に対する規制の厳しさも一因かもしれないが、やはり主な理由は日本人が海外に出かける気力を失っていることだろう。ロンドンに来る日本人たちはもう妻子を連れてこなくなった。子どもの教育や老いた親の介護が彼らに「単身赴任」を余儀なくさせているのだ。日本人ビジネスマンや外交官の中にはロンドン滞在を一種の一時的な苦役と見なしている人たちさえいる。
日本の外交官たちは彼らの政治的主人の要望を実行しなければならない。それゆえフランクフルトやニューヨークの総領事が本国からの指令に従って行動したということを私は理解している。しかし、それでも日本の外務省は外交官に指示を出す前に、まず彼らの政治的主人に対して、歴史的事実は恣意的に変更することはできないこと、ジャーナリストや学者に対する検閲は反対の効果をもたらしがちであることを理解させるべく努めることを私は希望するのである。

原爆投下

原爆投下について、時のアメリカ大統領トルーマンは、次の回想を残している。

「彼ら(日本人)が解すると見られる唯一の言葉は、われわれが爆撃という手段を通じて、彼らに使ってきた言葉だけなのです。野獣を相手としなければならないときには、野獣を野獣として取り扱わなければならないのです。」(原爆使用に抗議した全米教会連合書記サムエル・M・カヴィート宛の手紙 1945.8.11)

 

 対日投下を示す最初の公式文書は、1944年9月19日に、ルーズベルト米大統領チャーチル英首相との間で交わされた秘密覚書「ハイド・パーク協定」である。この協定第一項には、次のように書かれている。

 「『爆弾』が最終的に利用可能となったときには、熟慮ののちそれはおそらく日本人に対して使われることになろう。日本人に対しては、この爆弾投下は、彼らが降伏するまで、繰り返し行われるという警告が発せられるべきである。」

 原爆を日本に投下すること自体は、議論の余地がなかった。問題は投下方法であった。5月31日から2日間開かれた暫定委員会で次の3項目勧告が大統領に提出された。
① 原爆はなるべくすみやかに日本に対して使用されるべきである。
② それは他の建物に取り巻かれている軍事目標 ― 二重の攻撃目標に対して使用されるべきである。
③ それは兵器の性質に関する事前通告なしに使用されるべきものである。
 これは軍事施設と民間建造物が同居した、最大の爆破効果が得られる目標を選ぶことを勧告したものであり、明らかに多数の一般市民を殺傷する事をねらっていた。