大久保利通文書

明治元年一月三日付
去る九日、朝廷大御変革御発表の形体を熟考するに、既に二大事を失はれ候て、皇国の事十に七八は成るべからずと歎息涕泣いたし候折柄、将に三大事を失せられんとす。三大事共に失はれ候へば、皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水泡画餅と相成るべきは顕然明著といふべし。
(中略)
抑一大事を失はれ候とは、九日御発表、尽く御内評通、断然叡慮を以て、徳川氏御処置、会・桑進退等御達の御都合に運兼、衆評聞食され候御事と相成り、徳川氏をして即夜参朝御評議席に召さるべしとの趣、越・土侯或ひは後藤抔必死に論じ、漸くにして是を論破し、尾・越の周旋御受と相成りたる時宜合、是第二等に陥りたる基にて、畢竟衆評に渉らず、確断に出で候へば、第一等の策に万々疑なかりしに、失はれ候御大事の一なり。
第二には、徳川氏鎮撫のため下坂と申す表面にて、内実は華城割拠の勢を成し、帰国せしむるの御受を成したる会・桑を滞坂せしめ、剰へ要所々々警衛公然申達し、兵士を差出し、洛中同様の伏見・淀城迄多人数兵士繰登せ、朝廷の御趣意に乖戻、不遜なる紙面を以て外国に相達し候次第、恭順反正の趣意ならざるは分明と云ふべし。(中略)失はれ候大事の二なり。
 将に失せられんとする第三の御大事は、此の侭徳川氏上京相成り候得ば、参朝は申迄も無く、議定職命ぜられ候事、合心同力を以て、扶幕の徒必死に尽力致し候半。是迄さへ二大事を失はれ候次第に候得ば、中々以て朝議不動と申議叶せられざるは、鏡に懸て明なりと云ふべし。(中略)是三大事を失せられんとするの危急なり。右に就て、是を救ひ返すには、勤王無二の藩決然干戈を期し、戮力合体、非常の尽力に及ばざる能はずと存ぜられ候。今在京列侯藩士、因循苟且の徒而已、就中、議定職の御方、下参与職の者、具眼の士一人も之れ無し、平穏無事を好んで、諛言も以て雷同を公論になし、周旋尽力するの次第、実に憤慨に堪ふべからず。これに依り愚考するに、干戈を期する決定に至り候得ば、公然明白朝廷に尽し奉らずんば、万成すべからず」