南部仏印

>太平洋戦争は日本によるアジア侵略の延長上の必然的な結果でした。アメリカの陰謀とかアジアの解放、ABCD包囲網などは戦後の言い訳けにすぎません。

おっしゃる通りです。
昭和16年(1941)7月2日の御前会議で南部仏印の進駐を決定します。6月3日の独ソ戦の勃発を受けるかたちで7月2日に御前会議が行われる。ここで決められた国策は、南進か北進かに集中され、日本が南部仏印(フランス領インドシナ・現ラオスカンボジア付近)に手を出せばアメリカは参戦するかが主要問題となった。統帥部参謀総長杉山元は『ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う』と報告し、最後には了承される。
当時の外務次官大橋忠一氏は、この決定に対して非常に憂慮します。なぜなら、この決定は当然日本と英米との問に好むと好まぎるにおいて、戦争を捲き起す結果を生ずるからです。
大本営は外務省に対して.進駄に関して仏印当局との交渉の開始を要求します。当時松岡氏は病気引き籠り中であったので、交渉に当ったのは大橋次官です。交渉に先だし大橋氏は大本営当局に対し「南部仏時に進駐することは、米英に対し開戦を覚悟せねばならぬ。その覚悟と準備があるのか」と反問します。大本営当局はこれに対し「独逸と死闘を繰り返しつつある英国は決して進駐に対し挑戦はせぬ。進駐の結果は恐らくシンガポールの防御強化位が関の山である。又アメリカは英国やオランダのため火中の栗は拾わぬであろう」楽観的な態度であった。
つまり、ドイツによりフランス本国は潰れてしまいます。そこで仏印は潰れたフランスの植民地だから、これを誰が拾うかわからない。 先ず、第一に資格のあるのはドイツです。フランスのビシー政府を自分のかいらい政府にしているからです。ドイツは今のところ欧州の戦争で手が伸びないが、将来これを取るかもしれない。また、フランスにはイギリスの庇護下にドゴールという政権がある。このドゴール政権が英米仏印管理を依頼したとして、米国が引き受けたということにでもなれば、支那事変はいよいよ永久に解決しない。だから誰が拾うかわからないものなら、一歩を先んじて進駐したのです。これには、さすがにアメリカも黙っていられなくなり太平洋戦争が起こります。つまり、日本がバスに乗り遅れるといつまでも小日本で終わる。大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。
日本とアメリカの国力は20対1です。到底まともな戦争は出来るものではないです。それでも参謀本部の中堅将校らが開戦を望んだのは、当時西仏蘭西を席捲し、東ソ連に対して電撃的進攻を続けつつあった独逸の力を頼んでいたからです。つまり独逸が必ず勝つと信じていたのです。
そして自分の権勢拡大ために開戦派の中堅将校の傀儡となったのは東条です。彼等は日本を戦争に引き摺り込むためにハルノートの真の内容を国民に知らせなかったり、また、昭和17年度の鉄鋼は四百三十万トンしか出ないのを、鈴木企画院総裁に命じて机上プランで四百八十万トンに改め、渋り勝ちな海軍の要求を充足し開戦反対の根抛を奪い去ります。彼等は9月初旬近衛氏がルーズべルトと会見のため渡米せんとした時、近衛氏を六郷川の鉄橋で、爆殺することを計画します。さらに、12月7日正午に日本に到着したルーズべルトの親電を故意に遅らせ天皇の手許に届けます。アメリ国務省に手交すべき日本の最後通牒真珠湾攻撃と殆んど同時にハル長官に交わせられたのは、六ヶ条から出来ていたこの電文の最後の一ヶ条を、故意に数時間遅らしたからです。その方法は極めて簡単です。電信線をある一定の時間、遮断すればいいだけで、この種の操作は三国機関という防牒機関が担当しており、朝飯前の仕事であったのです。この機関の存在を知るものは大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。昭和十九年七月小磯内閣が成立してから杉山陸相の次官に就任した柴山兼四郎中将がこの機関を解散します。


参考
東條首相兼陸相昭和16年11月4日(真珠湾攻撃のおよそ1ヶ月前)の軍事参議会での発言(国立公文書館アジア歴史資料センターのレファレンスコードC12120205700「昭和16年11月4日 軍事参議会に於ける質問要旨」の9〜10/24画像からの引用です)

『上述軍令部総長の長期戦に於ける見透しに於て二ヶ年後の戦局に就ては不明なりとの点につき補足せんとす。本事項は連絡懇談会に於ても論点となりし所なり。二年後に於ける戦局の見通し不明なるに拘らず開戦の決意に到達せし所以次の如。
現在我れの採るべき方策としては四年に亘る対支戦果を以て動かず隠忍自重しあるべき途あるべし。此の場合二年後の状況を予想せば如何。油は不足すべし又米の国力戦力は整い殊に航空戦力は著しく我と隔絶し南方要地は難攻不落の状態となり我対南方作戦は極めて不自由且困難となる。此際米の対日態度は攻守素より予測し難きも若し積極的に挑戦し来らば我れは屈服の他なからん。以上は物の関係より考及せし所なり。
次に支那事変の見地より考ふるに、対日経済封鎖は益々強化せらるべく我れは何ら策の施すべきものなし。此状態は重慶ソ連に反映すべし。我占領しある支那の地域満州の動向は如何、更に台湾、朝鮮の向背如何。此の如きは徒に拱手して昔日の小日本に還元せんとするものにして光輝ある二千六百年の歴史を汚すものと謂わざるべからず。
以上により吾人は二年後の見透しが不明なるが為に無為にして自滅に終わらんより難局を打開して将来の光明を求めんと欲するものなり。二年間には南方の要域を確保し得べく全力を盡して努力せば将来戦勝の基は之れに因り作為し得るを確信す』

東洋経済新報社の「経済年鑑昭和15年版」にある国別輸出入額。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1458945/133
輸入額では中国(=満州国+関東州+中華民国が)683百万円に対し米国は1,002百万円、輸出額は同じ定義の中国が1,747百万円に対し米国は642百万円

独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構の特命参与岩間敏氏の論文「戦争と石油(1)」
https://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/0/652/200601_045a.pdf