「ゲーム脳」と子どもの教育

これは、こないだ話題になった「世田谷区ゲーム脳講演会」の顛末を当事者であるライターの方がまとめられた記事です。

ゲーム脳と子どもの教育の問題について、いろいろなところでいろんな議論を見かけましたが、あまり突っこんだ議論が見られなかったのが自分としては残念でした。何か、浅いところでとどまっている、という違和感を抱えていたところに、ああそうか、と入ってきたのはこのエントリでした。冒頭の「多様な善の観念」というフレーズはジョン=ロールズを意識したものでしょうか。
この問題は、ある種の倫理の問題の、現実化したバージョンであるということを押さえておかねば、議論が浅いところにとどまったままになってしまうと思われます。


「トンデモを排する」というぼくの基本的な立場と、その議論の内容から、ぼく自身は森昭雄の「ゲーム脳」論を受け入れることはできませんし、その考え方を教育に活かそうなどとはもっての他と思います。嘘のつけない自分の性格もあって、たとえ方便でもこれを教育にもちだすことはぼくにはできません。
しかし。
ゲーム脳」はトンデモの中でも単なる「疑似科学」に属する内容のものだから、その議論の構造が隠蔽されがちになりますが、これを同じくトンデモに属する「宗教」に置き換えてみれば、そのことがハッキリしてきます。宗教と教育との関わり、もっと直接に言って「宗教教育」の是非として考えてみたら、この問題はいったいどのように見えてくるでしょうか。ことは単純な「ゲームと教育」(あるいは「疑似科学と教育」)というイシューに留まらない広がりと深みをもつことが明らかとなるでしょう。


宗教と教育の問題、と一口に言っても、そこには様々な問題が含まれています。前近代を議論領域に含めると問題が複雑になりすぎるので、いわゆる現代の範疇に的を絞ります。

キリスト教の教義は、現代科学とのあいだに様々な矛盾を抱えていますが、そのような矛盾点のよく知られた一つに、「進化論と相性が悪い」ということがあります。ものすごく単純化して言ってしまえば、キリスト教では人間は神によってつくられたのに対して、進化論によれば行き当たりばったりのランダムな進化の果てに“自然に”存在するようになってしまったということになるからです。
アメリカではキリスト教が(事実上?)公的な宗教としてありますから、公教育にキリスト教の教義を反映させようという圧力は常に存在します。それが現実になった一つの「事件」として、この問題をアタマの片隅にとどめておくといいかもしれません。
これは公教育において、教育者が宗教性を帯びていたケースと言えます。ナイルズ=エルドリッジ『進化論裁判』ISBN:4892031933、鵜浦裕『進化論を拒む人々』ISBN:4326652195の問題を詳しく伝えています。

こちらは逆に、公教育の場において、被教育者が宗教性を帯びていた例です。フランスで、公立学校での「ヘジャブ(イスラム教のヴェール)」着用を禁止する法律が施行された、という「事件」です。
「公教育」というとオオヤケによる教育ですから、その場への宗教性の持ち込みは近代民主主義社会の原則の一つである「政教分離」の問題にどうしても関わってくるでしょう*1。その場に、教師が宗教性を持ちこむことの是非を論じるのは人権という議論の俎上にのせるのがたやすいですが、しかし、持ちこむ主体が学生の側であった場合はどうなのか。


ここまでだと単に「政教分離」の話で片づけられてしまいそうです。しかし、宗教教育の問題は、公教育の問題である以上に、家庭教育の問題なのではないでしょうか。ここで一つの補助線になるのが、こないだ少しだけ紹介した次の本です。

説得―エホバの証人と輸血拒否事件 (講談社文庫)

説得―エホバの証人と輸血拒否事件 (講談社文庫)

この本が採りあげる「事件」とは、事故に遭った子どもの手術に対し、親が戒律に基づき、輸血をせずに済ますことを医師に求めたため、手を尽くしたが出血多量で子どもが亡くなってしまった、というものです。キリスト教の教典である聖書の中に「血を飲んではならない」という記述があるのを、この家族が信奉していた宗派では「輸血もしてはならない」と解釈しました。この“輸血拒否”の是非が当時大きな話題となりました。
この本自体は、その問題を直接追うよりも、まさに森達也の『「A」』のように、その中に飛び込み、どうしてそのようなことになってしまったのか、その家族の信仰生活をして語らせる、という感じのものです。
正直な話、こんなに明らかに「実害のある」親の“教育”(?)にすら、それを一口に「虐待の一種である」と断言してしまうことに、ぼくはためらいを覚えます。そんな簡単な紋切り型を許さない何かが、ここにはあるように感じられるからです。


これに限らず、親の教育が明らかな「実害をもたらす」例は、少ないわけではありません。よく言われる話としては、「DQN*2の子はDQN(になる)」「DQNの再生産」と言われる、いわゆる「文化資本」の問題があります。このレベルだと、ある意味ぼくらの介入は「余計なお世話」で片づけられてしまうかもしれませんが。
また、ぼくが耳にした話に、「風疹」のワクチン接種の問題があります。ぼくは医者でないので、ここに書いていることは話半分として、正確な情報は専門家に頼っていただきたいと思いますが、風疹はハシカか何かと同じで、ワクチン接種によって体の中に抗体ができ、それにかからない体をつくることができるそうです。ところで、妊婦が風疹にかかると、生まれてくる子どもが「先天性風疹症候群」という障害を負う可能性があります。また、昔は“強制的に”なされていた風疹のワクチン接種が今では“任意”となりました。そのことによって、「かわいい子どもにワクチン接種とはいえ傷を負わせるのは“虐待”だ、そんなことはできない」と考える親が、ワクチン接種をせずに済ますこともままあるそうで、自分がワクチン接種を受けていないことを知らずに大きくなった女性が、妊娠中に風疹にかかってしまい、……という。
親が「善かれ」と思ってしたことが裏目に出ることなんて、ほんとにたくさんあります。親からぼく自身が受けたことにもそれはもちろんたくさんありましたし、ぼくが親になったら、ぼく自身が子どもに対してすることの中にも数限りなくあるに違いありません。ましてや、親が意図せずになした教育の“害”なんていかほどだろうか……*3


実害がハッキリしていてすら、ぼくは悩んでしまう。それは許されざる“悪”なのだろうか、と。
一番の問題は、「子どもは誰のものなのか」というパターナリズムの問題でしょうが、ぼくは、それに対して、「公」と答えることにも、「親」と答えることにも、そして「子ども自身」と答えることにすら躊躇してしまう。これはそんなに簡単に割り切れる問題ではないはずだ。立岩真也の文体、たとえば『私的所有論』ISBN:4326601175け同じところをぐるぐる回るのは、その自覚のためではないのか。
……などとぐるぐる考えている今日この頃でした(^^;

*1:反対に、今日の日記に出てくる「宗教教育」という文言を「政治教育」と置き換えてみるとどうでしょうか。ぼくは、まったく同じことが、政治教育にも当てはまると考えます。

*2:説明の必要な言葉でしたね(^^;; 「2ちゃんねる語」の一種で、読み方は「ドキュン」。意味としては、まあ、中学のころボンタン履いてたのがそのまま大きくなったような人たち、のことです。

*3:うちの母は酒とタバコをのむ人で、実家にいた約二十年のあいだぼくはずっと「受動喫煙」をつづけていたことになります。そんな様子を間近で見続けてきたからか、ぼくの兄弟は全員タバコをやりません。まあ、タバコの健康被害は必ずしも明らかではありませんが、タバコを吸わない人間が新幹線の「喫煙車」に乗って生活しているようなもので、これが無害とは言えないでしょう。とはいえ、反面教師という意味ではよかったかもですが(^^;