マトモな哲学のすすめ(6)

超久々の読書感想文です。
以下の哲学入門記事のつづきなんですが、 …これ書いたのもう8年も前なんですねΣ(゜д゜;

あと関連で書いたのはこれ。こちらもつづきを書こうと思ったまま2年が経ってしまってますが…


この「マトモな哲学のすすめ」という連作記事の趣旨はこの記事の中で書いていますが、→哲学の境界設定 - hideo's hideout.
つづきを書きたくなったのは、こないだこちらの対談本を読んだから。



物理学者の須藤靖が、哲学者の伊勢田哲治に対して「科学哲学はそもそも学問としてマトモと言えるのか!?」と迫る本書。こんなにギスギスしていて、なのになぜか揚げ足取りにも口ゲンカにも発展しないという対談、ぼくは初めて見た気がします(^^;
自分が理解する限りで須藤の「哲学に対する疑問・要望」をいくつかピックアップしてみましょう。クエスチョンの形になってはいますが、「須藤の言いたいこと(本心)」はすべて“反語”になっていると考えてもらえばいいと思います。全体を読んだ印象からだいたいこんな感じのことを言っていたはず、と思ってまとめたので、不正確かもしれませんが。

  • 哲学の主張や業績の客観性・妥当性はどういう基準で保証されているのか。まともに査読もしていないので、客観性も妥当性もなく、品質保証ができていないのではないか。
  • 哲学書では実際には当たり前のことだったり大したことでないものに対して難解な言い回しを採っていることがあるが、読むのに苦労するので時間の無駄だし読者に失礼。
  • 科学はこの数百年で大きく進歩しているのに対して、哲学はいったいいつまで何百年も前の議論を十年一日に延々繰り返しているのか。結論が出ないのなら問題の立て方を変えるかいったん保留にしないと、時間の無駄ではないか。
  • 数百年前の「科学」に対してなら当てはまるかもしれないが、現代の科学では小数点第何位の誤差というレベルの精度で議論しているのに、科学研究の現場を見もせずに哲学者同士の間だけで「その対象は存在しないかもしれない」「その結論は誤っているかもしれない」などと今どき言い合っているのは机上の空論ではないか。
  • 科学哲学は「科学」哲学と言いながら、科学の最先端をフォローしているようには見えないしそういう話も聞かない。ほんとに「科学を哲学」しているのか。
  • 「○○が述べているように」というフレーズは科学では単なる先取権の明示に過ぎないが、哲学でのそれは虎の威を借るために行われているように見える。
  • 哲学の議論に立場の対立があるといっても、それは議論を曖昧なままにしているからであって、きちんと見れば両者の言っていることは単なる定義の仕方の問題に過ぎず、結局同じことを言っていたり、あるいはどうでもいいことしか言っていなかったりするのではないか。
  • 100点満点の厳密な解答を求めようとするから結論が出なかったり極端で非常識な「極論」を主張するはめになってしまうのではないか。80点とれたところでいったん満足することは認められないのか。現実的で優れた対案を示すことができないのに、対立する意見を「机上の空論」と批判するのはおかしい。

物理学と哲学、正しいのはどっち、と言われたら、哲学ファンで哲学の擁護に回りたい自分ですら前者を選びます。物理学が正しくて有用なのはあまりに明白で、一方哲学(という分野、ギョーカイ)は、ぼくがこんな記事を書かないといけない程度には内部にそれなりの「トンデモ」を抱えていて擁護しきれません。ただでさえ(ほぼ)絶対的に正しい物理学に対して、自分が必ずしも評価しない部分まで含めて哲学の擁護・防戦に回るというのは圧倒的不利に過ぎて、“弱い者いじめ”の観はたしかにありました。
しかし、須藤の問いには「なるほど確かに、哲学者はこれに答える義務がある」というものが多かったとぼくは思います。中には「それを哲学に求めるのは筋違いでは…」というものもありはしましたが、そのような注文が出るのは哲学の問題意識が理解できていない、つまりそれを理解してもらうことに伊勢田が結局成功できなかったためと言え、哲学者に多くの宿題・課題を示した挑戦的かつ意義のある企画だったと思いました。
それに、合意はできずともケンカ別れに至らなかったのは“まだ脈がある”ということだと思ったんですよ。本書の最初のほうで須藤が『「知」の欺瞞』asin:4006002610を持ちだして、そこで採りあげられているような人々は頭がおかしい、とやりだしたことから、相手がトンデモ哲学だったらそもそも話にならなかったと思われますしね。


これは、伊勢田哲治の言い方に従うなら、アカデミックな「哲学」でなくてジャーナリスティックな*1現代思想」や「社会学」の風潮ということになるのかもしれませんが、ぼくも「トンデモ哲学」ということを考えるときに同様の疑問を以前からずっと抱いてたんですよね。
職業哲学者はアマチュアではないのだから、「時間」について議論するのに物理学での時間に関する知見と反することや旧聞に属することを述べていてはいけないと思うし、「心」について議論するなら最新の心理学や動物行動学を参照すべきだと思うんですよ。
それをせずに、エーテル時代以前の科学あるいはヒポクラテス時代の医学のレベルに留まったままのフロイトやオカルトとしか思えないユング、それをさらにトンデモ方面へこじらせたラカンの議論なんかを未だにありがたがって振りかざす神経が、自分にはさっぱり理解できないんです。
「失錯行為」とかいって「潜在的な願望」云々、さらにその議論が差別論に転用されて「差別的な言い間違いをする人間は、本質的な差別者だ!」みたいなことを言う人がいますが、認知心理学の知見を参照するならそれって単に脳というデータベースに対する「検索ミス」でしょと。*2 すみませんグチはこの程度に止めさせていただいて(^^;


一点、これはどういう意味で言っているのかハッキリしませんが、ちょっとイヤな言い方だな、と思ったので引かせていただきます。

伊勢田 実は大半の科学哲学者は科学実在論者なんですよ。ただ、各論になって受け入れる理由の説明を要求されると、けっこう困ることがある。
須藤 あれ、そうなんですか? 私が読んだ教科書には、「科学哲学では実在論は旗色が悪い」と書いてあるものが少なくとも二冊ありましたが。
伊勢田 それは哲学のお作法で議論すると立証責任が実在論の側に回ってきて、実在論はどうしても防戦する側に回らざるを得ない、ということだと思います。(p.199)
(中略)
須藤 でも伊勢田さんは反実在論派ではないんですよね。(後略)
伊勢田 私は割と反実在論にシンパシーを持っているんですよ。もともとの認識論の問いを出発点にしているところから五感というものをとりあえずある種特権化するというのは、この議論の哲学的な背景から考えたならば、一応整合性はあると私は思うんですよ。(p.209、強調引用者)

哲学の議論というのは、ぼくは「感情(本心)」と「理屈」を切り離したところにあるものだと思ってまして。


(3)で述べましたが、ぼくは哲学とは「正しいと言えるものの考え方の探求」だと考えています。ここで「正しいと言えるものの考え方」とは、要するに「理屈」なんです。
たとえば目の前に時計が見えるというとき、その時計は「<ある>」のか「<ある>とは言えない」のか? ここで「<ある>ように“感じられる”が、<ある>とまで断言はできない」というのが反実在論の主張なんですね。で、哲学者でない“ふつうの”人、たとえばスドウ氏は、この「<ある>ように“感じられる”」ことを「ある」と“短絡”するので、反実在論派の言い分に違和感を覚える、ということになります。*3
しかしですよ。
「ここは高層ビルの屋上“のように見える”が実は違うかもしれず、ここから飛び降りても助かる“かもしれない”」みたいな推論って、たしかに「理屈」の上では矛盾はないかもしれませんけど(I can fly!しない限りは確かめられませんから)、そういうふうに「思って(確信して)」生活している人がどれだけいるというのでしょうか?
ぼくたち一般生活人の日常意識の上では、無限の可能性はほぼ常に刈り取られて選択肢はだいたいいつも一本道であり、目の前の地面が自分が足をついたとたんに消えて無くなることなんて想定外で、見えるものが「無いかもしれない」なんて想像すらできません。そのようなほとんどありえないことを考慮する傾性というものは非経済的なため進化の途上で淘汰され、ヒューリスティクスによる判断が当たり前になっているからです。
目の前の時計が「あるかもしれないし無いかもしれない」なんて、「理屈」の上ではそうかもしれませんが、「実感」「感情」の上でぼくは絶対にそんなことを信じたりしませんし、考えること自体ありえません。そのように考えているぼくは、だから、「理屈」の上で受け入れられなくもない程度の議論に対して「シンパシー」(共感)という単語を使われたことに多少の嫌悪感を抱いてしまったのだと思われます。そんなことほんとに共感・実感できるのか、しようがあるのか、と。


ぼくがプラグマティストだから、という言い方が合っているのかわかりませんが、「主義」(理屈)に「感情」を従わせる、というのは、ぼくは嫌だな、と思います。それに類することを昔も書いたことがありますが… →小市民主主義宣言 - hideo's hideout.
この関連でぼくの好きな本の一節を引いておきます。

しかし私は、ローティーにたいして、かさねて次の点を指摘したい。真理は、疑念を信念にかえる、いいかえれば、問題を解決していく、探求の無限のかなたにある。暫定的な問題解決、すなわちデューイのいう「保証つきの言明可能性」にたいしては、くりかえし異議申したてがおこなわれる。しかしこれは、「実在」とはなんのかかわりもなしに、延々とつづくたんなる会話ではない。たとえば日本における身近な例をあげれば、水俣病の問題にしても、北朝鮮による拉致の問題にしても、自分たちの周囲にいる人びとの生死につながる「実在」との痛切なかかわりがあり、探求をつづけることによって、やがて真相が解明され、「実在」があらわになると信じるからこそ、異議申したてがおこなわれるのである。
(魚津郁夫、『プラグマティズムの思想』asin:4480089624、p.332)

物語論」とか「社会構成主義」とか言いますが、たとえばある裁判で被告が無実なのかそうでないのかが問われるときに、その判決が「物語」であり「社会構成物」であるという主張の、何と重みのないことか。いやもちろん、それがある意味で物語でありある意味で社会構成物であることに、ぼくは完全に同意しますけども。
それが<ウソ>だと「思う」なら、徹底的に反論すべきだし、判決を翻させるべきなんですよ。だってその判決には、関係者の人生が、“命”がかかってるんですよ? 「口先」では、「理屈」では何とでも言える。そうする「つもり」も無いくせに、何のためにそういうことを「言う」のか。野家啓一『物語の哲学』asin:4006001398を読んだときにもそう思ったのですが。
ぼくが相対主義的な哲学、それを唱導する哲学者に対して抱く違和感、もっと言えば「うさんくささ」は、そういうところからきてるんですよね。*4 目の前に時計があるという“この実感”、これまでの実験結果からして現代の科学理論はおおむね正しそうだという“この信憑性”について、語ることばを哲学はもたないのか? だとしたら残念なことだなあ、と。


というところで、今回は以上となります。ブックガイドはまたの機会に。

*1:この「ジャーナリスティック」は、正しいことよりセンセーショナルなことを優先する、という“悪い”意味合いで使っています。語弊があるかもしれませんが、アカデミック/ジャーナリスティックはぼくが勝手に付け加えた形容詞で、「伊勢田哲治の言い方」と言っているのは、須藤「○○の言っていることはおかしいじゃないですか」伊勢田「いや○○は哲学じゃなくて現代思想社会学)の人で」みたいなやりとりを何度か見かけたので、それを引いています。

*2:「失錯行為」とは、言い間違いが起こるのは偶然ではなくて、無意識に潜在する願望の現れなのだ、というフロイトの主張のこと。だから、差別的な言い間違いをする人は、差別的な感情を本心として隠し持っていて、…みたいな議論につながるのです。
しかし、某TVドラマじゃありませんが、「ばんなそかな!」なんていったいどういう“本心”から出てくる「失錯行為」なのか、という話なんですよ。(これは「スプーナリズム」と呼ばれるれっきとした言語現象で、言語学の研究対象ですが。たとえばこちらを参照→窪薗晴夫、『ネーミングの言語学asin:4758925089
認知心理学によれば脳は生体コンピューターでありデータベースであって、差別的な言葉でも一度触れれば知識として取り込んでしまいますが、溜め込んだ知識をおもてに出すとき脳に対して実行される検索は、データ間の関連性・類似性を芋づる式に辿ったり“だいたい”の感じで確率的に行われるので、データとして近いところにあるものが誤って出力されることがある、というのがその見解となります。
たとえば二番のはずなのに一番を歌ってしまう歌詞誤りはよくある話ですが、本心では一番が歌いたかったからそうしてしまったというより、一番のほうが歌い慣れている(検索に引っかかりやすい)ので思わず口をついて出てしまったという説明のほうが、常識的で妥当ではないでしょうか。もちろんこのことは、ついうっかり口を滑らせて本心を吐露してしまうことがありえないと否定しているわけではまったくありません。

*3:実在論vs反実在論の論争は哲学のあらゆる分野に現れる議論であり、それが理屈の上で(哲学上)興味深い問題であることをぼくはもちろん認めています。
守るべき道徳や法というものが、本来的に存在するものなのか、それとも現在の社会のあり方に要請されてたまたま今あるものが選ばれているだけなのか(法哲学における「自然法論」と「法実証主義」)。数学上の「無限」とは、実際にそういうものがあるのか、それとも数学のルール上あったほうが便利だから利用されている道具にすぎないのか(数学の哲学における「実無限」と「可能無限」)。歴史哲学における「史実」概念や芸術哲学における「贋作」概念に関する議論、等々。

*4:急いで付け加えますが、だからと言って「絶対主義が正しい」と思っているわけでは全然ないので誤解なきよう…