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野良のかぜ 街のかぜ

2013-11-24

まさひ 騎射競技大会

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 高句麗時代に行われていた騎射が高麗神社前の高麗川河岸にある小林牧場で再現されるのを見学。これは、高麗神社、高麗郡建郡1300年記念事業委員会、日本騎射協会による協同事業です。

 今は放牧されていない広々とした草原は実に気持ちがいい。背景の山と川が全景と調和し、ここは私の好きな景観の一つです。3町歩もある使われていない草原は、このまま公園にすれば最高の市民の憩いの場になりそうだ。牧場主とは2年ほど前に、草刈りの際話したことがあるが、いい転用があればと話していたことを思い出しました。

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 走っている馬から矢を放ち的に当てることは難しい。騎手によってかなりスピードが異なっていたのは経験の差のようです。やはり、猛スピードで駆け抜ける方が馬らしく見ていて気持ちいい。私は的の近くではなく、馬場の端っこで見ていました。馬を間近で見たかったのです。

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 馬は走ってきてから、どんな風情になるのか興味あって見ていました。走り終えてから“涼しい顔”で何事もなかったように草を食んでいる。この程度の走りでは、どうということはないらしい。

 エンジンの力を表現するに「馬力」といいます。走りも力も、人間の力を補ってくれる動物として有史以来のパートナーでした。

 私の知っている農家に、かつての日本の農業のように馬を中心とした生活、農業を営んでいる人がいます。馬を間近で見ると、確かに、いっしょに農耕と生活を共にしたくなるような気持ちになります。

2013-11-20

知られざる日高の巨大な知識人「桑田衡平」

 17日に図書館で行われた歴史講演会(歴史散歩の会)で「桑田衡平の生涯」の話しを聴きました。講演者は北平沢の入江武男氏。6月に『幕末、明治初期の翻訳家 桑田衡平 思出草』という著書を頂き、読後の感想とお礼の手紙を出してありました。著者本人とお会いできる機会と思っての参加です。

 講演は本の記述の流れに沿って、パワーポイントを使って資料を示しながらの分かり易いお話しでした。パワーポイントを自在にお使いになることは意外感がありましたが、考えて見たら入江氏は技術者だから当然のことかと思いました。

 入江氏は、桑田衡平は外国の医書の翻訳をいち早く手がけ、日本の医療の進歩に貢献した人物で、その業績は福沢諭吉等の明治草創期に活躍した人物に匹敵するものと強調されていました。

 桑田衡平の翻訳はただ単なる翻訳ではなく、言葉を取り巻く周辺の事情や意味をも調査しその成果を取り込んだものだったらしい。医学者で翻訳家で、さらに、ここからは私の見解で入江氏も使っていない言葉だが、優れた編集者・出版者であったということです。

 入江氏の著書に拠ると、桑田衡平は自分の翻訳原稿を、自分で版木職人や後には活字工を雇って本を印刷・製本し販売したとのこと。それ故に利益はすべて自分に滞留し莫大な富を築いたようです。その富が、兄の高林謙三の発明の資金に回ったことも明らかにされています。

 本の感想を少し。

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 『幕末、明治初期の翻訳家 桑田衡平 思出草』は、丹念に関係資料を読み解き、事実を発掘する姿勢に貫かれたノンフィクションです。「桑田衡平」という人物像が全体的に描かれており、優れた伝記を読んだ後の満足感を十分得られる作品です。

 私は「桑田衡平」についてはほとんど知識がありませんでした。製茶機械を発明した兄、高林謙三については、手近の資料に啓蒙的文章があり、最低限のことは知っていました。また日高町教育委員会が編纂した史跡・遺跡を調査した資料には、両者が兄弟であるという記述が、碑の解説として載っております。いずれにしても、私の知っていたことはその程度でしかありません。

 読み始めてすぐですが、私は驚愕の気持ちを伴いながら刺激的面白さに引き込まれました。桑田衡平・高林謙三兄弟の父母「忠吾」と「きく」という人物の生き方です。忠吾の強い精神力は生来のものかもしれませんが、それにしても、家、一族、郷、村の慣習に逆らえなかった時代に、一人の娘への思いを遂げるために金や地位の全てをなげうったことは驚くべき事です。

 思いを寄せられた娘「きく」についても同様です。忠吾と一緒になった後、貧困の中で勤勉に励みながら、子どもの将来について広い見識をもってあたり、羽ばたくことのきっかけをつくったことは、母として人間としての偉大さを感じます。

 衡平の知識・学問へのほとばしるような情熱と行動には、このような両親の素質を受け継いでいたのかもしれません。日高という土地から、このような知識と真理・真実を求める人材が生まれたことに非常に感動しました。

 艱難辛苦の中での桑田衡平の「知識・知ること」に忠実な生き方は、情報が溢れる中で自ら知識・真理を求めようとせず、大勢の先入観に埋没してしまう私たちに清清しい示唆を与えてくれます。

 日高にこのような偉大な知の源流があったことは、まだ良く知られていないようです。入江氏の著書によって、生涯が明らかになりました。図書館の入り口に兄の高林謙三の銅像が最近建立されました。弟の桑田衡平については、まず何よりも、市民が彼の生き方を知ることです。

2012-07-19

青山善光寺

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  ここの所、毎日打ち合わせで神宮前に来ています。夜であったり、急いでいたりで周囲に目が行く余裕が無かったのですが、昼頃、予定が終わり昼飯を食べようとブラブラしていました。  

 南青山の神宮前交差点から原宿方面。世界のブランドが軒を連ねています。交差点を北青山方面に3、40メートル行くと左に入る道があり、その先すぐ目の前にお寺の山門が見えました。その先に大きな本堂が見えます。

 青山善光寺。神宮前交差点のすぐ裏手にこんな大きいお寺があるとは知らなかった。学生時代は交差点から左折して原宿方面に向かうのが常だったから気がつかなかった。

 境内に入ってみると相当な広さだ。山門をくぐると右手に鐘楼、中央の本堂の右手に大きく立派な木造建築の庫裏がある。本堂と庫裏の間の奥にはやはり大きい建物が見える。山門左手から本堂左手には広い墓地が広がっており、墓地に接して表参道沿いの世界のブランドが入るビルが建っています。山門は両側に仁王様が入っている。

 酷暑の日の午後、境内はシンとしており、セミの鳴き声だけが聞こえる。喪服を着た老夫婦がよろよろと歩きながら花を手にして墓地に入っていきました。

 墓地の向こうののビルの中はニューヨークファッション、道路の向こう側には重厚な構えのグッチのビル。さんざめく人の流れと車の喧騒はここまで届かない。空気が乾いているせいかこの都心でも湧き上がる夏雲がくっきりと見え、木陰の石に座ってぼんやりと見ていると、大きな仕事が終わる安堵の気持ちも加わって心地良い。

 境内に、江戸末期蘭学者である高野長英を同郷の人々が敬い偲ぶ石碑があった。石に刻まれた碑文を読むと、長英はこの地で非業の死を遂げたとある。長英と石碑を作った人々の故郷は岩手県水沢であった。

 高野長英は、長崎で蘭学を学び当時最も活躍した学者であった。江戸幕府の外国船排斥を批判して捕らえられたが、脱獄し身を隠しながら各地を転々とした。青山で医者を開業していたとき再び捕えられ死亡。抵抗しての最後であり文字通り非業の死であった。高野長英の時代を見る目と批判精神は多くの作家の題材になっている。

 これほどの大きな伽藍を持つ寺のことだから相当の由緒だろうと思って何か案内があるかもと思って探したが何もない。そこで庫裏に行けば何か分かるだろうと玄関に立ってガラス戸越しに中を伺うと先客がいた。雰囲気からすると老婦人は檀家のよう。

 話が終わるのを待つついでに玄関周りを眺めていると、目に飛び込んできたのは自民党の某大物政治家の顔が全面に大きく印刷されたカレンダー。受付の後ろのつい立に貼られ玄関入り口に向けられている。

 何か面白い風景を見た印象である。玄関周りは普通の家でも気を使うのが常。これはこれで、この寺のセンスであろうと思った。来意を告げると、寺を紹介する立派なカラーカタログが黙って差し出された。これは有難い、どこにも由来が出ていない代わりに、寺の詳しい歴史が書かれた16ページのパンフレットが頂ける。

 読もうと思い、今度は仁王様の後ろにある鐘楼の階段に向かったが、こちらも、魔法瓶を傍らに置きタッパーの弁当を広げている若い女性の先客がいた。反対側の鐘楼を囲む縁石に腰を下ろす。

 青山善光寺は法然の浄土宗のお寺で、もともとは信州善光寺の江戸の出先であったが徳川将軍の庇護を受けて大伽藍に発展した。明治維新となって後ろ盾を失い寺の維持に苦労した歴史が書かれている。都心の一等地、檀家の経済力も相当なものであろう。現在の建物はすべて戦後の建築、私が大学を卒業した年に本堂が完成している。

 静かな境内に惹かれて散策したが、幕府の寵愛を受けたお寺に、幕府によって殺された蘭学者の石碑があり、その出身地が水沢であることから今をときめく虚像肥大化症候群の政治家を思い浮かべたり、某大物政治家の顔を拝顔する羽目にもなってしまった。心安らかに休息ということにならなかったが、都心で思いがけず見つけた仏様の居場所は貴重である。

 パンフレットの最終ページ「終わりにあたって」にこうあります。

「この青山善光寺は、誰もがしばし社会の喧噪を離れ、座して御仏様と語り深く静かに思索する場となっております。どなたにも門戸を開いているこの善光寺では、一光三尊仏の光を一人でも多くの方に感じ取っていただければと念じております」

 

 

 

 

 

 

 

2012-06-17

高麗神社講演

 第9回渡来人の里講演会。「古代高麗郡と寺院の造営」講師:国士舘大学文学部 須田勉氏

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 須田氏の講演は以前にも聞いたことがあり、考古学の実証研究からの説明は大変面白く関心をそそられます。

今回の講演は、最新の実証研究を加味した話しでした。

 1 初めに

 2 古代高麗郡と寺院

  (1) 高句麗の滅亡と高麗王家・肖奈王家

  (2) 最古の寺院、飛鳥寺

  (3) 女影廃寺(若宮廃寺)

    a. 瓦の分析

    b. 武蔵国分寺の文字瓦

    c. 女影廃寺の性格

  (4) 高岡廃寺

    a. 遺跡の立地と遺跡の分析

    b. 瓦の分析

    c. 高岡廃寺の性格

  (5) 大寺廃寺

    a. 遺跡の立地と遺跡の分析

    b. 瓦の分析

    c. 大寺廃寺の性格

 この目次の内容と筋立ては、『日高市史』の「第一編:原始・古代、第四節:高麗建郡、一:高麗建郡の歴史的背景」の内容と同じであり、ここを読んで理解していれば一層面白いと思いました。

 『日高市史通史』は平成12年発行、高萩駅北区画整理地では、工事開始以来、遺跡発掘工事がかなり行われました。そういう成果が具体的にどう史実の判定にどう結びついたか、その辺も私の関心でした。

 遺跡と出土した瓦の分析から推理した、当時の政治と人々の生活と移動は、いつも見慣れた風景を思い出しながら聞けば、時間を超越した地域の隣人という思いに至ります。

 話の内容の理解のポイントは、地図と人名にあります。瓦の文様や形もさることながら、やはり面白く理解するためには、地図と地域をつくる為政者の活躍です。

 学者としては、出土品の分析から離れた記述は出来ないわけですが、「建郡1300年祭」という日高市民と官あげての大企画を計画するのであれば、歴史の話も何か工夫すれば面白いのではないかと思いました。

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白磁のこころ展

 渡来人の里講演会に行ったとき、高麗家住宅で開催されていた「白磁のこころ展」に寄ってきました。

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 私は陶磁器に関しては全く知識もないし、せいぜい陶器市を見ることやお宝鑑賞で本物だ偽物だ、と言う程度なのです。白磁については景徳鎮しか知りません。

 高麗家住宅の開放された窓(古民家特有の名称があるはずだが……)から、ぼーっと白く浮かび上がっている白磁を望見して、暗い部屋の中に入っていきました。

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 白い姿が印象的ですが、表面の模様には驚きました。このような手の込んだ文様が立体的に焼き物となる工程はどんなものだろうかと。

 また磁器に書かれている動植物の描き方に、抽象的なスパッとした割り切りが感じられます。鳥や鹿や蝶々は写実とは異なった少しデフォルメというか、自然に距離を置く姿勢が感じられます。青か黒か、せいぜい赤系の色と2色くらいで、白地に書かれた抽象のちょっと前の文様化というか、そんな感じの絵に、私は非常に清々しい思いを抱きました。

 日本の絵の、周囲の風や湿り気や陽光までも感じられる絵とは大違いです。韓国の庭園の作りは人手による刈り込みや整形を一切行わず、自然の樹形や周囲との連続で成り立ったもので、日本の庭園の作りとは異なっているというのが定説ですが、ここには、あるがままの姿とは異なる、自然とは別の者への希求と高潔な意思を感じます。

 とまぁ、評論家風に書きましたが、特に感じたところです。

 白磁展のポスターにあった宣伝文句(キャッチコピー)。

「あなたは、浅川巧を知っていますか?

その白磁のこころにこそ、日韓交流の未来があります!」

 浅川巧? 知りませんでした。いま話題になっている日韓合作映画とのこと。映画のことも知りませんでした。日本が朝鮮を併合した1914年にソウルに来た林業技術者が、朝鮮の人と文化に出会い目覚め、友情を築く物語です。これは見てみたい。

 作品を掲載したカタログを購入しました。800円。

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2012-02-20

武蔵横手神社

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 水辺再生事業完成記念式に早く着きすぎてしまったので、神社にまずお参りをしてから、ぐるっと回って見分しました。ぐるっと、と言っても小さな社なので3度回って見ました。いつも遠くから眺めていただけなのでいい機会です。 

 870年にできた武蔵横手神社。その時は八幡神社といったが、その後諏訪大明神と名前を変え、明治元年、1868年には武蔵横手神社となりました(案内板より)。

 会場となった境内の端に参道があります。神社前の階段まで続く参道と神社の周囲は砂地で、箒で掃き清められています。そこを歩いて足跡がついてしまったので、思わず後ずさってしまったのですが、思い直して足跡をつけながら歩かせていただきました。

 本当の神殿は裏にあります。全体を屋根つきの檻(おり)で囲っているのでよく見えません。そこで、よじ登って写真を撮り本当の神社本体を拝みました。堅固な造りで彫り物の装飾が施されています。貴重な建物故、檻で囲っているのかもしれません。

 神社の壁に掲示されている「横手の三義人公徳記」。江戸城無血開城の後、上野の山で彰義隊が東征軍に敗れたのを機に飯能まで逃れてきた一派が、能仁寺で闘って敗れ山中に逃れました。彼らをかくまって逃走を手助けした事情が書かれています。

 これについては何かで読んだこともあり、初めて知ることではありませんが、帰ってから書かれていることを確認してみました。この時の飯能から横手周辺の騒動については、『日高市史』にも詳しく書かれており、明治維新前夜の空気が読み取れます。

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