7人の物語をつくっています

2年ぶりの更新ですねえ。。。
始めたころは、続けてるうちに自分にもちょっとくらい何か面白いことが書けるかなーと思ってましたが、題名もこんなままだし、まー、自分はブログ書くのはは向いてないな、と思いました。

そんなわけで、もうこのブログ、黒歴史として閉鎖しようかとも思いましたが、今友人と作っているサービスのことを書いておきます。

ネットでの出会いをもっと安全でさわやかなものにしようという試みです。

男性4人女性3人をグループとしてマッチングするサービスなのですが、
「妙齢の男女を4:3の絶妙の割合でマッチングすれば、そりゃーなにもしないでも勝手に盛り上がるでしょ!」
と思ってましたが甘かった。。

「もりあがる7人のグループを作る」という問題に対しては、そこから無料ベータ版での試行錯誤を1年以上するハメになってしまいました。

ここに来てようやく7人が盛り上がるフォーミュラができたと判断して、有料公開に至りました。

リア充(という言葉はその頃なかったですが笑)になろうとガンバッてた時代の自分に贈りたいサービスです。

昔の僕のような人たちに、ここでハリキリすぎたりスベッたり、いろいろと恥ずかしい思いをしながら成長の場として使ってもらえる、なんてことになったら最高です。
(エラそうでごめんなさい。このとおり僕も日々修行の身です。笑)

あと、若手芸能人の方達7人に公開で交流してもらうという企画も進行中です。
ここで出会った7人が、リアルに飲みに行くという話の流れになっているようで、ずいぶん盛り上がっています。
よかったらのぞいてみてくださいね。

読書:考える脳考えるコンピューター

パームの創始者が脳の仕組みについての自説を語った本だ。

こいつはすごい。いままで自分の脳を使ってきた経験から、ああ、それは正しいかもな、と思わせる説得力がある。脳の仕組み的なことを書いた本は何冊か読んできたが、「この場所は数学的思考で、この場所は言語」とかの分類学的な話で終わってしまっていたり、なんか宗教的に一人で盛り上がってるだけで何も意味のあることを言ってないなという感想を抱いたりするくらいが関の山だった。だから、ああ、脳のことっていうのはまだ誰もそれくらいしか分かっていないんだな、という結論を自分の中で出していた。

でも、この本は違う。脳をエミュレートする機械を本気で作るつもりになったら解かなければならないであろう具体的な問題にちゃんと答えようとしている。
読み進めていると、そこにまさに書かれている仕組みで自分がこの本を読み進めているという、自己言及的な、なんとも不思議な気分が味わえる。

思うに、これを論文にしないで一般書で出しているのは、「根拠はないけど多分こうだと思う」といった科学的根拠に基づかないオレオレ理論の部分が多分にあって、主張をデータで立証することが大事な論文という形式で出すのはふさわしくないところがあるからなんだろう。(まちがってたらごめんなさい。)でも脳の仕組みのような巨大なパズルを解くには、科学的に証明はできなくてもそれらしい直感や仮説からトップダウンに問題を解いていくアプローチも必要だろう。
著者自身、この辺のトレードオフについては意識しているようで、直感に頼った科学者がその直感に詐がれたことが歴史上何度もあったということもさりげなく述べている。

僕も以前、オレオレ脳理論を考えたりしてみたが、いやさすが、僕のより全然考えが深いです。でも自分なりにこういうこと考えるのは楽しいのでこれからもオレオレ脳理論は考え続けると思う。

人類とか国とかの寿命を計算する方法

人類が誕生してから滅亡するまでの時間の中のランダムな一点に僕たちは生まれ落ちていると仮定する。
人類の最初の5%の時間、または最後の5%の、特別な時間の中に生まれ落ちている確率は10%しかない。逆に言うと、90%の確率で、中間のありふれた90%の時間のどこかにいるはず。
今の人間(ホモサピエンス)が現れて25万年ほどたった。今、人類に与えられた全ての時間の最初から5%ちょうどのところ(中間90%の始まりともいえる)にいるとすれば、25万年が5%にあたるから、残り95%にあたる時間は475万年ってことになる。つまりこれから475万年くらい先に人類の時間の終わりがある。これが長い方の見積もり。
逆に最後から5%ちょうどのところ(中間90%の最後)にいるとすれば、25万年を95%と見ることになるから、残りの5%は13000年くらいになる。つまり、90%くらいの確率で、人類滅亡は13000年先から475万年先くらいの間にあるだろう、ということになる。
80%くらいの確率で語れればよいのであれば、同じ考え方をすると、もう少し絞り込めて、3万年先から230万年先のこと、ということになる。

まあここ数千年くらいは、それまでの24万数千年とは変化のスピードが違う、ということもあるので、この見積もりはもっと短くてもいいような気もしますけどね。

ちなみに恐竜は2億年ちょっと前から6500万年前まで1.5億年くらい続きました。(鳥に進化して今でも続いている、とも言えますが。)長めに見積もっても人類がそこまで生き延びることはちょっとなさそうですね。。

簡単に計算するには、
90%だったら、これまでの時間÷19、から、これまでの時間×19までの時間が残されている、ということです。
80%でよければ、÷9から×9の間、
60%でよければ、÷4から×4の間、
憶えておくとよいかもしれません。

この考え方は、Richard Gottさんという物理学者が考えたのでGott’s Principleと呼ばれています。

同じように、日本の寿命も計算してみましょう。どこから日本成立と言えるのか難しいですが、とりあえずヤマト王権あたりにしておきましょうか。大体1700年くらい前ですね。その19分の1から19倍までの範囲だから、90%くらいの確率で、あと90年から32000年くらいの間に収まりそう、ということになります。80%の確率なら、190年から15000年くらいですね。

アメリカの寿命は、建国が230年くらい前だから、90%をカバーすると、12年から4400年くらいの間でしょう、ということになります。80%でよければ、あと25年から2100年くらいの間になります。

Mind Performance Hacksという本で知りました。この本、この手のネタがいろいろ載っていて、おすすめです。

国母選手がたたかれている件。もうよせ、こんなことは。

国母選手の件です。
これには失望させられました。
いつもながらのマスコミのイジメ的報道姿勢や、一般の人の意見でも彼を感情的に叩く声が多いということに、異文化を受け入れる度量のなさを感じたのです。

僕はスノーボードにそこまで詳しいわけじゃないですが、自分がスポーツ文化に触れてきた経験から、スノーボード界の文化がどんなものかというのはなんとなく想像が付きます。スノーボードはストリートでの遊びである、スケボーの系譜を持つわけで、ウェアのファッションからもその辺は見て取れます。アメリカのストリートギャングとかのワルの要素を持つスポーツなわけです。
日の丸とか、権威に反抗してみせるのが彼らの文化での美学なわけだから、オリンピックの代表に選ばれたからって、いきなり服装を正してピチピチするなんてところを見せてしまうのは彼らの価値観ではカッコワルイわけです。どういう滑りをしたいですかと聞かれて、「かっこいいと思ってもらえれば、それでいいです。」ってのは、柔道で「あくまでも一本を狙います。」というのと同じで、その文化なりの美学があるのです。

で、今回は、日本の国民みんなで盛り上がるオリンピックスポーツ文化とスノボーの横ノリ文化が衝突した、というわけですが、そんなものにどちらが正しいとか間違っているなんて答えはない。日本オリンピック文化派のほうが数が多くて強いから無理矢理に彼を従わせることができただけで、彼としては全然納得できるわけがないでしょう。
ネイティブアメリカンに白人の文化をむりやり押しつけたのと、同じ構図です。こんなことで、「反省したか、オイ」的なことを言われたら、「チッ、うっせーな。」ってなるのは自然だと思いますけどね。

さらに言えば、文化の深み、という一点に関しては、選手にパフォーマンスだけじゃなく品行方正を求めるような日本のオリンピックスポーツを取り巻く文化よりも、スノーボードのチョイワルな文化のほうが上なくらいだと思いますよ。反社会的な部分は褒められたものじゃあないけれど、なにがカッコイイかということを多くの人が考えて、フィードバックを受けながら時間をかけて発展してきた深みは、やはりそこにある。
だいたいにおいて、よい子的なものには文化的な深みがない。教育上、短期的な視野で見て都合がいいという観点で大人が子供に押しつける文化様式なんだから、歴史的発展なんて何もなくて、おもしろいわけがない。独裁国家プロパガンダ芸術が、つまらないのと同じ理由ですね。

スポーツから文化的な面を切り離してしまって、全部品行方正にまとめちゃったら、味気ないと思いますよ。いろいろなスポーツの集合体であるオリンピックだったら、それぞれのスポーツが持つ文化を受け入れて楽しんでしまうくらいの懐の深さを持ってもいいんじゃないでしょうか?

一つ、異文化ってものがあることを理解しましょう。
一つ、大人になったら、よい子教育の刷り込みからは早く脱却しましょう。

大事な試合前のアスリートのメンタルをへこませて、いったい何がしたいのでしょう。
人間よ、もうよせ、こんなことは。

読書:もいちどあなたにあいたいな

タイトルがいいですね。それだけで衝動買いしてしまいましたよ。

新井素子さんの7年ぶりの長編、ということで今話題のようです。
漫画以外のフィクションを読んだのはけっこう久しぶりだったりして。

実の母のように慕っている叔母「やまとばちゃん」がなんだか最近変だと、主人公の女の子は同級生のオタク男に相談するが。。

記憶や多重人格をテーマにした、ちょっと不思議なお話です。

ソフトウェアエンジニアである僕は、なんでもソフトウェアとハードウェアになぞらえて考えるくせがついてしまっているのだが、そんな調子で記憶ってなんだろうとか考えてみると、こうなる。コンピューターの記憶であれば、それはハードディスクとかの記憶装置に過去に残した痕跡だ。でもそれは今となってはハードディスクの、(書き換え可能な)現在の状態でしかない。人間の記憶も原理的には同じで、過去の記憶も、結局は脳細胞の集まりの現在の状態でしかない。現在の状態でしかない、ということはそれは原理的には書き換え可能なものだ。記憶は現在の脳の状態に過ぎないのだから、原理的には、そんな過去が存在しなくても、偽の、本物と区別できない記憶をいくらでも作り出すことができるはず。

そんなわけで「書き換えられた記憶」とかってSFでよくある設定だけど、説得力を感じるというか、共鳴できる、好きな設定の一つです。
過去って、僕らが普通に生きている中で感じているよりも、ずいぶんと不安で手の届かないものだという気づきと、それによるせつなさが表現されていて、いいです。

P.S. よく考えたらこの間「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」の本を読んだからフィクション久しぶりってことはなかったか。あれはハウツー的要素やラノベ的要素があって、なんかふつうのフィクションとしての記憶に登録されなかったのかな。