嫌嫌権

ぼくは真剣に「嫌嫌権」について考えていて、まあ、ヘイト・クライムのようなわかりやすいものとは少し水準が異なっているのだと思っているんだけど、というのは、ヘイト・クライムの不当性をいうことは、例えば「蔑称」のようなものが公に視覚や聴覚に訴えかける効果を問題視していることになるわけだよね。このとき公にならないこと、つまり内心の自由は保障される(ばれないように軽蔑したり差別心を抱いたりするのは、問題視しないというか、問題視しては【ならない】ということまで含んで、不当性をいう)わけだよね。これはもっともなことで、わかりやすいから、ぼくはあまり真剣に考えたいと思わない。誰か頭のいい他の人が考えてくれるだろうから。
嫌嫌権ということで考えているのは、ひょっとして「嫌煙権」のような考え方っていうのは、というか「嫌煙権」という言葉が喚起する「権利意識」は、内心の自由であるという見せかけをとった、異なる種類の内心の監視・管理のようなものなんじゃないかということ。
煙草の煙が苦手な人は、苦手である自由が「嫌煙権」で保障されているから苦手なのではなくて、端的に苦手なんでしょう。その端的な「苦手さ」が、「嫌煙権」によって、異なる水準にすりかえられ、監視・管理の対象にまとめあげられる。これが不快なのは、「端的な苦手さ」をもつ権利を踏みにじる効果を産むから。
社会学的に観察するならば、「嫌携帯電話権」のようなものが「力を持つ」(上記記事中の表現)ときに、これは「マナーの悪さ」に対して別様の対処戦略がないときに(「慣れる」とか以外に)、たまたま「嫌携帯電話権」のような負担免除装置があれば、進化論的にそれが選択されて生存するという事態にすぎない。ところがこれまた進化論のイロハとして起こることだけれど、マナーの悪さに対して「嫌携帯電話権」がより多い頻度で対処成功(たんにマナーが良くなるというだけではなくて、負担免除に貢献的ということだけれど)している社会では、別様の対処戦略が「力を持つ」ことの困難さがどんどん増していく、という事態も同時に生じる。「嫌携帯電話権」の力がなんらかのファクターから失効していく以外には。
煙草の煙にたいして端的に苦手であるときに、「嫌煙権」という対処戦略以外を適用することは、今では難しいことなのかもしれない。いちから自分の「端的な苦手さ」と環境との折り合いをつけることに取り組むよりも、すでにあるレパートリー(これを社会学ではゼマンティクという)から選択したほうが負担が少ない。このこと(より負担の少ない選択をすること)について「ひと」を責めることはできない(社会構造の進化論的必然だから)。
しかし――ぼくが煙草の煙が苦手だってわけじゃないからいまいち現実感に乏しいのだけれど――この自分の端的な苦手さを、嫌煙権のような一般的なものに回収されるのはたまらない。別様可能性を探るとか、そういうんじゃないけど、なぜ、たんに自分は苦手だ、という事柄に対処するのに、用意された一つの方法しか用いてはならないのだろうか。
たとえばぼくは歩くことが苦手だから、「嫌徒歩権」があれば、それに飛びつくと思う。もしそうしたからといって、そのことについて責めないでほしい。だって、楽なんだし、歩くことが苦手だってことはぼくにとって深刻なことなんだし。だけどそこに飛びつく過程で、あるいは飛びついた後で、なんでそこに飛びつかざるを得なかったのか、という反省ぐらいはしたいよ。これはベーシック・インカムの議論だってそうだけど、「生きてるだけで給料よこせ!」っていって、それはまっとうなことだからベーシック・インカムが認められたとして、それでよかったよかった、と個々人がなるのは責められないけど、なんでまっとうなのか、というところを考えたいし、というか自分が考えたいのではなくて、考えさせたいんだな、きっと。
「きっと」て。
こんなことを言ってるとまた社会学者じゃねえ、デリディアンだとか言われちゃいそうだけど。というかまあ、言いたいのは、嫌嫌権じゃなくて、「嫌嫌」(「嫌」が嫌い)ってことなんだけど。そのぐらいは別に社会学者じゃなくたって、いわせてくれよとおもう。