運動とアパテイア 

hidexi2007-12-29

今村昌平『赤い殺意』(1964年)をDVDで。東北(仙台近郊?)の封建的遺制が支配する家に縛られながらも、縛られていることすら意識できないヒロインの貞子(春川ますみ)が、あるとき心臓病みの強盗犯(露口茂)に強姦される。神経質で嫉妬深い夫(西村晃)は、結婚前から職場の部下(楠侑子)と愛人関係にありながら、強姦犯につきまとわれる貞子の挙動を不審に思い執拗に問い詰めるが…。

といった筋書きから想像されるような、「女の自我の目覚め」や「家制度からの女性の解放」を主題とする類の映画ではまったくない。ヒロインの「目覚め」があるとすれば、それは彼女の鈍重な身体が表象するアパテイアへの覚醒だろう。だが何よりもこれは、純然たるアクション映画だ。それは、煙を吐きながら近づいてくる蒸気機関車を捉えた冒頭のショットからして明らかであり、さらには、春川の住む家が線路沿いにあり、室内のシーンでも疾走する汽車が窓から見え汽笛が聞こえるという舞台設定からも容易に推察される。このフィルムにおける汽車は、都会への憧れや春川の抑圧されたリビドーを代理しているだけではないし、石炭から電力の時代への移行(映画の終盤では汽車ではなく電車が走っている)が春川の意識の変化に重ねられているだけでもない。汽車は、まず第一にアクション=運動を画面に導入する契機であると同時に、この作品を活動写真(moving picture)として成立させるものでもある。無人の駅のホームで春川と露口が言い争っているところに、二人を吹き飛ばす勢いでホームに入ってくる汽車を縦の構図で捉えたショットなど、『勝手に逃げろ/人生』の同様のショットを想起させるし、二人がその汽車に乗り最後尾の車両で絡み合うスリリングなシーンには、まさしく映画が息づいている。アクションを導入しているのは汽車だけではない。楠侑子がダンプカーに跳ねられるシークエンスなど、自動車事故を映画でどう撮るか、そのお手本となるものだろう。ここはほんとうに凄い。
しかし、春川が最終的に達するかに見えるアパテイアとアクション=運動とは矛盾しないのか。言うまでもなく、運動は速度の問題ではない。数年かかって1cmしか動かない地殻変動も運動に違いない。この意味で、エンディングで春川が自分の太股に這わせる蚕は、機関車=運動そのものであると言える。キャメラは、白い太股を這う蚕を捉えながらゆっくりと上に移動していき、最後は蚕を無表情に見つめる春川のクローズ・アップで止まる。春川のアパテイアは、エロチックな運動のただ中で到達されるものであり、したがってそれは単なる静止状態ではない。それは、静止したスクリーンに映写される「動く画像」の中で創造されたアパテイア、すなわち映画的アパテイアなのである。

それから、神代辰巳が『恋人たちは濡れた』(1973年)に音をつけるときに、この『赤い殺意』を決定的な参照項にしていることに気づいた。撮影は、偶然なのかどちらも姫田真左久。

赤い殺意 [DVD]

赤い殺意 [DVD]

「東北弁」映画ベスト 

上のエントリーで書いたようなことをとりとめもなく考えていたら、「東北弁」映画ベスト選出、という遊びを思いついたので、試しにやってみよう。(東北地方の多様な方言を「東北弁」とまとめてしまってすみません。)

私にとっては、まず相米慎二『魚影の群れ』だ。夏目雅子の「せばな!」(それじゃあね。)はとりわけ忘れられない。本当に「せばな!」って逝ってしまった。相米作品には、監督の出身地のせいか耳に残る東北弁が多い。『光る女』出門英の呟き。そういえば出門英も逝ってしまった。それから小川紳介『日本古屋敷村』も当然入ってくる。字幕なしではわからないほどの訛だったし。もちろん今村昌平『赤い殺意』も。
と、ここまできて行き詰ってしまった。寺山修司の作品は東北弁の印象はなぜか薄い。あとは、斎藤耕一津軽じょんがら節』? 山崎貴『Always 三丁目の夕陽』堀北真希の東北弁は確かにかわいいけど…。佐藤慶が東北弁をしゃべっていた記憶がある。あれはNHKのドラマだったか。栃木弁や千葉弁(っていうのかな)、新潟弁を入れていいなら、根岸吉太郎『遠雷』小川紳介三里塚関係のフィルム、佐藤真阿賀に生きるなどが思い浮かぶ。フラガールはちょっとなぁ。この遊び、遊びとして成立しませんでした。私が忘れている、観ていない「東北弁」映画、きっとまだたくさんあるに違いない。最後に、麦秋原節子淡島千景が元クラスメートの秋田弁を互いに真似てふざけるシーンに満ちていた幸福感を思い出して、ゲーム終了。