草の上の昼寝 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-08-20

[][][]フィリップ・ガレルの新作とリーディング『アンチゴネー』 

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フィリップ・ガレルの新作 UN ÉTÉ BRÛLANT に、『華麗なるアリバイ』(パスカル・ボニゼール、2007)に出ているのを見て個人的に注目しているセリーヌ・サレット(Céline Sallette)が出演している。予告編はこちら。相変わらず幸せ薄そうな瞳。これも早く見たい。

それからついでにお知らせですが、↓のリーディング公演の関連企画であるシンポジウムに(私としてはデモに参加するつもりで)登壇します。所用があるため、シンポジウムが終わったら私はとっとと遁走しますが。

「演劇、社会、原発 アンチゴネーの視点から」

テラ・アーツ・ファクトリー公演

実験企画 リーディング+

『アンチゴネー』

2011年8月26日(金)〜28日(日)

イワト劇場3階


国家の混乱期にかつぎ出されたニューリーダー、クレオン

共同体秩序のために打ち出した新法に、アンチゴネーは自然の法をもって対決する。

個人と国家の対立、家族の情愛と政治の論理の対決の劇『アンチゴネー』。

理念なき政治、信念なき治者はアンチゴネーの主張によって、

市民の支持を失い、自己崩壊する。

アンチゴネーからの視点を参照に、現在を捉え返す試み。

ギリシア悲劇を読む、しかしただ読むだけにあらず・・・


構成・演出:林 英樹(作:ソフォクレス 翻訳:福田恒存) 

出演:横山晃子、奥村友美(メディアファクトリー)、江口和樹、佐々木義人

酒井忠親、若林則夫、長峯可菜、佐藤博樹

加藤明美(演劇工房ノルブ・リンポチェ)、中村美奈子、林英樹

J−TANシンポジウム 鴻英良、佐藤康、鈴木英明、林英樹(司会)


●上演時間

26日(金)19:30

27日(土)14:00/19:30 J-TANシンポジウム 16:00(2時間)

28日(日) 14:00

●公演会場…イワト劇場3F

〒162-0832東京都新宿区岩戸町7番地

●受付開始・開場は開演の30分前

●チケット料金…前売り・当日 2000円

J-TANシンポジウムのみ 500円

●チケットのご予約・お問い合わせ…http://ticket.corich.jp/apply/29414/011/  090-6020-7391

2011-01-31

[][]ブレヒト『処置』から考える 

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昨日は、TAGTASプロジェクト2011の円卓会議4「ブレヒト『処置』から考える」へ。「劇団・錦鯉タッタ」のみなさん(山田零、岩崎健太、藤島かずみ)がブレヒト作『処置』に三つのシーンを加えたものを上演し(演出は山田零さん)、そのあと観客を含めた全員で上演のテーマである「正義」や「労働」について語り合うという試み(詳細はこちら)。加えられた三つのシーンというのは、3名の役者さんそれぞれの苛酷な賃労働についてのドキュメンタリー的報告で、見ていて身につまされながらも、大笑いするところもあったのがよかった。

討議のときに、Sさんから絵に描いたようなむちゃ振りをされて、part of no part(全体の一部ではない部分)がどうのこうのとまたわけのわからないことをしゃべってしまい、さらにもう一つ言いたいことがあったのだけれど、話が長くなったのでそれを言い残したまま中座せざるをえなかった。

言い残したことというのは、『処置』と、能曲『谷行』に基づいてブレヒトが書いた『イエスマン ノーマン』との関連について。『処置』も『イエスマン ノーマン』も、「全体」のために「個」を殺すことの是非をめぐる「教育劇」で、『処置』では、全体(党すなわち革命という大義)のために一人の党員がほかの党員たちに射殺され石灰坑に投げ込まれる。『イエスマン ノーマン』の「イエスマン」のパートでは、全体(疫病に苦しむ村)を助けるために旅に出た一行のなかで、険しい山道を歩けなくなった少年が、こういう場合の「昔からの慣習」に従って谷底に投げ込まれる。しかし、「ノーマン」のパートでは、「イエスマン」とほぼ同じストーリーが反復されながらも、歩けなくなった少年は谷底に投げ込まれることを拒否し、拒否する理由を理路整然と述べると、一行は少年の言葉に説得され、世間の笑いものになろうとも「道理のあること」を行い、旧い慣習を改めようと決意する。『処置』では、犠牲になる党員は最初は抵抗して自分の意見を述べるのだけれど、ほかの党員から「君の言うことには説得力がない」と批判され、しだいに逼迫する状況のなかで最終的には殺されることに同意する。しかし、大義のために犠牲となったこの党員が逆上することなく、「ノーマン」における少年のように「道理のあること」を根気強く説き続け、その結果ほかの党員たちを説得するという可能性はなかったのだろうか。『処置』における「ノーマン」ヴァージョンの可能性は。

だがこうした「可能世界」を夢想することはあまりにもナイーヴだろう。現実には、道理が通ることなどまずない。とくにそれが、「全体」(あるいは「公共の利益」)に反する道理であったり、体制を根本的に変えうる道理であったりする場合は。しかし、「ノーマン」の少年が「否」を発するとき、そしてその少年の言葉を「道理のあること」として一行が受け入れるとき、これらの者たちは「全体 ― 個」という弁証法的回路から逸脱して「普遍」へとつながり、それぞれが「すべて―ではない」者(part of no part)として、これまでとは別の連帯、別の社会的紐帯を作っていく。そして、こうした「逸脱」にこそ未来の「現実」が賭けられているのではないかと。(しかしこれって、むかしむかし院生のときに書いた小論と言ってること同じだ。南無。)

「ノーマン」の最後はこう結ばれている。

コーラス 「こうして友は友の手をとり、/新しいきまりをつくり/新しい掟を定めた。/恥辱や、嘲笑に耐えるために、/目をつぶって、/誰も隣の者より臆病にならぬよう/一列に並んで腕を組み/少年を連れ戻した」

《お知らせ》劇団解体社をはじめとする、英国はウェールズ、ブラジル、ポーランド等の国々からパフォーマーが参加する『Dream Regime ――夢の体制』(TAGTASプロジェクト2011参加作品)が上演されます(詳細はこちら)。私は2月8日と10日の公演に行きます。

2009-08-26

[][]ミニマル  

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この1ヶ月ほど、サーフィンに出かけることもなく(誰が!)、外で映画を見ることもなく(喪主にはなったが)、英語→日本語変換ソフトと化しての労働の日々が続いている。(といいながら、変換しているのはSZの方が主で、RWの方はまだ一つしか終わっていない。本当にすみません。)

変換作業中に調べる必要があって “passage à l’acte”〔アクティング・アウト〕をググったら、こんな映像がヒットした。

http://video.google.com/videoplay?docid=-4928839407970531667 

スティーヴ・ライヒの「Come Out」などの初期作品を思わせる、狂気のミニマル音―映像。反復とずれ。これを大笑いしながら最後まで見てしまった私もどうなんだろう、と。さて、仕事にもどろう。

2009-05-10

[][]「トライアルE」

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笛田宇一郎演劇事務所「トライアルE――シェイクスピア『リア王』(小田島雄志訳)による――」@フリースペースカンバス、を昨日観た。

冒頭の15分間ほど、舞台奥の壁をスクリーンとして映像が映し出される。沖縄民謡を歌いながら自転車に乗る初老の男(笛田宇一郎)が、劇場の楽屋に入り鏡の前に腰をおろす。男は、長いこと主演俳優の代役であるサブアクターの仕事をしてきたが、舞台に一度も立てないまま劇団から解雇され、頭がおかしくなってしまい、長年人知れず稽古してきたリア王を一人楽屋で演じると、あてもなく自転車を漕ぎ始める。ここで映像は消え、舞台の上手からホームレスになった男が現れ、続いて4人の人物(山田零、寺内亜矢子、岩崎健太、黒田真史)がゆっくりと登場し『リア王』が始まる・・・といった導入からわかるように、本編の『リア王』そのものが劇中劇になっている。

面白いのは、リア王とコーディリアがそれぞれホームレスの老人と少女にもどって、原作にはない台詞を交わすところ。エンディングでも、リア王=ホームレスの老人が、コーディリア=ホームレスの少女の亡骸を前にして「近代」批判をつぶやく。冒頭の映像がプロジェクトされ再提示(リプレゼント)された表象だとするならば、これに比して舞台上の『リア王』は、提示(プレゼント)あるいは生産(プロダクト)された「物質」といえるのかもしれない。

しかし、先にいったように、本編の『リア王』さえホームレスの二人によって相対化され表象とされているのであり、また、そのホームレスの老人自身、もともと映像=表象の中の存在だったわけだから、この『トライアルE』は、「表象の舞台から生産の工場へ」(ドゥルーズ=ガタリ)を捩っていえば、「表象のスクリーンから生産の舞台を経て表象の舞台へ」という、表象の合わせ鏡的世界、表象の無間地獄を「提示」しているのかもしれない。だが、ここに穴を穿つ不気味な人物がいる。ホームレスの少女=コーディリア(黒田真史)である。ホームレスの少女は、舞台上の『リア王』を相対化しつつ、ホームレスの老人のように映像へと差し戻されることがない。冒頭の映像には登場していなかったからだ。この少女だけが出所不明な存在の不気味さ、つまり再提示=表象ではない「物質」の不気味さを身に纏っている。事実、『リア王』上演中ずっと、少女は舞台の隅に腰を下ろしてパンを食べたり白水社版『リア王』(たぶん)を読んでいたりして、表象の舞台における異物として機能している。この少女=コーディリアは、犯されたのち絞殺され、まさしく亡骸として物質になるわけだが、ホームレスの老人=リア王の、「インターナショナルな組合が必要なのだ」というエンディングにおける台詞も、少女のリアルな亡骸を前にしてのものだからこそ、アクチュアルな「発言」となっているのだと思う。

とにかく、鍛え抜かれた役者さんたちの身体=言語が圧倒的だった。『トライアルE』は本日(10日)が楽日です。詳細はこちら

2008-01-20

[][]なぜ、中平卓馬か

原点復帰-横浜

原点復帰-横浜

小原真史『カメラになった男 写真家 中平卓馬』(2003年)@シネマアートン下北沢。(この映画に関する情報はこちらをどうぞ。ついでにこちらのエントリーも。)新左翼系の総合誌『現代の眼』の編集者を経て写真家となり、1968年には多木浩二らと写真同人誌『Provoke』を創刊し既存の写真界に鋭利な介入を行い、その後もラディカルな写真・批評を発表し続けるが、77年に昏倒し言葉と記憶の大部分を失いながらも徐々に快復し、記憶と言語に若干残る障害を抱えながら現在も写真家として活動中・・・といった中平卓馬の半ば伝説化した経歴についてはここで紹介するまでもないだろう。評判の高いこのドキュメンタリー・フィルムを見る前に私が少しだけ危惧していたのは、「喪失と再生」という「俗情」とこのフィルムとの「結託」だったが、それは杞憂に終わった。そうした「俗情との結託」を回避しえたのは、小原監督の聡明さと中平に対する敬愛に満ちた距離感=倫理のためだろうし、何よりも中平卓馬という存在自体が、四方八方から絡みついてくる「俗情」の網の目を飄々とすり抜けている。 

圧巻は、沖縄で開催された(私の記憶が正しければ)「沖縄の記憶、写真の創造」と題されたシンポジウムのシーン。登壇者は中平とかつての盟友である森山大道と東松照明、それに荒木経惟、港千尋。まず中平が壇上に現れ、ひょこひょこと歩いて勝手に他人の席に座ってしまうところからして(シンポジウムの)場内が笑いに包まれるのだが、シンポジウムが進み、発言を求められた中平は、まずこの会の趣旨、タイトルに対する異議を客席に向かって語り始める。「あそこにああいうふうに(タイトルが)書いてあるけどね、オレはね、写真は記憶とか創造じゃなくて、ドキュメントだっていってるの。この沖縄の現実ってものをね、どうとらえるかっていうと、荒木さんなんかどう考えてるのかね。」といわれた荒木は苦笑しながら「困ったな、いやだからさ、さっきいったように、オレはそういう政治的なことは考えない立場でここに来てるわけだから。そういうことじゃなくて、この沖縄の熱みたいなもの、情熱っ!とか汗とかさ、そういうものを撮りたいんだよ。」これに対して中平が痛烈な一言。「それじゃダメでしょ。そんなことで、(客席の沖縄の)みんなと一緒にやれるのかね。」シンポジウムが閉会した後も、中平はふらふらと壇上を歩きながらフロアに向かって何やら熱心に語りかけている。このシーンの後のカットで、中平が赤いポールペンで書いた一文が写る。「中平、写真家。荒木、遊芸人。」

また別のシーン。中平の良き理解者の一人である沖縄在住の詩人、高良勉が酒席で中平に、沖縄滞在もあと一日なのだから明日は写真を撮るのをやめてゆっくり過ごせと(冗談っぽく)「命じる」。そういわれた中平は憮然として、「そういうことではもう(あなたに)会えない。オレは写真を撮りに来たんだから。」気まずい空気を散らそうと誰かが「はいさいおじさん」を流すと中平も一緒に踊り出す。 

以上のシーンに見られるような、妥協を知らない批判精神、切断への意志は、記憶を失う以前から一貫しており、中平が以下のような自己批判を現在も反復していることを示している。

私の写真に〈詩〉があったということ、それ自体私に対する批判に逆転されねばならない。〈夜〉〈闇〉に溶暗する事物、それは私が見ることをあきらめ、同時に、その照りかえしとして、事物の視線を、事物が事物として充足するその瞬間から眼を閉ざすことを証していたのではないか(『なぜ、植物図鑑か』24頁)。 

「歌のわかれ」は一度ではすまない。その反復はしかし、それ自体が悲壮な自己愛に満ちたフェティシズムの対象となってしまいがちだが、中平の場合、(それを病気のせいだというべきではないのだろうが)病後の「わかれ」の反復はかえって軽やかなユーモアを帯びてきている。70年代以降、多くが「自然過程」に潰され流され、潰され流された記憶すら健忘の果てに流して生きているなかで、中平卓馬の「病者の光学」(というよりむしろ、あの飄々とした佇まいからして「病者の流体力学」というべきか)が垣間見せる笑みは、私を勇気づけてくれると同時に緊張させる。 

〈追記〉 映画のエンディングで、ブリジット・フォンテーヌの「COMME A LA RADIO」が流れてきて、なつかしく思った。この歌(とアルバム)、学部時代に友人の通称ジャリにLPからカセットテープに落としてもらって、フランス語の聞き取り練習も兼ねてよく聴いていたのでした。ジャリ元気か!ってこの前会ったばかりだな。

ラジオのように

ラジオのように

2007-06-21

[]浅見貴子展―光を見ている

19日夕刻、仕事帰りに途中下車して「浅見貴子展―光を見ている―」@アートフロントギャラリー(無料)を観に行く(24日まで。詳細はこちら。)  

ガラス張りの部屋に展示されているので、街路からも作品の一部を見ることができる。画廊までの道に迷いかけたが、遠くに浅見氏の作品が見えてほっとした。圧倒的な存在感だ。 

樹木を撮ったフィルムのポジとネガが同時に焼き付けられているような、しかし写真ではなく水墨画。黒い葉(のようなもの)は背後から光を浴び、白い葉(のようなもの)は背中に陰を背負う。光は、どこか一点から放射されているのではなく、たゆたうように画面の奥行きに偏在していて、光によって樹木が可視化されているというよりも、樹木が光を抱え込んでいるような印象を受ける。点々と打たれた墨の黒さそのものが、複雑なリズムを刻みながら光を震わせる。そのやわらかな震動が、私の身体のざわめきと共振していた。 

上のホームページに出ている作品よりもひと回り小さい「樹木図10」(53.5×45.5cm)という作品、価格は180,000円とのこと。あとさき考えずに本気で買おうかと思った、けど買わなかった小心者です。