草の上の昼寝 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-04-15

[][]関曠野原発テクノロジーの名に値しない極端なアクロバットだ」

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図書新聞最新号(No. 3011)に、関曠野さんが「計算不可能な原発事故のリスク――原発はテクノロジーの名に値しない極端なアクロバットだ」という文章を寄せている。

三十数年間ずっと恐れていたパニック映画のような悪夢が現実になってしまった。反原発派の一人として福島原発の破局を許してしまったことは痛恨の極みと私は言うしかない。(・・・) 

という書き出し。ウェッブ上では、登録しないと上記の部分の少し先までしか読めないので、明日午前中に近所の本屋に行って買う。

2010-10-18

[][][] いっしょにいるカモ 

現代思想』9月号を持って「せせらぎ公園」まで(例によって)自転車で行ってきた。

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対立する様々な勢力が拮抗している場合でも、民主主義は〈多〉ではなく〈一〉を前提とする。対立する複数の勢力は、最終的には(投票を含む)議決によって「一つの」決定に従わざるをえないからであり、そもそも議決権ないしは投票権を持つ有権者の集合という〈一〉が形成されていなければ、そうした民主的決定すらありえないから。

ヴェルナー・ハーマッハーは、「民主主義についての講演のスケッチ――プロテスト可能性の発言(不)可能性」清水一浩訳(『現代思想』2010年9月号所収)において、民主主義の前提である〈一〉の形成をめぐって、ホッブズそして17世紀の宗教戦争の時代にまで遡行する。ホッブズによれば、いまだ「一つの」多数性でない群衆をなす人間たち〔multitude of men〕の統一性すなわち〈一〉は、そうした群衆を代理表象する一人の人間ないしは人格によって形成される。つまり、人民を代理表象するものの〈一〉が、代理表象される人民を「一つの」多数性とするということ。民主主義の本質は君主制なのだ。しかし、この措定された〈一〉は、自然成長的に与えられるものではない。ホッブズにとって「自然的なもの」は自然を破壊するものだけだからだ。民主主義の前提としての〈一〉は、根本的に措定されたものであり、公理〔Axiom 価値があると考えられるもの・信じられるもの〕なのである。公理として〈一〉を印づけることは、政治が存在しうるためには必ずなされねばならない先行−措定であり、対立し相争う様々な個人ないしは集団は、この公理としての〈一〉によって中立化され、パトローギッシュな利害関心を剥ぎ取られ、算術的計算の一要素へと還元される。だが、この還元・中立化は、(宗教戦争の時代に)対立する諸勢力の脱宗教化を意味しない。むしろそれは、政治の場における宗教的なものの膨張を促す。というのも、先行−措定としての〈一〉、公理としての〈一〉は、個々の信仰者にとっての「一つの」神という、プロテスタンティズムの原理そのものだからだ。

という感じて、民主主義とプロテスタンティズムの宗教性との本質的な同一性をめぐる議論から始まるハーマッハーのこの長大な論文、読み応え十分です。途中、デリダメシア論と似たような主張も展開されていて食傷するかもしれないけれど、論文の最後でソローの「市民的不服従」を引きながら、民主主義の〈一〉を水平にずらしていくところはとてもわくわくした。

ソローが想像している〔国家と個々人との〕関係は、国家に対する個々人の従属関係・縦列関係〔Subordination〕ではない。(中略)むしろソローが想像しているのは、個々人の共属関係・並列関係〔Koordination〕、そして個々人と国家との共属関係・並列関係である。つまり個々人や国家が隣合わせに並び立つ関係である。(中略)個々人は、国家個々人でもなければ国家による個々人でもなく、つまり国家の服従者=主体〔Subjekt〕ではなく、国家の隣人である。

(前略)このような社会に、ソローが、正義という考えと、隣人および同胞としてのすべての義務とを結びつけることができるのは、その正義や義務が、彼の考えている近接性であり、したがって倫理的なものそのものであるからだ。それはすなわち並び立っていること、互いの傍らにいること、そして自らの傍らにいること〔自らを自覚していること〕そのものなのである。(243-44頁)

ドゥルーズガタリも『アンチ・オイディプス』で、全体の一部ではない部分、全体の横に並んでいる部分について語っていたっけ。それになりよりも、ゴダールの『新ドイツ零年』のエンディングにおける有名なナレーション、「国家の理想は一つになること、個人の夢は二人でいること」を思い出す。あのフィルムの光は素晴らしかった。

新ドイツ零年 [DVD]

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2010-06-06

[][]ソドムとBI 

訳者の kark さんよりご恵贈いただきました。どうもありがとうございます。

神学への直接間接の言及に満ちた、叙述のスタイルからして特異なこの本は、読了するのに時間がかかりそうなので(読んだのはまだ100ページほど)、読み終わる前にここでご紹介することに。訳者の方々のご苦労がしのばれる。

kark さんといえば、7月4日の表象文化論学会@駒場でジャン=リュック・ナンシーについて発表されます。(詳細は こちら)  

関曠野氏の「ベーシック・インカムをめぐる本当に困難なこと」が『現代思想』6月号に掲載されている(210-18頁)。ベーシック・インカム(BI)については、「財源はどうする?」、「福祉の切り捨てにつながるのでは?」といった、その実現に向けての問題が語られることが多いが、これらは関さんの言う「本当に困難なこと」ではない。その「困難なこと」は、まったく絶望的なアポリアだと思える。しかし、関さんは諦めてはいない。といってもその姿勢は、BI実現へのかすかな希望を抱くという構えではない。BIを可能にする社会信用論に対応する徹底したデモクラシーという希望は、人が意図して抱くものであるよりも、歴史が人に強いるものなのだ。だから私たちは、絶望と「危機の中でもしっかりと目を開き根気よく学び続けなければならない」(218頁)。

2009-10-24

[][]「批評的アクションをめぐって」 

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ついに出ました。『レイモンド・ウィリアムズ研究』第1号。私はポール・ド・マン論を寄稿しています。 

同人誌だが、300円くらいなら買ってくれる人もいるのじゃないか、これ。Book1st とかの棚に勝手に10冊ほどおいてきてしまおうか。あるいは出版社の無料PR誌のように、レジのところに置いてもらうとか。これからゲリラ的にばらまくことにしますが、ほしい方は、こちらのアドレス

hidexi.hatena(アットマーク)gmail.com    までご連絡ください。 

「東京国際映画祭」は、ジャック・リヴェット『小さな山のまわりで』の1本のみ。しわの増えたジェーン・バーキンは(そしてフィルムそのものも)なぜあんなに瑞々しいのか。忘れていたけど、リヴェットももう81歳なのだった。

2009-04-23

[][]「ショット/切り返しショット」のオルタナティヴ 

話題としてはやや古くなるが、ショット/切り返しショットをめぐる刺激的な批評文が奇しくも連続して発表された。廣瀬純「ショット/切り返しショット、ゴダール/レヴィナス」(『nobody』29 2009: 102-119)と、山城むつみ「ドストエフスキー『未成年』の切り返し」(『群像』4月号 2009: 110-156)である。その注からわかるのだが、山城は自分のエッセイの発表前に廣瀬のエッセイ(講演記録を加筆修正したもの)を読んでいるようだ。 

廣瀬の論考は、ひと言でいってしまえば、レヴィナスのいう「顔」の倫理、すなわち「フェイス・トゥ・フェイス型のショット/切り返しショット」に対する批判として、ゴダールの「バック・トゥ・バック型のショット/切り返しショット」を位置づけ、ゴダールによるレヴィナス批判の徹底化と世俗化をめざすものだ。映画の撮影技法の問題が、レヴィナスにおいては集団のあり方やその集団における生のあり方をめぐる思考と直結しているのに対し、レヴィナスを批判するゴダールの(とりわけ『アワーミュージック』の)音―映像は、オルタナティヴな思考そのものとしてレヴィナスに揺さぶりをかける。

細かい点だが、ひとつ気になったのはゴダールの『男と女のいる舗道』について言及されているところ。ゴダールは、「ショット/切り返しショット」がレヴィナスのいうように「フェイス・トゥ・フェイス」によってモンタージュされるならば、それは「同一のもの」の反復となってしまい、二つのものの差異が捉えられないという。いいかえれば、そうした反復においては安定した自己同一性が保証されており、現に存在する自己同一性の揺らぎすなわち「運動」が排除されている(そしてちょっと飛躍するけれど、自己同一的な「顔」と「顔」の対峙が殺戮の20世紀を生み出してきた)と。二人の人物の差異=運動をフレーム内に導入するなら、個々の人物を背後から別々の固定ショットで、つまりバック・トゥ・バックによる「ショット/切り返しショット」で撮ってみたらどうだろう、そうゴダールは『男と女のいる舗道』の冒頭に近いあるシーンで提案しているのだと廣瀬は語る。*1 そのシーンとは、ヒロインのナナ(アンナ・カリーナ)とポール(アンドレ・ラバルト)がバーに並んで腰掛け会話をしている場面で、廣瀬のいうとおり、ナナとポールは同一のフレーム内には映し出されず、二人を個別に背後から映したショットが切り返される。しかし、この場面の記憶が曖昧だったので確認のためにDVD を見ると、バーのカウンター越しにある大きな鏡にナナの顔がほぼ正面から写っている。その鏡には、ちらちらとポールの顔も写っており、その場合には、二人が同一フレーム内に「サイド・バイ・サイド」で写っているのだ。その鏡像の顔は小さくて輪郭がぼやけているが、明らかにナナとポールのものだとわかる。廣瀬がこれに気づいていないわけはないのだが、あっさりと無視してしまってよいショットではないような気がする。レヴィナスの「フェイス・トゥ・フェイス型のショット/切り返しショット」を突き崩すはずのゴダール的「バック・トゥ・バック型のショット/切り返しショット」には、不可避的に「サイド・バイ・サイド型」の関係性が、つまりプラトン・ハイデガー的な共同体における関係性*2が亡霊のようにつきまとっているということを、このぼやけた鏡像は示唆しているのかもしれない。そう考えると、この「鏡像の闖入」はますます無視しがたいものであるように思えてくる。

山城エッセイは、ドストエフスキー『未成年』の現代性すなわち「映画性」を情動的な文章で説得的に語っている。詳しくはまた近いうちに。

女と男のいる舗道 [DVD]

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アワーミュージック [DVD]

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nobody 29

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*1:背中と背中の切り返しショットがなぜ差異=運動の導入につながるのかという点については、実際にエッセイを読んでいただくしかない。手抜きですみません。

*2:ここもわけわからないかもしれませんが、手抜きですみません。

2008-11-23

[][]記号と女 f:id:hidexi:20081123140054j:image:right

昨日は近所の図書館で、読むのを怒慢、いや我慢していたいろいろな雑誌をまったり読もうと思っていたのだが、寝坊してしまい、アテネの特集「ストローブ=ユイレの軌跡」に行く時間が迫っていたので、読みたいところだけ大急ぎでコピーしてきた。

それらのコピーの中で刺激的だったのは、『現代思想』11月号(特集=〈数〉の思考)の田崎英明さんのインタヴュー「記号と思想」だ。田崎さんが繰り返し言っているのは、(数学的)記号を操作することによって現実が変わっていくということ。たとえばラカンでいえば、何を意味しているかわからないけれどとにかく何かを意味している記号(シニフィアン)が、人と人との間に投げ込まれると、それまでの関係に変化が起きる。これは、「精神分析とは談話療法である」というテーゼにもつながっている。つまり、語ることを通して分析主体の現実が変わっていくということだ。

ただし、急いで次の二点を強調しておく必要があると思う。まず、記号を操作するといっても、その記号体系、操作規則は、主体が恣意的に意味づけたり主意主義的に構築できるようなものではない、ということだ。この点を田崎さんは強調している。主体は、むしろそのような固有の論理を持つ規則に従うことによって主体となるのだ。次に、(田崎さんは明示的には語っていないが)操作=変形されるのはあくまでも記号であって、現実そのものではないということ。以上の二点に留意しないと、行き過ぎた工学的発想に傾いてしまう(id:hidexi:20070715 を参照)。 

しかし、記号の操作性だけでは説明できない「真(リアル)」というものがある。田崎さんは、ゲーデルの不完全性定理を駆け足で説明しながら、記号の形式体系から定理として導き出せない「真」があることを、バディウの議論につなげている。バディウは、既存の形式体系や操作性に新たな何かを付け加えることが「革命」になるという。それは、証明できないが「真」であるとしかいいようのない何かが到来することだと。私たちは、すでに或る形式体系・操作性に否応なく巻き込まれている。その巻き込まれているという事実の解明で終わらずに、主体がそうした「巻き込まれ」からはみだしてしまう瞬間が現実にあり、その「現実」をどう捉えるかということを、バディウは考えているのだろう。ジジェクはやはり、バディウとともに読まれるべきだと思った。 

図書館でコピーしてきたものでほかに面白かったのは、ちょっと古くなるけれど、フリーペーパーの『WASEDA bungaku』vol.014 2008 fall. の川上美映子と内田春菊との爆笑対談。「女」を感じました。

現代思想2008年11月号 特集=〈数〉の思考

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2008-05-06

[][]音楽のカッティング・エッジ

私が90年代後半から、オヴァル以後のいわゆる電子音響を折に触れて聴いてきたのは、ラップトップPCを使って組み立てられ解体される「ノイズ」が、今まで聴いたことのない「音楽」として、ハートだけでなく頭にも訴えてきたからだ。『InterCommunication』no.64 における渋谷慶一郎氏と佐々木敦氏の極めて刺激的な対談を読んで、なぜ最近音響系のCDを聴いても面白くないのかよくわかった。オヴァルを極北とする「ノイズ/サンプリング的な」方法論が限界まで来てしまって、いまや支配的なのは「情緒主義」。クリスチャン・フェネスを譬えに使えば、すでに古典といってよい『エンドレス・サマー』(2001年)のノイズの部分が切り捨てられ、ギターのメロディだけが受けているような状況なのだ。こうした二項対立的状況において「第三項音楽」というコンセプトを掲げる渋谷氏の試みは貴重だ。渋谷氏は、Jポップについてこんなことをいっている。

Jポップだと、Perfume とか Capsule みたいな存在が希望だと、常々僕は言ってるわけ(笑)。彼(女)らはメロディがどうとか歌詞がいいとか悪いとかいうレベルでやっていない。というか音圧と高域で脳にどうアディクトさせるかということだけにフォーカスして作っている。(中略)例えば彼らが影響受けていると思われるフレンチ・エレクトロなんかと比べても徹底されているのは波形を見れば明らかで、これはもはや音楽として適正な処理とかいう範疇じゃない。好き嫌いは別としてこういう極端さは現象として面白いし、Jポップ全体を見渡すと、コブクロみたいなひらがなで「うた」とか書くような、いわゆる泣けるのがどうのこうのというのが脈々と続いているわけでしょう。情緒最優先主義が。僕は音楽のカッティング・エッジと言われるような領域が極端に言えばそういう「いいよね」傾向になるのは辛いなと思っているんです(p.28)。

渋谷氏は「コプクロ系のJポップ」を否定しているわけではもちろんない。彼が批判しているのは、音楽シーンの一番「とんがっている」ところにいると思っている人たちの、いわゆる「茂木健一郎化」。最近の茂木健一郎氏の「文学性」を批判する佐々木氏の発言には完全に同意します。

エンドレス・サマー~デラックス・エディション

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ATAK010フィルマシン・フォニックス

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