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2016-09-21

『BFG』を見た。

オ・ヤサシ巨匠SS

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スティーブン・スピルバーグ監督最新作。ロアルド・ダール著『オ・ヤサシ巨人BFG』の映画化。巨人役には監督の前作『ブリッジ・オブ・スパイ』でアカデミー助演男優賞を受賞したマーク・ライランス。主演の少女ソフィー役には新人のルビー・バーンヒル。



ロンドン児童養護施設で暮らすソフィー(ルビー・バーンヒル)は毎晩眠りにつくことが出来ず、暗い施設の中を歩き回り、本を読んでいた。しかしある日、彼女がふと窓から街を覗くとそこには巨人(マーク・ライランス)がいた。すぐさまベッドにもぐりこむが、巨人は彼女をつまみあげ、巨人の国までさらって行ってしまうのだった・・・



ネタバレ



「隠す」ということが徹底されている。深夜に部屋を抜け出した少女が寮母に見つからぬよう階段の踊り場で全身にシーツをかぶる、巨人に捕まらないよう布団にもぐる、巨人が闇に紛れ隠れる、巨人の目を盗み少女が逃げる、バケツで顔を隠す、巨人が地中に隠れている、巨人の目を避けお化けきゅうりの中に隠れる。ひたすら登場人物、もしくは登場巨人が、隠れる、隠す、逃げる、そして探すということによってこの物語は進行してゆく。この「隠す」という嗜好はスピルバーグ作品において多用されている。それは『激突』や『ジョーズ』などの怪獣映画であれば姿を隠すということと通じ、『E.T』であれば存在を隠すという行為がまさにそれであり、『マイノリティ・リポート』は身分を隠していた。『キャッチ・ミー・イフ・ユーキャン』は詐欺師の話であったわけだし、『リンカーン』のトミー・リー・ジョーンズは隠していた思いが鬘によって表出していた。また今年公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』についても『ミュンヘン』がそうだったのと同じく秘密任務である。枚挙に暇がないため他の作品については割愛するが、スピルバーグは多くの作品で、「隠す」ことについて撮っている。

この「隠す」という嗜好はスピルバーグ作品の主題としてだけではなく、既に一部作品を例に出しながら述べたようにサスペンスであり、またアクションでもある。本作では、はじめ少女は巨人から隠れようとするものの、すぐにその巨人が心優しい巨人だとわかる。しかしその後も、心優しい巨人が、少女ソフィーを人食い巨人から守るため彼女を「隠す」、もしくは少女自ら「隠れる」という行為が連続する。優しい巨人が人食い巨人の目を逸らし、その隙に少女は隠れ、しかし見つかりそうになるとまた心優しい巨人が一計を案じることにより、少女は姿を隠し通せる。ここにはサスペンスとアクションがあるが、それはすべて「隠す」という行為によってなされているのだ。この「隠す」という要素は単純にかくれんぼ的で楽しいというのがあるし、それは『ジュラシック・パーク』でも『宇宙戦争』でも、他のいくつもの作品で魅せた、スピルバーグお馴染み且つ絶対的な手腕によるものである。本作は児童文学が原作のファンタジー映画いうことで『E.T』的な心優しい映画ではあるのだが、僕は『ジュラシック・パーク』の方が近いのではないかと思う。というのも鼻息を荒くして少女を食おうとする人食い巨人から隠れる様子は、どう見てもティラノサウルス・レックスやヴェロキラプトルから身を隠す、あの様子にしか見えないからだ。また少女が生物の体液を全身に浴びるというところまでそっくりである。

尚この「隠す」行為を楽しく見られるのは演出手腕は勿論、画面の奥行や高低差を利用しつつ長回しでとらえる複雑なアクション設計にもかかわらず、中心をしっかり捉えるヤヌス・カミンスキーの撮影による力も当然大きい。画面の具合に関しては、いわゆる黒いスピルバーグはほとんど顔を出しておらず、つまり『クリスタルスカルの王国』『タンタンの冒険』と同様のラインにあり、またそれらと同じようにやり過ぎともいえる作り込みアクションの連続が楽しいのである。



この「隠れる」ということと関連して、「模倣」という要素もいくつか出てくる。例えば、はじめに巨人が少女を連れてロンドンの街を抜け出すシーンで、巨人は街灯に模したり、トラックの積み荷に模したりしている。巨人が人間の街へ姿を現すとき、決まって何かを「模倣」しながら「隠れて」いるのだ。また、影絵を使うシーンもある。影絵とは光によって作り出された疑似的な像であって、それは本物を模倣しているに過ぎない像である。そして「模倣」は、巨人という存在が「露呈」する女王陛下との会食シーンでも行われている。つまり巨人はここで人間を「模倣」した食事をとっており、また人間も巨人を「模倣」して飲み物を飲むのである。ここではスピルバーグらしい異種との接近と相互理解、はぐれものの救いというテーマが顔を出しているが、それよりも本作では重要な要素として、夢というものがある。夢とは現実を模倣しつつも、しかし現実からは遠い現象である。巨人はそんな夢を、湖に「隠されていた」反転した世界の中から捕まえては人々の目から隠れつつ吹き込んでいる。本作はそんな夢について、それは所詮まがい物だよなどと言いはしない。むしろ、夢を信じ、見ること追うことの中に、先の人生への光が見えるのだと言う。



スピルバーグはSFやファンタジーなどのイメージがあり、非現実的なものを創造するのに長けていると思われているし事実それは間違いないと思うのだが、実のところ本作のような、全くの非現実でファンタジーな世界を見せることはほぼない。『フック』と『BFG』以外はどれも現実世界をベースにしており、異世界は登場していないはずだ。しかもその異世界の描写は正直うまくないというか、その世界自体が新鮮な驚きを与えてくれるようなことはない。しかし本作に限ってはアニメーションとの融合により、画面全体にどこか作り物めいた懐かしい手ざわりと不思議な浮遊感とを漂わせていることが多く、その浮遊感と作品が持つめまぐるしさは少女の見た夢かのようにも思え、夢を信じ、見て追うことの尊さは一つの作品の中の主題として説得力を持っていたように思うし、はぐれものへの共感、異種への相互理解と夢を追うことへの純真なまなざしとは、スピルバーグが個人的に追い続けている系譜の中にきちんと納まっているのである。



冒頭、睡眠障害だと宣言する少女は自らがいる施設の鍵を閉め、窓からくる異種の存在に怯え「隠れ」ていた。しかし、ラストでは深い睡眠の後、窓辺でそっと巨人に語りかける。そしてその巨人も窓を開け少女の声に耳を傾けている。おそらくはこの巨人も、かつては他の巨人から「隠れ」て生きており、それまでは窓を開けてなどいなかったはずなのである。しかし彼らはもう「隠れる」必要はない。それはもちろん、暴れん坊の人食い巨人が島から去ったからではない。『未知との遭遇』『太陽の帝国』『ターミナル』のような作品と同じく、文化・言語・行為の「模倣」が彼らの間に理解と成長と夢を生んだからだ。

この作品は歴史に残る傑作ではないだろうし、スピルバーグの作品群にいおいてもあまり注目されないかもしれない。しかし、僕はこの作品が好きである。確かに、「露呈」してからの会食シーンはそれまでに比べテンポも落ちるし妙に丁寧でゆったりしている割に最後の見せ場はあっさりしていて妙なバランスではあるし、おならギャグも、一発目こそ大真面目にそれを映像にしていて笑ったものの、2発目は厳しいものがあるとは思う。しかしそれでも好きなのだ。妙に愛おしい。つまるところ、やっぱり僕はスピルバーグが好きなのだ。

2016-09-01

『君の名は。』を見た。

一生で一度のワープを

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新海誠監督3年ぶりの新作アニメーション声優には神木隆之介上白石萌音長澤まさみ市原悦子ら。主題歌をRADWIMPSが担当する。



千年ぶりの彗星急接近を一か月後に控えた日本。山奥にある小さな田舎町で暮らす三葉(上白石萌音)は、ある日東京で暮らす男子高校生として一日を過ごす夢を見る。一方、東京で暮らす瀧(神木隆之介)も、時を同じくして小さな田舎町で暮らす女子高生として一日を過ごす夢を見ていた。その夢は繰り返され、夢を見た日は不思議に記憶が抜け落ち、周囲の反応がいつもと違うことに気付く。そして2人はそれが夢ではなく、体が入れ替わっていると知るのだが・・・



ネタバレ


『秒速5センチメートル』はおそろしい作品であった。感傷に浸りきったモノローグは耐え難い自己憐憫を生成し、客観の排除された物語はひたすら自己愛の中へ沈んでゆく。美しく彩られた風景がそんな物語を過剰に装飾し、まるでこの主人公のために作られたと言わんばかりの主題歌が高らかに捧げられる。言うなれば『秒速5センチメートル』は、極度に恥知らずな作品だ。一見、現実に打ちのめされる姿を描いたかのようにも見えるあの作品は、実のところ極度に甘やかされた世界で構築されている。客観性を欠いた物語は言うに及ばず、背景美術にしてもそうだ。あの、過度に美化された風景はもはや風景とは呼べず、心理と化している。それは表現主義だ、とも言えるかもしれないが、しかし自分の内面に陶酔するため用意されたその装置は、少なくとも美しくはない。もちろん既に述べたように、主題歌の私物化も笑止千万の愚行である。主題歌が作品の内容を補助するのは何も珍しくないし問題もない。しかしこの作品では、登場人物が劇中で歌うわけでもなく、あくまで主題歌として流れる曲を、あまりにも登場人物の内面へと変換している。このように映画を形作るすべての要素は美しく感傷に浸りたいという心理に都合よく配置されており、まるで世界は自分のために存在しているかのように振る舞っている。これは、きわめて傲慢で醜悪な振る舞いだ。

ただし画面としては、分断として登場する電車、左右の進行方向など見所がないわけではない。しかしやはり、単に下手だなと思う部分もあり、例えば編集である。特に主題歌が流れる辺りは壊滅的だ。タイミングも映し出される絵も耐え難い。もう一つはモノローグである。感傷に浸りきった自己陶酔的なセリフ自体はひとまずおいておくとしても、ほぼ全編に渡って垂れ流される台詞は、完全に画面を消し去っている。言い換えれば、画面を信じていない。先ほど述べたようにこの作品においては背景も心理であって、その上更に心理を重ねるというのはあまりにも押しつけがましい。しかもその心理が個人的に受け付けがたい代物であったために、『秒速5センチメートル』は今まで見た作品の中で、最も嫌いな作品の一つである。



前置きが長くなってしまったが、『君の名は。』では『秒速5センチメートル』で感じたような不快感の多くが取り除かれている。背景美術の、過度な色彩と光による装飾は抑えられ、モノローグなど独白も抑え目だ。この背景美術にしてもそうなのだが、本作には世界との関わりがあるのだ。例えば、はじめに三葉の生活が描かれている。自らの生活圏とその暮らしの、日常がある。日常の中には、三葉とは何のかかわりもない人間がただ校庭にいたりする。食事や舞や仕事など、日々の雑務がある。山がある、畑がある、坂道がある、カフェはない。それらは彼女の心情とは何も関係の無い事柄でありながら、彼女らがここに存在しているという実在感を形成する事柄であろう。押しつけがましい独白などなくても三葉に寄り添えるのは、これらの描写のおかげではないか。

新海誠監督が、『ほしのこえ』から用いていた分断の表現も勿論登場する。それは電車という形での表現が最もわかりやすく、本作の白眉の一つであろう電車での邂逅は、最も親密な距離にいながらすれ違っているという不思議な事態が発生していて面白い。ここでもう一つ重要になってくるのが扉だ。事実、カメラを殆ど床に埋まっているかと思うほど下に置きながら、扉は何度も開けられる。しかし扉は、決して分断された2者をめぐり合わせるものではない。扉は内と外の分断をさらけ出し、なおもすれ違わせ続ける装置である。しかしそんな平行にすれ違い続ける2者は、登りと下りの果てにある一点で交わることになる。まるで2つの平行線がある一点で交わり、円を描くようにして再び交わるように。

アニメーション自身の快感も忘れられない。特にその、登りと下りで走るシーンは動きとしての白眉であろう。転びそうになる、転ぶ、というクッションも含めて、どうしても心を揺さぶられる動きがここにはあった。それ以外だと姉妹が巫女として舞う場面の身体の端に行き届く動きや、意識が飛び、糸を中心に時間を追う場面も好きだ。



しかし、以上の点を踏まえたうえで、どうしても気になるところもある。先ずは冒頭でも書いた、主題歌の起用方法である。本作では何度かRADWIMPSの曲が挿入されることとなるのだが、これが問題である。まず最初の、入れ替わりが判明したシーンについては急にプロモーションビデオのような編集と、下手に被せられる台詞のおかげで致命的にダサい。それまでの流れとは異なるこの場面は、感情を、画面を殺している。画面を殺しているのはクライマックスの曲にしてもそうで、曲という情報を付け足したおかげで感情過多となっておりやかましい。新海誠は何故画面や物語自身を信用しきらないのか。それが不思議でならない。

次に、肉体性の欠如。これも不満である。肉体性の欠如とは、男女が入れ替わるという事態に対して、その肉体を「胸を揉む」という程度のギャグとしてしか機能させていないことに対する不満だ。思い通りではない肉体の不自由さと、そのことによって生じる生身感がほとんど欠如している。念のため断っておくが、これは性欲とは全く違う。例えば大林宣彦の『転校生』はやはりその歪さを、ちぐはぐな身体からでる行為によって描いていた。しかし本作では肉体の入れ替わり以降、物語は急速に恋愛に目を向け始める。たしかに、身体性や価値観の転倒・発見を描いていては、すれ違う男女という主題にたどり着くまで時間を要するのかもしれない。またその点については深く触れず処理してしまおうという思いもあってRADWIMPSの曲は挿入されているのかもしれないが、ともかく本作においては男女が入れ替わるという事態についてを描くことはできないと思うし、感情ばかりが先行した結果、それまで日常生活によって支えられていた人物たちの実在感を損なっているようにも思う。

そして最後に、外部の消滅である。冒頭については既に述べたように生活があり、社会があり世界があると感じられた。しかし結局、登場人物は極めて自己中心的な振る舞いで社会を消滅させる。それは、歴史を改変してしまうクライマックスにおいてである。僕はこの部分を否定する。仮に正しい行いであったとしても、歴史を改変するなどしていいのか。主人公たちにとっての良きことのために、テロ行使し歴史を改変してしまうのを、無邪気に喜んでいいのだろうか。

確かに、災害によって亡くなった人たちを救うことが出来るのであれば、それは紛れもなく良きことである。だがそんなことをしてしまうのは、現実に対しあまりにも無責任ではないか。例えば、本作でもリボンによってオマージュが捧げられている『魔法少女まどか☆マギカ』では、身勝手に世界を改変することに対する責任を少女たちは背負わされていたし、また『時をかける少女』では、変えられない現実があることを知った少女が無邪気に時を逆行した責任として別れを経験し、その上で変えられないこの一瞬と未来への希望を獲得していた。彼女らがこうした運命を背負ったのは、登場人物の外部にどうしようもない現実や社会が存在しているからだ。しかしその、現実の「どうしようもなさ」を本作では、なんの代償もなく「なかったこと」として無効化してしまう。そんなことが許されてよいのか。外部、つまり社会や現実を無効化して自分の感情の赴くままに世界をつくりかえるというのは、あまりにも身勝手ではないか。この世界を都合よく変換してしまう姿勢は『秒速5センチメートル』と変わらない。言うなれば、世界を肯定するのではなく、世界から肯定されることを望む姿勢ではないか。最後に結婚式について話し合う二人をわざわざ登場させるのも、その一つだ。そんな身勝手を僕は危険だと思うし、なにより世界が息苦しく感じられてしまう。青臭い二人の感情ばかりが先行し、それを無批判に肯定して閉じてしまう世界は悲劇よりむしろ狭苦しく、息苦しい。



フィクションの効能の一つとは、現実から希望を救い上げるものだと僕は思っている。だからこそ、どうようもなく息苦しい現実の世界を、一瞬でも抜け出せると思うのだが、現実を書き換え希望に変換してしまうこの作品は、やはりどうしても納得できない。おそらく僕は、新海誠監督作品ととことん馬が合わないのだろう。というより、気持ちは分かるが、本当にそんなことをしていいのだろうか、というブレーキがかかる。そうしないところに作家として力がある、ということなのかもしれないが、少なくとも僕はそれを好きにはなれない。

しかしである。そんな風に思いながらも、この作品で不覚にも感動してしまった場面がある。それは、掌に書かれた文字だ。本来であれば、あそこには名前が書かれているはずだった。しかしそこに書かれていたのは、ある感情である。おそらくそうであろうと予想のつくこの行為が何故感動的だというのか。それは現実に対する諦観と、それでも抗おうとする感情があるからだ。ここで瀧は、「もしかしたら現実は変えられないかもしれない」と思っていたのではないかと僕は思う。それが言い過ぎだとしても、間違いなく瀧はあの場面で、目的よりも感情を先行させていたのだ。もしそうでないなら、彼が発した言葉通り名前を書いて目的を果たさせるはずだ。しかし、結果がどうであろうと伝えなければならないことがある。それがあの掌に書かれた文字ではないのか。どうなったとしたって、感情を爆発させる。そんな一瞬には感動する。

二人は名前を失ったままの月日を過ごす。名前とはその人間を規定する重要な要素であるが、彼らの場合入れ替わりが起こっていたのだから、相手の名前というのはいわば自分の一部であるわけだし、その名を失っているというのはその時期の自分をも失ったままということなのだ。掌に書かれた文字も、その文字を見て沸き起こる感情も、どこかに置き去りにしたままなのだ。だからこそ、置き去りにしてきた感情をもう一度捕まえるため彼らは、「君の名は。」と問うのである。

2016-08-22

最近見た旧作の感想その28

ここ最近仕事の都合で土日と言えど休みがなかったので、疲れた心に三角マークの東映製薬を注入すべく、何本か見ていた。その感想を、まとめて書こうと思う。



博徒解散式』(1968)

深作欣二監督作。深作欣二監督といえば狭い場所でのゴチャゴチャとした乱戦、任侠とも違うそのカオスエネルギーを扱うのが巧いと思うのだけれど、例えばこの作品やそれ以前にしてもわかるように、広い空間を捉えるのもまた巧い。そして広い空間と言えどそこには開放感があるわけではなく、むしろ息苦しくてごつごつとした、まるでごみ溜め場かというような感覚を伴っているような気がするのである。埋立地やボロ小屋の立ち並ぶ団地というのは深作欣二作品の、特に『仁義〜』以前の特徴でもある。黒味の強い画面もキマっている。

本作では室田日出男が弁当を起点にしたドラマとその死にざまによって画面に花(?)を添えており、乱戦こそほとんどないが鶴田浩二が決闘をする2場面において室内に落ちる影や、丹波哲郎が与えられた居住地の描写がいい。また織り込まれる回想シーンでは「任侠モノ」のような場面を見せ、現代パートでその反転を行うかのような構成になっている。この反任侠の流れはいくつかの作品を経て、5年後の『仁義なき戦い』で完全なものとなったのだろう。

博徒解散式 [DVD]

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『日本暴力団 組長』(1969)

続いてこちらも深作欣二監督。それまでいくつかの作品で点在していたストップモーション・ナレーション・テロップ・斜めカメラという要素が出揃っている。ここですごいのはカメラを斜めどころか、横長の画面でほぼ真横に倒した撮影をしているところだ。しかもその場面がまたすごく、ラスト、ヤクザ組織の手打ちが神社の境内で行われている。黒塗りの車が並ぶ中、そこへ覚悟を決め登場する鶴田浩二の、その挙動を真横で捉えるのだ。やりすぎだろう。本作では、若山富三郎が暴れ者集団「北竜会」の会長役を務めており、その暴れっぷりが期待される。しかし組員こそはダイナマイトを敵事務所へ投下して暴れまわるものの、若山富三郎自身は鶴田浩二の前に怯み、あまり豪快なことをせずに終わってしまったように思う。会長だから当然なのかもしれないが、そこは期待外れに終わった。安藤昇の起用も単発的で、あまりうまくいっていないのでは。

ところで、本作にもはやりボロ小屋団地は登場する。それはまず前述した北竜会の事務所であるが、ここでもうひとつ、深作欣二の特徴として、水というものを挙げてみたい。埋立地なのだから、そばに水辺があろうと大地に湿り気があろうとそれは不思議ではないのだろうが、水は多くの作品で登場している。そして時に雨という形でもあり得るこの水とは、決して登場人物たちを癒すためではなく、むしろ暴力や重み・ぬかるみとして画面に登場しているのではなかろうか。本作では特に、安藤昇が水と共に登場している。もちろんこれは、いまとのころ単なる思いつきでしかないのだが。

日本暴力団 組長 [VHS]

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『人斬り観音唄』(1970)

原田隆司監督作品。若山富三郎主演『極悪坊主』シリーズのスピンオフらしいのだが、『極悪坊主』は見つけられなかったので、とりあえず手っ取り速く見られるコチラを鑑賞。菅原文太演じる盲目でありながら拳法と鞭の達人である坊主が、寺の前に捨てられていた盲目の子供の親を探している途中で、西南戦争資金と火薬を巡るいざこざに巻き込まれるというお話。まるで『座頭市』にありそうな話だが(ご丁寧の賭場で丁半博打のいかさまを見破る場面まである)、大映の作品と比べると画面の美しさや殺陣の流麗さで到底及ばないし、千葉真一が出演した空手映画のようなインパクトもない。菅原文太は『日本暗殺秘録』で一瞬だけ見せたアクションが光っていたことからも分かるように、千葉真一ほどではないとはいえアクションができないわけではない。しかしどうにもこの作品は演出からキャラクターに至るまでインパクトに欠けていた。かといってつまらないわけではなく、何故か最後の決戦では目つぶしを多用して戦うなど、見所もあるにはある。

人斬り観音唄 [VHS]

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暴力団再武装』(1971)

佐藤純彌監督による、任侠の終わりを描いたかのような作品。序盤は鶴田浩二が珍しく悪辣なヤクザを演じており、ためらいなく人を殺し、過去に抱いた女のことにも一切の興味はなく、労働者に対して慈悲を見せることなどない。特に素晴らしいのは、手下に殺しを依頼し、その顛末を自身は椅子に座りながら悠々と横目で確認する場面の色気である。中盤になると鶴田浩二労働者と結託し協力体制を取るが、しかし組織の方針ゆえに破門。単身、自信を上回るあくどさを持つ組織と対立することとなる。ここで変わっているのが、もし任侠映画であれば最大の見せ場となるはずの殴り込みに爽快感は欠片もなく、労働者から見れば、単に自分たちを苦しめるやくざ同士の迷惑な殺し合いでしかないことが示されるという点だ。だから鶴田浩二は最後ヒーローにならず、ひたすらなじられて終わる。近衛十四郎がスーツ姿でやくざの親分を演じているというのも見所の一つだし、待田京介が殴り込みをかけるも警察に取り囲まれる場面も面白いのだが、同じく港の労働者を描いた作品でもある『博徒解散式』と比べると描写が弱い。

暴力団再武装【DVD】

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博徒斬り込み隊』(1971)

こちらも佐藤純彌監督。とにかく人が死ぬ。このジャンルで人が死ぬというのは珍しいことではない。しかし本作においてはとにかく鶴田浩二の周りで、彼のためにばたばたと死んでゆくのである。殺しが行われる酒場の鏡の使い方や(2度ある)、扉が開くと盃の準備が万端に整っており、その直後列車の中で殺される辺り、そして行動目的が策を練り「葬式を行うこと」となるなどなど面白い点はたくさんあるが、しかし何といってもその葬式が二転三転した後、最終的に大混戦の殺し合いへ発展するのが最高。『実録 私設銀座警察』程とはいかないまでも、なかなかに壮絶な絵面である。『暴力団再武装』における殴り込みは、意味は良いとしても画面としてイマイチだったのに対し、このように混戦となるといい。

しかしこの作品、その盛り上がりの後最後にもう一展開あるのだが、その部分は蛇足感が拭えず、すべての糸を引いていた警察を殺さなければという気持ちはわかるが、例えば『アウトレイジ ビヨンド』と比べるとトロくささが一目瞭然である。ただし、この不満を差し引いても十分に楽しめはする。

博徒斬り込み隊 [DVD]

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『脱獄広島殺人囚』(1974)

中島貞夫監督作品。主演も監督も同じ『暴動島根刑務所』と違うのは、こちらの方が脱獄回数が多く、90分間の内に4回も脱獄するということである。だから『暴動〜』では「飯食わせろ〜」と団結し火を起こしたり、豚の飼育を取り上げられた田中邦衛がスピード自殺をしたりという、刑務所内の生活描写も色々とみられたものの、こちらは抑え目である。代わりに描かれているのは、松方弘樹の圧倒的な生命力と闘志だ。4回も脱獄するこの男は学ばないし、慎重さを微塵も持ち合わせてはいない。もちろん、逃走計画プロセスにしてもプロフェッショナルには程遠い。しかし、それでも何度だって脱獄するのである。そのいやしくも燃え尽きることのない、何としてでも生にしがみついて今を抜け出そうとする意思こそ、本作に魅力なのだ。

ところで『狂った野獣』『唐獅子警察』といい、中島貞夫作品において室田日出男は何故か下半身が酷い目に遭うことが多いように思う。そしてやはり本作でも彼は下半身にダメージを受けていた。直後の家畜解体シーンで結果ほのぼのとした空気にはなるが、なんともかわいそうな扱いばかりされている。笑うけど。

脱獄広島殺人囚 [VHS]

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その他には小沢茂弘監督『いかさま博奕』(1968)も見ていて、これがまた素晴らしい作品であった。鶴田浩二若山富三郎が薄灯りの賭場でいかさま博打を仕掛け、そして見破るという緊張感のある作品で、博徒の手際の見せ方や、(札のように)まず襖から倒れる敵、そして片目に傷を受けつつも決戦へと向かう鶴田浩二に燃え、最後まで「嘘」で戦う男の背中に泣く最高の作品なのだが、今回は任侠よりも実録寄りの作品で固めたため、最後にちらりと書く残す程度にしておこうと思う。

2016-08-02

『シン・ゴジラ』を見た。

日本のいちばん長い灯

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ゴジラシリーズ第29作目にして、12年ぶりに国内で作られた作品。長谷川博己竹野内豊石原さとみ市川美日子、大杉漣ら多数キャストが出演。監督・特技監督樋口真嗣。脚本・編集・総監督庵野秀明



東京湾内で無人のボートを調査中だった海上保安庁職員が遺留物を回収しようとしたその時、突如大きな揺れが起こり、海面から水蒸気が噴出した。アクアトンネル浸水し、大きな事故となったため、内閣官房副長官政務担当の矢口(長谷川博己)は首相官邸で情報収集に奔走する。すぐに首相(大杉漣)をはじめとし閣僚が収集され、対策案を協議することとなった。政府としての見解が固まりつつあったその時、彼らは驚くべきものを目撃するととなる・・・



早い映画である。セリフが早い。カットが早い。それが一つの流れを生んでいることには違いない。またアップも多い。それは人物の顔に寄るだけではなく、時にはカメラを机に載置しつつ、マイクであったり電話であったりという静止した物体の集合体を捉える。その物体とは人間をも含むのだが、この画面が機能しているのは既に書いたように早いと感じさせるカットが映し出す「コレ」という構図の連続、つまり編集によってである。

しかしその、撮影というよりは既に決まっている構図の編集が優先されている画面は、作品から動きを奪ってしまっている。それが顕著なのが人間達だ。彼らは良く喋る。しかしその喋りを繰り出す人間達の動きや振る舞いは、殆ど描かれていない。だから画面上では、台詞が人物を先行しているのだ。もちろん、喋りによって人物、ひいては空間が浮かび上がることもある。同じく早口でまくしたてる『ソーシャル・ネットワーク』がその一つであると言えよう。しかし本作の喋りは人物、空間を浮かび上がらせるのではなく情報の処理として扱われおり、そのため単調な画面の繰り返しになっている。また動きだけでなく、室内照明への気遣いの無さもあり、カットの一つ一つが緩い。ちなみに廊下の歩きや紙を手渡すこと、室内のカメラ移動もあるにはあるのだが、それがイマイチ機能しないのは、その動きが画面の広がりに結びつかないからだろう。

ただし、言葉の早さには少しだけリズムを感じる部分もある。だからいくら顔面に画面が圧縮されようともひどく退屈とまでは思わないし、顔面大会もここまでやられるとそれはそれで楽しくないわけではなかった。つまり、この作品はそういうルールなのだと思えばいいのである。人物の振る舞いや動きではなく、アップでとらえられた顔と台詞の前進が物語を、ひいては「労働」を推し進める。それが本作のルールなのだ。そう考えると、この映画における言葉の早さと長さ、それに手続き感覚は、特定の労働形態を持つ世界を表現する方法としては一つ、正しい選択と言えるのかもしれない。何故ならそれが彼らの労働形態なのだから、それに則った画面を仕立て上げるというのは、映画としてどうかと思うにしても、それはそれで納得がいく理論でもある。つまり、行動や人物描写ではなく、台詞や顔のアップによって静止した「労働」という状態を画面に貼り付け、そしてそれを編集・構成させることで物語を前進させるのが、本作のルールなのだ。マイクや電話、パソコンに図といったものも、それがその物体にとっての「労働」になるからこそ、大写しにされているのである。

ただし、そのルールに則らず著しく画面を滞らせる人物が本作には存在していて、それは石原さとみ演じる米国大統領特使である。彼女はその場違いな見た目によってではなく、ルールに則っていないからこそ浮いているように思えるのではないか。例えば塚本晋也が他とは違う身なりでいても違和感なく見られるのは、彼がルールに則っているからだろう。このことに対し、彼女は米国側、つまりそれまでのルールの外部にいる人間だから良い、とすることもできるだろうが、それならば新しいリズムを入れ込まなければならないはずなのに、彼女が出ているシーンは単に浮いているだけなのだから、やはりそれは問題といえるだろう。



ところで、本作には振る舞いや動きがないと先に書いたが、実はまったくないわけではない。というかむしろ、人間達にはそれがないというだけで実は本作には多数の「動き」が存在している。まずは戦闘機や戦車だ。これらの物体は人間達よりよほど「動き」による労働をしており、また例えば攻撃開始のボタンが押されるか押されないかという状況で空中に留まる戦闘ヘリや、轟音を挙げキャタピラを回す戦車は、ここに出てくる人間達よりよっぽど自らの個性について「振る舞い」をしているように見える。新幹線だって例外ではない。終盤での、あっと驚くその利用のされ方はまるで蹂躙された仲間への弔いのようにすら見えるし、幾度となく崩壊の憂き目にあってきたビル群は骨を斬らせて肉を断つが如き活躍をしはじめる。つまるところ、人間以外の物体には、実に個性的な動きが用意されているのだ。もちろん、ヤマタノオロチ退治が如く血液凝固剤を投与する機械の勇姿も忘れてはならない。



そして当然、ゴジラである。62年ぶりに日本へ産み落とされたこの怪獣もやはり、その動きと立ち振る舞いによって存在していた。しかしこのゴジラの、何という禍ぶりか。ここまで否定とも肯定とも言い難い感想を書いてきたけれど、この一点だけでこの映画を好きと言い張れる。例えばこのゴジラを、震災原子力と絡めて語るのは1954年版のゴジラが持っていた意志から考えて極めて自然なことであろう。しかしだからゴジラは素晴らしいなどとは言わない。初代にしても、そしてこのシン・ゴジラにしても何故素晴らしいのかといえば、それは恐ろしくて禍々しい存在だったからに違いない。いくら意味を詰め込んだところで、その造形が未熟では話にならないのだ。だからこのシン・ゴジラが、その「シン」とは新ということなのか、それとも真か、はたまた神であるのか、いや意味として侵ともとれれば審ではない理由はどこにもなく、また震であったとしても驚きはしないだろうし、sinと解そうとも一向に不思議ではないような、つまり「シン」としか言えないような理解を超えた存在として、圧倒的な破壊と災いを引き連れ上陸する場面のすべてが素晴らしい。顔にミサイルを受けた後、硝煙の中から覗かせる顔の何と恐ろしいことか。どこか戦艦を連想させる、全方位に向けられた攻撃性の何と絶望的で、かつ美しいことか。はじめは意図のない目をしていた怪獣が、いつの間にか災いとしての目を持って上陸してきたときの恐ろしさを、誰もが目撃したであろう。ちなみに僕としては人間たちのドラマよりもはるかにゴジラそのものが持っている異形の哀しみに心を動かされ、だからゴジラによる破壊は確かに恐怖でしかないものの、同時にこの怪獣が人間達の作戦によって倒れそうになる度むしろ、可哀想ではないかという思いもこみあげてきたのである。特に今回は第1形態があることや、またゴジラ自身も自らの攻撃性に不慣れなのだと感じさせる描写から、よりそう思わせるのである。



ところで、本作にはほとんど民間人が登場しない。死はあるが、ゴジラを目撃したり避難する人間は初代のようには取り扱われず、描写というよりは状況の説明に留まっているように思う。それはなぜか。話を戻すこととなるが、それはつまり、「労働」ではないからなのだ。既に書いたように、本作は「労働」を切り取った作品である。それは会議であれ機械であれビルであれ、とにかく画面には「労働」のためになるものばかりが映されている。もちろんゴジラの「労働」とは破壊であるため、目に意図を持たない形態では海に帰ることとなるのだ。だから「労働」に関与しない者たちの視線は、殆ど画面に登場しないのである。

そこで思い出すのは労働というテーマを好んできた、宮崎駿であり、またその宮崎駿が、かつてテレビ放映されたドキュメンタリー番組において放った言葉である。それは震災直後、作業を中断すべきかという状況において発された、「こういう時こそ仕事をしなければならないんだ」という言葉である。庵野秀明宮崎駿。その関係性についてここで推し量るようなことはしないが、しかし本作はまさにこの一言と同じ理念によって支えられているように、僕には思えたのである。

ところで、石原さとみ長谷川博己が横に移動しながら話をし、それがある地点に到達するとカメラは俯瞰の為上昇をはじめ、最終的に画面右下端に石原さとみを配しながら線路を奥に映し出すシーンは一体何がしたかったのだろう。画面としてキマっているとも思えなければ、また画面端にどうしても人物を配そうとして人物から遠ざかるカメラの動きも気持ちいとは思えず、不思議な印象だけ残しているのだが。

2016-07-12

最近見た旧作の感想その27〜上半期旧作ベスト〜

今年の1月から6月末までに見た旧作映画の中で特別面白いと思った作品について感想を書きつつ、羅列していきたいと思います。ちなみに並び順には特に意味はありません。それではさっそくいってみましょう。



『マリアのお雪』(1935)

馬車が壊れ、立ち往生することになってしまった場面に舞う花びら。斜面に並ぶ木立の中、縦横斜めに画面が入り乱れての銃撃線。乗船を拒否される女たちとその切り返し。そしてその直後に水路を挟んでの会話。何処を切り取っても縦に横に素晴らしい画面の連続であって、そのあまりの美しさは今まで見た溝口作品の中でも特別記憶に残るものだった。ただし残念なことにこの作品を見ようと思った場合今のところ粗悪な画質で我慢するしかなく、この由々しき事態に対しては早急に対応してもらいたいところである。

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『ハタリ!』(1961)

ハワード・ホークスは10本ほどしか見ていないのだが、その中で最も好きな作品。スピルバーグの『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』にも受け継がれた動物生け捕りシーンはその動きが生み出す迫力に興奮させられ、また変な扮装に大仕掛けを駆使しながら猿を一網打尽に包み込んでしまうという、後に『リオ・ロボ』でも繰り返されるその大袈裟な様子には感動すら覚える。そして動物を捕まえることを使命としてきた男が、まるで突如画面に登場する豹と同じような気性を持った動物的女に翻弄され、最後にはその女を捕まえる、というより女に捕まえさせられることになる、という話は『赤ちゃん教育』のようでもある。この上、更にチームに連携が生まれることの面白さも存分に味わうことが出来るということで、この作品はまさに、スペクタクルも恋愛もコメディも全てが動きによって生き生きと輝く、傑作であると思う。



『ジーンズ・ブルース/明日なき無頼派(1974)

今年初めに「2015年下半期旧作ベスト」を書いた際、中島貞夫監督作をもっと見たいと宣言していたのでお目当てだった『安藤組外伝 人斬り舎弟』を始め何本か見たのだけれど、その中でもっともよかったのがこれ。ニューシネマ風、というよりも『暗黒街の弾痕』のようなストーリー。特に渡瀬恒彦梶芽衣子が車を失い、猟銃を手にしてからの逃避行となると俄然面白くなる。聖子という役名を与えられた梶芽衣子が、暴れ犬のような痛ましい情けなさを見せる渡瀬恒彦に対しまさしく聖女のような存在となり、珍しく笑顔を向けるのが美しい。そんなわけで梶芽衣子ファンは必見。拳銃の練習として日の丸をぶち抜いて見せる辺りに中島貞夫イズムを感じる。



婦系図(1962)

三隅研次監督による、美術から照明、脚本、撮影に至るまでどこをとっても美しいメロドラマ市川雷蔵が万里昌代に別れを告げる場面は美しさだけでなく2人の動きの静と動の紡ぎ方が素晴らしい。こと本作における万里昌代には特筆すべき魅力がある。三隅研次監督作では『斬る』、そして何と言っても『座頭市』初期5作でのヒロインとして目に焼き付いていたのだが、ここでもう一度その魅力を知ることとなった。もう一つ、この作品で忘れられない場面があるのだが、それは三条魔子が木暮実千代の屋敷を訪ねた際、木暮実千代足袋が一瞬だけアップで映ることである。このほんの少しの足袋のショットだけで、こんなにも「表現」できるとは恐れ入った。三隅研次監督のメロドラマはまだほとんど手を付けていないので、これからが楽しみ。

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『お引越し』(1993)

走ることをはじめとし、田端智子の動き捉えたショットの躍動がまずいい。そしてその田端智子がクラスメートと坂道を上っていると唐突に、不自然に、強烈に降り注ぐ雨には感動する。上手く説明できないが、あの雨は映画でしかない。しかもその水と、時折挿入される森のイメージが物語の後半では幻想的に死の匂いを伴いつつ、少女の成長譚へと変貌するということにも驚かされた。夜のシーンの美しさ、鏡、花火。何気ない言葉の一つ一つが笑えたり切なかったりして、そして最後の長回しでとどめを刺される。自分が見た相米慎二監督作の中ではベスト。今年は『魚影の群れ』も見て、そちらについても色々と書きたいことはあるのだが、一つだけ書くとしたらマグロが水面にその影を見せる瞬間の興奮と緊張感と恐怖。これが特に素晴らしかった。



アッシャー家の末裔』(1928)

ジャン・エプシュタインという、初めて名を聞く監督によってサイレントの時代に送り出されたこの怪奇映画は見事なまでの異様さに満ちた傑作である。寂れた木立を抜けた先には沼を湛えた陰鬱な館。風が吹き、カーテンが揺れ、葉が舞う。音はなくともまるで音が聞こえてくるような、音が鳴っていないのが不思議なくらいに思えてしまう画面と反応がここにはある。そんな画面には死と崩壊の雰囲気が常に漂っており、そのショットの一つ一つが素晴らしいのだが、何より驚かされたのは死んだ妻を抱えながら叫び右往左往する夫の、その顔をアップで映しながら移動撮影をするという異様なショットである。恥ずかしながら初耳だったジャン・エプシュタインという監督は他にいったいどんな映画を撮っていたというのか、非常に気になるところである。



『青の稲妻』(2002)

乗り物や反復移動といった動きによって支えられている画面には倦怠感と閉塞感が付きまとい、感情の表出ではなく、ただ行動と画面によってその空気感は決定づけられている。それは中国の乾いた風土とも密接にかかわっており、その渇き具合というのは、キスですらたばこの煙を交換し合うのみに留まっていることからも見取ることが出来る。照明も素晴らしい。作品内には中国という国がたどった歴史の足跡がそこかしこに刻印されてはいるものの、この作品はあくまでその国で、今、閉塞的なままに生きているというその生に基づいており、だからこそ作品自体も生きているのではないか。『長江哀歌』と並んでジャ・ジャンクーの中では最高に好きな作品。

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『よろこびの渦巻』(1990)

関西テレビの深夜枠において放送された黒沢清の短編。黒沢清作品の中でも自由度という点においては相当高く、なにやら観念的な話が始まるのかと思いきや唐突に謎の人物が登場し謎のギャグまで炸裂。そして動きの魅力に満ちた横移動長回しや、枯れ木林の中をアンゲロプロス風に動き回った挙句、最終的には歌へ着地し爆発という自由さ。一体これは何なのか。それはわからないが、面白いので別に問題はない。



『海外特派員』(1940)

ややプロパガンダ的匂いを感じなくもないのだが、サスペンスとして見事な作品で、やっぱりヒッチコッらしくちゃんとぐらつかせ、最後に「何か」が落ちている。特に雨のアムステルダムから始まるシークエンスは最高すぎる。雨と傘、拳銃と群集、風と風車、歯車とコート、帽子・・・要素を挙げてもどうしようもない。緊張が高まりアクションが連なる前半と、回転が疑問と不安を巻き込んでゆく後半から成るこのオランダでの追跡のアクションとサスペンスこそが映画なのだと、自信を持ってそう言いたい。ちなみに上半期にはヒッチコックのサイレント『下宿人』も見たのだが、こちらもまた、見るということを楽しませてくれるいい映画だった。



『警視-K』(1980)

勝新太郎主演・監督の刑事ドラマ。ぶっきらぼうで素っ気ないタッチや展開に、ぼそっとした台詞とざらついた色気のある街。手前に物を置いて層を作ろうとする執念の構図。長回しと極端な寄り。ガラス、鏡、水の反射をこれでもかと利用した撮影。暴力に対する薄い反応・・・。話は放り投げておいても、こういった構図・見せ方・表現には異様なこだわりが感じられる偉大なる意欲作である。勝新太郎川谷拓三の他、ゲスト枠のキャストも魅力的だ。また森田富士郎が撮影を担当している回もあるのだが、ここで思い出されるのは三隅研次監督・若山富三郎主演『桜の代紋』である。前にこのブログでも感想を書いたのだが、あの作品でも反射・鏡越しというのは使われていたし、この特徴というのは『座頭市』の監督でもある三隅研次からの影響なのかもしれない。ちなみに個人的なオススメは1,3,7,10,12,13話で、既に書いたような演出以外の魅力としては、3話のあまりの救われなさであるとか、10話の原田美枝子の可愛さなどがある。対して最も微妙な回は森一生が監督した8話で、確かに話はストレートでちゃんと解決するし(『警視-K』では事件の顛末が重視されていないこともある)、盛り上がりもあるし空間の演出という点も良いことには良いのだけれど、この作品に望むのはそういうことじゃないのだ。もう一つ微妙な点として、本庁の辺見というキャラクターがいる。彼は鼻持ちならないエリートだが役立たずの無能で口ばっかりという役としてコメディリリーフ的役割を果たすが、個人的にそれはこの作品の空気とは合わないので必要なかったと思うし、また娘役に実の娘を、そして元妻役に妻を配役するという行為も肯定しづらいのが、しかしそれでも僕はこの作品を愛さずにはいられない。というのも、この作品にこそ僕の求める世界があったからだ。確かにここにはぶっきらぼうでダウナーな空気しか存在しない。しないのだが、しかしそんな世界でしか持ち得ない優しさも確かにあるように感じられ、そこに一度堕ちてしまったが最後、ずっと浸っていたいと思わせてくれるのである。

警視-K DVD-BOX

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さて、以上が今年上半期に見た中で特にお気に入りの作品でした。このほかにも、帽子と背中で語る小津安二郎戸田家の兄妹』における佐分利信のヒーローっぷりとやけに空間の開いた喫茶店は印象深いし、勝新太郎が人斬り以蔵を演じた『人斬り』の特に前半における勝新太郎の暴れ走りっぷりは大変面白かった。他にもニューヨークの映画オタクを記録したドキュメンタリー『シネマニア』や山下敦弘監督『リアリズムの宿』なども良かったのですが、このくらいにしておこうと思いました。相変わらず新作に関しては更新が滞っていて、見たのに感想を書いていない作品がたまっているのですが、下半期もどうもこの程度の頻度になってしまいそうですので、気が向いたら読んでください。それではまた。