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2017-08-11

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』を見た。

Shine On You

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1986年から現在も連載中の荒木飛呂彦による漫画『ジョジョの奇妙な冒険』において、92年から95年の間に発表された『第4部 ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化。監督は三池崇史。主演は山賢人、神木隆之介岡田将生新田真剣佑國村隼山田孝之伊勢谷友介ら。



日本のどこかにある町、杜王町。平和でのどかなこの町に引っ越してきた高校生の広瀬康一(神木隆之介)は新たなる出会いを楽しみにしていた。しかし早々に不良に絡まれた康一は、同級生東方仗助(山崎賢人)に偶然助けられる。仗助は目に見えない力を持っており、康一はその存在に興味を持つ。そんな中、町では秘かに恐ろしい事件が起こり始め・・・



どう見ても日本とは思えない土地に間違いなく日本でしかない景観がねじ込まれ、どう見てもおかしな装いとしか言いようのない恰好の人物が画面を闊歩し、どう見てもおかしな「スタンド」と呼ばれる超能力が戦う。いったいどれほどの「おかしさ」が詰め込まれた作品であろうか。しかもこれらの「おかしさ」はその身をひそめることなく、そのまま画面に残されているのだ。しかしそれが功を奏している。つまり、大前提として大ウソをつくことによって世界自体がおかしな異物として存在することとなるため、そこに映る人物もそうである事を望まれるし、普通ではないことが起ころうともそこに驚いてはいけないという前置きが出来上がっているのだ。だからこの作品においては無理に現実に合わせるであるとか、もしくはファンタジーとして作り込むようなことは必要ない。なぜなら異物でしかないことを前提としているのだから、それはそのまま異物として表現すればよいのである。結果出来上がったのは一見キッチュではあるけれども、原作の醜悪なパロディとしてではなく、あくまでこの作品内においてキャラクターが魅力的に動き回れる世界であり、そもそもジョジョの奇妙な冒険』という漫画のその絵自体が、コマと省略とデフォルメという漫画的な表現が非常にうまくもありつつ西洋絵画やボブ・ピークから影響を受けているような、元々リアリティともファンタジーともいえない独特なラインにあるものなわけだし、不思議な擬音も視覚的な感覚をあえて言語として表現した際にできるものなのだから、そんな漫画を原作とする実写映画として、本作が採用した方法は決して間違ったものではないといっていいだろう。



一見、と書いたのはこの世界の何もかもがただ「おかしな」異物ではないからである。例えばコントラストを強めることで、異物は異物として画面に馴染んでいるし、また美術の力もかなり大きい。特に後半の舞台となる虹村家は良く作りこまれた、豊かな廃屋空間である。ただしその豊かさとは、荒廃した雰囲気を作り出した美術によるだけのものでもない。この屋敷のホールにある階段を上った先にはL字に曲がる廊下があり、狭い部屋へと続いているのだが、さらにその奥には上の階に行くための階段が直線上に見えている。この直線を生かした動がつけられることによって。いくらもない道でありながら画面には前後への広がりが生まれており、さらに狭さで画面が立ち往生してしまわぬよう、上下と曲線の動きもつけられている。美術に加えこのような演出によって、屋敷の中に空間が創出されている。また前半の東方家においては、四方を取り囲むサスペンスに対し部屋と部屋との間の壁を壊して切り抜けるという、家ならではの設計が効いている。

さらに照明も非常に重要な要素であって、特に強く出ている黒は画面のアクセントとして以上に、ホラーとしての雰囲気を高めている。それは東方家の夕食というなんてことはないシーンにおいても無駄に黒いため不安になるほどで、些かおかしく思える部分もあるけれど、とはいえホラー方向に寄せたのは正しい選択である。それは漫画の原作者である荒木飛呂彦ジョジョを書く際に多くのホラー映画に影響を受けたということや、三池崇史作品らしいグロテスクな造形が登場すること、もしくは映画的な記憶を引きずり出させるということに留まらず、この作品の物語がホラー性を持っているために、ホラーの雰囲気が必要なのだ。そしてそのホラー性の中核を担うのが、家と侵入者である。

冒頭からある一家への侵入者として登場する連続殺人鬼のアンジェロは、それが家であろうとも体内であろうとも人知れず侵入し殺害する。つまり単に殺人鬼というだけでなく、普通の人々にとっては克服しえない実態不明の現象であるために、彼の存在はホラーになるのだ。またアンジェロが退場した後に登場する虹村家はホラーとしか言いようのない状況を抱えているわけで、家の中に隠された部屋と悲劇という点でゴシックホラーと言い換えても良いだろう。だからこの作品におけるホラー性とは、家を中心とする日常に潜む魔という、物語的な要請からきている。しかしそれでも完全にホラーとならないのはそれらに対抗する術を持った人物がいるからであり、そのために見通しの良い空間設計がなされているのである。



ところで、家と関連する事柄で本作の登場人物が繰り返し口にする言葉として、「父親」というものがある。ただし一言に父親といっても、仗助にとって、虹村兄弟にとって、アンジェロにとってと内容は三者三様であって、それは例えば食事を摂るシーンにおいても仗助は家で家族と、虹村形兆は屋敷で共犯者と、アンジェロ他者の家でというような違いがあり、家と家族に対する考え方の違いはそういった画面からもうかがい知ることが出来る。仗助は家族が良ければそれでよいとはじめ考えており、スタンドもアンジェロも彼には関係なかった。しかしながら「父親」代わりとなっていた良平が殺されたことにより彼はアンジェロと、そしてアンジェロのスタンドを引き出した虹村兄弟と対峙することとなるため、彼としては否応なしに外部へと向かわざるを得なくなるのだが、アンジェロは家族という内部を持たない存在であることに対し、虹村兄弟には彼らの家族というまた別の内部と事情がある。仗助は彼らを通して、自らの家族だけではなくいくつもの家族という内部に忍び寄る正体不明の外部を知り、家族や家、ひいてはそれらの拡大単位である町を守るという良平の意志を受け継ぐのである。

一方、常に外部へとしか動かない人間というのも本作には登場しており、それは広瀬康一である。原作とは違い転校生という設定になった彼はこの町に未だ内部を持っていないため常に外部へと働きかけざるを得なくなるのであるが、なにより彼が乗り回す自転車の回転によって接触は行われ、スタンド使いが出会い、引きあわされることとなる。もし形兆の言うとおり出会いが「重力」であるとするならば、この作品において最もそのことを視覚的に感じさせるのはスタンド使いと触れ合うたびに手放され倒れる自転車である。本作が家という主題と同時に出会いの物語として成立しているのはこの部分が大きい。



これらのように、物語が画面上のモチーフを通し映画として有機的に繋がるよう再構成された本作は、漫画原作の実写映画化としてベストな出来とは言えないかもしれないけれども、ベターな戦略を持って臨まれたということは間違いない。確かに無駄だったりテンポを削ぐようなカット割りはあるし、リアクションの過剰さも気になる点ではある。しかし例えば必ずしも芸達者ばかりではない役者陣も総じてこの世界のなかでは個性を確立しており、特に虹村形兆を演じた岡田将生は素晴らしくキャラを演じており、そういった点ひとつとっても、単に捨て置くだけの作品では決してないのだ。続編が製作されるのか、それはまだわからないが、最後にちらりと姿を見せた吉良吉影、彼もまた家族の物語を持った人物であるわけだし、何よりこの方法論で語られるジョジョ4部が非常に楽しみである。というわけで、面白かったですよ。

2017-07-02

最近見た旧作の感想その32〜2017年上半期旧作ベスト〜

最近ますますブログの更新が滞っておりますが、とりあえず2017年も上半期が終わりましたので、旧作映画のベストについて書きます。今年1月から6月の間に見た旧作で特に面白かったものを列挙していきたいと思います。



『怪人マブゼ博士』(1933)

ラングの中でも大好きな作品。見えない犯罪者を中心としたテンポの速い犯罪映画だが、その見えなさを利用した一種のホラー映画としても最高。とりわけ音・声の演出が素晴らしく、見る・聞くの驚きに満ちている。例えばまずは冒頭の、工場の地下にあるのかと思われる部屋の中では、ものが揺れるほどの振動音が響いており、そのテンションの高さから爆発までの流れで一気に引き込まれてしまう。その後の、電話中に襲撃される場面にも犯罪映画的サスペンスの面白味があるのだが、このようにして事件に巻き込まれた人間の中には、見えざるものが見え、見えるべきものが見えなくなり、また不在の声を聞いたり、はたまた言葉を失ってしまう者がいる。そして全ての中心にいるマブゼは自身の姿こそ見せないが、声を借り、文字を借りて世界に混沌をもたらすのである。高橋洋が最も恐ろしい映画として挙げたのも頷ける、理解不能な理論で世界が書き換えられようとする、素晴らしい恐怖映画であり、一級の犯罪サスペンス映画だ。



『冬冬の夏休み』(1984)

これは素晴らしい夏休み映画で、走ったり遊んだり寝そべったりする子供たちが、ただ単に子供たちでしかない良さがある。風景も美しく、心地よい時間が流れていはいるものの、そこには死や悲しみも普通に存在しており、そういったすべてをひっくるめた時間と空間が豊かに映し出されているのだ。何度か登場する列車のタイミングが最高。



『日本暴力団 組長くずれ』(1970)

高桑信監督による日本暴力団シリーズ二作目。この監督についてはなかなか調べても情報が出てこないのだが、しかしやはり面白い。若山富三郎の出番が異常に短いのは残念ではあるものの、鶴田浩二池部良の兄弟設定、そして何より山本麟一に男泣きである。銃撃・襲撃シーン等、画面奥左右をドアや窓、柵を利用した画面構成へのこだわりもいくつかの場面では見られるのだが、色としての白が多いのも印象的で、冒頭からして異常なまでに白く、またそんな中に時折差し込まれる赤も鮮烈な印象を残す。

日本暴力団 組長くずれ [VHS]

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『みかへりの塔』(1941)

更生学校の子供たちの、只々歩いたり走ったりというような様々な行動が生き生きと捉えられており、カメラもまた気持ち良く動いている。ロングショットが抜群に美しい。断片的な話を、そういった町の風景が繋いでいるようにも思えた。喧嘩や靴の話などは時折サイレントのようでるが、その少年同士が橋の上で喧嘩する場面でのカット割りや、最後の開墾風景はまるで西部劇風でもある。しかしそういった生き生きとした子供たちの動きに対して、元生徒が尋ねてくる座ったままの静かなシーンによって、話に重みがかかっている。

あの頃映画 みかへりの塔 [DVD]

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『ギャング同盟』(1963)

オープニングクレジットからカッコよく、全編スピーディーに展開するクールな作品。鶴田浩二みたいなスターは出ていないが、しかしその、華やかさとは違う負け犬達の渋い戦いがかっこいい。クールでサスペンス調の誘拐シークエンスに、黒の映える画面、そして正体不明瞭な「組織」とのやり取りはハードボイルドな雰囲気を醸し出しているものの、最後には西部劇調の廃屋での籠城戦となる。ただしアクション演出でいうと、むしろそのクールなトーンに合わせて一瞬のうちに光るエレベーターでの場面の方が、本作の場合は面白いかもしれない。深作欣二が主張にハマりすぎず撮ったギャング映画の佳作。

ギャング同盟 [DVD]

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『顔役』(1971)

細かい感想はこちら→最近見た旧作の感想その30 - リンゴ爆弾でさようなら

勝新太郎監督作が醸し出すダウナーな空気感が好きなのである。

警視-K DVD-BOX

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『僕の彼女はどこ?』(1952)

ダグラス・サーク監督によるコメディ。話の動機としてはどうなの、と思わないではないけれど、爺さんを中心にひたすら言葉の応酬をし続ける楽しい作品。酒場や賭博場に顔を出すシーンはその顛末も含めて笑える。層をつくり、その中を登場人物たちに出入りさせ、また多くの動きをつけることで画面が生き生きとしている。色使いは流石の一言。メロドラマ系譜よりもこちらの方が個人的には好きで、クリスマス映画としても抜群の雪の美しさ。傑作。



『牯嶺街少年殺人事件(1991)

細かい感想はこちら→最近見た旧作の感想その31 - リンゴ爆弾でさようなら

これもまた、控え目に言っても驚くべき傑作。



『シー・ホーク』(1940)

マイケル・カーティス監督、エロール・フリン主演による海洋冒険活劇。海戦から集団脱走に潜入モノと、内容てんこ盛りで飽きさせない娯楽作。音楽も含めておそらくは『スター・ウォーズ』に影響を与えたのだろうと思われる。室内外問わず縦奥に広いゴージャスな空間の設計が見事で、また陰影を凝らした撮影がいい。夜の街並みや海、無人の船に落ちる影、そして最後の剣戟ではその空間と影の面白さが存分に発揮されており、とにかく見所いっぱいで楽しい。ヒロインを演じたブレンダ・マーシャンも可愛かった。



アンダーカヴァー(2007)

撮影に目を惹かれる作品で、一つ一つの画面に貫禄がある。目線で語るのが主になっており、出来事を見つめさせ、またその交わりで緊張感を高めさせたりするのがうまく、さらにその上で物語を自然に展開させる脚本が良いと思うのだが、対して銃撃戦やカーチェイスなどのアクションシーンは視界不良の中で行われている。特に麻薬工場での、扉やビニールカーテン、それに闇を利用したそれは音や血の効果も相まって印象に残るシーンであった。

アンダーカヴァー [DVD]

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『三十九夜』(1935)

ヒッチコック作品の中でも特に素晴らしいこの作品は、風に揺れるカーテンが一つの殺人事件を運んできた後止まることを知らぬまま、ある男が乗り物や群衆を駆使しつつ、女と関わりながら逃亡劇を展開することとなる。ヒツジの群れから始まる霧の水の夜のシーンが素晴らしく、更にその後の、手錠をはめられたままの男女が一つの部屋に泊まることとなる場面では、女がストッキング脱ぐ際、手錠というアイテムによって性的な行為ひとつなしに性を強烈に印象付けている。

三十九夜 [DVD]

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時代屋の女房(1983)

夏目雅子存在感がイチイチ最高で、何故か傘をさして登場するこの殆ど幽霊か妖怪かとすら思えてしまう正体不明気味な女性は、その動きによって圧倒的な魅力を画面にたたきつけているのだ。勿論この作品の良さはそれだけではなく、時代屋の家屋設計といった美術面から、その家の中で層をつくり画面手前奥で異なる動作の流れをつける演出も魅力的なのである。平田満が出てくるシーンは全編面白動作大会すぎて最高。森崎東監督作品は初めて見たのだが、これは面白かった。

あの頃映画 「時代屋の女房」 [DVD]

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暗黒街の美女(1958)

鈴木清順による、死んだ男が呑みこんでいたダイヤモンドを巡る争奪戦。キャラクターの個性が立っており、またダイヤモンドをいわゆるマクガフィンとし、アクションを止めないで進行するスピード感が最高な娯楽作。影を駆使した犯罪映画としての雰囲気立てもかっこよいし、白木マリが水島道太郎と追いかけっこをしたり、川辺で歩いている辺りの自由な動きも魅力的だ。ところで、鈴木清順作品は柵やガラス窓、壁といったものに登場人物がしがみついたり、張り付いたりするシーンがいくつかみられるような気がする。すぐさま思いつくのは『野獣の青春』の宍戸錠、『けんかえれじい』の浅野順子だが、今年初めて見た『港の乾杯 勝利を我が手に』も『悪太郎』にもそういったシーンはあった。



というわけで、以上が今年上半期に見た作品で特に面白いと思った作品でした。今年もなかなか新作映画についてブログを更新できない状況にあましたが、しかし北海道から東京という遠さがありながらも名画座へ行く楽しさを覚えてしまい、金は消えてゆくものの『顔役』や、鈴木清順の作品を見ることができ、また『牯嶺街少年殺人事件』の全国での公開もあって、今まで見ることを半ばあきらめていたような作品に触れることが出来たのは、大きな収穫でした。下半期もどんな作品に出会えるかも楽しみですね。

2017-05-23

最近見た旧作の感想その31

『牯嶺街少年殺人事件(1991)



映画を好んで見ていると、時に「見られない作品」に出会うことがある。例えばDVDが廃版になっているだとか、もしくはそもそも日本版や日本語字幕の入ったものが発売されておらず、VHSに頼るしかないもののそれすら手に入れることは困難であるとか、さらに中にはパッケージ化されていない作品まである。こういった、「見られない作品」の中でも高名だったのが、エドワード・ヤン監督による『牯嶺街少年殺人事件』である。丁度僕の生まれた1991年に台湾で、そして翌年に日本で公開されたこの作品は、長らくの間容易には見ることの叶わない幻の作品として存在しており、「クーリンチェ」という聞きなれない名前の付いたこのタイトルはまるで『悪魔のいけにえ』こと『The Texas Chain Saw Massacre』のようにそっけなく、それでいて強烈に興味をそそられるものであった。そんな作品が何と今年になって突如全国で復刻上映されることとなった。タイトルの魅力や、既に傑作として名高いことからも僕はほとんど約束された傑作を見に行くという感覚で劇場へ向かった。しかしそれは間違っていた。これは約束された傑作などという安心感を持って臨めるものではなかった。それどころか、途方もない傑作を目にしているのだということに慄くような作品であったのだ。



この作品を説明するとしたら、まずは闇の映画であると言わざるを得ない。闇とは言葉の通り画面上に現れる闇のことであり、この作品では無数の豊かな闇が画面を覆っている。それと関連して、光の映画でもある。しかしこの光は闇を完全に照らし出すような強さをもってはおらず、懐中電灯に電球や蝋燭というおぼろげで心もとない、瞬間的な光であって、せいぜい深い闇の一部をぼんやりと浮かび上がらせるだけだ。だから『牯嶺街〜』においては、光というより光源に対して意識的なのだと言えるだろうが、ともかくこの光と闇が生み出す画面一つ一つの充実ぶりを見ているだけでも相当に素晴らしい。ただし重要なのは、こういった画面がただ一枚の写真として存在しているのではなく、人物の動きや音を伴いながら世界の広がりを実感させているという点である。『牯嶺街〜』における光の届かない闇の深さには、それだけで見ている側にその奥の世界への想像力を引き出させる力があるのだが、登場人物たちはその中で生きているということを、動きや音の広がりによって見せている。

勿論、その広がりとは暗闇のシーンに限るものではなく、例えば小四が足を痛めた小明と出会い、歩き、止まったかと思うと脚のショットを挟み込んで塀を乗り越えるに至る昼間の場面も素晴らしい。画面奥手前や上下の構造を利用し世界と動きを捉えるフレーミング、設計、タイミング、それにロケーションなどが、これしかないという精密さでもって全編連続することにひたすら驚かされる。

そしてさらに面白いのは、このようにして世界の広がりを見せた作品でありながら、この作品に漂うのはむしろ閉塞感であるということだ。それは物語から要請さているのだろうが、しかし決して『牯嶺街〜』はある一定の時代を取り巻いていた状況を再現しているのみではない。「あの頃」を思い出すとか、それに乗じて今を見つめ直そうなどといった手合いのものではなく、『牯嶺街少年殺人事件』として再構築された世界が画面の中に存在しているのだ。だからこの作品が作り出した世界は現実の時代とは無関係に映像の中で生き続けると確信しているし、それはつまり、映画として最も理想的な形の一つなのではないかとも思っている。



ところで、『牯嶺街少年殺人事件』を形作る要素として非常に気になっている要素に「夏」ということがある。どうにも暑そうな夏を舞台としているが、ふわりとした風が入り込んでいることからも、じっとりとした不快感、つまり湿り気に関してはあまり感じられなかった。とはいえタイトルに類似を感じる『悪魔のいけにえ』の暴力的な暑さともまた違っており、そこで気になったのが、水の扱いである。まずは冒頭、登場人物たちは食事をとるよりもまず先に、季節外れに熱いお茶と、かき氷を食べる。その後も、お茶を飲む場面は食事よりも多く画面に登場し、さらに主人公に至っては「食欲がない」と言い、まともに食事を摂ろうとしていないことからも、飲み物がより強く主張されているように感じた。

そしてそんな飲み物よりも更に強烈に画面に出てくる水として、雨のシーンを忘れるわけにはいかない。217と呼ばれるグループを襲撃する夜の場面は、そのほとんどが闇に覆われたまま音と少ない光の中で進行し、本作でも最も素晴らしい影の見られるアクションシーンであるが、ここでは轟々と雨音が響いており、また雨合羽に笠を着込みずぶぬれになりながらゆるりと人力車でやってくる襲撃者たちの姿は異様に格好いい。ここで雨/水は、それまでより強烈な集団的暴力を運んできているのだが、もう一つ暴力を運んでくる水が存在する。それは小四の父親が尋問されるシーンで使われている、氷である。小四の父親が尋問質に連れて行かれたとき、その床は奇妙に濡れており、いったい何故かと思っていると、その後に違う男が下着一枚を履いて氷の上に座らされているシーンが出てくる。そして廊下には、無数の氷が並べられているのだ。この静かながら異様な暴力性を醸し出すシーンにはぞっとさせられる。暴力の気配が氷という形を持ってそこに存在しているのだ。

ここで僕が思うのは、『牯嶺街〜』における水とは、ただその暑さを紛らわせ潤わせるような癒しではなく、むしろ他者との断絶が起こる契機として存在しているのではないだろうか、ということである。実際、暴力的な場を抜きにして飲み物に関して考えてみた場合、冒頭の入学の件に始まり、教員と父親の会話や小馬邸等、登場人物が飲み物を口にする際にそこで交わされているのは、片方の望みが受け入れられないという状況や、何か食い違いの起こる場面ばかりではなかったか。そして小四にとって最も大きな他者との断絶が起こるとき、そこにもやはり、液体は流れている。



断絶というのはこの作品の、物語として一つのテーマであると思う。それは信念を追い求めた人々にとっての断絶であり、信念を追い求めることすらできなかった少年の断絶であり、理想など持ち得ない境遇に生きる少女の断絶である。それが時代感と呼応して、少年たちの姿を借りつつより大きな社会を映し出しているのは間違いないだろう。ただし、『牯嶺街〜』は、断絶を大きな一つの出来事で語るのではなく、些細なズレの積み重ねとして描いており、その中心にいるのは小四と小明である。小四は多くのグループや人物が崩壊してゆくのを見ていく中で、父親から教えられた信念の向う場所を結局一人の少女へと集約してしまっているが、しかし小明は既に理想や信念などは無縁の酷薄な現実にさらされている。だから実は彼らは最初から分かり合えないことが約束されているのであって、小明がまずその脚を画面に映し出すというのも彼女が本作のファムファタールだからではなく、おそらくその脚の傷を理解することもできないまま翻弄されたと憤る男たちの、無理解をこそ強調したいからではないのか。そして小四はそのことに気付きもしないまま、初めから約束されていた断絶へとたどり着くのである。

しかし小四の抱えた屈折について、僕はそれを、「幼いから」というような言葉で簡単に捨て去ることはできない。もちろんそういう面はあるだろう。とはいえ彼は、ほとんど運命的といっても良い些細なズレの積み重ねによって、本人も気づかぬうちに、いつの間にか何処へも向うことができなくなった少年である。そしてそんな彼の、それでもどこかにあるはずの理想を希求する姿は今の僕にとって軽くあしらえやしないものだ。勿論、社会情勢として背後に存在するものの大きさはまるで違うのだから、おこがましい共感ではあるだろう。だが何処へ向かうこともできぬまま愚かに朽ち果てた小四の屈折に、未だ懐中電灯をぶら下げては無作為に闇を照らそうとしているだけの僕は、涙を流したのである。

2017-04-30

『夜は短し歩けよ乙女』を見た。

歩く姿は夜の花

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森見登美彦によって書かれた同名小説の映画化。監督は同じく森見登美彦原作の「四畳半神話体系」や、「マインド・ゲーム」「ピンポン」等で知られる湯浅正明。声の出演には星野源花澤香菜神谷浩史秋山竜次ら。



クラブの後輩である黒髪の乙女(花澤香菜)に思いを寄せる先輩(星野源)は、「外堀を埋める」ため彼女の目に留まるよう日々行動していた。そんなある夜、今日こそは決断した先輩を余所に、黒髪の乙女は飲み屋街へと繰り出し、そこで摩訶不思議体験をすることとなるが・・・



アニメーションによって自由に誇張された表現が連続する奇妙な作品でありながら、それをポップに見せてくれる。自由自在に変化する描線はのびのびとした世界を作り上げ、それは一見無茶苦茶なようでありながら、しかし混乱ではなく楽しさとして掬われているのだ。本作がそのように楽しさを掬い上げることが出来ているのは、いかに不思議で複雑な事態が起こっていようと黒髪の乙女がその場その場で起こっている状況に行動で対応しているからだろう。黒髪の乙女は次々巻き起こる喧噪の中、立ち止まることなく直線的な歩き姿によって自由に駆け抜けており、そんな姿を通すことによって、見ている側は誇張して創出された目まぐるしい一夜という非日常を、思考ではなくまずはそのまま非日常として楽しむことが出来る。



さてその一夜という感覚こそ、この作品においてもっとも自由に誇張表現されている部分である。数々の出来事が展開するこの一夜は季節の変化さえも受け入れながら幾つもの人生が一同に会する不思議な夜なのである。だからこの夜は、時間が引き延ばされているというよりはむしろ、本来別々に存在しているはずの一夜が重なり合い膨れ上がってしまった夜なのではないか思う。自分で書いていても全く不思議でならないのだが、つまり本来は個々人それぞれの時間感覚によって別々に体験するはず一夜にもかかわらず、ご縁を大切にする乙女の歩きによってそれらが不思議と積み重ねられた結果時間の感覚が失われ、一つの巨大な空間として夜が存在しているかのように思えたのだ。

時間を失っているのだから、当然空間だって自由である。どんなに馬鹿げた装置や状況がそこに登場しようとも、そもそもありえはしない馬鹿げた一夜の話なのだからそんなことは気にするまでもないのだろうし、先斗町という名からそこが京都であることは分るのだけれど、既に書いたように各々の個人的な夜が重なり合ってこの空間はできているのだから、それに従う形でこの京都だって摩訶不思議に存在していたとしても一向に問題はないのだ。



そんな夜の街を何故乙女は自由に歩くことが出来たかといえば、それは彼女がこの夜に至るまでの過程を持っていないからではないのか。重なり合った夜の中で右往左往する登場人物は、皆その右往左往に至るまでの理由や経緯を持っているが、乙女は一所に留まらなければならない理由もなければ、留まっていた歴史も持っていないために、奇妙な重なり合いの間をすり抜けられるのだろう。乙女は街の中へ没入していくように見えるものの、彼女は先斗町という空間に置かれた点と点、人と人とを好奇心で繋いで歩いているのであって、彼女自身がこの空間に一つの点として留まることはない。多くの人とのご縁を大事にし、他人のご縁まで繋げてみせはするが、彼女自身がこの京都の夜の中、「そこに行けばいる」という点にはならないのである。



しかしながら、そんな乙女にも変化が訪れる。それは「風邪」という状態で表されるのだが、ここで「先輩」の登場である。先輩は、黒髪の乙女に対し自らを意識させるためそこかしこで待ち伏せして出会い続けるという、大層くだらない作戦により外堀を埋めることを画策していたのだが、なんとこれは功を奏していたのである。というのも、乙女は自らの内側に好奇心という漠然とした欲望こそあれど、それらの欲望は彼女の心に点在しているものであって、その点同士繋がりあうものではなかった。歩いてゆく中で出会った人々は彼女の外側にあるものなので、彼女にとって繋がりは常に外部である。しかし、彼女が一夜を過ごす一方、先輩はとある絵本の存在を知り、それを手に入れていた。乙女はその行為を知ることにより、先輩と絵本という本来無関係に心の中に存在していた点を繋ぐこととなったのである。パンツ総番長は、とある一つの事柄がそれとは全く関係のない事柄と偶然結び付けられた瞬間のことをロマンチックと呼んだ。乙女についてはその繋がりがロマンチックであるとか、はたまた恋心であると決断するにはまだ早いのかもしれないけれども、少なくとも先輩の努力によって、彼が乙女の内側に入り込んだのは間違いないのだろう。先輩も乙女も知らぬ間にどこかで繋がっていた人物達を経由して、まさしく風邪のように、乙女に入り込んでいたのである。

風邪を引いた乙女には、もうあの夜はやってこないかもしれない。きっと先斗町には相変わらずのメンツが集まっているのだろうが、しかし乙女はもうあの夜とは違う人間なのだ。そんな人生を変容させる奇跡が、目まぐるしくて自由な躍動に満ちたアニメーションによって表現されることの幸福を存分に味わえる、素晴らしい作品であった。

2017-04-18

『哭声/コクソン』を見た。

あなたにとって私 ただの

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チェイサー』や『哀しき獣』で知られるナ・ホンジン監督最新作。青龍映画賞にて監督賞助演男優賞を受賞した。主演はクァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、チョン・ウヒ、國村準ら。


森に囲まれた静かな村で、自らの親族を虐殺するという事件が多発していた。殺人犯は皆一様に肌に湿疹があり、焦点は定まらず、異様な雰囲気を湛えている。警官のジョンウ(クァク・ドウォン)は捜査を進めてゆく中で、奇妙な日本人(國村準)のうわさを聞く。その荒唐無稽な内容に初めは聞く耳を持たなかったが、自らの娘の身体にも湿疹ができ、またその娘が日本人と接触していたことを知り、その正体を突き止めようとするのだが・・・



ネタバレ



真実かと思われる事柄が幾度も転倒しては立ち上がり、結局狐につままれたような印象を残すが、それはこの作品が疑心暗鬼と、その結論として「自分の信じたいものこそ真実である」ということを描いているからだろう。例えば村人が異人である國村準を敵視し罪人と断定するのも、それは彼らがそう信じたいからであって、そこに論理的な合理性は必要ない。信憑性の低い噂話だけで理由としては十分なのだ。國村準もそのことをわきまえているからこそ、警官の尋問に対し「言っても信じないだろう?」と答えているのであるし、神父の問いかけにもはっきりとは答えず、「あなたの心に疑いが生じるのは何故だ 私の手と足を見なさい。まさしく私だ」と聖書の引用をする。しかしその言葉を受け取る側が既に自分の中でこしらえた真実に従って物事を判断しているがために、登場人物は混乱し、その視点で見る側も混乱するのである。



異人、ということと関連してこの作品は外部の使い方が面白く、そこに意識が向くように仕掛けられている。それは雨や雷といった天候であり、森であり、そして異人たちであって、災厄は常にそんな外側からやってくるのであるが、このような内と外を巡る対立はいつの間にか逆転し、災厄は内側に留まるものへと変貌を遂げる。それは主に娘を通してそうなっており(その点において『エクソシスト』的である)、内側に災厄をおびき寄せるのは結局、村人たちの「自分の信じたいものこそ真実である」とする性向と、疑心暗鬼によってなのだ。場面としては、村人たちが災厄の原因となる森へ押しかけ、そしてそこで殺人を犯してしまう部分が決定打となっており、最後には、警官は「家に帰ってはいけない」と忠告される。忌避すべき外側がいつの間にか内側に逆転しているのだ。そういう意味でこれは、内面的な問題についての映画であると言えよう。



もちろん、その外と内を表出させた美術と、撮影が本作においては多大なる力を持っていたことは言うまでもあるまいが、例えば石垣に囲まれた道や連なる家々の風景といったロケーションに、凄惨な事件の起こった家々や國村準の住まいを露悪的になりすぎないバランスで汚らしく存在させており、見事な空間が画面上に出来上がっているし、それを横に広く捉え黒を生かしたカメラもしっかりと捉えている。家の門の外に走る斜めの道や、首つり死体を遠くから捉えたショットも良い。また所々で馬鹿馬鹿しいほどオカルトであったり、雷が人体に直撃するなどのあっけらかんとしたハッタリが良い味を醸し出している。つまり画面には風格があれども内容としては妙に陳腐な瞬間に満ちていて、ただ真面目であったり頑なに難解ぶるだけではないところに好感を持つ。



ところで、そういった空間のすべてを見通している人物が一人だけ登場している。それは白い服を着た少女であり、時折、村人や異人たちの行動を遠くで眺めているようなロングショットが挿入されるが、それは全て、白い服の少女の視点なのではないか。そのことは、村人たちが死体を投げ捨てるシーンの背後に彼女が見えることからも推察できる。ならばこの作品において全てを見通していたのは紛れもなく彼女なのだから、そのことを中心に見ればこの作品の輪郭も浮かび上がってくるというところではある。しかし僕としては、そんなことよりも殺戮!呪い!キチガイ!森!悪魔!というハッタリの連続で大いに楽しませてくれたことの方が遥かに重要なのであり、またしても、森と人殺しの相性の良さが証明されたのである。やはり、森を見たら人を殺せ、ということなのだ。

哀しき獣(字幕版)

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