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2016-07-12

最近見た旧作の感想その27〜上半期旧作ベスト〜

今年の1月から6月末までに見た旧作映画の中で特別面白いと思った作品について感想を書きつつ、羅列していきたいと思います。ちなみに並び順には特に意味はありません。それではさっそくいってみましょう。



『マリアのお雪』(1935)

馬車が壊れ、立ち往生することになってしまった場面に舞う花びら。斜面に並ぶ木立の中、縦横斜めに画面が入り乱れての銃撃線。乗船を拒否される女たちとその切り返し。そしてその直後に水路を挟んでの会話。何処を切り取っても縦に横に素晴らしい画面の連続であって、そのあまりの美しさは今まで見た溝口作品の中でも特別記憶に残るものだった。ただし残念なことにこの作品を見ようと思った場合今のところ粗悪な画質で我慢するしかなく、この由々しき事態に対しては早急に対応してもらいたいところである。

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『ハタリ!』(1961)

ハワード・ホークスは10本ほどしか見ていないのだが、その中で最も好きな作品。スピルバーグの『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』にも受け継がれた動物生け捕りシーンはその動きが生み出す迫力に興奮させられ、また変な扮装に大仕掛けを駆使しながら猿を一網打尽に包み込んでしまうという、後に『リオ・ロボ』でも繰り返されるその大袈裟な様子には感動すら覚える。そして動物を捕まえることを使命としてきた男が、まるで突如画面に登場する豹と同じような気性を持った動物的女に翻弄され、最後にはその女を捕まえる、というより女に捕まえさせられることになる、という話は『赤ちゃん教育』のようでもある。この上、更にチームに連携が生まれることの面白さも存分に味わうことが出来るということで、この作品はまさに、スペクタクルも恋愛もコメディも全てが動きによって生き生きと輝く、傑作であると思う。



『ジーンズ・ブルース/明日なき無頼派(1974)

今年初めに「2015年下半期旧作ベスト」を書いた際、中島貞夫監督作をもっと見たいと宣言していたのでお目当てだった『安藤組外伝 人斬り舎弟』を始め何本か見たのだけれど、その中でもっともよかったのがこれ。ニューシネマ風、というよりも『暗黒街の弾痕』のようなストーリー。特に渡瀬恒彦梶芽衣子が車を失い、猟銃を手にしてからの逃避行となると俄然面白くなる。聖子という役名を与えられた梶芽衣子が、暴れ犬のような痛ましい情けなさを見せる渡瀬恒彦に対しまさしく聖女のような存在となり、珍しく笑顔を向けるのが美しい。そんなわけで梶芽衣子ファンは必見。拳銃の練習として日の丸をぶち抜いて見せる辺りに中島貞夫イズムを感じる。



婦系図(1962)

三隅研次監督による、美術から照明、脚本、撮影に至るまでどこをとっても美しいメロドラマ市川雷蔵が万里昌代に別れを告げる場面は美しさだけでなく2人の動きの静と動の紡ぎ方が素晴らしい。こと本作における万里昌代には特筆すべき魅力がある。三隅研次監督作では『斬る』、そして何と言っても『座頭市』初期5作でのヒロインとして目に焼き付いていたのだが、ここでもう一度その魅力を知ることとなった。もう一つ、この作品で忘れられない場面があるのだが、それは三条魔子が木暮実千代の屋敷を訪ねた際、木暮実千代足袋が一瞬だけアップで映ることである。このほんの少しの足袋のショットだけで、こんなにも「表現」できるとは恐れ入った。三隅研次監督のメロドラマはまだほとんど手を付けていないので、これからが楽しみ。

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『お引越し』(1993)

走ることをはじめとし、田端智子の動き捉えたショットの躍動がまずいい。そしてその田端智子がクラスメートと坂道を上っていると唐突に、不自然に、強烈に降り注ぐ雨には感動する。上手く説明できないが、あの雨は映画でしかない。しかもその水と、時折挿入される森のイメージが物語の後半では幻想的に死の匂いを伴いつつ、少女の成長譚へと変貌するということにも驚かされた。夜のシーンの美しさ、鏡、花火。何気ない言葉の一つ一つが笑えたり切なかったりして、そして最後の長回しでとどめを刺される。自分が見た相米慎二監督作の中ではベスト。今年は『魚影の群れ』も見て、そちらについても色々と書きたいことはあるのだが、一つだけ書くとしたらマグロが水面にその影を見せる瞬間の興奮と緊張感と恐怖。これが特に素晴らしかった。



アッシャー家の末裔』(1928)

ジャン・エプシュタインという、初めて名を聞く監督によってサイレントの時代に送り出されたこの怪奇映画は見事なまでの異様さに満ちた傑作である。寂れた木立を抜けた先には沼を湛えた陰鬱な館。風が吹き、カーテンが揺れ、葉が舞う。音はなくともまるで音が聞こえてくるような、音が鳴っていないのが不思議なくらいに思えてしまう画面と反応がここにはある。そんな画面には死と崩壊の雰囲気が常に漂っており、そのショットの一つ一つが素晴らしいのだが、何より驚かされたのは死んだ妻を抱えながら叫び右往左往する夫の、その顔をアップで映しながら移動撮影をするという異様なショットである。恥ずかしながら初耳だったジャン・エプシュタインという監督は他にいったいどんな映画を撮っていたというのか、非常に気になるところである。



『青の稲妻』(2002)

乗り物や反復移動といった動きによって支えられている画面には倦怠感と閉塞感が付きまとい、感情の表出ではなく、ただ行動と画面によってその空気感は決定づけられている。それは中国の乾いた風土とも密接にかかわっており、その渇き具合というのは、キスですらたばこの煙を交換し合うのみに留まっていることからも見取ることが出来る。照明も素晴らしい。作品内には中国という国がたどった歴史の足跡がそこかしこに刻印されてはいるものの、この作品はあくまでその国で、今、閉塞的なままに生きているというその生に基づいており、だからこそ作品自体も生きているのではないか。『長江哀歌』と並んでジャ・ジャンクーの中では最高に好きな作品。

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『よろこびの渦巻』(1990)

関西テレビの深夜枠において放送された黒沢清の短編。黒沢清作品の中でも自由度という点においては相当高く、なにやら観念的な話が始まるのかと思いきや唐突に謎の人物が登場し謎のギャグまで炸裂。そして動きの魅力に満ちた横移動長回しや、枯れ木林の中をアンゲロプロス風に動き回った挙句、最終的には歌へ着地し爆発という自由さ。一体これは何なのか。それはわからないが、面白いので別に問題はない。



『海外特派員』(1940)

ややプロパガンダ的匂いを感じなくもないのだが、サスペンスとして見事な作品で、やっぱりヒッチコッらしくちゃんとぐらつかせ、最後に「何か」が落ちている。特に雨のアムステルダムから始まるシークエンスは最高すぎる。雨と傘、拳銃と群集、風と風車、歯車とコート、帽子・・・要素を挙げてもどうしようもない。緊張が高まりアクションが連なる前半と、回転が疑問と不安を巻き込んでゆく後半から成るこのオランダでの追跡のアクションとサスペンスこそが映画なのだと、自信を持ってそう言いたい。ちなみに上半期にはヒッチコックのサイレント『下宿人』も見たのだが、こちらもまた、見るということを楽しませてくれるいい映画だった。



『警視-K』(1980)

勝新太郎主演・監督の刑事ドラマ。ぶっきらぼうで素っ気ないタッチや展開に、ぼそっとした台詞とざらついた色気のある街。手前に物を置いて層を作ろうとする執念の構図。長回しと極端な寄り。ガラス、鏡、水の反射をこれでもかと利用した撮影。暴力に対する薄い反応・・・。話は放り投げておいても、こういった構図・見せ方・表現には異様なこだわりが感じられる偉大なる意欲作である。勝新太郎川谷拓三の他、ゲスト枠のキャストも魅力的だ。また森田富士郎が撮影を担当している回もあるのだが、ここで思い出されるのは三隅研次監督・若山富三郎主演『桜の代紋』である。前にこのブログでも感想を書いたのだが、あの作品でも反射・鏡越しというのは使われていたし、この特徴というのは『座頭市』の監督でもある三隅研次からの影響なのかもしれない。ちなみに個人的なオススメは1,3,7,10,12,13話で、既に書いたような演出以外の魅力としては、3話のあまりの救われなさであるとか、10話の原田美枝子の可愛さなどがある。対して最も微妙な回は森一生が監督した8話で、確かに話はストレートでちゃんと解決するし(『警視-K』では事件の顛末が重視されていないこともある)、盛り上がりもあるし空間の演出という点も良いことには良いのだけれど、この作品に望むのはそういうことじゃないのだ。もう一つ微妙な点として、本庁の辺見というキャラクターがいる。彼は鼻持ちならないエリートだが役立たずの無能で口ばっかりという役としてコメディリリーフ的役割を果たすが、個人的にそれはこの作品の空気とは合わないので必要なかったと思うし、また娘役に実の娘を、そして元妻役に妻を配役するという行為も肯定しづらいのが、しかしそれでも僕はこの作品を愛さずにはいられない。というのも、この作品にこそ僕の求める世界があったからだ。確かにここにはぶっきらぼうでダウナーな空気しか存在しない。しないのだが、しかしそんな世界でしか持ち得ない優しさも確かにあるように感じられ、そこに一度堕ちてしまったが最後、ずっと浸っていたいと思わせてくれるのである。

警視-K DVD-BOX

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さて、以上が今年上半期に見た中で特にお気に入りの作品でした。このほかにも、帽子と背中で語る小津安二郎戸田家の兄妹』における佐分利信のヒーローっぷりとやけに空間の開いた喫茶店は印象深いし、勝新太郎が人斬り以蔵を演じた『人斬り』の特に前半における勝新太郎の暴れ走りっぷりは大変面白かった。他にもニューヨークの映画オタクを記録したドキュメンタリー『シネマニア』や山下敦弘監督『リアリズムの宿』なども良かったのですが、このくらいにしておこうと思いました。相変わらず新作に関しては更新が滞っていて、見たのに感想を書いていない作品がたまっているのですが、下半期もどうもこの程度の頻度になってしまいそうですので、気が向いたら読んでください。それではまた。

2016-06-19

『クリーピー 偽りの隣人』を見た。

あったかホームが待っている。

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黒沢清監督最新作。原作は日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した前川裕の『クリーピー』。主演は西島秀俊香川照之、竹内裕子、川口春奈東出昌大藤野涼子ら。



取り調べをしていた連続殺人犯に逃走を許し、自らも重傷を負った高倉(西島秀俊)は刑事を辞職し、妻の康子(竹内裕子)と愛犬のマックスと共に新居へ引っ越した。犯罪心理学を教える大学の教授として新しい生活を送る高倉であったが、ある日6年前に起こった一家失踪事件に興味を持ち始める。長女の早紀(川口春奈)だけが取り残されたその事件の真相を知るため、高倉はかつての同僚である野上(東出昌大)と共に調査を開始する。一方、高倉が越してきた家の隣には西野(香川照之)という、奇妙な一家が住んでいた。不気味で不規則な言動を繰り返す西野に対し高倉夫妻は違和感を覚えるが・・・



ネタバレ



黒沢清監督の前作『岸辺の旅』の感想を書いた際に、夫婦の旅行と、忘却、忘却が許されないこと、そして忘却ということについて暴力的に露見させる装置としての廃墟について書いた。『クリーピー』にも、当然のごとく廃墟は登場する。そのものズバリ廃墟として登場するのはかつて一家3人が失踪しそのまま廃屋となった家である。この失踪のうち、一人だけ生存者がいた。それが一人娘の早紀という女性であるが、彼女はその事件について、刑事や週刊誌にしつこく尋問されもう早く忘れたいと思っているにも関わらず、何故かその家を1人眺めていた。そして早紀は高倉の要望により、事件前の家族について思い出していくこととなる。高倉の尋問により少しずつ事件のことを思い出すも結局失踪したと思われていた一家が死体で見つかり、しかもそれでもしつこく尋問を続ける高倉に迫られた早紀は、「何も思い出さなければよかった」という。廃墟が忘却を許さなかった一つの姿である。

しかし『クリーピー』の主な舞台は、今も人が住んでいる家である。ただしより正確にいうと舞台はこれから廃墟になるであろう家であり、その家が主題である、と言い換えることが出来る。もちろん家とは高倉の家であり、奇妙な隣人・西野の家である。ここには『カリスマ』で暴力的存在感を放っていた植物が生い茂っており、今まさに廃墟になろうとしている家で生活する、家族がある。



今まさに廃墟になろうとしている、とはどういうことか。西野の家については言うまでもなく、彼の素性からすれば、この家は間もなく廃墟になるであろうことが想像できる。しかし高倉の家がなぜ廃墟になるというのか。それは物語の展開から結論付けられるというよりは、ここに住んでいる夫婦がすでに廃墟を生み出す予感を湛えているからだ。妻・康子は西野に誘惑され恐るべき真実を目の当たりにする。しかしなぜ康子が誘惑されたかといえば、もともと彼女が夫に疲れを抱いていたからだ。言葉によって示されるものだけではなく、彼らの生活の端々にある振る舞い、例えば近所へのあいさつにいく際に呼び鈴を鳴らさないこと、飲み物を注がないこと、植物の管理から部屋の掃除まで夫は何もしないのであろうこと、セックスレスだと思われることなどから、康子の疲れは見て取れるであろう。西野は確かに康子に近づいたが、しかしそれは康子自身が引き寄せていた結果でもある。

しかしこの疲れの下には、実は既に忘却の試みがあった。それは高倉が刑事という職を辞め、心機一転のためこの家に越してきたという事である。このことで妻は何か変わるかと思っていたのであり、つまり黒沢清作品において夫婦間で旅行が提案されていたのと同じような心境を秘めていた。しかし、夫はそんなことを思ってはいなかった。それどころか彼は未だに刑事時代と同じことを繰り返している。妻はそのことを忘れ、かつての自分と夫を忘れ、新しい生活を始めたいと願うにもかかわらず、彼はそれを許さないかのように、同じことを繰り返すのだ。これは早紀にしたのと同じように、である。

ところで高倉について、彼自身の心は実際のところ空っぽであるということが徐々に判明していく。空っぽでありながら、しかし他人に対し暴力的に過去を引きずり出させるという点において、彼自身がすでに廃墟的であるともいえる。自身は空虚でありながら忘却することを簡単には許さず、むしろ暴力的に過去を露呈させる装置として他人に働きかけるというのは、まさに廃墟そのものだ。もちろんそんな当て嵌めをせずとも、研究対象だった「サイコパス」とは「心がない」と罵られた自らのことでもあり、そして当然西野という存在もそれに当てはまるため、高倉もまた、康子同様自ら西野という存在に誘惑され、その誘惑を止めることもできぬまま、自ら引き寄せたのだと単純に語ることもできる。ちなみに先に康子は夫との生活に疲れていると書いたが、それは夫の鈍感さからくるのではなく、むしろ夫のサイコパス的素質に気付いており、人生の共有を諦めてしまったことに疲れているのだと思う。だからこそ、二人が同じ時点まで落ちてきたときに彼女ははじめて情感的振る舞いを見せる。



さてでは西野という男はどうなのか。しかしどうなのかと言っても彼の思考は劇中の台詞にもあるように分類不可能であって、香川照之という肉体、その顔つきから発声、歩き方にのみ、この存在があるとしか言いようがないのである。しかしそんな男も一つだけ明確なルールを持っており、それが家を取り巻く空間に対してのルールである。コの字型に家が連なる空間、その空間にのみ、この男の考えを見ることが出来る。コの字型というのを見せるためにドローン撮影までしてその空間を見せることを選択した『クリーピー』はだから、まさしく家の映画である。家の映画であり、そこに住む家族の映画であり、そして家を取り巻く空間の映画なのだ。空間を見つめる西野の異様な顔は一体どういうことだ。しかしこの顔こそ、西野なのだ。



空間、といえば当然黒沢清演出は本作でも冴えわたっており、例えば境界線演出は鉄格子から家の柵や、予感を誘い込む風にあわせぎこちなく揺れるビニールカーテン、対照的にふわりと風を誘い込む布のカーテン。そしてもちろん鉄の扉など、いたるところで境界は登場するし、お馴染みの、室内に存在する謎の柱も健在である。基本的に室内では縦の柱や横の柵を利用した縦の構図に目を引くものがあり、部屋のみならず各舞台にある廊下のそれも不気味な伸びを見せている。そして縦と横の組み合わせによる西野の隠し部屋。この辺は美術の安宅紀史の仕事が素晴らしい。

そこへさらに穴、隠し部屋などを利用し上下の差を画面に生み出すことで、画面は非常に豊かな世界を見せる。隠し部屋の死体の処理を任された康子と澪から、階段を上がって後方にある部屋で食事を取り始めたと思われる西野の頭が見える構図などはまさにそれだ。階段といえば、本作には階段の途中で止まる人物が2名登場する。それは高倉が刑事を辞めるきっかけとなった連続殺人犯と、康子である。この2人に共通する事柄として、2人ともある瞬間忽然とその場から姿を消すということがある。特に康子がナッツ剥きの作業の途中、カットが変わると急に姿を消しているシーンは不気味だ。またかつて一家失踪事件があった家を取り囲む空間も、上後方には高架線があり下には鉄道が斜めに走っている。そして高倉と西野の家はゆるい傾斜の道中にある。『クリーピー』は縦横斜めの線が入り乱れた空間において展開する。

境界からの風を誘い込むカーテンの揺れは見慣れた装置だが、今回高倉が康子に刑事のような仕事を続けていると告白した時、その時カメラは正面から二人の顔を切り返し、その後ろではカーテンがひらりと揺れている。これは『岸辺の旅』で深津絵里蒼井優が会話したシーンを思い出させる。二人の間に断絶が起こっており、その隙間に風が、すうと入り込んできているのだ。他にも風は、高倉の元部下である野上が西野に捕まり、隣家が焼ける直線に風車が回ることや、すっかりおかしくなってしまった康子が扇風機の前にたたずむなど、至るところで吹いている。それは西野が死してなお、である。

さて、次に特筆すべきこととして照明がある。見所は早紀との1回目の面談だ。このシーンでは早紀が事件前の記憶をおぼろげながら語るにつれて、長回しの中、昼間とは思えないほど、いや時間帯に依らず異常なほど光が沈んでゆく。事件に囚われていることを示しつつ大胆な照明の実験をおこなっているのだが、そこへ更に早紀と高倉を縦横無尽に動かすという動線の設計、カメラの動き、そして彼らの背後、窓ガラス越しに見える大学生の異様な集合と離散の様相も相まって、本作でも屈指の名シーンとなっている。黒沢清と撮影・芦沢明子、照明・永田英則の力である。ちなみにこの大学生たちは『リアル〜完全なる首長竜の日〜』の警察署で見られたような動きにも近いが、しかし何故か1人がちらりとカメラ方向を見たりするし、思考のない機械的動作というにはダチョウ倶楽部の真似をしていたりもするものだから全く意図がわからない。

2回目の面談においても学生の集合と動線は炸裂しているが、他に照明で気になったことといえば高倉の家に西野家が招待され食事を取る場面でのことである。柱を起点に西野が高倉に自らの仕事について話すとき、高倉の背後にある壁には不思議な、緑っぽい光が当たっていたように思うのだが、あの怪談映画の照明のような光は一体なんだ?そしてそのもやりとした光は終盤、相も変わらずスクリーンプロセスで撮影された車の景色の中、高倉のみを捉えたショットの窓奥にも、同じようにもやりとした光が見えていることと重なる。

最後に動線の設計であるが、これは既に書いたように、縦横斜めの構図の中、人物を横に、斜めに、縦に動かし流石の設計ではあると思う。隠し部屋の四角さを使って人物を動かすのも楽しいが、中でも最高だったのは早紀が西野の顔を知っているかどうか詰め寄る場面である。何故ならここは水平の移動に加え、心配して出てきた早紀のおばあちゃんを部屋へと無理矢理押し戻すという暴力的なギャグが炸裂しているからで、ここで僕は思わず笑ってしまった。『勝手にしやがれ』シリーズのような無茶苦茶な行動である。早紀の出ているシーンはこの照明の実験や動線の設計に横移動の快感が詰まっていてどれも素晴らしいものになっている。



しかし、動線についてここでひとつ苦言を呈したい。それは最後に駐車場で西野が殺される場面についてなのだが、あそこはカットを割るべきではなかった。全て長回しの中で、犬、西野、高倉、康子、澪の動きを捉えるべきだった。というのもあのシーンには横に斜めに縦にと、いくらでも動きの興奮を作り出す要素が揃っているからだ。しかしそれは分節される。最後に澪が犬と共に走り去るところは良かったけれども、例えば『岸辺の旅』で深津絵里が斜めに道路を横切るような快感まではいかなかった。所々で個性はさく裂しているが、しかし全体としてはあくまで限定的な動きにとどめている。このラストを見てその印象はかなり強まってしまった。それはもしかしたら本作が、黒沢清にしては良心的な(内容ではなく、観客に対して)作品だからということも関係しているのかもしれない。

とはいえそれでも混乱をもたらすとしたら、本作は途中でジャンルの変換が行われるからだろうか。つまり途中までは事件を追うサスペンスであったものの、ある地点、その地点とはまさしく野上があの扉を開いた瞬間なのだが、その地点において『クリーピー』はホラー・ダークファンタジーへと転換する。その瞬間、理論や理屈は必要なくなる。登場人物が危険だとわかっているのにわざわざ一人でその扉の先へ向かうのはジャンルの要請だといえるし、そもそもおかしな誘惑に乗せられたり不自然なトンネルが登場するのもホラー的な誘惑なのである。さらにより具体的に言えば、明らかに『悪魔のいけにえ』なのである。扉にしてもそうだし、最後に叫び声のみが空間にこだまし続けるのだって『悪魔のいけにえ』なのだ。黒沢清は最近夫婦というものを通して女性について描いており、その一つとして暗黒譚ができあがったというのは面白いが、しかし僕としてはまだまだ、黒沢清の世界とはまだまだこんなものではないはず、という思いも確かに残ったのであった。

クリーピー (光文社文庫)

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2016-05-22

『海よりもまだ深く』を見た。

雨降って自固まる

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是枝裕和監督最新作。是枝監督は原案・脚本・編集も務める。出演は阿部寛真木よう子小林聡美樹木希林ら。



15年前に一度文学賞を受賞したきりで、その後はうだつの上がらない人生を歩んでいた良多(阿部寛)は、小説のための調査のためとうそぶき探偵事務所で働いていた。しかしギャンブルにのめりこむせいでお金はなく、良多は姉(小林聡美)や部下からお金を借り、母や息子に見栄を張ってプレゼントを渡すような生活を送っていた。さらに彼に愛想を尽かし出て行った元妻(真木よう子)にことを監視し、彼女の新しい恋人に嫉妬しやり直したいと思うも、元妻は養育費を払わずに息子との接触を求める良多に呆れ果てていた・・・



是枝監督にしては台詞が過剰で、どうにも伝えたいことが先行しすぎているようにも思えたし、また特に樹木希林などは、これがまた達者な演技をするものだから非常に息苦しく感じられてしまったために、前半で集中力を欠いてしまったことをまずは反省したい。反省したいということは、後にその考えを改める出来事に遭遇するわけなのだが、とりあえずそれは置いておいて、そんな状況でも最後まで見ることが出来たのはやはり、些細な演出や撮影に光るものがあったからである。例えば阿部寛演じる良多は、その行動のあまりの卑小さ、つまり例えば、家族内での窃盗という、まるで小学生のやりそうな程度の悪事であるとか、また別れた妻の動向をひたすら気にするも口から出る言葉は「もうしたのかな」などという中高生男子程度の嫉妬であるという、擁護のしようがない器の小ささをこの男は見せる。

この器の小ささに対して、阿部寛という男の体の大きさ。これが面白く、団地の一画にある小さな小さな実家の部屋に対し、その巨躯はあまりに不釣り合いである。この団地とそこに住む人を映し出す撮影がいい。『海よりもまだ深く』はどうにも『歩いても歩いても』を連想させる部分が多いが、僕としては『誰も知らない』の方をこそ連想し、それには撮影監督が同じであるということも関係しているのだろうが、特に日本家屋ではなくアパートの小さな部屋が頻繁に登場するという点で、より『誰も知らない』を思い出させる。部屋は、『誰も知らない』ではそこのみで生きる子供たちの世界のように描かれていたが、『海よりもまだ深く』の部屋は明らかに良多にとって生きづらさしかない、家庭という枠に入り込めないということが、その体と空間によってはっきり映し出されている。

『誰も知らない』との関連性では、植木鉢がある。『誰も知らない』で子供たちは、それぞれカップ麺の容器に雑草を詰め育てていた。それは彼らの生であって、だからその容器が崩れてしまったときには、彼らもまた崩れてしまった。『海よりもまだ深く』では台詞でわざわざ、まるで良多のようにとの説明を加えながら、実のならないまま大きくなり過ぎたミカンの木というものが登場する。台風が来るからと、その木をどかそうとしたとき良多は誤って窓を割ってしまうのだが、これもまた、良多という人の、容器に守られながら根を張ったはいいものの、その身体の不自由さゆえに、思い通りに動かせず壊してしまう性質故である。否定しつつも、家族の壊れた欠片を拾ってしまうのが良多であって、それは遺物であり饅頭であったりするのだが、しかし窓の修繕を他人に任せてしまうように、自分の壊したものについて彼は治すことが出来ない。



家族の壊れた欠片の最たるものが、おそらくかつて賞をもらったという、良多の書いた本であろう。小林聡美演じる姉がはっきりと口にしたように、その本は私小説である。その本の詳しい内容まで知ることはできないが、そこに書かれていたのは『歩いても歩いても』にも通じる父への反発であり自身と家族の物語であったのだろう。ではなぜ彼は書けなくなってしまい、探偵業という副業で糊口をしのいでいるかといえば、それは自分自身の人生を見つめなくなったからに違いない。彼は元妻からも「家庭に向いていない」と言われ、三行半を突きつけられていたのだけれども、既に書いたように良太の方は未だに未練を残したままで、探偵業という職をいいことに、自分の生活を改善する努力をせず、ただその場を取り繕う毎日を過ごし、その合間に元妻を監視していた。「小説家としての観察眼」を発揮するのは他人に対してのみであって、良多は自分自身を少しも見つめようとしなかった。かつて賞を取ったのはおそらくそれが私小説だったからであるというのに、自分を見つめようとしない良多には本が書けない。



この「見つめる」という行為について、僕は先に書いたように途中集中力を切らしてしまっていたことを反省したいのだけれど、おそらく良多は見つめることは得意であっても、見つめられることは得意ではない。良多はよく人を見つめている。いや、覗き見していると言い換えた方が正しいだろうか。というのも、どうも良多は他人から見つめられているときには往々にして目をそらしていたように思うからだ。例えば同級生であるとか、姉であるとか、そして元妻であるとか。彼らの視線は見ないようにして、自分ばかりが覗き見していた。だから彼は、自分自身を見つめる視線に気づいていない。いや、気付かないふりをしていたということになる。

そんな自らの有様に気付くのは台風の通過によってである。不意に訪れた台風は良多と元妻、そして子供を自らの実家という空間に押し込める。ここでの台風台風自体に意味があるのではなく、台風という現象によって出現した空間にこそ意味がある。それは二度と戻りえない家族の空間である。彼らは良多の母の計らいにより、狭い部屋で川の字になって寝るはずだったのだけれども、結局そんな場面は映らず、大雨の夜、立ち入り禁止の遊具の中で過ごすことになった。この台風とそれにより出現した空間が、良多は家庭というものを持つことはできないものの、それでもやはり彼らは家族なんだということを認識させる。良多と元妻そしてその子供は、部屋の中ですら3人とも同じ空間に居ることはない。カレーうどんを食べるときにしても明らかに線が引かれ、良多は引き離されている。しかし公園という外の空間では、わずかながら3人は同じ空間に居座ることが許される。台風により出現した空間が、3人を家庭ではないけれども、家族だった、ということを浮かび上がらせる。ちなみにこのように視線と雨について書いていて思うのは、おそらく本作は意識的に成瀬巳喜男をやったのだな、ということである。



雨が上がり、不意に留まることとなった元妻と子を余所にして、良多のみが新しいシャツに着替える。それは新しいようだが父の形見のシャツであって、良多は灰色のシャツから白いシャツへと着替えることになる。この着替えという些細な描写が素晴らしい。ただその後良多は相変わらず家庭内窃盗をやってしまうのだが、しかしその質入れ先で思わぬ事実が発覚する。今まで小説など読んだこともなく、自らを毛嫌いしていたと思っていた父の、予想とはまるで違う姿をそこで聞かされるのだ。ここで良多は、見つめていた視点から見つめられていたという視点の変化を感じ取ることになる。

雨が上がって、緑が露で濡れた様子を見ながら僕が思ったのは、この作品が是枝監督にとって、おそらくは最も主観から入り込んだ作品であって、その思い入れと伝えたいことの強さや決定的な言葉の多さにに少し苦手意識を持ちつつも、『誰も知らない』『歩いても歩いても』『そして父になる』『海街diary』に通じる作品だったのだな、ということであった。

歩いても歩いても [DVD]

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2016-05-14

『ちはやふる-下の句-』を見た。

われても末に 逢はむとぞ思ふ

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末次由紀による大ヒット漫画の実写映画化2部作の後篇。後篇からのキャストとしては松岡茉優が参加。主題歌はPerfumeの「FLASH



東京都大会で優勝したその日、幼少期のカルタ仲間だった新(真剣佑)から電話越しに「もうカルタはやらん」と告げられた太一(野村周平)は千早(広瀬すず)と共に新のいる福井を訪ねる。カルタの師匠でもあった祖父を亡くした新は千早の話も聞かず追い返してしまうが、太一は全国大会へ集中しようと千早を励ました。しかし千早は新とカルタの世界へ引き戻すために、全国大会よりも同い年でクイーンの称号を持つ若宮詩暢(松岡茉優)との対戦に燃えており、部員間の溝が深まりつつあった・・・



『-上の句-』の感想についてはこちら(http://d.hatena.ne.jp/hige33/20160321/1458568254)に書いた通りで、競技かるたによって生み出される水平の運動と、それを広くとらえた画面、そして敗者たちのドラマに泣かされてしまい、原作もアニメも全く見たことのなかった身としては、この予想外の面白さにすっかりと引き込まれてしまった。そんな不意の衝撃的な出会いに心躍らせた僕は、またかるた部の面々に会いたくて『-下の句-』の公開を待ちわびていたのだけれど、実際に作品を見ての結論を一言でいえば、もうかるた部の面々に会う気はしな、というものであった。



『-上の句-』は競技かるたのみならず、広瀬すず演じる千早がひたすらに動き回ることで映画全体に快感をもたらしていた。物語的には机君や太一が主軸となっていたものの、それをよどみなく動かし続けることができたのは、カルタを取るときもそうでないときも、常に「考える前に動く」千早の行動を、最後まで止まらせないまま最後まで駆け抜けさせたからである。彼女の行動や思いというものは、突飛に見えて、しかし決して意味不明ではない。というのも、千早という人となりはその動きによって体現されているからである。また千早自由気ままに動き回っているように見えても、実際はカルタを通して人と人とをつなげる機能を果たしていた。彼女がきれいに動くことで画面には水平の連携が現れ、余計な説明がなくとも映画として気持ち良さを作り出していた。

しかし『-下の句-』で千早は停滞する。その結果何が起こったかというと、当然のごとく画面は停滞し、快感が消え、言葉を紡ぐことによる平凡な青春ドラマが表出した。前半、千早がうじうじと悩んでいるシーンは物語としての納得こそあれど、そこに映画的な動きの魅力はなくなっている。ようやく走りだしたかと思っても、それは非常に説明的な走りであって、映像的な快楽は薄い。しかもその後すぐに雨の中座り込みというずっしりしたシーンに戻ってしまうため、せっかくの動きも持続しない。また新と若宮詩暢の会話シーンなどは、詩暢が新を何度も手で押しつける動きによって多少救われているもののやはり面白味のある画面ではなく、千早が新に残した伝言が、詩暢もまた新に伝言を残すこととなるという変化を促す展開も、新自身が停滞しているため映像の快感には遠い。

後半になると停滞していた千早はつなぎ目としての機能を取り戻すが、しかしそのとき千早は、「絆」だの「繋がれ」だのといった台詞に基づく行動しかしなくなる。さらにその後半というのは過剰な説明感情台詞の連打に情感ベッタリな音楽、そして白く飛んだ画面とスロー映像の反復といった要素にも彩られており、このように過剰に説明演出された中にある言葉というのは、いかにも嘘くさい。もともと「絆」だの「繋がり」だのという言葉は嘘くさいことこの上ないというのに、劇中言葉で語れば語るほど、本作で提示される「カルタを通して得たものたち」は嘘くさくなってゆく。

こういった演出というのは『-上の句-』でも見られた特徴ではあるが、言葉と感情の乗せ方が過剰になった『-下の句-』では、その白々しさが強調されてしまっている。せっかくの手の演出も、その過剰さによって良さが消えてしまっている。新の「見つめる」ということによる視線の物語もまた、悉く言葉に打ち消される。『-上の句-』で見せた千早の肉体の野性的な説得力も、やはり無駄な情感により打ち消される。試合の緊張感も弱い。なぜなら机君も太一も、肉まん君や大江ちゃんも、更に千早にしても、誰一人敵と戦ってなどいないからだ。彼らは新や詩暢に向けて、孤独を解消するためのセミナーをカルタを通し行っているのであって、そこに闘いの要素はなく、若宮詩暢との目つきに始まる死闘を期待してもそこは肩透かしを食らう。もちろん、『-上の句-』のようなカルタの戦いにおけるロジックも存在はしない。あるのは仲間と絆をつなげるためのカルタである。



ところで千早の停滞という部分には、画面の高低差も絡んでいるのではないかと思う。千早は3度、すれ違いを起こす。一つ目は新との再会。千早との出会いに新はバランスを崩し、土手の下へと落ちてしまう。千早は『-上の句-』で太一にしたのと同じように彼に飛びつくのだが、太一は土手の上にいる。その後の新の家のシーンでは千早と新との間に高低差があり、そこで千早は新の変化に怯む。ここでの2つの差異に、その後千早は停滞することとなる。次に千早は校内でかるた部のメンバーとすれ違うのだが、ここで千早は階段の下に身を隠している。最後に若宮詩暢とすれ違う際には、千早は階段の真ん中で彼女の姿を立ち止まったまま見ている。カルタを取るということ、校内を走り回るということ、カルタを飛ばすことといった水平の動きよって人と人とを繋ぎとめていた千早は、すれ違いが起こす高低差の中に沈み、停滞していたのではないか。そして団体戦の後、土下座する千早を引き上げたのはチームであり、いつの間にか広がったカルタの輪を認識した千早は、個人戦でその絆を活力にする。



思えば、『-上の句-』でその差に悩んだのは机君であり、彼は千早に引き上げられ、同じ畳の上、肩に次々と手を置いてゆくという水平の流れによって一つのチームとなった。そして『-下の句-』の最後には新と詩暢も交えて、皆同じ畳の上にすわり、更に千早は殆ど観客に向ってまで手を伸ばす。しかし既に書いたように『-下の句-』の彼らに僕は嘘くささしか感じていない。『-上の句-』では机君と同じように自分も引き上げられたと感じていたにも関わらず、最後の最後で僕が感じたのは、スクリーンと観客との間に存在する永遠の距離感という、至極当然でありながら絶望的な断絶であって、「またかるたしようね」という言葉にも反応することが出来ず、きらめく青春の群像を遠くから眺めた後、一人劇場を去るだけであった。

ちはやふる(31) (BE・LOVEコミックス)

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2016-04-24

『アイアムアヒーロー』を見た。

世界じゅうを僕らの 血で埋め尽して

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花沢健吾による大ヒット漫画の実写映画化。監督は『GANTZ』や『図書館戦争』の実写化で知られる佐藤信介。主演は大泉洋有村架純長澤まさみ吉沢悠岡田義徳ら。



冴えない漫画家アシスタントとしての仕事も恋人(片瀬那奈)との生活もうまくいかない冴えない男、鈴木英雄(大泉洋)。そんな彼の日常が、ある日突然崩壊した。変わり果てた姿で英雄に襲い掛かる恋人。街中ではゾンビ化した人間によるパニックによって大惨事が引き起こされていた。個人的に所有していた猟銃を手に取り、機能が停止した都市を必死に逃げる英雄。そこで比呂美(有村架純)という少女に出会い・・



自分の名前にはいったいどんな希望が託されているのか。僕の場合にしても、歴史上の偉人から一文字拝借してつけられたこの名の意味というのは、何度も親から聞かされたことであって、しかしそれを聞くたびに自分がどれだけその名に込められた希望を裏切り、踏みにじったかということも思い起こされるため、結果その名前負けした自分の姿に対し、暗澹たる気持ちを抱え沈んでゆく。それは本作で大泉洋が演じる鈴木英雄も感じていたことである。なにせ名前が英雄(ひでお)。読みかえれば「えいゆう」という、あまりに大きな名前に対して、十年以上前に獲得した漫画家新人賞佳作のトロフィーにすがりつき、未だ英雄どころか何物でもない漫画家アシスタントという暮らしをしているこの男は、自分を紹介するとき「鈴木英雄、えいゆうって書いて、英雄」と言う。これは皮肉で言っているのだが、別の面で、名前とは自分の本質を表すもの、という考え方もできる。例えば『オデュッセイア』においても、オデュッセウスは名前を隠したことにより身分を知られずキュクロープスの難を逃れたのだし、西洋の悪魔でも、名前を知らると自由を奪われる、という場面を見たことがあるだろう。また『千と千尋の神隠し』だって千尋やハクは名前を奪われることで湯婆婆の元に縛り付けられていた。だからここで英雄が敢えて名前の読み方を教えるのは、皮肉としてだけではなく、それが自分の本質なんだという願望に基づく行為であると言えるのかもしれないし、このことは英雄の妄想という形で何度も繰り返される。そしてまた、名前が重要になるのは英雄だけではない。長澤まさみ演じる藪という女性は、名前を偽るという行為によって自分の本質を乱す。そんな彼らが自らの名前をどう正面から言い切り、自己の本質を見つけるのか、これが一つ、物語の重要な点である。



鈴木英雄を演じたのは大泉洋。大泉といえばボヤき芸が有名であろうが、それに付随したもう一つの特徴として、「何も知らされぬまま引きずり回される魅力」がある。英雄は何もかもがよくわからないまま、非日常の中を引きずり回される。また面白いと思うのは、英雄が自分では何にも決定していないことである。タクシーに乗るのも富士山へ向かうのもスーパーマーケットでの行動も、全て自分一人で決定したとは言い難い。だがそんな男が自分で決定した、メロンパンを買うというわずかな気遣いが、ゾンビに襲われているというのにしっかりと落したコンビニのレジ袋を拾うという笑いだけでなく、まさかの彼にとって重要な転換となる。小道具に関しては他にもトロフィーや時計等、上手く利用している部分も多く、しかもそれらは大泉洋という個性が持つセコさと油断ならなさを伴っているため、非常に効果的である。

そしてその英雄が引ずり回される最初のステップである、日常の崩壊描写。これが素晴らしい。日常の風景の端々に非日常が顔を覗かせ、その非日常はいつの間にか日常を侵食し、生きていようが死んでいようが、人間は人間ならざるものへと変貌する。この、奇妙が絶妙に日常を食い尽くす様が面白いのだ。土佐犬のニュース。高熱で倒れる人々。腕から血を流す女とのすれ違い。軍用機の飛行。見慣れたアパートでの異形との遭遇。襲撃。炎上。パニック。唐突に車に引かれる人間。土足で家に上がるという非日常。昨日まで仕事を一緒にしていたはずの仲間の些細な変化。のどかな田園風景が並ぶ郊外での突然の惨劇・・・。『ドーン・オブ・ザ・デッド』で見た、あの一瞬の崩壊を、奇妙なズレとともに描いたこの前半部は間違いなく本作で最も素晴らしい部分である。特にパニックが起こった後、仕事場へと足を踏み入れるシークエンスのおぞましさは屈指の出来。もちろんこの前半についても全体を通してみれば文句なしの完璧な出来というわけではなく、例えば歩いたり走ったりというシーンをロングで捉えて背後や手前で殺戮が起こっているという画を入れてほしいとか、アパートがよく映るんだからその窓やベランダを活用して驚かせてほしいとか、そういった要望は尽きないが、続く高速道路でのカーチェイスも含めて、これだけのものが見れたなら、それでまず満足できる出来には十分になっている。

高速道路を抜けて森を通り、後半はお約束とでもいうべきか、スーパーマーケットでの死闘が繰り広げられる。ここではゾンビの個性も面白い点ではあるのだが、やはり見所はなかなかお目にかかれないほどの殺戮であろう。特にヘッドショットの多用はかなり凄まじく、ここは特撮監督神谷誠、特殊造形藤原カクセイの活躍が見事なのだと思う。『ブレインデッド』並の血まみれゾンビ映画として、『アイアムアヒーロー』はここに硝煙を上げた。

ただし『ブレインデッド』並といっても、あちらは多種多様なアイデアによる殺戮と異常なまでの血しぶきの効果で残酷と笑いを同居させていたが、それに比べると本作は只猟銃に弾を詰め撃つという作業の繰り返しなので、徐々に単調さが目立つという欠点がある。またゾンビの襲撃にしても、実は噛みつかれるという残虐さや人体引きちぎりという芸当はあまり見せず、こちらも些か不満が残る。ちゃちな武器を持ってゾンビに対応するという独特の間抜けさは、人間らしさを微かに残したゾンビの間抜けさと恐怖で相まって他にはない味わいを残していたと思うし、素晴らしい造形はたくさんあるのだから、バリエーション豊かなショックシーンで驚かせてほしかった。



とはいえ、スーパーマーケットの死闘は見所でこそあるのもの、重要なポイントは他にある。それは英雄が真に「えいゆう」になることを描いたシーンであって、ロッカーという狭い個室に閉じこもった英雄が、外からの助けを契機として、自らドアを破り、その悲惨な結果を何度も妄想しながらも、それでも自らの殻を破り世界へ突撃していくその姿が、物語をきっちり締めてくれる。彼はここで、ヒーローになったのだ。だからその後に続く死闘は残酷ホラーでも血みどろのスラップスティックでもなく、またロメロ的な方向とも違って、必然的にヒーローによるアクション映画となる。だからその真面目さとゾンビ映画の間に若干の食い違いが生じ、結果単調に見えてしまったのかもしれないが、しかし英雄の物語としてはこの鏡の配置されたロッカーこそ描くべきことであったのであって、その後の殺戮は、英雄(えいゆう)の祭壇に昇るための形式的な儀式のようなものであると僕は思っている。最後、柔らかな光の当たる車内で揺られる、疲労した英雄の姿がなんとも美しい。



ところで一つ、これはうまくいってないんじゃないかと思うことがある。それは有村架純演じる比呂美の扱いである。彼女は英雄を動かすきっかけとしては機能しているものの、彼女に付け加えられた設定。つまり、感染しきらないという部分は、一体どうなったというのか。これだけは最後までうまく扱いきれていないように感じた。また二人で森をさまようシーンにしても、『炎628』や『ウイークエンド』のように殺戮の映画では森を彷徨うというだけでいいものではあるのだけれど、しかしその森を活用しきれていたとは言い難い。しかしじゃあ、有村架純はいない方が良かったのかというと、それはとんでもない間違いである。有村架純は、可愛いというその一点において強烈な機能を持っている。本作は役者のチョイスも素晴らしく、珍しく若い俳優だらけなのに顔でも場が持たせられていると思うが、中でも有村架純は可愛いというその点か、もしくは光を吸い込むようなその目で、本作を引っ張っているのだ。