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2018-08-01

最近見た旧作の感想その35~2018年上半期旧作ベスト~

相変わらず亀にすら追いつけないほどのスローペース更新が続いている当ブログではございますが、時間は早いもので今年ももう上半期がおわりましたので、恒例の旧作ベストについて書きたいと思います・・・と言っている傍からすでに上半期が終了して一か月が経っているという体たらく。まぁグダグダ後悔してもしょうがないので、早速本題へ移りましょう。例年どおり、並びはランキングではなく見た順です。



古都憂愁 姉いもうと(1967)

横長画面の内部でさらに戸や窓や柵を利用して四角の世界を生み出す画面構成が冒頭から炸裂しており、そんな余白を生かした美術と撮影の美しさが全編に渡って存分に堪能できるのだけれども、しかし本作においてより強烈に印象に残るのは例えば食器や陶器、もしくは調理器具といった、道具に対するフェティシズムである。道具が用途に沿って一つ一つ丁寧に並べられていく様はそれだけで非常に心地よく、そもそもオープニングクレジットからもその嗜好は明らかである。また料理はその調理過程も含めて非常に心地よく湯気をたたせ、さらにはたばこの煙も同時に画面に立ち上がってくる。ところでフェチというと三隅研次監督の女性映画では度々女性の足先がクローズアップされており、例えば『婦系図』や『雪の喪章』や『なみだ川』がそうであったように、やはり本作においても足袋を脱ぐ足先のクローズアップがあった。



『人情紙風船(1937)

現存する3本の山中貞雄監督作品では唯一見ていなかった作品。身体から離れ落ちる手紙や髪飾りに足元のショット、風に吹かれ武士の前を通り過ぎる紙風船、繰り返される雨といった印象的なシーンを筆頭にして、ここはこのように撮ればいいのだというかのごとく的確な画面構成とショットの繋ぎ、クローズアップ、ミドル、ロングの切り替わりが素晴らしい。また、河原崎長十郎演じる夫の噂話を立ち聞きしてしまった妻・山岸しづ江がとぼとぼと長屋の通りを歩くその姿や、家の中に転がる二つの紙風船といったシーンの流れも美しいではないか。さらに最後に紙風船が水へ落ちるシーンの動きも実に素晴らしい。素晴らしいのだが、その動きのあまりの素晴らしさは不思議にすら思えるほどだ。奥行きのある路地には人々が集い、行き交うことで活気づいてはいるものの、しかし例えば主人公夫婦は家で目を合すような位置にいることが少なく、最後の刃に当てられる光の鋭さをとどめとする非情な話でもある。そしてやはり、会話劇としても抜群に面白い。このように、いくつもの要素についてただひたすら素晴らしいと繰り返すだけになってしまうような傑作。

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『マーシュランド』(2014)

土地の映画。冒頭の極端な俯瞰や死体を見つけるシーン等、水と乾燥のロケーションを捉えた撮影が良く、乾いた風を感じさせる木々やシーツ、そしておそらくは砂埃で汚れたのであろう窓から見つめる視点など、各シーンの雰囲気がきちんと出ていてロングショットも様になっている。この俯瞰は『ボーダーライン』の、家々から麻薬に死体まである地域に密集していることを感じさせる俯瞰とは違い、土地そのものの不吉さであって、だからこそ最後に血は水へと流れ、水路の脇を車が走り抜けるのであろう。湿地帯の銃撃戦も、雨やぬかるみ、そして茂みといった条件をうまく使って、視界不良の画面的サスペンスを作り出している。だがそれだけで本作を上半期ベストとまで言いはしない。僕が真に感動したのは夜のカーチェイスだ。不審な車を発見した警官がその後を追うと、砂埃舞う中でのチェイスとなる。警官のやや斜め後ろからその横顔と、フロントガラスを通して不審な車を捉えているカメラが、ゆっくりとズームし始めるとその不審な車のリアウィンドウ越しに、突如ぼうっと女が現れるのだ。おそらくそれは誘拐された女性なのだろうが、しかしあのタイミングはまるで心霊ビデオであって、その恐怖表現に、大層興奮したのである。

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悲しみは空の彼方に(1959)

こちら→http://d.hatena.ne.jp/hige33/20180301/1519910407に感想を書いたように、サークでは『僕の彼女はどこ?』『天が許し給うすべて』に並ぶ傑作だと思う。

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きらきらひかる(1992)

初めて見た松岡錠司監督作品。アル中の妻と、同性愛者の夫と、夫の愛人との三角関係を描いた物語だが、だからといって何かしらの問題意識であるとか、もしくは性愛にクローズアップしたりはしない。では何が良いのかといえば、何より笠松則通の撮影が素晴らしいのだ。開けた空間の使い方や歩く・走るの横移動、3人で海に出かける場面はなにより夕焼けも沈んだ後の海の捉え方が素晴らしい。ライトに照らされる夜の撮影、車窓も悉く見応えがある。また本作は視線劇であって、登場人物は高低差のある位置でよく会話をしている。それは頻出する階段や斜面という場面においてのみならず、たとえ室内であろうとも座っている、寝そべっているというような状況を利用することによって、地形や体格差に関係なく位置や視線で映画内の状況を作り出しているのだ。役者が動きながら位置関係を変化させてゆくやや長めのワンシーンや、もしくはラストの分離された3人を繋ぐカットなど、多彩さもある。この監督の作品、とくに『バタアシ金魚』は是非とも見てみたいと思わされた一作。

きらきらひかる [DVD]

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『デリンシャー』(1973)

この乾いたタッチで描かれる作品は、ギャングを生業とする男たちの生き様を描いた作品ではない。むしろ彼らの、死に様をこそ描いているのだ。そしてその死に様とは、決して哲学めいた話ではない。ただ次々と警察に包囲され死んでゆくという、それだけの話なのだ。だがそんな死に様を積み上げてゆく銃撃戦によって残される弾痕や、もしくは窓をはじめとする破損物こそ魅力的なのである。上にも下にも人体を転がしてゆく自動車の暴力性も素晴らしく、車は走るためのというよりもはや銃を撃ち込まれ、転がり、さらに盾となり炎上する物体として存在しているかのようだ。弾の切れた銃をフロントガラスにブチ刺すシーンなんてまさに車の存在を書き換えている。個々のショットも良く、特に湖畔の別荘は、夜とそれが明けてからの光の感覚が激しい銃撃戦と相まって素晴らしいシークエンスとなっている。



真紅の盗賊』(1952)

ロバート・シオドマク監督バート・ランカスター主演のこの海賊映画は非常に軽やかで、おおらかで、エンターテイメントの魅力に満ちた作品である。特に中盤の、市街地追いかけっこは相棒役を演じたニック・クラヴァットとの掛け合いも相まってまさに縦横無尽という言葉がふさわしい、アイデアの詰まった素晴らしいアクションシークエンスだ。殆ど宮崎駿的冒険活劇。

真紅の盗賊 [DVD] FRT-208

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木枯し紋次郎(1972)

映像化作品としては先にテレビドラマ版があるのだが、そちらは未見の為、本作で初めて『木枯し紋次郎』という作品に触れたのだが、そのおかげもあってか、ニヒリズムを湛えたこの役は菅原文太にピッタリではないかと思えた。先ず熱量のない眼がいい。そしてモデル体型故の脚の細さが紋次郎としての立ち振る舞いと暗いストーリーを支えているように思う。また本作は三宅島でのロケーションも素晴らしく、海に囲まれた孤島の厳しさがロングショットや土、そして風によって良く伝わってくるし、そこからの脱出シークエンスで描かれる醜いまでの生への執着は中島貞夫監督らしい卑小で強大なエネルギーを感じる。脱出後は、ふんどし一丁で襲い掛かってくる山本麟一や水車の回るボロ小屋でのカッコいい殺陣も見どころ。続編も併せてアマゾンビデオで気軽に見られるというのもありがたい。

木枯し紋次郎

木枯し紋次郎



ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ! 』(1996)

おもちゃの線路を増築しながら猛スピードで爆走するクライマックスは、腹を抱えて笑いつつも面白すぎて涙が出てくるほど素晴らしく、アニメーションの技術と魅力が爆発している。それだけでも十分すぎるのだが、本作は照明も印象的で、例えばグルミットがペンギンを尾行するシーンは縦構図を利用した画面もさることながら、影の付き方が素晴らしいのだ。ペンギンちゃんが大量に冷や汗を各シーンの可愛らしさも最高。この作品のために費やされたのであろう膨大な労力が、画面上の面白さとして結実しているという感動がある。



以上が2018年上半期のベストでした。他にも、キャラの面白さのみならず場所とシンクロした銃撃戦が続き空間使いの巧さが光るチャド・スタエルスキジョン・ウィック:チャプター2』や、フィルムという幽霊を画面に召喚させるホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』、画面に映るものすべてがエネルギッシュな森崎東『喜劇 女は度胸』、人だけではなく馬にも容赦ない暴力描写、特に家の外からラッパの音が聞こえるシーンが素晴らしいロバート・アルドリッチ『ワイルド・アパッチ』、車が風景を不穏に繋ぎ微妙に変化する天候や照明使いで画面を充実させ、一本道でサスペンスを作るフランチェスコ・ムンティ『黒い魂』、テンポの良いカット割りや人物の動きにより狭い空間も活劇的に広げ、『春婦伝』にこそ劣るものの見応えある団令子の躍動が楽しい岡本喜八血と砂』も良かった。また劇場鑑賞した旧作では、色使いや浮かれると落ちるを繰り返すイエジー・スコリモフスキ早春』の、美しいからこそ素晴らしいラストは忘れ難いものがあった。

さて、今年の上半期は去年ほど精力的な活動ができなかったのが心残りですので、下半期はもうちょっといろいろな場所へと足を運ばせるようにしたいと思います。お金さえあればね。

2018-07-08

『万引き家族』を見た。

オトンとボクと、時々、いもうと

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是枝裕和監督最新作。主演はリリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優、城桧史、佐々木みゆ、樹木希林ら。第71回カンヌ国際映画祭にて、最高賞のパルム・ドールを受賞した。



寒い冬の日。治(リリー・フランキー)と翔太(城桧史)の父子がいつものようにスーパーで万引きをして家路についていると、団地の廊下で少女(佐々木みゆ)が一人座っているのを目にする。以前からその姿を見かけていた治は肉屋で買ったコロッケを差し出し、母の初枝(樹木希林)と妻・信代(安藤サクラ)、そして信代の妹・亜紀(松岡茉優)が住んでいる、マンションに取り囲まれた小さな平屋へと連れて帰った。ご飯を食べさせた後、家までおんぶをして連れて帰そうとすると、団地では大声で罵り合う声が外まで響いていた。その声を聴いた信代は少女を母親の下へ返すのをやめ、自分達の家へと引き返すことにした・・・



万引きをするためスーパーへ入った父と子がまずミカンを手にする、というそれだけではなんてことのない些細な描写を最後まで忘れることが出来ないのは、一つに是枝監督の前々作である『海よりもまだ深く』において主人公の象徴として「実も花もつけないまま大きく育ってしまったが、それでも何かの役には立つ」と語られつつ登場したミカンの木を思い出したからということもあるのだけれど、しかしなによりもそのミカンを発端とした本作全体の色彩・色調の設定に因るところが大きい。例えばオレンジ色はその後ダウンジャケットやパーカーという服装によって家族間で繰り返されているし、家族に当たる照明もしくは色彩処理についてもやはりオレンジ系の暖色が多く使われている。また祖母がほとんど執念めいた表情でミカンを貪ることについても家という場の確保がそこでは話されているのであって、なんてことのないはずのミカンの、その色が家族という共同体を繋いでいるのだ。そしてそのことが最も感動的に映されるのは縁側で花火の音だけを聞くシーンであろう。次々に空を見上げていくその顔には、まるで花火が反射しているかのような暖かい光が当たっており、もちろんそんなことはありえないのだけれど、しかしより大きい俯瞰の画面に切り替わると、やはりその家族がいる家だけに光があることに気付かされる。

そしてその色が当てられている一家が、集合体として描かれていることにも注目したい。それが顕著に表れているのはタイトルにもある、万引きである。この作品における万引きは例えばロベール・ブレッソンの『スリ』のような身体細部の分断ではなく、むしろ身体の動きを連動させるチームプレーによってなされている。ここでは鏡によってその連携が図られているわけだが、鏡はその後、凛と亜紀が挨拶をするシーンや水着を買うシーンでも登場して家族としてのつながりを強調させており、また家族のうちだれかだけを分断してショットに収まるようなことはせず、孤独にはさせない画面設計がなされている。



しかし花火と海への小旅行を家族のピークとして、それからは家族のふりをしていた集合体のいびつさにほころびが生じ始めることとなる。祖母の死はその先駆けとなる出来事といえるのだが、ここでその遺体を埋める画面は暗くなっているだけでなく、不自然に青も見えている。本作はオレンジだけでなくこういった青や、例えば男女でそうめんをつつきあうシーンにおいては夕立で暗くなる前に黄色が見えたりと、色調に関してはやや強調された処理がなされており、それによってこの映画はただの「リアル」とは違うやり方で描かれていることがわかる。ちなみに服装の青や黄色に関しては、特に二人の子供を中心に見られる色でもある。

さて、祖母の死をきっかけとしてほころび始めた家族の生活は、ミカンによって決定的な破局を迎えることとなる。つまり翔太がわざと見つかるように盗んで逃げて、そして飛び降りた先に散らばるミカンを決定的な契機とし、この家族もまたバラバラになっていくのだ。この「バラバラ」とは、冒頭からこの家族を「集合体」として描いていたことと対応する。そして家族が検挙されてからは、画面上決して個人のみで映されることのなかった彼らも正面からの切り返しによって繋がりを断たれてしまうし、また面会のシーンでは語られる内容に合わせ、治が1人切り離されている。

ただしこれは突然の出来事ではなく、冒頭からあらかじめ予感されていた結末であった。その予感とは、特殊な関係によって構築されているという徐々に明らかになる真実のみならず、貧しくも明るい食事のシーンから既に現れていたように思う。食事の風景は何度か映りはするものの、しかし彼ら全員が一つの卓についているシーンはない。卓を囲むように座っていても、必ず誰かはそこから外れて座っているのだ。例えば凛を拾ってきたその夜は信代と翔太が卓から外れてコロッケ入りのカレーうどんを食べており、また麩入りのすき焼きを食べるシーンでは、はじめ凛が卓から離れた位置に座っているものの、近づいて食べ始めると今度は翔太がやや卓からは離れた位置にいることが切り返しによってわかる。『誰も知らない』でさえ一応家族全員が同時につける食卓はあったのだから、これは是枝監督が描く食事の風景としては珍しいものであって、つまり彼らが住む家はそもそもこの集合体を受け入れられるような構造をしておらず、不自然に詰め込まれた状態であるということが乱雑な様子と相まって画面から見て取れる。だから彼らはこの場所で家庭を築くことできないと、その食卓から既に予感されていたのである。



ところで、彼らは何故その家で集合体となりえたのだろうか。もちろん一つには共犯関係にあるからと説明できるけれども、問題は何故共犯関係を結んだのかということである。

まず前提として、おそらく名前、もしくは名付けることによるモノの所有化とでもいうべき現象があるのではないか。例えばパチンコ屋に停まる車の中で放置されていた少年を拾い、名を付けたことで少年は柴田夫婦の息子へと変化したのだろうし、ベランダに放置されていた少女ジュリはユリ、凛という名をつけられることで、やはりその夫婦の娘という状態へ変化している。またその夫婦だって本名を隠すことで自らの過去を手放そうとしていたわけだし、それは亜紀についても同じことが言えるだろう。名前・名称は必ず後から付けられ共同体におけるしるしとなるわけだが、台詞にもあるように誰のものでもなく、捨てられていた状態の者たちは命名という行為によって、新たな共同体としてのしるしを得たのである。

そのことを前提としつつ、それなりの期間を家族として過ごせていたのには彼らが顧みられなかった存在であるからだろう。翔太や凛はネグレクト虐待の被害者であり、留学という嘘によって保たれている一家から抜け出している亜紀もおそらくはそうであろうし、治に信代、そして初枝も捨てられたという点ではやはり似たような思いを抱えているのではないか。だからこそ彼らはお互いを見つけ、家族の情景を思い重させるほどの共犯関係を結ぶことができたのであろう。



この家では家庭を築けないが、しかしこの家の他に居場所があるわけでもない。そんな彼らは結局バラバラになってしまった後どうなるというのか。骨折や火傷といった傷の共有に対し、検挙後の亜紀の手の甲の傷や凛の生みの親の額の傷が家族という結び付きを遠ざける。『父ありき』の変奏として『そして父になる』にもあった釣りが父親としての道を再度歩かせてくれるわけでもない。生活の残像を求めたのか、空き家へと向かった亜紀はあの後何処へ行くのか。冒頭と同じく柵の外を見つめる凛が、押入れの中で輝いていたビー玉をバラバラになったオレンジの変奏として拾い集めてみても、今度は柵の外に一体誰が居るというのか。しかし凛は外側にも世界があることを知っている。

これらの展開を利用して、例えば家族とは何であるのかとか、もちろん善だの悪だのといった無意味な問答や社会に対する批判を声高に叫んでみせるようなパフォーマンスはない。確かに「考えさせられる」などと言われがちな「余韻」とやらを残す終わり方ではあるしジャーナリズムも多分に含んでいて、この是枝監督の特性を上質とするか品がないとするかは好みが分かれるところではあろうが、僕はこの家族の些細に反復される生活の様子にこそ良さを感じたし、例えば凛の髪を切るシーンで、わずかに浮足立ったようなその脚の様子を捉えたカメラといった部分をこそ評価したい。

2018-05-26

『孤狼の血』を見た。

狼のおまわりさん

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柚月裕子によって書かれた同名小説の映画化。キャストは役所広司松坂桃李真木よう子江口洋介石橋蓮司ピエール瀧、竹乃内豊、伊吹吾郎音尾琢真、遠藤賢一ら。監督は白石和彌



2つの暴力団の間で抗争の火種が起こっていた昭和63年広島。マル暴のベテラン刑事・大上(役所広司)は新人の日岡(松坂桃李)と共に、金融会社社員の失踪事件解決に向け奔走している中、会社員は失踪したのではなく、加古村組という暴力団に拉致されていたことが判明する。逮捕状を叩きつけ捜査に乗り込む一方、加古村組が尾谷組の若者を殺害、これにより、大上が抑えていた尾谷組もついに大規模な抗争へと動き出そうとする・・・



東映実録路線の活気を復活させようという気概をそこかしこに配置されたオマージュから感じ取ることは確かにできるのだが、しかしオマージュなどはむしろ不要であったように思える。というのも、そんなことをしても中途半端なことにしかならないからだ。なにしろ当時の作品群が持っていたエネルギー、つまりプログラムピクチャーという枠組みの中で、任侠からの流れを汲みつつ反逆するように生み出された時代的土壌の上で、例えば深作であれば戦争を通した個人史からこみあげる怒りと生を刹那に爆発させたような、そんなエネルギーは再現のしようもないのであって、それなのに表面だけ掬ってみたところで、それはしょせん、表面的にしかならないからである。また1974年生まれの白石監督は過去にも犯罪映画を扱ってはいるが、どれも部外者側から問いただす視点によって善悪の彼岸を彷徨う者の物語としており、それは東映実録路線が持っていた内側から沸き起こる生のエネルギーや怒りとは別物なのだから、やはり表面的なオマージュをしても食い違いが起こるのは必然であろう。



勿論、白石監督作の特性自体を批判するのではない。そもそもそんな性質の違いなどは百も承知であるがゆえに、『県警対組織暴力』とは違う方向へと舵取りをして松坂桃李の物語としたのだろうし、またその内側から一歩引いた部外者的視点が功を奏している部分もある。例えば『凶悪』でも印象的であった拷問シーンの暴力性は画面を活劇的に捌くタイプとは違うからこその魅力なのだろうし、死体の破損具合をきちんと見せる残虐性も同様であって、これらは勿論サービスではあるのだが、一歩引いた視点によって、残虐性はより際立つと言えるだろう。そして阿部純子演じる薬局屋の娘の立ち位置は部外者としての物語を一層引き立てるキャラクターとして大変魅力的であり、これは素直に面白いと思えた。

ちなみに役者といえば役所広司演じる大上は流石の存在感であって、その身振り手振りに口調といった行動すべてが彼の存在を示しており、それ故に素晴らしい。だからもし本作を実録的、もしくはその徒花とするのであればこの男を主役をするべきであって、それはそれでおそらく面白い作品になったのであろうが、しかし本作はあくまでも警察の映画であることの行儀を選びつつ、かつて居た男たちから、これからの男たちへの継承を描いているわけであって、それ自体が問題であるというつもりは、もちろんない。



ただし、そういった方針だけでは看破できない問題も抱えている。中でも気になるのは感傷的になりすぎているということだ。最たる例が、ある人物の抱えていた真相を知るに至る終盤の展開で、一つ一つのシークエンスが説明的で長すぎる。残されたものへの継承として時間を割いて描こうというのであればそれはわからないでもないのだが、それにしても養豚場とアパートの一室はどちらも1人真実を見つけて泣き腫らすという内容であって、実のところやっていることにさほど差はないくせに近い時間の内に繰り返し見せられるのだから当然面白味はないし、しかもそのシーン自体がくどく長い。この継承という行為は本作において最もキーとなる場面でなければならないのに、いやむしろそうであるがゆえに力が入りすぎたのか、いずれにしても結果としてグダついているのが非常にもったいない。また言語の応酬による画面のテンポが生まれていないこと、そしてキャラクターを一見の個性以上に利用できていない弱さも気になるところであって、これは多少、実録路線の高い脚本・技術・演出力と比較すると、という内容も含んではいるが、そうでなくても弱いなと思わされる。



繰り返しになってしまうが本作はその芯と実録路線の表面的オマージュとの間の食い違いによってちぐはぐな作品になってしまっており、鑑みるに、『アウトレイジ』シリーズが『仁義なき戦い』の先に虚無感を捉えてやくざ=警察映画の特異点となったのは流石であると思わざるを得ない。ただ一見東映の正当な継承者として振る舞っている『孤狼の血』は、むしろ実録と別の地平で新しい魅力を切り開こうとしていたわけで、そのためにまずは、敬意をもって過去に筋を通したと考えた方が良いだろう。それは義理堅く真面目で真摯な姿勢かつ丁寧に、つまり行儀がよすぎる形で行われたわけだけれども、ならば「アウトロー東映」として真価が問われるのはおそらく制作の決定している2作目となるはずなので、今はそれに期待して楽しみに待っていようと思う。

孤狼の血 (角川文庫)

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2018-05-04

『リズと青い鳥』を見た。

キラキラで目が眩むけど

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2013年に刊行され、2015年にはアニメも制作された『響け!ユーフォニアム』の続編且つスピンオフとして制作された作品。監督は『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』『聲の形』などの山田尚子声の出演種崎敦美東山奈央ら。



吹奏楽部に所属する高校三年生の鎧塚みぞれ(種崎敦美)と傘木希美(東山奈央)は、それぞれオーボエフルートのエースとして、高校最後のコンクールへ向け日々練習に励んでいた。自由曲として選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエフルートの掛け合いがあり、二人は曲の元となった童話に自らを重ねていたが、次第に二人は噛みあわなくなり・・・



校門をくぐった先の階段に座り、すれ違う人には目を向けずうつむいている少女が、しかしある足音を耳にしてふと顔をあげる。目線の先には、軽快な足取りで、ポニーテールを揺らしながら歩いてくる友人がいた。その友人に引かれ後を追うように彼女も立ち上がると二人は列になって校舎を歩いてゆく。靴の履き方も、水の飲み方も歩き方も足音のリズムさえ違う二人は音楽室へたどり着き、今度は椅子を寄せ合い横並びになって楽器を取り出した。

このわずかな、しかしただ校門から音楽室への移動にしては不思議なほど長くも感じるシーンから一つの大きな主題が見えてくる。その主題とは距離だ。この冒頭からはうつむく少女・みぞれと軽快な友人・希美の間にある距離が、視覚のみならず、決して重なり合わずにリズムを生む豊かな音の演出によっても示されている。また距離は音楽室で再度、触れること、触れられないこととしても浮かび上がってきているのだが、ただしこの触覚とはそのほとんどが他者に触れる感覚としてではなく、自らを抑え込むための行為として描かれる。それは例えばやや重ための髪をにぎるとか、手首を押さえるといった行為であって、特にみぞれが髪をにぎることは、彼女がずっと見続けてきたのであろうポニーテールの揺れと対称的な癖である。また、みぞれにとって剣崎という後輩がまず手から視界に入るというのも、彼女が見つめている者との間に距離があるからこその侵入であったのだろうが、この見つめる瞳もまた印象的であって、何度もクローズアップされるみぞれの瞳は、不安定に揺れながら希美を見つめている。



これらの空間・音・触感・瞳といった描写によって映し出された二人の距離は、学校という場の中で変化してゆく。みぞれと希美の演奏は、それぞれ気付いていないふりをしていた事実の露呈によって変化する。ハグさせようとすることと拒否することが変化する。クローズアップされる瞳の主が変化する。こういった変化は、『リズと青い鳥』という童話の解釈と重なるように変化しているのだが、その子細よりもここでは学校という舞台自体が、柵や窓の利用された鳥籠の如き場所として設計されていることに目を向けたい。

事実として、この作品においては窓、もしくは枠が印象的に使われている。冒頭、二人並んで演奏を始めるシーンこそ籠の中という印象を受けるが、しかし会話シーンの多くにはその背景に窓が登場している。学校なんだから当然そうだろう、と言ってはいけない。そしてまた、窓の外を何度か鳥が横切るから籠だといっているだけでもない。例えば希美フルートのパートメンバーと会話するシーンと、みぞれが剣崎と対話するシーンにおいてでは画角として窓の映し方に差があるように思うし、部室であってもみぞれと希美とではその左右、背後といった周囲にいる人数の違いから窓の見え方にも差があったはずだ。さらにみぞれと希美が中庭越しに窓際で光を反射させながらふざけ合うシーンは内側からの切り替えしによって撮られているが、希美の姿が消えると次はみぞれの、やや後ろ下の辺りから捉えたショットが入り窓の大きさと部屋の暗さが強調されるようになっている。また希美がプールへ行こうとみぞれに言った際、他の娘も誘っていいかと問われその予想外の返答に微妙に困惑が見えるシーンでは、希美はまず、窓を開けやしなかっただろうか。さらに希美新山先生へ自分も音大入りを検討していると告げたとき、そこに大きく広がる窓はなかったではないか。そしてそもそもこの作品は校門という柵をくぐることで始まったが、再びその柵が登場するのはいつのことであったか。



こういった籠の如き学校を舞台に展開される距離の変化は、しかし決して距離を縮めたりはせず、むしろその距離が確実なものであることを認識させる。みぞれの音は希美の手の届かぬ域へと飛び立ち、希美を見つめていたみぞれの揺れる瞳は力強く前を見据える。逆に希美は、その世界へ自分はたどり着けないのだと、演奏するみぞれを見つめることではっきりと自覚する。みぞれがついに希美へと触れたその時、彼女らの思いはすれ違っているのだと、はっきり言葉として現れてしまう。

だがその認識が二人を引き離すようなことにはならない。変化の先に見えた道は確かに別々かもしれないが、しかしその道を歩もうとする彼女らは決別したわけではないのだ。音楽室と図書室へそれぞれ向かう彼女らは画面において一つの道から左右別々へ別れたように一見見えたとしても、ターンの癖とスカートの揺れる動きが全く対称に映ることと、そして窓の外を見上げることからも、それは決別ではなく、むしろこの二人だけの距離という特別な関係性を、冒頭とは違う印象を持って認識できるだろう。また、最後描かれる下校のシーンで階段の上に立つ側が逆転していてもそれもまた立場の逆転などではなくて、どちらでもあるということなのだろうと、やはり相変わらずみぞれの前を進む希美を見て、そう思えるのではないか。みぞれにとっても希美にとっても、距離は縮めるためでも離すためでもなく、その距離を通して自他を認めるために存在していた。



距離とは山田尚子作品に共通する主題であって、『たまこラブストーリー』も『聲の形』も、「投げること」「落ちること」という動きによって自己と他者距離を変化させ、離し、繋いできた。ただし本作は動きそのものから映画的な興奮を感じ取るというよりかは画面に散りばめられたイメージが連鎖し合うような性質であるため、過去作以上に画面が意図に絡め取られるような印象もなくはない。だがイベントを排し、登校という埋もれた日常にこそ感情を与えて動かす力は繊細というよりむしろ大胆な技というように思え、しかも例えば3年生4人で話し合う鋭いシーンもさらりと入れつつ、それでも全体では美しく仕上げることにより山田尚子アニメーション世界を生み出しているのであって僕はそれに感動したのだ。そして何より、中庭を挟んだ2つの窓際から、フルートに反射する光を相手の体に当てて笑いあう二人の、その距離によって生み出される光がなんとも美しかったではないか。もしかしたら残酷かもしれない、けれども美しいこの瞬間だけでも、僕は本作を愛することが出来る。

2018-04-04

『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を見た。

割れたタマゴ

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ニューヨーク・タイムズによって暴露された政府の最高機密文書=「ペンタゴン・ペーパーズ」をめぐる実話の映画化。メリル・ストリープトム・ハンクスボブ・オデンカーク、トレイシー・レッツらが出演。監督はスティーブン・スピルバーグ



ベトナム視察から戻った軍事アナリストのエルズバーグ(マシュー・リス)は「ベトナムに対する政策決定の歴史」と書かれたトップシークレット表記の資料を持ち出し、その資料の一部がニューヨーク・タイムズによって報じられた。ワシントン・ポストの編集主幹・ボブ(トム・ハンクス)率いる記者たちも文章の入手に動き出し、ボブはかねてより国防長官ジョーマクナマラ(ブルース・グリーンウッド)と親しかったワシントン・ポスト社社長のケイ(メリル・ストリープ)に、文章を渡してくれるよう説得を頼むものの、機密保護法違反であるからと拒否されてしまう。数日後、ニューヨーク・タイムスは罪に問われ、発刊差し止めを言い渡された。時を同じくして、ポスト社も資料を手に入れるのだが・・・



冒頭で映し出されるベトナムの森が、思いのほか『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』に似た夜であったことに懐かしさと嬉しさを感じたのだけれど、考えてみれば丁度その辺りからスピルバーグカミンスキーのタッグによる作品の方向性は定まってきたのであり、しかもそれは画面の効果としてだけではなく、戦争の歴史という題材にまで及ぶ変化であったはずで、事実それ以降の作品では2つの大戦、黒人奴隷、テロリズム冷戦という題材を中心としつつ例えば難民という主題をそれ以前よりも多く撮っているわけだし、そしてついにベトナム戦争を扱ったことによって、近代史作家としての存在がより強固になってきているのは間違いないだろう。



そんな近代史作家としての作品群を支えたカミンスキーの撮影としては今回、人物の動きを流麗に捉えるショットが目立っている。いうなれば限定的な空間であるオフィス内を人物はひたすら動き回り、たとえ物語上の動きは一方向であってもそれを動きが入り乱れる空間全体の中で捉えることにより、画面は豊かに活気づくのである。また新聞社への出入りを背中から捉えて追うショットでは一人だけを追うのではなく、入る人と出る人がそれぞれ別であろうとも一つのショットの中で捌き、また伝達物や情報が人から人へ繋がっていく様子もカット割らないため、心地よい流れで見続けることが出来る。

このように彼らが動き続けるのは地位や名誉からではなく、真実を暴き出し伝えるという新聞記者としての性質からだ。だから本作は、隠されていたものが、もしくはバラバラだったものが繋ぎ合される場面が多く出てくる。隠されているのは勿論機密文章なのだけれど、それは時には引き出しに、時には箱に入っており、時にはページがバラバラになっており、さらに新聞紙すらも空を舞う。彼らはそれらを繋ぎ合わせ、新聞記者としての性質ゆえに、情報を国民の下へと戻すのだ。この性質を「あるものをあるべき場所へ戻す」と言い換えれば、それはまさしくスピルバーグ作品、例えば『レイダース 失われたアーク』にも『E.T.』にも『ロスト・ワールド』にも、数え上げればきりがないほどに何度も登場してきたモチーフである。



ところでカメラの動きといえばもう一つ、人物の周囲を回り込むカメラの動きも忘れ難く、それはむしろ人物の動き自体はあまり多くない時に見られるのだが、例えばケイとマクナマラが会話をするシーンでは、丸テーブルを挟んで対峙する2人の背後をカメラが回り込むように動いている。そしてこのテーブルというのは、本作において一つ重要な要素なのではないか。というのも、本作の主人公たるケイは記者たちと違うリズムの人物であり、その社会的立場から落ち着いた席での会話が必然的に多くなるのだけれど、その際に彼らが囲むテーブルの位置関係、もしくは立っていることと座っていることの関係が面白いのである。例えばベンとコーヒーを飲みつつ仕事についての対話をする場面において、二人は対面こそしていないが隣り合うという距離でもない。取締役会議でケイは一人でスーツの男に囲まれるような雰囲気で席に着くこととなる。フリッツとは机を挟んで立場こそ上下の位置関係だが、目線は別だ。株式公開の場でケイは扉を開いて単身男たちの社会の中へと階段を上り、彼らに向けて上から話しかけるための席へと着く。そして既に述べていたように、マクナマラはその関係性の揺らぎから対立する位置となり、更に上から物申される。これらの、テーブルを挟んだ関係性が最も視覚的興奮を伴って表出するのは、機密文章を掲載するかどうかを決める場面でああろう。

ここでは電話というアイテムを、緊迫感のある細かいカッティングによって効果的に登場させているのだが、ただ電話を介し話すというだけではなく、視線設計によりベンとアーサーがケイを挟んで対立しているかのような、まるで空間的な隔たりなどないかのような演出がなされている。そしてケイの周りをカメラが回りだすと益々一堂がそこに会しているかのようでもあり、意見の噴出する卓の中心に、彼女が孤軍として一人立たされているかのような錯覚を起こさせるほどだ。勿論、本作は激しくも綺麗に情報が整理された会話劇としても一級品であるがゆえに、このシーンは白眉として一つのクライマックスを迎えている。

本作でのケイは記者たちとも他の経営陣とも違い、その経歴ゆえに「あるものをあるべき場所へ戻す」性質に揺らぎがある。だからこそ彼女は中心で孤独に決断することを強いられるのであるし、その決断の重さに感動するのだ。このような決断のシーンはもう一度繰り返され、そこでもやはり席に着く彼女を役員弁護士らが取り囲んでいるものの、やがて席を立ち背を向けて言葉を発するその時、そこにもう揺らぎはない。はじめ、ケイの前に開かれた道はなく、男たちが壁のごとく立ち並んでいたわけだけれども、自らの決断によって道を作り出したということが、最後には視覚的に認知されることとなる。



一人の男が持ち込んだ事実を一つの新聞社が暴き立てる。その灯を絶やさないようにと連日の報道が引き延ばす。無名の女性が引き延ばす。社を超えて引き延ばす。無数の信念が一つの決断によって広まる。発行という希望が機械の振動を伴って画面に表出する。多くの作業員のつながりを経て事実が知れ渡る。広まった灯が更なる光となる。この過程は、一つの室内を捉えた長回しが多用される前半から無数の空間を繋ぐ編集へと移行する後半という、画面上の移行によっても理解できるだろうし、巨大な機械が延々と動き続ける様子からも連鎖のモチーフを見受け取ることが出来るだろう。そしてさらにこの作品は『大統領の陰謀』へと映画史を遡って連鎖しさえもするのであって、近代史から現在へ、映画から映画へと繋ぐその丹力にも恐れ入る。傑作。

大統領の陰謀 [Blu-ray]

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