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2017-09-11

『散歩する侵略者』を見た。

あれは夕陽だよ

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黒沢清監督の新作にして、劇団・イキウメの同名舞台の映画化作品。主演は長澤まさみ松田龍平高杉真宙恒松祐里長谷川博己ら。



数日間行方不明となっていた夫・真治(松田龍平)が、まるで別人となって戻ってきた。妻・鳴海(長澤まさみ)は、戸惑い、また彼がそれまでにしていた行動を咎めつつも、とりあえず家へと連れて帰る。一方その頃、とある一家殺人事件取材をしていたジャーナリストの桜井(長谷川博己)は事件現場っとなった家の前で、自らを宇宙人だと話す奇妙な少年・天野(高杉真宙)と出会い・・・



黒沢清作品において美術・安宅紀史が構築したのであろう「あったかホーム」は、人物の動線を確保するための謎の柱がほとんど邪魔だろうと思える場所にそびえ立つ不思議な空間であり、近年の黒沢清作品において欠かせない要素となっているのだが、今回はその柱が斜めに交錯していて、この斜め方向は柱のみならず鳴海のアトリエの壁や入口の向き等、部屋全体に表れている。おそらくこの斜めとは正対しない夫婦関係のために設計されたのであって、内装が統一されず、さらに灰色の色調によって室内が捉えられるのは、加瀬夫婦がグレーゾーンへと突入しているからなのだろう。同じ家の中でもそれぞれがそれぞれの生活を個別に行っていたことが、部屋によって示されている。



しかしそんな斜めに対し、加瀬夫妻の物語は正面からの切り返しによって幕を明けている。何故なら真治は宇宙人になっており、「忘れている」からである。宇宙人は正面から人間と対峙し「概念」を奪ってゆくが、所々で人物同士は斜めの位置だったり横切るというような動きをしているのが面白く、しかもまた宇宙人にしてもきちんと正面から見つめているというよりはややズレがあるわけだし、さらに「概念」を奪った後は人間に用がないというわけで、本作ではシネスコの中心と端っこを上手く利用しながら、こういった位置関係の要素を見せていることが多い。

ところでこの忘却という要素は黒沢清作品において頻出するモチーフであり、またそれらの多くは夫婦や恋人という関係と共に登場する。『散歩する侵略者』もまた、いつのまにか歪さを抱えた夫婦の物語なのである。「概念」を奪われ「忘れた」人間達は皆その場で崩れ落ちる。それはまるで一瞬だけモノと化してしまったのような、『シンドラーのリスト』で撃たれた人間達をどこか思い出すような不思議な崩れ方であって、確かに奪われた人間たちはそれまでとまるで変わってしまうのだから死の感覚と似ているのも無理はない。そして歩き方すらおぼつかない真治の姿はゾンビのように不慣れで、靴は脱ぎ捨てられる。しかし真治は次第にしっかりと立ち、歩き、走るようになる。不安定な足取りで散歩していたものが、いつしか人間と同じような足取りになるのだ。他の宇宙人たちを見れば、彼らがつまずき、倒れ、横になったままで死んだことがわかるだろう。しかし真治は鳴海と行動するうちに自らを、鳴海との関係を再構築したのだ。そして最後には立てなくなったものの傍に腰かける。この優しい視線と、そこに降り注ぐ優しい光は確かに過去作でも微かに見られた光景ではあるが、崩壊の果ての再構築としてここまで踏み込んでいたのは珍しいように思う。



再構築というと、本作は黒沢清的モチーフがやはり再利用されている場面が多い。最初に記した屋内設計や「忘却」の他には、例えば揺れる布や木々と風の雰囲気に謎の機械。反復する尋問シーンは『CURE』で、鳴海はその仕事といい灰色の服といい『リアル 完全なる首長竜の日』だし、殆どゾンビのような夫婦の足跡という点では『岸辺の旅』だろうとか、他にも挙げればきりがないのだけれど、最も類似性を感じるのは『ドッペルゲンガー』、もしくは『勝手にしやがれ』シリーズだ。つまりこれは「概念」を扱う小難しい話ではなく、ジャンルが混沌とする黒沢清世界の中を基本的にはナンセンスで突き抜ける楽しい映画なのだ。それはアバンタイトルによく表れていて、血まみれのセーラー服姿でふらふらと歩く宇宙人・立花あきらの背後で車があり得ない衝突を起こすという素晴らしいシーンである。他にもそのナンセンスさと風という要素が上手く組み合わさっているシーンとして、丸尾から「の」を奪うシーンがある。ここでは奇妙な掛け合いと何度も家に侵入しようとする真治の可笑しさを楽しめるのだが、実際に彼から「の」を奪うとき、ペットボトルで作られた風車と草の揺れのタイミングがズレている。この風の作用が素晴らしい。ちなみに風車はたびたび画面に登場するが、ひょっとするとこの風車とは動き出したら止められない機械としての風車なのではないだろうか。『生血を吸う女』的な発想ともいえるが、つまり鳴海や桜井が「侵略を辞められないのか」等と聞くも、宇宙人たちは理由を述べずそれはできないとだけ答えている。本作において宇宙人は、鳴海の言うように「目から光線を出す」ことはしないが、しかしやはり彼らにはやはり宇宙人らしくただ侵略をするというルールだけがあるのであって、だからこそ一度始まったらそれを止めるのは不可能なのだろう。反対に、はじめ立花や天野が侵略した家の窓はピタリと閉じられ風の気配がないのは既にその空間においては目的が完了したからではないのか。そして侵略を進めていくうえで何度も登場する風車は、予感として吹き始めた風を、動き出したら止められないものへと変換するために存在しているのではないか。

ところで丸尾家での人物の動きの他にも、例えば初めて鳴海の職場が舞台となったとき、彼女の背後ではいくらなんでもそんなに立ち歩くかなというほどに職員が動いているし、病院の混沌とした様子は特に軍隊が画面に侵入するタイミング等、動線設計で魅せてくれる場面もある。また立花はその身体性と「銃は持ったらとにかく撃つ」という精神で、フロントミラーさえ突き抜ける活劇性を作品にもたらしている。さらに宇宙人がふらふらと車を運転しゴミ捨て場に衝突するのはいかにも黒沢清らしい衝突だし、桜井が戦闘機相手に廃工場を走り回る場面には青天の下侵略SFらしい大仰な仕掛けが炸裂する楽しさがある。もちろんこういった仕掛けの多い場面以外でもカットを割らずに見せる箇所というのは多く存在する。

ところで、桜井が天野と出会う場面での、車を中心にぐるぐると動く場面ではある決定的な言葉を告げようとする場所に到着した際、天野の顔にはそれまでよりも濃い影がかかっている。この影は「概念」を奪い際に度々登場するものであるが、同時に光も画面には出ており、中でも宇宙人三人が加瀬家の前で出会う場面では、家の電灯が妙な光り方をしている。妙な光はそれ自体仕掛けとして面白いというのもあるが、これがあるからこそ種類の違う光が差す最後のシーンの美しさも際立っているといえよう。



ただし、黒沢清がいくら最初期から再構築の作家であるとはいえ、本作のそれは過去作の縮小版に見えてしまったのは残念でならない。『叫』以降の作品で清々しく傑作という言葉を胸にして劇場を出られたのは『Seventh Code』くらいで、まぁ『岸辺の旅』も大好きだけれど、やはり過去の素晴らしい実績とここ数年の作品を比較すると落ちる。しかも近作でも最低どこか一点は素晴らしいと思う場面があったのだが、この作品は動線の設計や活劇性、ナンセンス、恐怖とどれを取っても突き抜けておらず、その一点においても希薄なのである。この内容ならば、幾つもの作品でやってきたように鳴り物を持ったデモ隊くらい出して無茶苦茶に動かした末に襲撃があったっていいではないか。だが、そういう逸脱さもかなり控えられている。

確かに全体では楽しく見られはするものの、どうもドラマに対し丁寧すぎるのか、長いと思ってしまうのが近作の傾向であるように思うし、また「概念」を奪われた人間たちの反応は単調さを感じる部分があり、もちろんそこに嵌ると映画として危険だというのは分かるが、とはいえ現状も奪う行為のすべてが画面に寄与しているかと問われると、特に2回目からは画面が言葉を越えず、流れの止まる、しかもさしてアイデアのないギャグで終わっているから微妙であって、やはり黒沢清作品としてはこんなもので満足はできない、という思いを抱えたのであった。ただし、怒りによって芯を支える長澤まさみに、セリフのテンポ感と所作で魅せる前田敦子、そして「なんかひどくな〜い」というセリフを放ち去ってゆく恒松祐里の清々しさには拍手を送りたい。

散歩する侵略者 (角川文庫)

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2017-09-06

『ジェーン・ドウの解剖』を見た。

わたしは死にました

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トロール・ハンター』で知られるアンドレ・ウーヴレダル監督最新作。2016年度ファンタステック・フェストのホラー部門において最優秀作品賞を受賞した。日本では松竹エクストリーム・セレクションの第1弾として公開。主演はブライアン・コックスエミール・ハーシュ



田舎町で遺体安置所と火葬場を経営し、検死も行う親子の元にとある遺体が運ばれてきた。一家惨殺事件が起こった家屋の地下に埋められていたその死体は、ジェーン・ドウ=身元不明と呼ばれており、全く情報がないという。二人は早速死因を調べにかかるのだが・・・



つまり最初からすべては終わっていたのだ。検死官の親子が、運ばれてきた身元不明の女性の遺体=ジェーン・ドウを解剖し、肉体の内側に秘められていた恐るべき真実を知るという物語ではあるものの、そんな筋立てとは無関係に、冒頭からすでに検死官たちの運命は決まっていたのである。何故ならジェーン・ドウは自らの死に対し理由や理解はひとつも求めてはおらず、はじめからただひたすら純粋に呪いとしてそこに存在していたからであって、検死官たちは否応なしにその呪いを受ける他に道はなかったのだ。

この作品がホラーとして素晴らしいのはまさにこの部分である。ある死体の謎を巡るサスペンスはホラーの要素を多分に含んでいるものの、完全にその領域へと到達するのはジェーン・ドウが呪いそのものであったと判明するその時であって、死体であったはずの「それ」が死体という我々が理解できる範疇を超え、呪いという別の次元へと変貌を遂げる。検死官がたどり着く真実はドラマにも皮肉にもならず、単に一方的で理不尽な現実として彼らに襲い掛かる。そのことがわかってしまえば、あとは機械的に動き出していた不条理によって条理が蹂躙され、抵抗のしようもなく世界がぬりつぶされる様を待ち構えていれば、自然に黒い快楽を得て劇場を後にすることが出来る。なんと素晴らしいホラーであろうか。



もちろん、ホラーとしての素晴らしさはそんな感性にのみ託されているのではない。例えば恐怖の舞台は、解剖室とそこへと通じるわずかな長さの廊下といくつかの部屋しかないものの、それらが状況や鏡、煙という事象によって多様な顔を見せる豊かさも素晴らしい。わずかな空間の中で検死官たちと「何か」の距離感を生じさせ、その「何か」が画面の奥からじわりとやってくる恐怖をうまく見せているし、時にはその距離感を真っ白な煙で混乱させもしている。このような演出、ショットの組み立てというのは冒頭の惨殺事件が起こった家を捜査しているシークエンスから期待させてくれるもので、凄惨な現場をたどりつつ最後に土に埋まる美女の死体へと行き着くその手腕で引き込ませてくれる。



登場人物が極めて少なく、また彼らが無駄な行動はせずひたすらプロとして解剖を行うというのも嬉しい。無駄にドラマなるものを入れ込むことで時間を引き延ばしたりはせず、親子という関係に従ってあくまで仕事を進める中において交わされる会話をさせておけば、自然とキャラクターと感情は作り出される。それさえやっておけば、あとは検死官という役割に沿って行動させればよいのである。もちろん、既に書いたように解剖が進めば進むほど後戻りのできない世界へと足を踏み入れていたことが明らかになるのだが、それでも彼らが解剖を辞めたりはしないのは単に検死官だからであって、彼らの仕事である死因を明らかにするという行為が滑らかな手さばきによって行われるに従い怪奇が積み重なってゆくサスペンスには、おぞましさと同時に経済的な画面の流れによる心地よさがある。



そしてなにより、ジェーン・ドウである。微動だにせず中心に置かれ続けるこの死体の素晴らしさがやはり肝であって、本当にただそこに置かれているだけにも関わらず、物語も画面も支配している。この死体の、まぎれもなく死体であるという存在感とそれに似つかぬ美しさが中心にしっかりと据えられているがために細部は怪奇でもって有機的に動きだし、システムとして機能するのだ。だからこの作品の主役はやはりジェーン・ドウであって、目を見開いたままそのすべてをさらけ出すオルウェン・ケリーの肉体あってこその作品なのである。というわけで傑作。

ジェーン・ドウの解剖 [Blu-ray]

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2017-08-11

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』を見た。

Shine On You

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1986年から現在も連載中の荒木飛呂彦による漫画『ジョジョの奇妙な冒険』において、92年から95年の間に発表された『第4部 ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化。監督は三池崇史。主演は山賢人、神木隆之介岡田将生新田真剣佑國村隼山田孝之伊勢谷友介ら。



日本のどこかにある町、杜王町。平和でのどかなこの町に引っ越してきた高校生の広瀬康一(神木隆之介)は新たなる出会いを楽しみにしていた。しかし早々に不良に絡まれた康一は、同級生東方仗助(山崎賢人)に偶然助けられる。仗助は目に見えない力を持っており、康一はその存在に興味を持つ。そんな中、町では秘かに恐ろしい事件が起こり始め・・・



どう見ても日本とは思えない土地に間違いなく日本でしかない景観がねじ込まれ、どう見てもおかしな装いとしか言いようのない恰好の人物が画面を闊歩し、どう見てもおかしな「スタンド」と呼ばれる超能力が戦う。いったいどれほどの「おかしさ」が詰め込まれた作品であろうか。しかもこれらの「おかしさ」はその身を画面に馴染ませることなどはせず、そのまま残されているのだ。しかしそれが功を奏している。つまり、大前提として大ウソをつくことによって世界自体がおかしな異物として存在することとなるため、そこに映る人物もそうである事を望まれるし、普通ではないことが起ころうともそこに驚いてはいけないという前置きが出来上がっているのだ。だからこの作品においては無理に現実に合わせるであるとか、もしくはファンタジーとして作り込むようなことは必要ない。なぜなら異物でしかないことを前提としているのだから、それはそのまま異物として表現すればよいのである。結果出来上がったのは一見キッチュではあるけれども、原作の醜悪なパロディとしてではなく、あくまでこの作品内においてキャラクターが魅力的に動き回れる世界であり、そもそもジョジョの奇妙な冒険』という漫画のその絵自体が、コマと省略とデフォルメという漫画的な表現が非常にうまくもありつつ西洋絵画やボブ・ピークから影響を受けているような、元々リアリティともファンタジーともいえない独特なラインにあるものなわけだし、不思議な擬音も視覚的な感覚をあえて言語として表現した際にできるものなのだから、そんな漫画を原作とする実写映画として、本作が採用した方法は決して間違ったものではないといっていいだろう。



一見、と書いたのはこの世界の何もかもがただ「おかしな」異物ではないからである。例えばコントラストを強めることで、異物は異物として画面に馴染んでいるし、また美術の力もかなり大きい。特に後半の舞台となる虹村家は良く作りこまれた、豊かな廃屋空間である。ただしその豊かさとは、荒廃した雰囲気を作り出した美術によるだけのものでもない。この屋敷のホールにある階段を上った先にはL字に曲がる廊下があり、狭い部屋へと続いているのだが、さらにその奥には上の階に行くための階段が直線上に見えている。この直線を生かした動きがつけられることによって、いくらもない道でありながら画面には前後への広がりが生まれており、さらに狭さで画面が立ち往生してしまわぬよう、スタンド戦では上下と曲線の動きもつけられている。美術に加えこのような演出によって、屋敷の中に空間が創出されている。また前半の東方家においては、四方を取り囲むサスペンスに対し部屋と部屋との間の壁を壊して切り抜けるという、家ならではの設計が効いている。

さらに照明も非常に重要な要素であって、特に強く出ている黒は画面のアクセントとして以上に、ホラーとしての雰囲気を高めている。それは東方家の夕食というなんてことはないシーンにおいても無駄に黒いため不安になるほどで、些かおかしく思える部分もあるけれど、とはいえホラー方向に寄せたのは正しい選択である。それは漫画の原作者である荒木飛呂彦ジョジョを書く際に多くのホラー映画に影響を受けたということや、三池崇史作品らしいグロテスクな造形が登場すること、もしくは映画的な記憶を引きずり出させるということに留まらず、この作品の物語がホラー性を持っているために、ホラーの雰囲気が必要なのだ。そしてそのホラー性の中核を担うのが、家と侵入者である。

冒頭からある一家への侵入者として登場する連続殺人鬼のアンジェロは、それが家であろうとも体内であろうとも人知れず侵入し殺害する。つまり単に殺人鬼というだけでなく、普通の人々にとっては克服しえない実態不明の現象であるために、彼の存在はホラーになるのだ。またアンジェロが退場した後に登場する虹村家はホラーとしか言いようのない状況を抱えているわけで、家の中に隠された部屋と悲劇という点でゴシックホラーと言い換えても良いだろう。だからこの作品におけるホラー性とは、家を中心とする日常に潜む魔という、物語的な要請からきている。しかしそれでも完全にホラーとならないのはそれらに対抗する術を持った人物がいるからであり、そのために見通しの良い空間設計がなされているのである。



ところで、家と関連する事柄で本作の登場人物が繰り返し口にする言葉として、「父親」というものがある。ただし一言に父親といっても、仗助にとって、虹村兄弟にとって、アンジェロにとってと内容は三者三様であって、それは例えば食事を摂るシーンにおいても仗助は家で家族と、虹村形兆は屋敷で共犯者と、アンジェロ他者の家でというような違いがあり、家と家族に対する考え方の違いはそういった画面からもうかがい知ることが出来る。仗助は家族が良ければそれでよいとはじめ考えており、スタンドもアンジェロも彼には関係なかった。しかしながら「父親」代わりとなっていた良平が殺されたことにより彼はアンジェロと、そしてアンジェロのスタンドを引き出した虹村兄弟と対峙することとなるため、彼としては否応なしに外部へと向かわざるを得なくなるのだが、アンジェロは家族という内部を持たない存在であることに対し、虹村兄弟には彼らの家族というまた別の内部と事情がある。仗助は彼らを通して、自らの家族だけではなくいくつもの家族という内部に忍び寄る正体不明の外部を知り、家族や家、ひいてはそれらの拡大単位である町を守るという良平の意志を受け継ぐのである。

一方、常に外部へとしか動かない人間というのも本作には登場しており、それは広瀬康一である。原作とは違い転校生という設定になった彼はこの町に未だ内部を持っていないため常に外部へと働きかけざるを得なくなるのであるが、それはなにより彼が乗り回す自転車の回転によって行われる。人と人とが出会い、スタンド使いが出会い、引きあわされることとなるのは殆ど自転車の回転を通してなのである。もし形兆の言うとおり出会いが「重力」であるとするならば、この作品において最もそのことを視覚的に感じさせるのはスタンド使いと触れ合うたびに手放され倒れる自転車である。本作が家という主題と同時に出会いの物語として成立しているのには、この部分が大きい。



これらのように、物語が画面上のモチーフを通し映画として有機的に繋がるよう再構成された本作は、漫画原作の実写映画化としてベストな出来とは言えないかもしれないけれども、ベターな戦略を持って臨まれたということは間違いない。確かに無駄だったりテンポを削ぐようなカット割りはあるし、リアクションの過剰さも気になる点ではある。しかし、例えば必ずしも芸達者ばかりではない役者陣も総じてこの世界のなかでは個性を確立しており、特に虹村形兆を演じた岡田将生は素晴らしくキャラを演じている。そういった点ひとつとっても、単に捨て置くだけの作品では決してないのだ。続編が製作されるのか、それはまだわからないが、最後にちらりと姿を見せた吉良吉影、彼もまた家族の物語を持った人物であるわけだし、何よりこの方法論で語られるジョジョ4部が非常に楽しみである。というわけで、面白かったですよ。

2017-07-02

最近見た旧作の感想その32〜2017年上半期旧作ベスト〜

最近ますますブログの更新が滞っておりますが、とりあえず2017年も上半期が終わりましたので、旧作映画のベストについて書きます。今年1月から6月の間に見た旧作で特に面白かったものを列挙していきたいと思います。



『怪人マブゼ博士』(1933)

ラングの中でも大好きな作品。見えない犯罪者を中心としたテンポの速い犯罪映画だが、その見えなさを利用した一種のホラー映画としても最高。とりわけ音・声の演出が素晴らしく、見る・聞くの驚きに満ちている。例えばまずは冒頭の、工場の地下にあるのかと思われる部屋の中では、ものが揺れるほどの振動音が響いており、そのテンションの高さから爆発までの流れで一気に引き込まれてしまう。その後の、電話中に襲撃される場面にも犯罪映画的サスペンスの面白味があるのだが、このようにして事件に巻き込まれた人間の中には、見えざるものが見え、見えるべきものが見えなくなり、また不在の声を聞いたり、はたまた言葉を失ってしまう者がいる。そして全ての中心にいるマブゼは自身の姿こそ見せないが、声を借り、文字を借りて世界に混沌をもたらすのである。高橋洋が最も恐ろしい映画として挙げたのも頷ける、理解不能な理論で世界が書き換えられようとする、素晴らしい恐怖映画であり、一級の犯罪サスペンス映画だ。



『冬冬の夏休み』(1984)

これは素晴らしい夏休み映画で、走ったり遊んだり寝そべったりする子供たちが、ただ単に子供たちでしかない良さがある。風景も美しく、心地よい時間が流れていはいるものの、そこには死や悲しみも普通に存在しており、そういったすべてをひっくるめた時間と空間が豊かに映し出されているのだ。何度か登場する列車のタイミングが最高。



『日本暴力団 組長くずれ』(1970)

高桑信監督による日本暴力団シリーズ二作目。この監督についてはなかなか調べても情報が出てこないのだが、しかしやはり面白い。若山富三郎の出番が異常に短いのは残念ではあるものの、鶴田浩二池部良の兄弟設定、そして何より山本麟一に男泣きである。銃撃・襲撃シーン等、画面奥左右をドアや窓、柵を利用した画面構成へのこだわりもいくつかの場面では見られるのだが、色としての白が多いのも印象的で、冒頭からして異常なまでに白く、またそんな中に時折差し込まれる赤も鮮烈な印象を残す。

日本暴力団 組長くずれ [VHS]

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『みかへりの塔』(1941)

更生学校の子供たちの、只々歩いたり走ったりというような様々な行動が生き生きと捉えられており、カメラもまた気持ち良く動いている。ロングショットが抜群に美しい。断片的な話を、そういった町の風景が繋いでいるようにも思えた。喧嘩や靴の話などは時折サイレントのようでるが、その少年同士が橋の上で喧嘩する場面でのカット割りや、最後の開墾風景はまるで西部劇風でもある。しかしそういった生き生きとした子供たちの動きに対して、元生徒が尋ねてくる座ったままの静かなシーンによって、話に重みがかかっている。

あの頃映画 みかへりの塔 [DVD]

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『ギャング同盟』(1963)

オープニングクレジットからカッコよく、全編スピーディーに展開するクールな作品。鶴田浩二みたいなスターは出ていないが、しかしその、華やかさとは違う負け犬達の渋い戦いがかっこいい。クールでサスペンス調の誘拐シークエンスに、黒の映える画面、そして正体不明瞭な「組織」とのやり取りはハードボイルドな雰囲気を醸し出しているものの、最後には西部劇調の廃屋での籠城戦となる。ただしアクション演出でいうと、むしろそのクールなトーンに合わせて一瞬のうちに光るエレベーターでの場面の方が、本作の場合は面白いかもしれない。深作欣二が主張にハマりすぎず撮ったギャング映画の佳作。

ギャング同盟 [DVD]

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『顔役』(1971)

細かい感想はこちら→最近見た旧作の感想その30 - リンゴ爆弾でさようなら

勝新太郎監督作が醸し出すダウナーな空気感が好きなのである。

警視-K DVD-BOX

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『僕の彼女はどこ?』(1952)

ダグラス・サーク監督によるコメディ。話の動機としてはどうなの、と思わないではないけれど、爺さんを中心にひたすら言葉の応酬をし続ける楽しい作品。酒場や賭博場に顔を出すシーンはその顛末も含めて笑える。層をつくり、その中を登場人物たちに出入りさせ、また多くの動きをつけることで画面が生き生きとしている。色使いは流石の一言。メロドラマ系譜よりもこちらの方が個人的には好きで、クリスマス映画としても抜群の雪の美しさ。傑作。



『牯嶺街少年殺人事件(1991)

細かい感想はこちら→最近見た旧作の感想その31 - リンゴ爆弾でさようなら

これもまた、控え目に言っても驚くべき傑作。



『シー・ホーク』(1940)

マイケル・カーティス監督、エロール・フリン主演による海洋冒険活劇。海戦から集団脱走に潜入モノと、内容てんこ盛りで飽きさせない娯楽作。音楽も含めておそらくは『スター・ウォーズ』に影響を与えたのだろうと思われる。室内外問わず縦奥に広いゴージャスな空間の設計が見事で、また陰影を凝らした撮影がいい。夜の街並みや海、無人の船に落ちる影、そして最後の剣戟ではその空間と影の面白さが存分に発揮されており、とにかく見所いっぱいで楽しい。ヒロインを演じたブレンダ・マーシャンも可愛かった。



アンダーカヴァー(2007)

撮影に目を惹かれる作品で、一つ一つの画面に貫禄がある。目線で語るのが主になっており、出来事を見つめさせ、またその交わりで緊張感を高めさせたりするのがうまく、さらにその上で物語を自然に展開させる脚本が良いと思うのだが、対して銃撃戦やカーチェイスなどのアクションシーンは視界不良の中で行われている。特に麻薬工場での、扉やビニールカーテン、それに闇を利用したそれは音や血の効果も相まって印象に残るシーンであった。

アンダーカヴァー [DVD]

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『三十九夜』(1935)

ヒッチコック作品の中でも特に素晴らしいこの作品は、風に揺れるカーテンが一つの殺人事件を運んできた後止まることを知らぬまま、ある男が乗り物や群衆を駆使しつつ、女と関わりながら逃亡劇を展開することとなる。ヒツジの群れから始まる霧の水の夜のシーンが素晴らしく、更にその後の、手錠をはめられたままの男女が一つの部屋に泊まることとなる場面では、女がストッキング脱ぐ際、手錠というアイテムによって性的な行為ひとつなしに性を強烈に印象付けている。

三十九夜 [DVD]

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時代屋の女房(1983)

夏目雅子存在感がイチイチ最高で、何故か傘をさして登場するこの殆ど幽霊か妖怪かとすら思えてしまう正体不明気味な女性は、その動きによって圧倒的な魅力を画面にたたきつけているのだ。勿論この作品の良さはそれだけではなく、時代屋の家屋設計といった美術面から、その家の中で層をつくり画面手前奥で異なる動作の流れをつける演出も魅力的なのである。平田満が出てくるシーンは全編面白動作大会すぎて最高。森崎東監督作品は初めて見たのだが、これは面白かった。

あの頃映画 「時代屋の女房」 [DVD]

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暗黒街の美女(1958)

鈴木清順による、死んだ男が呑みこんでいたダイヤモンドを巡る争奪戦。キャラクターの個性が立っており、またダイヤモンドをいわゆるマクガフィンとし、アクションを止めないで進行するスピード感が最高な娯楽作。影を駆使した犯罪映画としての雰囲気立てもかっこよいし、白木マリが水島道太郎と追いかけっこをしたり、川辺で歩いている辺りの自由な動きも魅力的だ。ところで、鈴木清順作品は柵やガラス窓、壁といったものに登場人物がしがみついたり、張り付いたりするシーンがいくつかみられるような気がする。すぐさま思いつくのは『野獣の青春』の宍戸錠、『けんかえれじい』の浅野順子だが、今年初めて見た『港の乾杯 勝利を我が手に』も『悪太郎』にもそういったシーンはあった。



というわけで、以上が今年上半期に見た作品で特に面白いと思った作品でした。今年もなかなか新作映画についてブログを更新できない状況にあましたが、しかし北海道から東京という遠さがありながらも名画座へ行く楽しさを覚えてしまい、金は消えてゆくものの『顔役』や、鈴木清順の作品を見ることができ、また『牯嶺街少年殺人事件』の全国での公開もあって、今まで見ることを半ばあきらめていたような作品に触れることが出来たのは、大きな収穫でした。下半期もどんな作品に出会えるかも楽しみですね。

2017-05-23

最近見た旧作の感想その31

『牯嶺街少年殺人事件(1991)



映画を好んで見ていると、時に「見られない作品」に出会うことがある。例えばDVDが廃版になっているだとか、もしくはそもそも日本版や日本語字幕の入ったものが発売されておらず、VHSに頼るしかないもののそれすら手に入れることは困難であるとか、さらに中にはパッケージ化されていない作品まである。こういった、「見られない作品」の中でも高名だったのが、エドワード・ヤン監督による『牯嶺街少年殺人事件』である。丁度僕の生まれた1991年に台湾で、そして翌年に日本で公開されたこの作品は、長らくの間容易には見ることの叶わない幻の作品として存在しており、「クーリンチェ」という聞きなれない名前の付いたこのタイトルはまるで『悪魔のいけにえ』こと『The Texas Chain Saw Massacre』のようにそっけなく、それでいて強烈に興味をそそられるものであった。そんな作品が何と今年になって突如全国で復刻上映されることとなった。タイトルの魅力や、既に傑作として名高いことからも僕はほとんど約束された傑作を見に行くという感覚で劇場へ向かった。しかしそれは間違っていた。これは約束された傑作などという安心感を持って臨めるものではなかった。それどころか、途方もない傑作を目にしているのだということに慄くような作品であったのだ。



この作品を説明するとしたら、まずは闇の映画であると言わざるを得ない。闇とは言葉の通り画面上に現れる闇のことであり、この作品では無数の豊かな闇が画面を覆っている。それと関連して、光の映画でもある。しかしこの光は闇を完全に照らし出すような強さをもってはおらず、懐中電灯に電球や蝋燭というおぼろげで心もとない、瞬間的な光であって、せいぜい深い闇の一部をぼんやりと浮かび上がらせるだけだ。だから『牯嶺街〜』においては、光というより光源に対して意識的なのだと言えるだろうが、ともかくこの光と闇が生み出す画面一つ一つの充実ぶりを見ているだけでも相当に素晴らしい。ただし重要なのは、こういった画面がただ一枚の写真として存在しているのではなく、人物の動きや音を伴いながら世界の広がりを実感させているという点である。『牯嶺街〜』における光の届かない闇の深さには、それだけで見ている側にその奥の世界への想像力を引き出させる力があるのだが、登場人物たちはその中で生きているということを、動きや音の広がりによって見せている。

勿論、その広がりとは暗闇のシーンに限るものではなく、例えば小四が足を痛めた小明と出会い、歩き、止まったかと思うと脚のショットを挟み込んで塀を乗り越えるに至る昼間の場面も素晴らしい。画面奥手前や上下の構造を利用し世界と動きを捉えるフレーミング、設計、タイミング、それにロケーションなどが、これしかないという精密さでもって全編連続することにひたすら驚かされる。

そしてさらに面白いのは、このようにして世界の広がりを見せた作品でありながら、この作品に漂うのはむしろ閉塞感であるということだ。それは物語から要請さているのだろうが、しかし決して『牯嶺街〜』はある一定の時代を取り巻いていた状況を再現しているのみではない。「あの頃」を思い出すとか、それに乗じて今を見つめ直そうなどといった手合いのものではなく、『牯嶺街少年殺人事件』として再構築された世界が画面の中に存在しているのだ。だからこの作品が作り出した世界は現実の時代とは無関係に映像の中で生き続けると確信しているし、それはつまり、映画として最も理想的な形の一つなのではないかとも思っている。



ところで、『牯嶺街少年殺人事件』を形作る要素として非常に気になっている要素に「夏」ということがある。どうにも暑そうな夏を舞台としているが、ふわりとした風が入り込んでいることからも、じっとりとした不快感、つまり湿り気に関してはあまり感じられなかった。とはいえタイトルに類似を感じる『悪魔のいけにえ』の暴力的な暑さともまた違っており、そこで気になったのが、水の扱いである。まずは冒頭、登場人物たちは食事をとるよりもまず先に、季節外れに熱いお茶と、かき氷を食べる。その後も、お茶を飲む場面は食事よりも多く画面に登場し、さらに主人公に至っては「食欲がない」と言い、まともに食事を摂ろうとしていないことからも、飲み物がより強く主張されているように感じた。

そしてそんな飲み物よりも更に強烈に画面に出てくる水として、雨のシーンを忘れるわけにはいかない。217と呼ばれるグループを襲撃する夜の場面は、そのほとんどが闇に覆われたまま音と少ない光の中で進行し、本作でも最も素晴らしい影の見られるアクションシーンであるが、ここでは轟々と雨音が響いており、また雨合羽に笠を着込みずぶぬれになりながらゆるりと人力車でやってくる襲撃者たちの姿は異様に格好いい。ここで雨/水は、それまでより強烈な集団的暴力を運んできているのだが、もう一つ暴力を運んでくる水が存在する。それは小四の父親が尋問されるシーンで使われている、氷である。小四の父親が尋問質に連れて行かれたとき、その床は奇妙に濡れており、いったい何故かと思っていると、その後に違う男が下着一枚を履いて氷の上に座らされているシーンが出てくる。そして廊下には、無数の氷が並べられているのだ。この静かながら異様な暴力性を醸し出すシーンにはぞっとさせられる。暴力の気配が氷という形を持ってそこに存在しているのだ。

ここで僕が思うのは、『牯嶺街〜』における水とは、ただその暑さを紛らわせ潤わせるような癒しではなく、むしろ他者との断絶が起こる契機として存在しているのではないだろうか、ということである。実際、暴力的な場を抜きにして飲み物に関して考えてみた場合、冒頭の入学の件に始まり、教員と父親の会話や小馬邸等、登場人物が飲み物を口にする際にそこで交わされているのは、片方の望みが受け入れられないという状況や、何か食い違いの起こる場面ばかりではなかったか。そして小四にとって最も大きな他者との断絶が起こるとき、そこにもやはり、液体は流れている。



断絶というのはこの作品の、物語として一つのテーマであると思う。それは信念を追い求めた人々にとっての断絶であり、信念を追い求めることすらできなかった少年の断絶であり、理想など持ち得ない境遇に生きる少女の断絶である。それが時代感と呼応して、少年たちの姿を借りつつより大きな社会を映し出しているのは間違いないだろう。ただし、『牯嶺街〜』は、断絶を大きな一つの出来事で語るのではなく、些細なズレの積み重ねとして描いており、その中心にいるのは小四と小明である。小四は多くのグループや人物が崩壊してゆくのを見ていく中で、父親から教えられた信念の向う場所を結局一人の少女へと集約してしまっているが、しかし小明は既に理想や信念などは無縁の酷薄な現実にさらされている。だから実は彼らは最初から分かり合えないことが約束されているのであって、小明がまずその脚を画面に映し出すというのも彼女が本作のファムファタールだからではなく、おそらくその脚の傷を理解することもできないまま翻弄されたと憤る男たちの、無理解をこそ強調したいからではないのか。そして小四はそのことに気付きもしないまま、初めから約束されていた断絶へとたどり着くのである。

しかし小四の抱えた屈折について、僕はそれを、「幼いから」というような言葉で簡単に捨て去ることはできない。もちろんそういう面はあるだろう。とはいえ彼は、ほとんど運命的といっても良い些細なズレの積み重ねによって、本人も気づかぬうちに、いつの間にか何処へも向うことができなくなった少年である。そしてそんな彼の、それでもどこかにあるはずの理想を希求する姿は今の僕にとって軽くあしらえやしないものだ。勿論、社会情勢として背後に存在するものの大きさはまるで違うのだから、おこがましい共感ではあるだろう。だが何処へ向かうこともできぬまま愚かに朽ち果てた小四の屈折に、未だ懐中電灯をぶら下げては無作為に闇を照らそうとしているだけの僕は、涙を流したのである。