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2018-05-26

『孤狼の血』を見た。

狼のおまわりさん

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柚月裕子によって書かれた同名小説の映画化。キャストは役所広司松坂桃李真木よう子江口洋介石橋蓮司ピエール瀧、竹乃内豊、伊吹吾郎音尾琢真、遠藤賢一ら。監督は白石和彌



2つの暴力団の間で抗争の火種が起こっていた昭和63年広島。マル暴のベテラン刑事・大上(役所広司)は新人の日岡(松坂桃李)と共に、金融会社社員の失踪事件解決に向け奔走している中、会社員は失踪したのではなく、加古村組という暴力団に拉致されていたことが判明する。逮捕状を叩きつけ捜査に乗り込む一方、加古村組が尾谷組の若者を殺害、これにより、大上が抑えていた尾谷組もついに大規模な抗争へと動き出そうとする・・・



東映実録路線の活気を復活させようという気概をそこかしこに配置されたオマージュから感じ取ることは確かにできるのだが、しかしオマージュなどはむしろ不要であったように思える。というのも、そんなことをしても中途半端なことにしかならないからだ。なにしろ当時の作品群が持っていたエネルギー、つまりプログラムピクチャーという枠組みの中で、任侠からの流れを汲みつつ反逆するように生み出された時代的土壌に、例えば深作であれば戦争を通した個人史からこみあげる怒りと生を刹那に爆発させたような、そんなエネルギーは再現のしようもないのであって、それなのに表面だけ掬ってみたところで、それはしょせん、表面的にしかならないからである。また1974年生まれの白石監督は過去にも犯罪映画を扱ってはいるが、どれも部外者側から問いただす視点によって善悪の彼岸を彷徨う者の物語としてきているのであり、それは東映実録路線が持っていた内側から沸き起こる生のエネルギーや怒りとは別物なのだから、やはり表面的なオマージュをしても食い違いが起こるのは必然であろう。



勿論、白石監督作の特性自体を批判するのではない。そもそもそんな性質の違いなどは百も承知であるがゆえに、『県警対組織暴力』とは違う方向へと舵取りをして松坂桃李の物語としたのだろうし、またその内側から一歩引いた部外者的視点が功を奏している部分もある。例えば『凶悪』でも印象的であった拷問シーンの暴力性は画面を活劇的に捌くタイプとは違うからこその魅力なのだろうし、死体の破損具合をきちんと見せる残虐性も同様であって、これらは勿論サービスもといえるのだが、一歩引いた視点によってこられのシーンの残虐性はより際立つと言えるだろう。そして阿部純子演じる薬局屋の娘の立ち位置は部外者としての物語を一層引き立てるキャラクターとして大変魅力的であり、これは素直に面白いと思えた。

ちなみに役者といえば役所広司演じる大上は流石の存在感であって、その身振り手振りに口調といった行動すべてが彼の存在を示しており、それ故に素晴らしい。だからもし本作を実録的、もしくはその徒花とするのであればこの男を主役をするべきで、それはそれでおそらく面白い作品になったのであろうが、しかし本作は例えば『L.A.大捜査線/狼たちの街』や『トレーニング・デイ』のような、あくまでも警察の映画であることの行儀を本作は選んだのだから彼の話とするのはおかしいし、それ自体は問題ではない。



ただし、そういった方針だけでは看破できない問題も抱えている。中でも気になるのは感傷的になりすぎているということだ。最たる例が、ある人物の抱えていた真相を知るに至る終盤の展開で、一つ一つのシークエンスが説明的で長すぎる。残されたものへの継承として時間を割いて描こうというのであればそれはわからないでもないのだが、それにしても養豚場とアパートの一室は実のところ画面としてやっていることにさほど差もなく、近い時間の内に似たようなことを繰り返し見せられるのだから当然面白味はないし、しかもそのシーン自体がくどいほどに長い。この継承以降こそ、先述した独自の強み、つまり一歩引いた視点からの物語で勝負しなければならなくなり、それは概ね良く出来ていると言ってもいいと思うがゆえに、継承自体がグダついているのは非常にもったいない。また言語の応酬による画面のテンポが生まれていないこと、そしてキャラクターを一見の個性以上に利用できていない弱さも気になるところであって、これは多少、実録路線の高い脚本・技術・演出力と比較すると、という内容も含んではいるが、そうでなくても弱いなと思わされる。



繰り返しになってしまうが本作はその芯と実録路線の表面的オマージュとの間の食い違いによってちぐはぐな作品になってしまっており、鑑みるに、『アウトレイジ』シリーズが『仁義なき戦い』の先に虚無感を捉えてやくざ=警察映画の特異点となったのは流石であると思わざるを得ない。ただ一見東映の正当な継承者として振る舞っている『孤狼の血』は、むしろ実録と別の地平で新しい魅力を切り開こうとしていたわけで、そのためにまずは、敬意をもって過去に筋を通したと考えた方が良いだろう。それは義理堅く真面目で真摯な姿勢かつ丁寧に行われたわけだけれども、ならば「アウトロー東映」として真価が問われるのはおそらく、制作の決定している2作目となるはずなので、今はそれに期待して楽しみに待っていようと思う。

孤狼の血 (角川文庫)

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2018-05-04

『リズと青い鳥』を見た。

キラキラで目が眩むけど

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2013年に刊行され、2015年にはアニメも制作された『響け!ユーフォニアム』の続編且つスピンオフとして制作された作品。監督は『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』『聲の形』などの山田尚子声の出演種崎敦美東山奈央ら。



吹奏楽部に所属する高校三年生の鎧塚みぞれ(種崎敦美)と傘木希美(東山奈央)は、それぞれオーボエフルートのエースとして、高校最後のコンクールへ向け日々練習に励んでいた。自由曲として選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエフルートの掛け合いがあり、二人は曲の元となった童話に自らを重ねていたが、次第に二人は噛みあわなくなり・・・



校門をくぐった先の階段に座り、すれ違う人には目を向けずうつむいている少女が、しかしある足音を耳にしてふと顔をあげる。目線の先には、軽快な足取りで、ポニーテールを揺らしながら歩いてくる友人がいた。その友人に引かれ後を追うように彼女も立ち上がると二人は列になって校舎を歩いてゆく。靴の履き方も、水の飲み方も歩き方も足音のリズムさえ違う二人は音楽室へたどり着き、今度は椅子を寄せ合い横並びになって楽器を取り出した。

このわずかな、しかしただ校門から音楽室への移動にしては不思議なほど長くも感じるシーンから一つの大きな主題が見えてくる。その主題とは距離だ。この冒頭からはうつむく少女・みぞれと軽快な友人・希美の間にある距離が、視覚のみならず、決して重なり合わずにリズムを生む豊かな音の演出によっても示されている。また距離は音楽室で再度、触れること、触れられないこととしても浮かび上がってきているのだが、ただしこの触覚とはそのほとんどが他者に触れる感覚としてではなく、自らを抑え込むための行為として描かれる。それは例えばやや重ための髪をにぎるとか、手首を押さえるといった行為であって、特にみぞれが髪をにぎることは、彼女がずっと見続けてきたのであろうポニーテールの揺れと対称的な癖である。また、みぞれにとって剣崎という後輩がまず手から視界に入るというのも、彼女が見つめている者との間に距離があるからこその侵入であったのだろうが、この見つめる瞳もまた印象的であって、何度もクローズアップされるみぞれの瞳は、不安定に揺れながら希美を見つめている。



これらの空間・音・触感・瞳といった描写によって映し出された二人の距離は、学校という場の中で変化してゆく。みぞれと希美の演奏は、それぞれ気付いていないふりをしていた事実の露呈によって変化する。ハグさせようとすることと拒否することが変化する。クローズアップされる瞳の主が変化する。こういった変化は、『リズと青い鳥』という童話の解釈と重なるように変化しているのだが、その子細よりもここでは学校という舞台自体が、柵や窓の利用された鳥籠の如き場所として設計されていることに目を向けたい。

事実として、この作品においては窓、もしくは枠が印象的に使われている。冒頭、二人並んで演奏を始めるシーンこそ籠の中という印象を受けるが、しかし会話シーンの多くにはその背景に窓が登場している。学校なんだから当然そうだろう、と言ってはいけない。そしてまた、窓の外を何度か鳥が横切るから籠だといっているだけでもない。例えば希美フルートのパートメンバーと会話するシーンと、みぞれが剣崎と対話するシーンにおいてでは画角として窓の映し方に差があるように思うし、部室であってもみぞれと希美とではその左右、背後といった周囲にいる人数の違いから窓の見え方にも差があったはずだ。さらにみぞれと希美が中庭越しに窓際で光を反射させながらふざけ合うシーンは内側からの切り替えしによって撮られているが、希美の姿が消えると次はみぞれの、やや後ろ下の辺りから捉えたショットが入り窓の大きさと部屋の暗さが強調されるようになっている。また希美がみぞれにプールへ行こうと言った際に他の娘も誘っていいかと問われ、その予想外の返答に微妙に困惑が見えるシーンでは、希美はまず、窓を開けやしなかっただろうか。希美新山先生へ自分も音大入りを検討していると告げたとき、そこに大きく広がる窓はなかったではないか。更にこの作品は校門という柵をくぐることで始まったが、再びその柵が登場するのはいつのことであったか。



こういった籠の如き学校を舞台に展開される距離の変化は、しかし決して距離を縮めはせず、むしろその距離が確実なものであることを認識させる。みぞれの音は希美の手の届かぬ域へと飛び立ち、希美を見つめていたみぞれの揺れる瞳は力強く前を見据える。逆に希美は、その世界へ自分はたどり着けないのだと、演奏するみぞれを見つめることではっきりと自覚する。みぞれがついに希美へと触れたその時、彼女らの思いがすれ違っていると、はっきり言葉として現れてしまう。

だがその認識が二人を引き離すようなことにはならない。変化の先に見えた道は確かに別々かもしれないが、しかしその道を歩もうとする彼女らは決別したわけではないのだ。音楽室と図書室へそれぞれ向かう彼女らは画面において一つの道から左右別々へ別れたように一見見えたとしても、ターンの癖とスカートの揺れる動きが全く対称に映ることと、そして窓の外を見上げることからも、それは決別ではなく、むしろこの二人だけの距離という特別な関係性を、冒頭とは違う印象を持って認識できるだろう。また、最後描かれる下校のシーンで階段の上に立つ側が逆転していてもそれもまた立場の逆転などではなくて、どちらでもあるということなのだろうと、やはり相変わらず前へ進む希美を見て、そう思えるのではないか。みぞれにとっても希美にとっても、距離は縮めるためでも離すためでもなく、その距離を通して自他を認めるために存在していた。



距離とは山田尚子作品に共通する主題であって、『たまこラブストーリー』も『聲の形』も、「投げること」「落ちること」という動きによって自己と他者距離を変化させ、離し、繋いできた。ただし本作は動きそのものから映画的な興奮を感じ取るというよりかは画面に散りばめられたイメージが連鎖し合うような性質であるため、過去作以上に画面が意図に絡め取られるような印象もなくはない。だがイベントを排し、登校という埋もれた日常にこそ感情を与えて動かす力は繊細というよりむしろ大胆な技というように思え、しかも例えば3年生4人で話し合う鋭いシーンもさらりと入れつつ、それでも全体では美しく仕上げることにより山田尚子アニメーション世界を生み出しているのであって僕はそれに感動したのだ。そして何より、中庭を挟んだ2つの窓際から、フルートに反射する光を相手の体に当てて笑いあう二人の、その距離によって生み出される光がなんとも美しかったではないか。もしかしたら残酷かもしれない、けれども美しいこの瞬間だけでも、僕は本作を愛することが出来る。

2018-04-04

『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』を見た。

割れたタマゴ

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ニューヨーク・タイムズによって暴露された政府の最高機密文書=「ペンタゴン・ペーパーズ」をめぐる実話の映画化。メリル・ストリープトム・ハンクスボブ・オデンカーク、トレイシー・レッツらが出演。監督はスティーブン・スピルバーグ



ベトナム視察から戻った軍事アナリストのエルズバーグ(マシュー・リス)は「ベトナムに対する政策決定の歴史」と書かれたトップシークレット表記の資料を持ち出し、その資料の一部がニューヨーク・タイムズによって報じられた。ワシントン・ポストの編集主幹・ボブ(トム・ハンクス)率いる記者たちも文章の入手に動き出し、ボブはかねてより国防長官ジョーマクナマラ(ブルース・グリーンウッド)と親しかったワシントン・ポスト社社長のケイ(メリル・ストリープ)に、文章を渡してくれるよう説得を頼むものの、機密保護法違反であるからと拒否されてしまう。数日後、ニューヨーク・タイムスは罪に問われ、発刊差し止めを言い渡された。時を同じくして、ポスト社も資料を手に入れるのだが・・・



冒頭で映し出されるベトナムの森が、思いのほか『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』に似た夜であったことに懐かしさと嬉しさを感じたのだけれど、考えてみれば丁度その辺りからスピルバーグカミンスキーのタッグによる作品の方向性は定まってきたのであり、しかもそれは画面の効果としてだけではなく、戦争の歴史という題材にまで及ぶ変化であったはずで、事実それ以降の作品では2つの大戦、黒人奴隷、テロリズム冷戦という題材を中心としつつ例えば難民という主題をそれ以前よりも多く撮っているわけだし、そしてついにベトナム戦争を扱ったことによって、近代史作家としての存在がより強固になってきているのは間違いないだろう。



そんな近代史作家としての作品群を支えたカミンスキーの撮影としては今回、人物の動きを流麗に捉えるショットが目立っている。いうなれば限定的な空間であるオフィス内を人物はひたすら動き回り、たとえ物語上の動きは一方向であってもそれを動きが入り乱れる空間全体の中で捉えることにより、画面は豊かに活気づくのである。また新聞社への出入りを背中から捉えて追うショットでは一人だけを追うのではなく、入る人と出る人がそれぞれ別であろうとも一つのショットの中で捌き、また伝達物や情報が人から人へ繋がっていく様子もカット割らないため、心地よい流れで見続けることが出来る。

このように彼らが動き続けるのは地位や名誉からではなく、真実を暴き出し伝えるという新聞記者としての性質からだ。だから本作は、隠されていたものが、もしくはバラバラだったものが繋ぎ合される場面が多く出てくる。隠されているのは勿論機密文章なのだけれど、それは時には引き出しに、時には箱に入っており、時にはページがバラバラになっており、さらに新聞紙すらも空を舞う。彼らはそれらを繋ぎ合わせ、新聞記者としての性質ゆえに、情報を国民の下へと戻すのだ。この性質を「あるものをあるべき場所へ戻す」と言い換えれば、それはまさしくスピルバーグ作品、例えば『レイダース 失われたアーク』にも『E.T.』にも『ロスト・ワールド』にも、数え上げればきりがないほどに何度も登場してきたモチーフである。



ところでカメラの動きといえばもう一つ、人物の周囲を回り込むカメラの動きも忘れ難く、それはむしろ人物の動き自体はあまり多くない時に見られるのだが、例えばケイとマクナマラが会話をするシーンでは、丸テーブルを挟んで対峙する2人の背後をカメラが回り込むように動いている。そしてこのテーブルというのは、本作において一つ重要な要素なのではないか。というのも、本作の主人公たるケイは記者たちと違うリズムの人物であり、その社会的立場から落ち着いた席での会話が必然的に多くなるのだけれど、その際に彼らが囲むテーブルの位置関係、もしくは立っていることと座っていることの関係が面白いのである。例えばベンとコーヒーを飲みつつ仕事についての対話をする場面において、二人は対面こそしていないが隣り合うという距離でもない。取締役会議でケイは一人でスーツの男に囲まれるような雰囲気で席に着くこととなる。フリッツとは机を挟んで立場こそ上下の位置関係だが、目線は別だ。株式公開の場でケイは扉を開いて単身男たちの社会の中へと階段を上り、彼らに向けて上から話しかけるための席へと着く。そして既に述べていたように、マクナマラはその関係性の揺らぎから対立する位置となり、更に上から物申される。これらの、テーブルを挟んだ関係性が最も視覚的興奮を伴って表出するのは、機密文章を掲載するかどうかを決める場面でああろう。

ここでは電話というアイテムを、緊迫感のある細かいカッティングによって効果的に登場させているのだが、ただ電話を介し話すというだけではなく、視線設計によりベンとアーサーがケイを挟んで対立しているかのような、まるで空間的な隔たりなどないかのような演出がなされている。そしてケイの周りをカメラが回りだすと益々一堂がそこに会しているかのようでもあり、意見の噴出する卓の中心に、彼女が孤軍として一人立たされているかのような錯覚を起こさせるほどだ。勿論、本作は激しくも綺麗に情報が整理された会話劇としても一級品であるがゆえに、このシーンは白眉として一つのクライマックスを迎えている。

本作でのケイは記者たちとも他の経営陣とも違い、その経歴ゆえに「あるものをあるべき場所へ戻す」性質に揺らぎがある。だからこそ彼女は中心で孤独に決断することを強いられるのであるし、その決断の重さに感動するのだ。このような決断のシーンはもう一度繰り返され、そこでもやはり席に着く彼女を役員弁護士らが取り囲んでいるものの、やがて席を立ち背を向けて言葉を発するその時、そこにもう揺らぎはない。はじめ、ケイの前に開かれた道はなく、男たちが壁のごとく立ち並んでいたわけだけれども、自らの決断によって道を作り出したということが、最後には視覚的に認知されることとなる。



一人の男が持ち込んだ事実を一つの新聞社が暴き立てる。その灯を絶やさないようにと連日の報道が引き延ばす。無名の女性が引き延ばす。社を超えて引き延ばす。無数の信念が一つの決断によって広まる。発行という希望が機械の振動を伴って画面に表出する。多くの作業員のつながりを経て事実が知れ渡る。広まった灯が更なる光となる。この過程は、一つの室内を捉えた長回しが多用される前半から無数の空間を繋ぐ編集へと移行する後半という、画面上の移行によっても理解できるだろうし、巨大な機械が延々と動き続ける様子からも連鎖のモチーフを見受け取ることが出来るだろう。そしてさらにこの作品は『大統領の陰謀』へと映画史を遡って連鎖しさえもするのであって、近代史から現在へ、映画から映画へと繋ぐその丹力にも恐れ入る。傑作。

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2018-03-01

最近見た旧作の感想その34

悲しみは空の彼方に(1959)



公開から59年も経つこの作品が未だ色あせぬ傑作として存在していられるのは、現代にも通じる黒人差別問題をはらんでいる、つまりは今日的な要素を含んでいるから・・・などという理由によってではない。もしそうであるとするならば、仮にその今日的要素が解決した暁にこの作品は過去のものとしてなってしまうのだろうか。断じてそんなことはない。では2組の母娘によって語られる物語が、時代を超えた普遍性を持っているからだろうか。確かに、母娘のすれ違いや、夢と愛の狭間で揺れる物語は時代を超えて胸を打つだろう。しかしこの作品がもたらす感動は、言語で説明できるようなストーリーだけで片付けられるほど狭い範囲に留まりはしない。では一体何が素晴らしいというのか。それは歴史や言語や知識より広く開かれている感性、つまり、単純かつ強固な、美しさこそが、この作品を永遠に色あせぬ傑作たらしめているのである。




一体何がそんなに美しいのかというのは、冒頭のビーチにおけるカラー設計から既に感じ取ることができるだろう。色とりどりの風景が広がり、娘を探すラナ・ターナーの不安げな足取りをカメラが捉える。彼女はここで写真を撮っているジャン・ギャビンにぶつかり、娘を連れたファムタ・ニーアとすれ違う。この手さばきがまた心地よいのだが、しかしこの場面ではもう一つ注目したい要素があって、それは主要人物たちとの出会や物語の進行とは無関係に、画面の前後横を多くの人物が通り過ぎているということである。彼らは、画面に色を与えるというにしてはあまりに縦横無尽に動き回り、ラナ・ターナーらとすれ違い続ける。このすれ違いというのはその後も多くの場面で描かれており、直後に舞台となる狭いアパートの中でも、扉や廊下を駆使しつつ繰り返されている。この狭いアパート内での空間の広げ方や色使いに加えて照明による黒の出し方も非常に見応えがあり、ダグラス・サーク監督、ラッセル・メティ撮影によるカラー作品を見る喜びを存分に味わえるわけだが、ここではすれ違いという要素に注目したい。なぜならばこの作品は人物同士が、彼らの思いがすれ違うメロドラマをこそ描いているからである。



さて、はじめに観客がそのすれ違いをはっきりと目撃するのはファムタ・ニーア演じる母親が娘の忘れ物を学校に届けに来る場面であろう。黒い肌のファムタ・ニーアと白人との間に生まれた、白い肌の娘は母のことを知られたくなかったのに、教室へと訪ねてこられる。衝動的に学校を飛び出すと、画面左下には赤いポストが置かれている。雪降りしきる学校の外に置かれたこの赤が、あまりにもその色を主張しているなと思うと次の母娘のショットでは、またもや画面左下側に今度は赤い看板が設置されている。しかも母は、手に赤い靴を持っているではないか。

他のシーンも見てみよう。続く、ジャン・ギャビンがラナ・ターナーにアパートの狭い廊下で求婚するシーンでは、一旦は互いの思いが通じ合いかけるも、女の下へ急に舞い降りた女優の仕事に対し、男が反対することで結局は離れ離れになってしまう。このシーンでの二人の顔にかかる照明の変化も見所ではあるが、狭い廊下で会話する二人の間をすり抜ける男が、赤い荷物を持っていることにも注目すべきであって、ここでまたもや、思いのすれ違う二人の間に、赤が差し込まれているのだ。

時は過ぎ、二人の娘が大人の女性へと向かう年頃になっても赤はたびたび登場する。家を飛び出したファムタ・ニーアの娘(スーザン・コーナー)がキャバレーで働いていることを母に知られる場面では、赤い蝋燭が画面手前に配置されているし、さらに母が黒人であることを理由に路地で彼氏から暴力を振るわれるシーンでは、「FOR RENT」という看板の他に血によって赤が見せられる。この突然かつ相手を非情に突き放すような暴力シーンはジャズも相まって衝撃的であるが、もう一つ見逃せない要素として、鏡がある。この場合、ショーウィンドウの反射が鏡の役割を果たしているわけだけれども、この鏡というのはそれまでも、そしてそれ以降も、ほとんどの場合登場人物が隠し事をしているときに画面に登場しているのだ。特にスーザン・コーナーが「あなたの娘じゃない。私は白人よ、白い、白いの。」と鏡に向かって言いながら泣き崩れる母娘最後の会話シーンは、そういった画面の見せ方によって言葉や状況以上の感動をもたらしているし、やはりここでも赤で縁どられたカバンが登場するのである。



このように、物語を画面によって牽引してきたファムタ・ニーアの葬式で、この映画は幕を閉じる。ここでは、白い花の彩られた棺が出棺されるその時、喪服に身を包んだスーザン・コ−ナーが走り寄ってくる。このシーンが感動的なのは、何よりその色によってなのだ。根底に悲劇を持ちつつも美しく捉えられてきたすれ違いのドラマは、この色の変化によって結末を迎えるのである。だからこそ本作は問題意識や言語で説明できる範囲を超えて感動的な映画だと言えるのだ。勿論、今まであまり述べはしなかったがラナ・ターナー側が持つ成功物語の代償としての母娘の葛藤や女優を美しく見せようとする執念にも感嘆するし、また『天が許し給うすべて』に代表されるような窓と雪の美しさも忘れるわけにはいかないが、本作で僕が最も感動したのは何よりその色の物語である。というわけで紛れもない傑作、と述べて終わりたいところではあるものの、最後にひとつだけ付け加えたい。私生活で8度結婚したというラナ・ターナーは、この作品の前年に愛人を殺されている。犯人は実の娘であった。その事実が、そもそもリメイクであるこの作品に対してどこまで影響を与えたのかはわからない。しかし、ヒロインの職業を女優に変えたのは意図的であろうから、それを踏まえるとこの作品に対して新たな角度を見出せるのかもしれない。

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2018-01-06

最近見た旧作の感想その33〜2017年下半期旧作ベスト〜

皆さんあけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、早速ですが、昨日の新作ベストテン記事にも書きましたように、2017年下半期に見た旧作の中で特別面白いと思えた作品について、一言程度コメントを添えつつ、紹介したいと思います。並び順は単に見た順というだけです。ちなみに、昨年の旧作鑑賞数は202本でした。また上半期ベストについては<こちら> をどうぞ。



四川のうた(2009)

閉鎖される国営工場で働いていた人たちへのインタビューを行うドキュメンタリー。いきなり『工場の出口』のごとく押し寄せる人の流れの、その数の多さに驚き、またインタビューは常に窓を背にしながら鏡などを配置しながら行われているのだが、そこでは赤から白への移行、そして奥の存在などが周到に用意されていて面白い。例えば鏡に反射した窓の、外では赤い布が揺れているというようなことがふと気になってくるのである。そして素晴らしいのは赤い服を着た少女がローラースケ−トで屋上を滑走している動きであって、ここまでそういった自由な動きが封じられていた分、この軽やかさが感動的である。

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美女と野獣(1946)

ジャン・コクトー版。光と闇の、素晴らしい怪奇映画。霧の森を抜けた先にある屋敷ということで、『アッシャー家の末裔』と似た部分を持つが全然違う。例えば移動を捉えた撮影で見ると何より目を引くのはベルが屋敷に入ってきたときのスローモーションであって、こういったスローの使い方とその場面でのベルの身振り、これが本作は素晴らしいのである。もちろん怪奇としての屋敷描写も最高だし、また僕の大好物である布の揺れもやはりキマっている。そしてこういった要素が最高の密度で混ざり合う最後の飛翔シーンは、忘れ難い美しさを誇っているのだ。

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『按摩と女』(1938)

冒頭からなんとも清水宏監督っぽいなぁと思う歩き姿で既にもう面白いのだが、舞台が温泉宿へと移るとカメラは時折旅館の内部を捉えるように斜めや横に移動し、人物のタイミング良い動きの素晴らしさを堪能できる。男と別れた高峰三枝子が傘をさして川にかかる小さな橋を歩くシーンとバストショットも感動するほどに美しいが、最高なのはその高峰三枝子が按摩を追わせては逃げてを繰り返す場面の切り替えしであって、ここでは按摩を主人公にしたことによって、本来見えていない、見えることのないものを映画によって見せるということに成功しているように思う。

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台北ストーリー』(1985)

冒頭の窓に始まり、四角形をフレーム内の基本図形とした画面の構成が最後まで続いており、そこに光の反射、光源の点滅といった照明の感覚と変化が加わり、美しというか、何か凄いとしか言えないような興奮をもたらしている。物語は殆ど説明がなく、しかも何か劇的なことが起こるわけでもないのにこんなにも面白いと思えるのは、この純粋な画面の力によるのだろう。特にフジフィルムの看板やバイクで出かける夜のシーンに出てくるネオンは涙が出るかというほどだ。開けた海のショットは意外で驚いたが、色としては青と緑がずっと根底にはある。

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『燃える平原児』(1960)

ぽつんと建つ一軒家と、そこに広々と伸びる大地の中/外感覚に見応えがある。そしてこの感覚はインディアンとの混血児であるプレスリーを中心とした複雑な事情を持つ一家の物語とも当然関わりを持つのであって、ラストの兄弟の対話は二人の位置関係、というか背景との関連性によってまたこの感覚が際立つではないか。しかし何といっても母親を探しに外に出たときの異常な強風。これが厳しくもまぁ美しい。



『現代やくざ 与太者仁義』(1969)

『現代やくざ』シリーズといえば深作欣二による傑作2本があるけれども、それ以外の作品も簡単にレンタルできるようになっていたので鑑賞。その中ではこれが1番良いのではないかと思う。特にロケーションと美術が素晴らしい。例えば海沿いに連なるボロ小屋と、その海辺で殺される男の画。ここでは殺しにやってきた黒いスーツのヤクザ達が、見事にその姿を鏡面となった海に反射させているのがカッコいい。また最後、一騎打ちの背後で赤白青に点滅するブロック状の壁も見た目として楽しいし、更にその場面に至る直前では、壁に掛けられた絵が燃える中、人物の動きに合わせカメラが横に移動するという鬼気迫る感覚を感じさせてくれたりもする。ちと画面が暗いこと、そして『やくざ絶唱』でも思ったことではあるが、田村正和はこういうジャンルに似合わないのが残念ではある。

現代やくざ 与太者仁義

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『見えざる敵』(1912)

二つの部屋を中心に展開する短い作品ではあるが映画的な見所に満ちており、例えば草木を揺らす風の強さ、穴と拳銃、車と橋などの要素によって映画としてしっかり楽しめる。特に小さな穴から出てくる拳銃の、その出方が良い。画面に向かって、ゆっくりと伸びてくるのだが、まるで見つけた獲物を確実にしとめるため忍び寄るようなスピードで観客に迫ってくるために、不気味なのだ。そしてそれを見たリリアンとドロシーのギッシュ姉妹のリアクションによってスリルとサスペンスが増幅される。ちなみにおそらくこれは姉妹百合萌え映画としても最古のものでしょう。

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『死神の谷』(1921)

映像表現の楽しさが詰まっている。冒頭、死神頂上シーンでの風と砂。階段や円・半円による高さの表現。ロングショットで示される孤独な存在感等々であって、特に死神が築いた壁の、圧倒的に人を寄せ付けないであろう威圧感であるとか入口の裂け目に無数の蝋燭が並ぶ部屋は最高で、これらの映像の、連なりが良いのだ。3つ出てくる舞台だと中国パートが抜群に面白くて、特撮の見どころも多い。また物語では「もう神に従いたくないんだよね」と零す死神や、夫の代わりに死ぬ人を探すヒロインというのも面白い。

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以上が2017年の下半期旧作ベストでした。他にも『ビッグ・ボウの殺人』や『オキュラス/怨霊鏡』『アスファルト・ジャングル』『幸福の設計』『春桜ジャパネスク』なんかが面白かったですね。上半期の豊作っぷりに比べると下半期はやや好みの作品と出会う率が低くなってしまいました。僕は色々片っ端から見ていくというような気力が備わっていないため、どうしても決め撃ちでソフトを買おうと考えてしまいがちなんですけれども、下半期は資金が尽きた、ということもあります。2018年はもう少し考えて行動したいですね。無理でしょうが。

さて、ここ数年は本を読みたいということも目標にしており、その点今年は多少マシという感じですが、まだまだ未読本が罪あがっている状態なので、やはり今年もその目標は継続していきたいと思います。ブログの更新頻度についてはホントに改善したいですね。新作だけでなく旧作も、短かろうが少しは書けるようにしたいです。というわけで皆様、今年もよろしくお願いいたします。

清水宏監督作品 第一集 ~山あいの風景~ [DVD]

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