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2018-10-19

『寝ても覚めても』を見た。

きみと見つめ合わない

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柴田友香によって著された同名小説の映画化。監督は『ハッピーアワー』などで知られれる気鋭・濱口竜介。主演は唐田えりか東出昌大瀬戸康史山下リオ伊藤沙莉ら。第71回カンヌ国際映画祭にてコンペティション部門に選出された



大学生の朝子(唐田えりか)は運命的に出会った鳥居麦(東出昌大)という青年と恋に落ちる。しかし麦はある日突然何も語らずに姿を消してしまった。2年後、大阪から東京に越してきた朝子は、麦と顔が瓜二つの丸子亮平(東出昌大)と出会い、その姿に戸惑いつつもお互いに惹かれあうのであった。そして5年度。朝子と亮平は共に暮らし、幸せな日々を送っていた。しかしある時、朝子は麦のゆくえを知ることとなり・・・



いくつもの不穏さを伴ったショットに恐怖と感動を覚えつつ、同時に「何故」が絶えず浮かび上がるがために、画面に目がくぎ付けになってしまった。例えば、何故二度もカメラは後退移動するのか。一度目は、麦がパンを買いに行くといって家から出るシーン。二度目は再び現れた麦が朝子の手を引きレストランから出て行ってしまうシーンだが、二つともカメラの視点と移動する人物の視点が一致していない。これはまず、離れていくということを映画の視点で表現しているということはできるのだろう。またこの二者は突如消える人たちであるという共通点を持っていたことからも、こういった移動が特権的に許されているともいえるかもしれない。特に麦に関しては顕著で、二度目の後退移動において朝子はまだ画面に見切れるよう残されているものの、麦は決して映らないのである。しかし問題は、何故この2つのショットが他と比較し特段誰かの視点を装うのだろうか、ということである。

次に、何故朝子は眠るのか。彼女は亮平と麦と、それぞれの車で高速道路に乗るわけだけれども、彼女は必ず眠ってしまうのである。しかも眠りから覚めると、それらの移動は渋滞や堤防によって妨げられていることも判明する。しかしどうやら、一人東北から高速バスに乗って亮平の下へと帰ろうとする彼女は、眠ってはいない。

何故男女は右側から歩み寄るのか。朝子と麦の出会いも、朝子と亮平の再開も、必ず画面右側にいる人物が歩み寄っている。では左側からの移動はないのかというとそんなことはなく、例えばコーヒーポットを取りに来た朝子を追いかけて非常階段に出ていくシーンは画面左側から追いかけているし、麦に連れ去られる朝子が乗るタクシーも、亮平が1人東京から大阪へ向かうタクシーの移動方向も左から右である。そして亮平が東北から戻って来た朝子を突き放して走りだすシーンも、左側からであった。

そしてとりわけ、何故川であり、海であり、雨なのだろうか。朝子と麦の出会いは爆竹が鳴る川沿いだ。彼らはバイクで海沿いを走り、近くに川の流れる友人宅で花火をして朝を迎える。また亮平の職場にある非常階段からは朝子がいる職場の裏口が見えるのだけれど、彼らが高低差のある中はっきりと目を合すのは雨の日である。そしてその非常階段でキスをする二人の奥には、海上を走るクルーザーがこの時とばかりに見えている。大阪に越してきた二人の新居近くには川が走っているようだ。麦が朝子を連れ去る夜は雨が降っている。そして麦が見なかった海を、朝子は目にして再び目の前を川の流れる家へと戻る。そのきっかけの一つには、かつて花火をした友人宅に訪れるという出来事があるわけだけれども、そこでも突然の雨に降られていたではないか。



ただこれら幾つもの何故については、単に頭を働かさせられるから釘づけになってしまう、ということではない。わからない、とつぶやきつつしかし引きつけられてしまうのは、恐らくこれらは異なる要素に見えていても、実のところそれぞれが関わり合い重なり合うようにして画面に登場し、絶えず連続性を持って繋がれているから、目が離せなくなるのではないか。

麦と朝子の出会いから振り返ってみよう。彼らは牛腸茂雄の写真展の会場にて運命的に出会うわけだけれども、そこでは朝子の視点の高さにカメラが合わせられているため、亮平の顔は確認出来ない。その後エレベーターや階段といった、高低差に阻まれつつ亮平の背中と朝子の正面とを切り返すのだけれども、こういった繋ぎの魅力もさることながら、やはり高低差というのが一つ、重要な要素になっていることは否めないのではないか。そしてその高低差が画面上においてぴたりと合うのが、爆竹の音にか朝子の存在に気づいたからかして振り返った麦が近づいてきてキスをする一連のショットであり、そこでは既に述べたように、後ろに川が見えている。

次に川が見えるのは、パンを買いに出かけたまま翌朝になるまで帰らなかった麦の元へと朝子が駆け寄りキスをするシーンである。ここで朝子は麦の友人・岡崎家の二階から駆け寄るのだが、彼らが再開するシーンはその二階からの視点で撮られており、脇道には川が流れている。このように、川はきわめて日常的な光景の中においていかにも自然な様子でただ気配として登場するだけでありながら、しかしまるで高低差を流れるかの如く無効化し、男女を引き合わせているかのように思えるのである。これは亮平と朝子の出会いにおいても同じで、男が駆け寄る方向こそ麦とは逆になるわけだけれども、やはり一度目のキスは高低差のある階段であり、二度目は屋内であり、そしてどちらも川が見えているのである。

では海はどのように登場したかといえば、まずは麦とのツーリングである。しかしこの際彼らは事故に遭い、結局立ち止まって海を眺めることがない。この作品において海を眺めることが出来たのは朝子ただ一人であり、それは麦との、決定的な別れをした後であった。さて海とは終着点としていくつもの映画において描かれてきたわけであり、この作品においても例外ではない。けれどもそういった引用めいたことを言わずとも、海が終着点となっていることは朝子の「目が覚めて、何も変わっていなかった」という台詞からも分かるのではないか。



本作には多くの眠りに関する、というより夢の中を彷徨っていることを暗示するかのような要素が散りばめられ反復しているのだが、その夢とは二人の男の「流れ」に身を任せるような、メロドラマの夢である。そもそも麦と朝子の出会いからして、岡崎に「そんなわけあるか」と言われているのだが、本作ではそんなわけあるか、というような男女の間柄において反復が数多くなされているのだ。例えば写真展での出会い、警備による制止、朝食として食べられるパン穀物の名前と日本酒メーカーといったような細かいシチュエーションから、勿論男女の出会いに付随する川や高低差もそうだし、突如消えたかと思うと突如再会するというのもやはり反復される。朝子が初めて亮平との出会った際に「麦」と「バク」とを反復し勘違いするというのも、「バク」が夢を食うという伝説に則った冗談なのかもしれない。視点不明な後退移動の度に麦の姿が消えてしまうのはそれが夢の視点であるならば不思議なことではないし、海を見ることが出来ない麦の、実体としての存在が欠けているとも言えるかもしれない。そして高速に乗る度に朝子が眠り、二人の男にその身を、行き先をゆだねるという反復もやはり仕掛けの一つであろう。だから移動を阻んでいた防波堤のある海へとたどり着きついに眠りを自覚した後、彼女は眠らない。東北から深夜バスに乗る彼女の、街灯に照らされた顔には眠りの気配はないのだ。朝子は海を見ることによって、雨がやがて川へと流れいずれ海へと到達するその果てを見ることによって、麦と亮平の間で見ていた夢に終わりを告げたのである。

そうして朝子は再び亮平の下へと向かうわけだけれども、ここで彼女の進行方向は左から右となっている。この方向は、物語の向かっていた流れとは逆を向くときに使われていた方向である。つまりそれは亮平とのキスであり、公園で麦を追いかける朝子であり、朝子を連れ出す麦の乗るタクシーの進行方向である。そんな逆行を自ら主体的に選び取り走り出すことによって、再度生まれた高低差を埋めようとするそのエモーションは、白い服なびく数々のロングショットよりも美しく胸を打つ。反復によって重なり合い連続性を帯びた画面は、海を経て自ら主体的に走りだす朝子を導くのだ。



そうして最後、再び高低差のなくなった二人は同じ高さで川を見て、一つの画面に横並びで収まっている。ここで彼らはベランダと室内とを区切る大きな窓枠の中に納まっているわけだけれども、この枠という要素もまた、反復の一つである。コーヒーショップの窓枠から朝子を眺める亮平、写真展のウィンドウに映る亮平をみる朝子、キッチンから演劇についての口論を眺め反論する朝子、街頭ビジョンに映る麦と高く伸びるカフェの窓枠など、多くの場面で長方形の枠が登場人物の周りを取り囲み、そしていくつかの場面では見る、見られるという関係性を生み出している。だが枠に囲われた2人の人物が、ピタリと同じ方向を向いて止まっているというのは最後のショットのみである。とはいえ実はそれも反復された光景であって、では一体どこでそのような二人と出会ったかといえば、冒頭の、牛腸茂雄の写真である。

同じ服を着た二人の少女の写真を見たとき、それは麦と亮平のことであろうと思ったが実際はそれだけでなく、朝子と亮平のことでもあったのだろう。麦はそもそも、枠を超えることが出来ない人物である。だから彼は防波堤を超えて海を見ることはできないし、ドアの前に佇み語りかけるだけなのだ。だが朝子は防波堤を超えるし斜面を超える。車の窓から手の身を差し出して携帯電話を捨てる。亮平はドアを開けて朝子の下へ駆け寄るし、やはりドアから手のみを差出し猫を渡す。そんな類似性を持った二人が同じ川をそれぞれ違う感情で見つめるという結末は、彼らが他人に身を任せた共有の望むのではなく(亮平の「お前のそういうところが俺を頑張らせる」という言葉を思い出す)、個人の感情によって生きることを自覚したからこその結末であり、抱き合うでも見つめ合うでもない、「SELF AND OTHERS」とでもいうようなメロドラマの結末なのだ。

『めまい』か、それともノワールか、はたまた怪談なのかというような要素を含みながらメロドラマを語るというジャンルの越境をしつつ、写真/ピクチャーから活動写真/モーション・ピクチャーへと、素晴らしいショットとその持続性、そして唐田えりかの目をもって越境する、語りつくせない魅力に満ちた傑作。

SELF AND OTHERS

SELF AND OTHERS

2018-09-07

『きみの鳥はうたえる』を見た。

I spent much to be youth

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佐藤泰志によって81年に書かれた同名小説の映画化作品。主演は江本佑、石橋静河染谷将太。監督は『Playback』『THE COCKPIT』などで注目を浴びている三宅唱



函館郊外の本屋で働いている「僕」(江本佑)は同居人の静雄(染谷将太)と日々自由に暮らしていた。ある夏の日、「僕」は同じ職場で働く佐知子(石橋静河)と関係を持ち、それからは彼女も含めた3人で毎晩気ままに遊ぶ生活を送っていた・・・



普段歩いていても何とも思わないような風景が、光の加減によりこれほど美しくなるのかと冒頭に登場する映画館にて本作を鑑賞した身としては驚かされた。黒い夜の艶やかに濡れた街並みにオレンジのライト、朝になる前の心地よい青、海風なびく昼間の爽やかさなど、この映画は多数の光と色彩の魅力に満ちており、これら光のさまざまな混じり合いによって函館は、映画的な舞台として美しく存在している。

そんな街を歩く二人の男と一人の女の振る舞いが素晴らしい。他愛なく緩やかに漂い続ける気だるい空気感が、身体を借りて函館に定着しているのだ。そして彼らの歩みが不意な動きによって直線からの広がりを見せると、併せてカメラも浮遊するかのような動きをし、画面も不規則に広がってゆく。このような、厳密な計算がないように感じさせるカメラからも分かる通りこの作品は役者同士の振る舞いによって作り出される空気感をこそ大切にしており、そこにマジックが起こっているのだ。だからこそ、なんてことのない時間や空間に、実在としての愛おしさが宿っている。例えばハセガワストアで酒を買い、傘をさして外に出ていく3人のやりとりは意味もなくただ若い。笑いあってビリヤードをする姿が生き生きとしている。カラオケで歌う女と見つめる男の間に流れる空気感。そしてクラブで踊る姿はみずみずしい。



このような一夜のうちの些細な時間は、時に不思議なほどに引き延ばされている。長いワンカットが終わったと思ったら、贅沢にもまだ続きがあるのだ。この時間の感覚、つまり物語や状況を推し進めるための類のショットではなく、集まって遊んだ3人の長い夜という、傘を差し並んで歩いた2人の道という、繰り返される暗い部屋で冷蔵庫を開ける1人の部屋というような、それぞれ当人たちにとっての感覚に沿ったようなショットで繋がれているのだ。そしてそんな時間の感覚こそが、三宅唱監督作品としての特徴なのではないだろうか。というのも、僕が唯一見ている過去作『playback』もまた作品内における時間の感覚が特徴的であった、ということもあるが、まずは本作においても編集は監督自身が行っていることと、そしてこの贅沢に流れる、退屈で気だるくも幸福な時間をこそ何より印象的に思い返させる作品となっていることから、それこそが特徴ではないかと思わされるのである。そしてまた恐らく監督自身この時間を愛しすぎたがために、冒頭で「僕」が述べたこととまさしく同じように「いつまでも終わることがない」と感じさせるほど、時間は引き延ばされていたのではないか。

ところで、時間に関連したこととして思い出すのは三つの顔である。「僕」の前に120秒を待って現れた佐知子の顔。佐知子との性交の後に、同居人の静雄を特に気にするでもなく迎え入れ、初めましてと2人が挨拶する様子を見つめる「僕」の顔(このとき二人の姿は画面に映らず、「僕」の表情を捉えた画面の外から声が聞こえるだけである。つまりここでは「僕」の感覚に沿った画面時間が流れている)。そしてもちろん、走りだした「僕」と、彼の発する言葉を聞いた佐知子の顔だ。これらの顔は「僕」という主人公のエモーションの点となっている。はじめ「僕」はただ120秒を待っていただけであり、佐知子と静雄の関係をその出会いからして外から眺め、無為な時間の流れに身を任せる人物であったにも関わらず、彼は最後、120秒を待たずに走りだすのだ。そう思うとこの作品は、なんてストレートな青春映画であろうか。だから曖昧さを感じさせるその後よりも僕はむしろそんな瞬間の躍動にこそ感動したのであったし、身体の振る舞いによって引き伸ばされたモラトリアムな幸福を、曖昧に見据える表情で締めるという構成と役者陣の素晴らしさにも恐れ入ったのである。

きみの鳥はうたえる (河出文庫)

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2018-08-01

最近見た旧作の感想その35~2018年上半期旧作ベスト~

相変わらず亀にすら追いつけないほどのスローペース更新が続いている当ブログではございますが、時間は早いもので今年ももう上半期がおわりましたので、恒例の旧作ベストについて書きたいと思います・・・と言っている傍からすでに上半期が終了して一か月が経っているという体たらく。まぁグダグダ後悔してもしょうがないので、早速本題へ移りましょう。例年どおり、並びはランキングではなく見た順です。



古都憂愁 姉いもうと(1967)

横長画面の内部でさらに戸や窓や柵を利用して四角の世界を生み出す画面構成が冒頭から炸裂しており、そんな余白を生かした美術と撮影の美しさが全編に渡って存分に堪能できるのだけれども、しかし本作においてより強烈に印象に残るのは例えば食器や陶器、もしくは調理器具といった、道具に対するフェティシズムである。道具が用途に沿って一つ一つ丁寧に並べられていく様はそれだけで非常に心地よく、そもそもオープニングクレジットからもその嗜好は明らかである。また料理はその調理過程も含めて非常に心地よく湯気をたたせ、さらにはたばこの煙も同時に画面に立ち上がってくる。ところでフェチというと三隅研次監督の女性映画では度々女性の足先がクローズアップされており、例えば『婦系図』や『雪の喪章』や『なみだ川』がそうであったように、やはり本作においても足袋を脱ぐ足先のクローズアップがあった。



『人情紙風船(1937)

現存する3本の山中貞雄監督作品では唯一見ていなかった作品。身体から離れ落ちる手紙や髪飾りに足元のショット、風に吹かれ武士の前を通り過ぎる紙風船、繰り返される雨といった印象的なシーンを筆頭にして、ここはこのように撮ればいいのだというかのごとく的確な画面構成とショットの繋ぎ、クローズアップ、ミドル、ロングの切り替わりが素晴らしい。また、河原崎長十郎演じる夫の噂話を立ち聞きしてしまった妻・山岸しづ江がとぼとぼと長屋の通りを歩くその姿や、家の中に転がる二つの紙風船といったシーンの流れも美しいではないか。さらに最後に紙風船が水へ落ちるシーンの動きも実に素晴らしい。素晴らしいのだが、その動きのあまりの素晴らしさは不思議にすら思えるほどだ。奥行きのある路地には人々が集い、行き交うことで活気づいてはいるものの、しかし例えば主人公夫婦は家で目を合すような位置にいることが少なく、最後の刃に当てられる光の鋭さをとどめとする非情な話でもある。そしてやはり、会話劇としても抜群に面白い。このように、いくつもの要素についてただひたすら素晴らしいと繰り返すだけになってしまうような傑作。

人情紙風船 [DVD]

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『マーシュランド』(2014)

土地の映画。冒頭の極端な俯瞰や死体を見つけるシーン等、水と乾燥のロケーションを捉えた撮影が良く、乾いた風を感じさせる木々やシーツ、そしておそらくは砂埃で汚れたのであろう窓から見つめる視点など、各シーンの雰囲気がきちんと出ていてロングショットも様になっている。この俯瞰は『ボーダーライン』の、家々や麻薬や死体が密集していることを感じさせる俯瞰とは違い、土地そのものの不吉さであって、だからこそ最後に血は水へと流れ、水路の脇を車が走り抜けるのであろう。湿地帯の銃撃戦も、雨やぬかるみ、そして茂みといった条件をうまく使って、視界不良の画面的サスペンスを作り出している。だがそれだけで本作を上半期ベストとまで言いはしない。僕が真に感動したのは夜のカーチェイスだ。不審な車を発見した警官がその後を追うと、砂埃舞う中でのチェイスとなる。警官のやや斜め後ろからその横顔と、フロントガラスを通して不審な車を捉えているカメラが、ゆっくりとズームし始めるとその不審な車のリアウィンドウ越しに、突如ぼうっと女が現れるのだ。おそらくそれは誘拐された女性なのだろうが、しかしあのタイミングはまるで心霊ビデオであって、その恐怖表現に、大層興奮したのである。

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悲しみは空の彼方に(1959)

こちら→http://d.hatena.ne.jp/hige33/20180301/1519910407に感想を書いたように、サークでは『僕の彼女はどこ?』『天が許し給うすべて』に並ぶ傑作だと思う。

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きらきらひかる(1992)

初めて見た松岡錠司監督作品。アル中の妻と、同性愛者の夫と、夫の愛人との三角関係を描いた物語だが、だからといって何かしらの問題意識であるとか、もしくは性愛にクローズアップしたりはしない。では何が良いのかといえば、何より笠松則通の撮影が素晴らしいのだ。開けた空間の使い方や歩く・走るの横移動、3人で海に出かける場面はなにより夕焼けも沈んだ後の海の捉え方が素晴らしい。ライトに照らされる夜の撮影、車窓も悉く見応えがある。また本作は視線劇であって、登場人物は高低差のある位置でよく会話をしている。それは頻出する階段や斜面という場面においてのみならず、たとえ室内であろうとも座っている、寝そべっているというような状況を利用することによって、地形や体格差に関係なく位置や視線で映画内の状況を作り出しているのだ。役者が動きながら位置関係を変化させてゆくやや長めのワンシーンや、もしくはラストの分離された3人を繋ぐカットなど、多彩さもある。この監督の作品、とくに『バタアシ金魚』は是非とも見てみたいと思わされた一作。

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『デリンシャー』(1973)

この乾いたタッチで描かれる作品は、ギャングを生業とする男たちの生き様を描いた作品ではない。むしろ彼らの、死に様をこそ描いているのだ。そしてその死に様とは、決して哲学めいた話ではない。ただ次々と警察に包囲され死んでゆくという、それだけの話なのだ。だがそんな死に様を積み上げてゆく銃撃戦によって残される弾痕や、もしくは窓をはじめとする破損物こそ魅力的なのである。上にも下にも人体を転がしてゆく自動車の暴力性も素晴らしく、車は走るためのというよりもはや銃を撃ち込まれ、転がり、さらに盾となり炎上する物体として存在しているかのようだ。弾の切れた銃をフロントガラスにブチ刺すシーンなんてまさに車の存在を書き換えている。個々のショットも良く、特に湖畔の別荘は、夜とそれが明けてからの光の感覚が激しい銃撃戦と相まって素晴らしいシークエンスとなっている。



真紅の盗賊』(1952)

ロバート・シオドマク監督バート・ランカスター主演のこの海賊映画は非常に軽やかで、おおらかで、エンターテイメントの魅力に満ちた作品である。特に中盤の、市街地追いかけっこは相棒役を演じたニック・クラヴァットとの掛け合いも相まってまさに縦横無尽という言葉がふさわしい、アイデアの詰まった素晴らしいアクションシークエンスだ。殆ど宮崎駿的冒険活劇。

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木枯し紋次郎(1972)

映像化作品としては先にテレビドラマ版があるけれどそちらは未見の為、本作で初めて『木枯し紋次郎』という作品に触れたのだが、そのおかげもあってか、ニヒリズムを湛えたこの役は菅原文太にピッタリではないかと思えた。先ず熱量のない眼がいい。そしてモデル体型故の脚の細さが紋次郎としての立ち振る舞いと暗いストーリーを支えているように思う。また本作は三宅島でのロケーションも素晴らしく、海に囲まれた孤島の厳しさがロングショットや土、そして風によって良く伝わってくるし、そこからの脱出シークエンスで描かれる醜いまでの生への執着は中島貞夫監督らしい卑小で強大なエネルギーを感じる。脱出後は、ふんどし一丁で襲い掛かってくる山本麟一や水車の回るボロ小屋でのカッコいい殺陣も見どころ。続編も併せてアマゾンビデオで気軽に見られるというのもありがたい。

木枯し紋次郎

木枯し紋次郎



ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ! 』(1996)

おもちゃの線路を増築しながら猛スピードで爆走するクライマックスは、腹を抱えて笑いつつも面白すぎて涙が出てくるほど素晴らしく、アニメーションの技術と魅力が爆発している。それだけでも十分すぎるのだが、本作は照明も印象的で、例えばグルミットがペンギンを尾行するシーンは縦構図を利用した画面もさることながら、影の付き方が素晴らしいのだ。ペンギンちゃんが大量に冷や汗をかくシーンの可愛らしさも最高。この作品のために費やされたのであろう膨大な労力が、画面上の面白さとして結実しているという感動がある。



以上が2018年上半期のベストでした。他にも、キャラの面白さのみならず場所とシンクロした銃撃戦が続き空間使いの巧さが光るチャド・スタエルスキジョン・ウィック:チャプター2』や、フィルムという幽霊を画面に召喚させるホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』、画面に映るものすべてがエネルギッシュな森崎東『喜劇 女は度胸』、人だけではなく馬にも容赦ない暴力描写、特に家の外からラッパの音が聞こえるシーンが素晴らしいロバート・アルドリッチ『ワイルド・アパッチ』、車が風景を不穏に繋ぎ微妙に変化する天候や照明使いで画面を充実させ、一本道でサスペンスを作るフランチェスコ・ムンティ『黒い魂』、テンポの良いカット割りや人物の動きにより狭い空間も活劇的に広げ見応えある団令子の躍動が楽しい岡本喜八血と砂』も、『春婦伝』二こそ劣るけれど良かった。また劇場鑑賞した旧作では、色使いや浮かれると落ちるを繰り返すイエジー・スコリモフスキ早春』の、美しいからこそ素晴らしいラストは忘れ難いものがあった。

さて、今年の上半期は去年ほど精力的な活動ができなかったのが心残りですので、下半期はもうちょっといろいろな場所へと足を運ばせるようにしたいと思います。お金さえあればね。

2018-07-08

『万引き家族』を見た。

オトンとボクと、時々、いもうと

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是枝裕和監督最新作。主演はリリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優、城桧史、佐々木みゆ、樹木希林ら。第71回カンヌ国際映画祭にて、最高賞のパルム・ドールを受賞した。



寒い冬の日。治(リリー・フランキー)と翔太(城桧史)の父子がいつものようにスーパーで万引きをして家路についていると、団地の廊下で少女(佐々木みゆ)が一人座っているのを目にする。以前からその姿を見かけていた治は肉屋で買ったコロッケを差し出し、母の初枝(樹木希林)と妻・信代(安藤サクラ)、そして信代の妹・亜紀(松岡茉優)が住んでいる、マンションに取り囲まれた小さな平屋へと連れて帰った。ご飯を食べさせた後、家までおんぶをして連れて帰そうとすると、団地では大声で罵り合う声が外まで響いていた。その声を聴いた信代は少女を母親の下へ返すのをやめ、自分達の家へと引き返すことにした・・・



万引きをするためスーパーへ入った父と子がまずミカンを手にする、というそれだけではなんてことのない些細な描写を最後まで忘れることが出来ないのは、一つに是枝監督の前々作である『海よりもまだ深く』において主人公の象徴として「実も花もつけないまま大きく育ってしまったが、それでも何かの役には立つ」と語られつつ登場したミカンの木を思い出したからということもあるのだけれど、しかしなによりもそのミカンを発端とした本作全体の色彩・色調の設定に因るところが大きい。例えばオレンジ色はその後ダウンジャケットやパーカーという服装によって家族間で繰り返されているし、家族に当たる照明もしくは色彩処理についてもやはりオレンジ系の暖色が多く使われている。また祖母がほとんど執念めいた表情でミカンを貪ることについても家という場の確保がそこでは話されているのであって、なんてことのないはずのミカンの、その色が家族という共同体を繋いでいるのだ。そしてそのことが最も感動的に映されるのは縁側で花火の音だけを聞くシーンであろう。次々に空を見上げていくその顔には、まるで花火が反射しているかのような暖かい光が当たっており、もちろんそんなことはありえないのだけれど、しかしより大きい俯瞰の画面に切り替わると、やはりその家族がいる家だけに光があることに気付かされる。

そしてその色が当てられている一家が、集合体として描かれていることにも注目したい。それが顕著に表れているのはタイトルにもある、万引きである。この作品における万引きは例えばロベール・ブレッソンの『スリ』のような身体細部の分断ではなく、むしろ身体の動きを連動させるチームプレーによってなされている。ここでは鏡によってその連携が図られているわけだが、鏡はその後、凛と亜紀が挨拶をするシーンや水着を買うシーンでも登場して家族としてのつながりを強調させており、また家族のうちだれかだけを分断してショットに収まるようなことはせず、孤独にはさせない画面設計がなされている。



しかし花火と海への小旅行を家族のピークとして、それからは家族のふりをしていた集合体のいびつさにほころびが生じ始めることとなる。祖母の死はその先駆けとなる出来事といえるのだが、ここでその遺体を埋める画面は暗くなっているだけでなく、不自然に青も見えている。本作はオレンジだけでなくこういった青や、例えば男女でそうめんをつつきあうシーンにおいては夕立で暗くなる前に黄色が見えたりと、色調に関してはやや強調された処理がなされており、それによってこの映画はただの「リアル」とは違うやり方で描かれていることがわかる。ちなみに服装の青や黄色に関しては、特に二人の子供を中心に見られる色でもある。

さて、祖母の死をきっかけとしてほころび始めた家族の生活は、ミカンによって決定的な破局を迎えることとなる。つまり翔太がわざと見つかるように盗んで逃げて、そして飛び降りた先に散らばるミカンを決定的な契機とし、この家族もまたバラバラになっていくのだ。この「バラバラ」とは、冒頭からこの家族を「集合体」として描いていたことと対応する。そして家族が検挙されてからは、画面上決して個人のみで映されることのなかった彼らも正面からの切り返しによって繋がりを断たれてしまうし、また面会のシーンでは語られる内容に合わせ、治が1人切り離されている。

ただしこれは突然の出来事ではなく、冒頭からあらかじめ予感されていた結末であった。その予感とは、特殊な関係によって構築されているという徐々に明らかになる真実のみならず、貧しくも明るい食事のシーンから既に現れていたように思う。食事の風景は何度か映りはするものの、しかし彼ら全員が一つの卓についているシーンはない。卓を囲むように座っていても、必ず誰かはそこから外れて座っているのだ。例えば凛を拾ってきたその夜は信代と翔太が卓から外れてコロッケ入りのカレーうどんを食べており、また麩入りのすき焼きを食べるシーンでは、はじめ凛が卓から離れた位置に座っているものの、近づいて食べ始めると今度は翔太がやや卓からは離れた位置にいることが切り返しによってわかる。『誰も知らない』でさえ一応家族全員が同時につける食卓はあったのだから、これは是枝監督が描く食事の風景としては珍しいものであって、つまり彼らが住む家はそもそもこの集合体を受け入れられるような構造をしておらず、不自然に詰め込まれた状態であるということが乱雑な様子と相まって画面から見て取れる。だから彼らはこの場所で家庭を築くことできないと、その食卓から既に予感されていたのである。



ところで、彼らは何故その家で集合体となりえたのだろうか。もちろん一つには共犯関係にあるからと説明できるけれども、問題は何故共犯関係を結んだのかということである。

まず前提として、おそらく名前、もしくは名付けることによるモノの所有化とでもいうべき現象があるのではないか。例えばパチンコ屋に停まる車の中で放置されていた少年を拾い、名を付けたことで少年は柴田夫婦の息子へと変化したのだろうし、ベランダに放置されていた少女ジュリはユリ、凛という名をつけられることで、やはりその夫婦の娘という状態へ変化している。またその夫婦だって本名を隠すことで自らの過去を手放そうとしていたわけだし、それは亜紀についても同じことが言えるだろう。名前・名称は必ず後から付けられ共同体におけるしるしとなるわけだが、台詞にもあるように誰のものでもなく、捨てられていた状態の者たちは命名という行為によって、新たな共同体としてのしるしを得たのである。

そのことを前提としつつ、それなりの期間を家族として過ごせていたのには彼らが顧みられなかった存在であるからだろう。翔太や凛はネグレクト虐待の被害者であり、留学という嘘によって保たれている一家から抜け出している亜紀もおそらくはそうであろうし、治に信代、そして初枝も捨てられたという点ではやはり似たような思いを抱えているのではないか。だからこそ彼らはお互いを見つけ、家族の情景を思い重させるほどの共犯関係を結ぶことができたのであろう。



この家では家庭を築けないが、しかしこの家の他に居場所があるわけでもない。そんな彼らは結局バラバラになってしまった後どうなるというのか。骨折や火傷といった傷の共有に対し、検挙後の亜紀の手の甲の傷や凛の生みの親の額の傷が家族という結び付きを遠ざける。『父ありき』の変奏として『そして父になる』にもあった釣りが父親としての道を再度歩かせてくれるわけでもない。生活の残像を求めたのか、空き家へと向かった亜紀はあの後何処へ行くのか。冒頭と同じく柵の外を見つめる凛が、押入れの中で輝いていたビー玉をバラバラになったオレンジの変奏として拾い集めてみても、今度は柵の外に一体誰が居るというのか。しかし凛は外側にも世界があることを知っている。

これらの展開を利用して、例えば家族とは何であるのかとか、もちろん善だの悪だのといった無意味な問答や社会に対する批判を声高に叫んでみせるようなパフォーマンスはない。確かに「考えさせられる」などと言われがちな「余韻」とやらを残す終わり方ではあるしジャーナリズムも多分に含んでいて、この是枝監督の特性を上質とするか品がないとするかは好みが分かれるところではあろうが、僕はこの家族の些細に反復される生活の様子にこそ良さを感じたし、例えば凛の髪を切るシーンで、わずかに浮足立ったようなその脚の様子を捉えたカメラといった部分をこそ評価したい。

2018-05-26

『孤狼の血』を見た。

狼のおまわりさん

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柚月裕子によって書かれた同名小説の映画化。キャストは役所広司松坂桃李真木よう子江口洋介石橋蓮司ピエール瀧、竹乃内豊、伊吹吾郎音尾琢真、遠藤賢一ら。監督は白石和彌



2つの暴力団の間で抗争の火種が起こっていた昭和63年広島。マル暴のベテラン刑事・大上(役所広司)は新人の日岡(松坂桃李)と共に、金融会社社員の失踪事件解決に向け奔走している中、会社員は失踪したのではなく、加古村組という暴力団に拉致されていたことが判明する。逮捕状を叩きつけ捜査に乗り込む一方、加古村組が尾谷組の若者を殺害、これにより、大上が抑えていた尾谷組もついに大規模な抗争へと動き出そうとする・・・



東映実録路線の活気を復活させようという気概をそこかしこに配置されたオマージュから感じ取ることは確かにできるのだが、しかしオマージュなどはむしろ不要であったように思える。というのも、そんなことをしても中途半端なことにしかならないからだ。なにしろ当時の作品群が持っていたエネルギー、つまりプログラムピクチャーという枠組みの中で、任侠からの流れを汲みつつ反逆するように生み出された時代的土壌の上で、例えば深作であれば戦争を通した個人史からこみあげる怒りと生を刹那に爆発させたような、そんなエネルギーは再現のしようもないのであって、それなのに表面だけ掬ってみたところで、それはしょせん、表面的にしかならないからである。また1974年生まれの白石監督は過去にも犯罪映画を扱ってはいるが、どれも部外者側から問いただす視点によって善悪の彼岸を彷徨う者の物語としており、それは東映実録路線が持っていた内側から沸き起こる生のエネルギーや怒りとは別物なのだから、やはり表面的なオマージュをしても食い違いが起こるのは必然であろう。



勿論、白石監督作の特性自体を批判するのではない。そもそもそんな性質の違いなどは百も承知であるがゆえに、『県警対組織暴力』とは違う方向へと舵取りをして松坂桃李の物語としたのだろうし、またその内側から一歩引いた部外者的視点が功を奏している部分もある。例えば『凶悪』でも印象的であった拷問シーンの暴力性は画面を活劇的に捌くタイプとは違うからこその魅力なのだろうし、死体の破損具合をきちんと見せる残虐性も同様であって、これらは勿論サービスではあるのだが、一歩引いた視点によって、残虐性はより際立つと言えるだろう。そして阿部純子演じる薬局屋の娘の立ち位置は部外者としての物語を一層引き立てるキャラクターとして大変魅力的であり、これは素直に面白いと思えた。

ちなみに役者といえば役所広司演じる大上は流石の存在感であって、その身振り手振りに口調といった行動すべてが彼の存在を示しており、それ故に素晴らしい。だからもし本作を実録的、もしくはその徒花とするのであればこの男を主役をするべきであって、それはそれでおそらく面白い作品になったのであろうが、しかし本作はあくまでも警察の映画であることの行儀を選びつつ、かつて居た男たちから、これからの男たちへの継承を描いているわけであって、それ自体が問題であるというつもりは、もちろんない。



ただし、そういった方針だけでは看破できない問題も抱えている。中でも気になるのは感傷的になりすぎているということだ。最たる例が、ある人物の抱えていた真相を知るに至る終盤の展開で、一つ一つのシークエンスが説明的で長すぎる。残されたものへの継承として時間を割いて描こうというのであればそれはわからないでもないのだが、それにしても養豚場とアパートの一室はどちらも1人真実を見つけて泣き腫らすという内容であって、実のところやっていることにさほど差はないくせに近い時間の内に繰り返し見せられるのだから当然面白味はないし、しかもそのシーン自体がくどく長い。この継承という行為は本作において最もキーとなる場面でなければならないのに、いやむしろそうであるがゆえに力が入りすぎたのか、いずれにしても結果としてグダついているのが非常にもったいない。また言語の応酬による画面のテンポが生まれていないこと、そしてキャラクターを一見の個性以上に利用できていない弱さも気になるところであって、これは多少、実録路線の高い脚本・技術・演出力と比較すると、という内容も含んではいるが、そうでなくても弱いなと思わされる。



繰り返しになってしまうが本作はその芯と実録路線の表面的オマージュとの間の食い違いによってちぐはぐな作品になってしまっており、鑑みるに、『アウトレイジ』シリーズが『仁義なき戦い』の先に虚無感を捉えてやくざ=警察映画の特異点となったのは流石であると思わざるを得ない。ただ一見東映の正当な継承者として振る舞っている『孤狼の血』は、むしろ実録と別の地平で新しい魅力を切り開こうとしていたわけで、そのためにまずは、敬意をもって過去に筋を通したと考えた方が良いだろう。それは義理堅く真面目で真摯な姿勢かつ丁寧に、つまり行儀がよすぎる形で行われたわけだけれども、ならば「アウトロー東映」として真価が問われるのはおそらく制作の決定している2作目となるはずなので、今はそれに期待して楽しみに待っていようと思う。

孤狼の血 (角川文庫)

孤狼の血 (角川文庫)