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2016-12-01

『ダゲレオタイプの女』を見た。

幽霊と異邦人

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黒沢清監督による、フランスロケ、外国人キャストによるオリジナルストーリーの作品。主演はタハール・ラヒム、コンスタンス・ルソーオリヴィエ・グルメら。



パリの郊外に佇む古い屋敷。そこには写真家のステファン(オリヴェイエ・グルメ)と娘のマリー(コンスタンス・ルソー)が住んでおり、170年も前に滅びた「ダゲレオタイプ」という写真撮影技術を再現していた。そこへ、ジャン(タハール・ラヒム)という若い青年が新しい助手として採用された。屋敷内のスタジオで、ジャンは巨大なカメラやモデルを長時間拘束するための固定器具、そして青いドレスを身に纏ったマリーに圧倒される・・・



「列車が到着」するファーストカットに続き、これから仕事場となるであろう家の門の正面へとカメラが回り込むというショットを見て、フランスで映画を撮るということに対しての、あまりに正直且つ律義な段取りに思わず笑ってしまったのだけれど、その門からは人が出てゆくのではなくこれから入っていくことになるので、とりあえずはフランスという郷に従うのだという姿勢が、これらのショットからは感じられる。事実、本作は実にフランスという郷土を見せてくれる映画であって、工事現場から続く道の脇には見慣れぬフェンスが立てかけられており、また坂道を湛える交差点の脇にあるような酒場で若者は集ってビールを飲み、またランチとして牡蠣を食べたりワインを飲んだりしている。車窓から見える風景を横目にしたどり着く、縦に長いアパートのその階段と部屋の狭さは、いかにも日常的な風景である。

しかし門を入った先に佇む写真家の家の中となると些か事情は異なる。古臭く大袈裟なその家にはダゲレオタイプと呼ばれる巨大な写真機とモデルを固定するための拘束具が置かれており、写真家父親は亡き妻の代わりとして、半ば強制的に娘をモデルにし撮影をしている。これは『顔のない眼』であり、そして屋敷に染みついた亡き妻の影は『回転』であり、つまるところ、ホラーである。だからこの家に一歩足を踏み入れた瞬間からホラーの呼び声は扉の奥から囁くことになるのだけれども、しかしこれら過去のホラー映画を引用せずとも、生と死の狭間におかれた植物たちや、温室へと続く、階段を伴い緩やかにカーブする坂道での人物の動き、揺れ動くカーテン、殆ど廃墟と化しつつある屋敷という空間、工事現場と再開発が予定された土地など、これらの画面上のモチーフは疑いようもなく、黒沢清的な風景である。



そして中盤のある出来事以降黒沢清色はますます強まることになる。そのある出来事とは、青い服の幽霊に誘われたステファンが撮影スタジオにある階段を昇り、次いでマリーも何かに呼ばれたかのように同じく階段を昇ったかと思うと勢いよく落ちてくるシーンである。『トウキョウソナタ』と同じく『風の中の牝雞』からの引用であろうが、事態はそれだけにとどまらず、ジャンがマリーを連れて病院へと車を走らせることによって不穏さはより加速する。マリーを包む布が、後部座席のドアに挟まったことも気付かないジャンは走行の途中でハンドルを取られ停止を余儀なくされてしまい、気付くと後部座席のドアは開き、マリーの姿は消えてしまっている。ふらふらとマリーを探し回り、暗闇の中に何かを見つけるジャンの、その見つける顔を収めたショットの中心に、柱がそびえている。車内を外界と区切るかのような煙にもまして、この画面に不思議にそびえ立つ柱はまさに、黒沢清的画面である。

思えば、冒頭の「列車の到着」の直後には階段を降りるショットがあり、また階段は多くの場面においてその存在感を示しつつ、これまた何度も現れる扉と同じように奥の世界を予感させてはいたが、しかしそういった「縦構図」とは無縁な、ただただ縦に伸びている柱の登場をもって、彼らは取り返しのつかない境地へと足を踏み入れることになる。



その取り返しのつかない領域においては自己模倣ともいえる黒沢清的世界が展開するのだが、しかし中でも気になったのはやはり不気味にそびえる縦であり、そして対応する横である。一体何が縦であり横であるのかというと、それは人物の佇まいである。

ステファンは、娘を失って以降は足取りもおぼつかずソファに寝そべる場面が多くなり、最後には足を取られ土が入っているのであろうポリ袋の上へ倒れ込む。マリーについては、彼女は写真のモデルをしているときから立つことを強制されており、車から投げ出された直後も不気味に、棒のように立っている。そしてそれ以降、彼女は立つと寝そべるを繰り返すこととなるが、ところで劇中において彼女は3度、崩れ落ちるかのようにその場に倒れ込む。一度目は写真撮影の後、二度目は車の事後直後木々の隙間で、三度目は久々に家へと戻ってきた際に、となるのだが、そのいずれの場面にも、ジャンは立ち会っている。そのジャンはというと、彼はステファンともマリーとも違い、横になる彼らに対し縦の軸を作り出している。事実、足がおぼつかなくなりソファに寝そべる男を、崩れ落ちベットに横たわる女を支え、傍に立つのが彼の姿勢である。またマリーが階段から転落した際も、その場に座り込んでしまったステファンに対し、マリーを横抱きし連れ去ってゆく。

とはいえ、ジャンは例えばドライヤーの『奇跡』のように、死に瀕した女性を立ち姿のまま救うこと等できやしない。それどころか、彼も徐々に寝そべりの体勢へと惹かれてゆくこととなり、マリーが三度目に崩れ落ちるその時にはジャンもまた、彼女に抱きかかえられたまま崩れ落ちてゆく。言うまでもなく、マリーが横たわるというのは彼女の死を意味しているのであって、だから事故の後、幽霊となった彼女はジャンの呼びかけがなければ画面に登場できないし、それは寝そべる死者ではなく立ち姿の幽霊としてなのである。ジャンはそのことに気付いていないか、気づかないふりをしているわけだが、この「気付かれない」幽霊と人間の間で成立する愛情といって思い出すのは『叫』であり、『雨月物語』だろう。



しかしながらその愛情の中にはまた別のジャンル映画的要素が含まれており、それは犯罪映画である。ジャンはマリーとの生活を得るため犯罪行為を行おうとし、しかもその行為が無駄とわかったときには銃というアイテムを行使し、無理矢理にでも新しい生活へと向かう。そしてなけなしの希望を胸に車で旅へ出るのだが、これはいかにも犯罪映画らしい展開ではないか。もちろんこれは恋愛する男女の逃避行と非常に相性がいいわけだし、しかしながらジャンについては、おおよそ犯罪的な行為などしそうにない見た目であり、その不慣れさと行為の浅はかさはコメディ的だし、そして女の方は幽霊となれば当然ホラーでもあって、このようにジャンルを横断しながら一つの映画空間を作り上げていくその手腕は、やはり間違いなく黒沢清である。

ところで、マリーは何故植物にこだわり続けたのであろうか。一見、植物とそれを取り巻く環境は『カリスマ』的な、一方が一方を食い殺してしまうというよな対立にも見えるが、実のところここでは対立など存在しないのではないか。というのもマリーは、植物を殺してしまうであろう、写真に利用される液状の廃棄物を否定せず、むしろ並存を望んでいたはずなのである。しかし植物が置かれている温室ではかつて母が首を吊っており、時折カーテンの端から窓越しに何かを見つめるマリーの、常に振動しているかのように動き続けるその瞳に何が映っていたのか知る由はないけれど、おそらく彼女はその並存が果たされないことを知っていたのではないか。というのも、ステファンは彼女に「土いじりなどするな」と指摘しており、つまり彼は植物が生きようとしていることには目もくれず、マリーの言うように「生者と死者を混同」した写真にのみこだわり続けていたからだ。そしてジャンもまた実は、植物を軽視してしまっている。彼は結局マリーからの頼みを果たさず植物を枯らし、根の張らない花瓶に入った花を彼女に授ける。結局のところ男たちは女の言うこと何も理解していないがために他者の生を根こそぎ奪ってしまうのだが、マリーの瞳は、そうなることをとうの昔から理解していたのではないか。

2016-11-23

『この世界の片隅に』を見た。

わたしが一番きれいだったとき

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2007年から2009年にかけて連載されていた、こうの史代による同名漫画を原作とした作品。声の出演にはのん、細谷佳正、尾野美詞、藩めぐみ、新谷真弓小野大輔ら。監督は片渕須直



昭和19年、広島の江波に住む18歳のすず(のん)に、突如縁談が持ち上がる。相手は呉に住む海軍勤務の北條周作(細谷佳正)という人で、すずは周囲の言うまま、呉へと嫁ぐこととなった。戦争により物資の不足していく中、北條家で明るく暮らすすず。しかし、戦況は次第に悪化してゆき・・・


ネタバレ


他愛もない日常が、ゆったりと描写されてゆく。冒頭、海苔を届けに行くというすずが、潮の引いてカブトガニの打ち上げられた海を渡る兄妹が、広くとらえられた広島の風景の中で生きている。この広島の風景が、現実にそうだったのかはわからない。そうだと言われても、ただ現実通りに再現したという、それだけですなわち素晴らしいとは思わない。しかしそんな風景の中、例えばすずが、荷物の入った籠を壁に押しつけつつ背負い直すという、ほんの些細な動きの描写があるおかげで画面は生き生きとし、緻密に描かれた風景は本当にそこにあって、そしてそこでは人々が生きているのだと信じさせられる。だから本作の風景描写は素晴らしく、街並みの些細な描写から、軍港としての呉をロングショットでとらえる画面から、確かな風土が浮かび上がっている。



すずの生活は、いかにも普通だ。絵を描き、裁縫や料理などの家事を日常生活の中でゆったり淡々とこなしてゆく。笑って、困って、ちょっと怒って。そんな家族の風景と些細な行動の中に生が宿っている。雑草を使った料理のみならず頻出する食や、衣服に生活体系などは、風景と同じくただ当時どうしていたかというような知識としてではなく、彼らの生を私たちに対しても確かな感触として得られるように描き出されている。そこに物語という物語は存在しない。劇的ではなく、あわてることはなく、懸命にというほどでもなく、時に面倒と思い、時に面倒と思えたことが懐かしいというくらいの日常の中で生きる人々の豊かさがここにはあるのだ。

しかしゆったりとした生活が描かれているとはいえ一つ一つの出来事はテンポよく流れてゆく。また物語らしい物語はないと書いたものの、実のところ物語はしっかり進行している。昭和20年の8月。逃れることのできないその日へと、日常は静かに確実に向かってゆくのだ。だからこの作品は、結果として望まざる圧倒的な暴力へと確実に到達しなければならないという点で、劇的な面を持ってもいる。既に書いたような日常にしてもそれはいつから「奪われて」いる状態であって、ゆったりとした日常のそこかしこには奪われたものの影が見え、豊かな生のすぐ隣に、理不尽な暴力が居座っている。ただしそれは対立ではなく、共存とも違う並列の状況として扱われており、そんな特殊な状況において彼らはどう生きていたかかが豊かなアニメーションによって表現され、「場」として画面上に出現している。



ところで、すずをはじめ多くの登場人物はよく何かを「与えて」いる。それは食糧であったり衣服であったり、もしくは絵であったり羽であったり巾着であったりして、また家屋は、その行為が最も親密に行われる場所として存在しているのであるが、それらの行為は何も特別な贈り物というわけではなく、ただ彼らが生きているうえで何気なく行っていたことである。つまりその何気ない行為が、彼らにとっての営み、生活だったのであり、それは特殊な状況下でなくとも普遍的に行われている営みである。だからこの作品は戦時下という、私たちには推し量ることしかできない時代の話ではあるけれど、彼らの生活は決して現在と切り離されたものではない。

そしてすずが身体的に「奪われて」しまうというのは、身体の欠損による不自由よりも営みの損失であり生活の剥奪なのだ。8月のその日が近づくにつれて、共存を許さない暴力は何より、人々が「与え合う」営みを奪っていったのであるが、それは決して突如としてやってきたのではく、並存していたものの真実が明るみに出たということなのである。



直接的な暴力や悲惨な描写が決して多いわけではない作品だが、それでも砲弾の破片が弾け落ちる場面などには恐怖を煽られる。それには、音響の良さがある。片渕監督自身が音響も監督しているということにそのこだわりが現れているのだと思うが、しかし音とということに注目するならば、やはり声という要素、とりわけ、すずの声をあてたのんが素晴らしい。まるで声がキャラクターと溶け合っているかのようだ。既に述べたように、この作品は戦時中の広島という風土と、そんな特殊な状況における生活をアニメーションによって作り出していた。そしてのんの声というのは、それらの要素を最後にまとめ上げる重要な機能を果たしているのではないか。何故ならこの作品が最も優れているのは歴史を正確に描写したからでもなければ、戦争という暴力を刻み込んだからでもなく、そのどちらもを含みつつそんな風土と生活を渾然一体の「場」として生み出しているからである。そしてすずは、キャラクターとしての牽引力が強い人物ではないけれども、その「場」と溶け合うということによって、物語の中心たる存在になっている。だからこそ、のんの声は素晴らしいのだ。「この世界の片隅に」という言葉が嘘くさくなく聞こえるのは、それは能年玲奈という役者の経歴が透けて見えるからではなく、風土と生活の描写と、そして彼女の声によってではないかと僕は思うし、そしてその世界とはある時代に特有の「場」ではなく、普遍的な生の感触として実感させてくれるのである。

2016-11-06

『何者』を見た。

ワタシ私を殺しテク

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三浦大輔監督最新作。原作は『桐島、部活やめるってよ』でも知られる朝井リョウ。主演は佐藤健有村架純菅田将暉二階堂ふみ岡田将生山田孝之ら。



就職活動を始めた拓人(佐藤健)とその友人光太郎(菅田将暉)、そして光太郎の元恋人で拓人が秘かに憧れを抱く瑞月(有村架純)は、偶然拓人と光太郎の棲むアパートの上の階に住み、同じく就職活動を開始した理香(二階堂ふみ)とその恋人の隆良(岡田将生)と共に互いに情報交換しあいながら就活を乗り切ろうと協力しはじめるが・・・



不用意に動くカメラは何を捉えるでもなくただブレ続け、そのカメラによって捉えられる画面は一部屋ごとでの会話が大半を占めているため動きも空間も失われ、画面は閉塞し、ひどく鈍重である。さらに回想が多く入り込むことによって語りも停滞してしまうため、特に序盤は非常に退屈である。もちろん場面によっては、限定された空間での会話シーンであろうと光るものがある。例えば佐藤健菅田将暉が車内で会話するシーンは光、というかライトの当て方も面白いし、また多用される視線演出にも見所がないわけではないが、しかし映画としての根分には欠ける。



ただしこれらは終盤に明かされる、ある展開のための伏線として機能している。だから序盤の退屈さを指して作品を即否定するということもできない。事実、その展開は舞台を有効利用しつつしかし映画的な見せ方によってそれまでの不満を「納得」はさせてくれる。例えば先に挙げた室内での会話シーンでは、集団の中において佐藤健だけ1人、という状況が多くみられる。彼を含む4人の会話シーンでも、他3人が同時にカメラに収めつつ1人だけ切り離されているとか、1人だけ画面に背を向けているとか、そういった方法によって彼は幾度か他者と分離されている。それは後に明かされる佐藤健の有り方と密接にかかわっており、また視線についても、佐藤健目線に散々注目させつつ、それを反転させることでドラマを作り出している。ちなみに佐藤健についてはこの視線よりも、何かを言いたげだが言わない・言えないという状況において見せる表情がいいと僕は思ったし、もちろんそれも「納得」させられる。

終盤にあるその展開は、舞台という装置を利用しつつ拓人個人を、ツイッターを、そして就活という要素までを包括する。あの場に観客として存在し、劇が終わるとと共に表情を変えず拍手をする人たちの、その拍手とはいわば「いいね」と「リツイート」、もしくは面接官の佇まいでもあろうが、ともかくここではそれまでの見る・見られるの構造が入り乱れて佐藤健を叩きのめし、やはり全編に漂っていた閉塞感を反転させてゆく。また、有村架純が親の事情について語るシーンももちろん佐藤健の行為、というより、ツイッターを通して他人を見るという他の人物の行っていた行為にぴたりとハマる。本作はSNSという武器、もしくは暴力を手にした人間達ばかり出てくるけれどSNSの物語ではなく、登場人物の誰もが多少なりとも隠し事や偽りを抱えて他者とそれなりの関わりを持ちつつ生きているという、普遍的な状況を浮かび上がらせている。



更に言えば、この作品は就活の物語ですらない。エントリーから企業説明会に自己PRや面接等々、本作には就活に対する描写が不足しているように感じられるのだが、それはある意味当然だ。なぜならこの作品における就活とは、巨大な空洞だからである。就活とは本来ステップであるはずなのに、まるで登場人物たちは自分の存在を規定してくれる装置として就活・就職を捉えている。その意味でこの就活とは原作者を同じくする『桐島、部活やめるってよ』における桐島と同じような存在ともいえる。就活も桐島も、それらが本来備えている役割よりより大きなものをそこに見出してしまう者たちの右往左往によって自分自身を見失い・そして否定の先にもう一度自分を見つけてゆくことで作品が推進してゆく。だからその空洞たる就活に対し、その過剰になった意味から速く抜け出したものから就職は決まってゆくわけだし、その空洞に空疎な承認欲求を見出し憑りつかれた者たちはいつまでもそこから抜け出せない。もう一つ『桐島〜』との関連性では、ミステリー的であるということも挙げられる。それはつまり、個人それぞれに隠されていたことが徐々に明らかになるという点なのだが、しかしこの点に関しては『桐島〜』のように学校という限定された舞台を視線や移動によって徐々に広げてゆく手法の方が映画としては映えており、本作の、細かい台詞にまで張り巡らされた伏線をある一点で一気に回収してゆく物語には驚きがあるけれど、やはりそれまでの過程が、その物語的驚きのための準備という役割を担いすぎているのは、やはり問題があるのではないか。



ところで、『桐島〜』との関連性でいうともう一つ、ヒロイン的人物の役割が似通っているとも思う。本作の有村架純は最後、佐藤健に対しある言葉を投げかけ、そこではじめに書いた視線の反転が行われることによって消極的ではあるが光が差し込み、感動的なドラマを生んでいるのだけど、それは『桐島〜』における橋本愛が映画部の神木隆之介を見る視点と似ていると思う。『桐島〜』の橋本愛よりも多少、本作の方が優しい視点ではあるものの、男側の恋愛感情を全く受け付けはしないが好意らしきものは持っている女性、という点で共通していると思うし、だからこそ両者とも主人公を恋愛に留まらせはせず、自分たる道へ進ませるという機能を持っているように思う。ラストショットで携帯電話を見るため下を向くのではなく、前を見据える佐藤健視線の先に見える光も感動的だが、ただあのようにして扉を用意するのであれば、それならせめて例えば企業説明会のシーンでクレーン撮影するより先に先ず扉が開くということを丁寧に撮るとか、もしくは就活対策部屋のシーンでも人物の出入りによって空間が広がるように使うとかはしてほしかったと思うのである。結局、就活対策本部の扉の先が「舞台袖」にしか見えなかったのだ。物語的に面白い構造とそれを映画的な演出を伴わせることによる効果、またセリフの端々に忍ばせてある意味によって面白いと感じる部分はたくさんあるものの、主に前半の勿体なさが目に付く作品でもあったと思う。

何様

何様


一応、本作を見て自分自身について感じたことも書いておこうと思う。僕は今、社会人として3年目を迎えたわけだが、今の会社に決まるまでまさに本作の佐藤健と同じく、2年間就活を行った。理由は単純に、どこからも内定が出なかったからだ。その理由は様々あるのだろう。対策不足であるとか、そもそも仕事をするということに対する意識の低さか、未だに歳の離れた人とは何を話せばいいのかどう話せばいいのか言葉に詰まるというようなことであるとか、それに付随して面接の下手さであるとか、自己PRが一つも思いつかないでエントリーシートに書いた内容に自分自身納得がいっていないこととか、挙げればきりがないのだが、そのどれが一番問題だったのかはよくわからない。ある会社の最終面接で自分なりに本心を答えたつもりがなぜか笑われたことに関しても、いまだに何がおかしかったのかよくわかっていない。何か変なことを言ってしまったのだろうか。その会社は結局落ちた。あまりに自分がみじめに思えて夜道を歩いているときに急に涙を流したこともある。今何とか拾い上げてもらった会社についても何故受かったのかさっぱりわからないし、他がないから今の仕事に就いた、という話でしかない。就活全体にしても、今の仕事と自分の存在についても、結局何もわかっていないというのが僕の現状だ。「登場人物たちは自分の存在を規定してくれる装置として就活・就職を捉えている」と書いたはいいものの、実は僕自身にとってもそうだった、というか、今でもそうなのだ。就活は終えたはずなのに、未だに自分自身は何者か、などという考えを捨てられず今を疑問に思い過ごしている。そうした、未だ就活という空洞から逃れられていない自分もまた、登場人物とは違う「何者」を飼っているのである。

2016-10-22

『ハドソン川の奇跡』を見た。

見よ、今日は、かの曇り空で

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クリント・イーストウッド監督最新作。2009年1月15日に実際に発生した飛行機不時着水事故を基にした作品。全編をIMAXカメラで撮影している。主演を務めたのはトム・ハンクス



ニューヨークラガーディア空港を出発したUSアウェイズ1549便が離陸した直後に鳥の群れと衝突した。両エンジンの推力を失い、急速に高度を下げる機体を前に、機長のサリー・サイレンバーガー(トム・ハンクス)はハドソン川への不時着を決断した。絶望的な難易度の不時着を成功させ、乗員乗客全員が無事生還するという奇跡を成し遂げたのだが・・・



奇跡を成し遂げたという機長の顔が、初めてしっかりと画面に収まるその最初のショットからしてその顔はほとんど影に覆われており、また不気味なほど現実とシームレスなままに何度も悪夢が彼の前に去来することや、鏡に反射する、もしくはテレビに映し出される自分の姿を幾度となく訝しげに見ることなどから、この物語は英雄や奇跡を描こうとしたのではないということがわかる。機長は、自分の成し遂げた英雄的行為を誇示したりはしない。なぜなら彼はただ「機長」という職務に則り行動しただけだからである。しかし本人その思いとはかけ離れた姿を人々は「彼」と認識しており、また一方ではむしろ無理な着水により乗客を危険にさらしたのではないかと断罪されかけてもいる。その分裂、英雄譚の解体が本作では描かれているのであり、何度も繰り返される「英雄的行為」の回想は、分裂のゆくえを担うサスペンスとなっている。実にイーストウッドらしい主題ではないか。



しかしサスペンスといっても事はあまりに淡々と過ぎ去ってゆく。まるで「然るべきものを順序良く映せばそれで済む」というかの如き画面である。ヒッチコックの『海外特派員』を思わせる着水シーンですらあっさりと処理されているのだ。しかしそれでつまらないということは全くないし、最低限で語りつくす手腕は見事であるとはいえ、あまりにも平然とし過ぎている。もともとドラマチックさにはさほど関心がないような様子のある監督ではあるが、これほど抑制されている事には驚くし、しかも、そんな平然とした態度のまま、何度も悪夢として静かに飛行機を墜落させるのだから些か不気味ですらある。不気味なことが不気味なこととして進行するのではなく、平坦さの中にいきなり不気味さが顔を覗かせるから異様なのだ。

もちろんその平然とした様子というのは、機長が後に英雄的と讃えられる行為を成している際も、成し遂げた後にしても同じである。彼の行為を「奇跡」として殊更盛り上げるということはせず、少なくとも本人と、そして画面の感情としては、すでに述べたように「機長」として然るべき職務をこなしただけ、という程度に抑えられている。制服を脱がない、というのも彼があくまで仕事人であるということを強調している。そして仕事はその他の人物たちにも共通しており、例えば国家安全保障局にしても彼らは航空会社と敵対など勿論しているはずもなく仕事をしているに過ぎないわけだし、乗客を海上から救った海上警備隊も仕事として救出したのであって、例えば家族のドラマであるとか、愛する人を救いたいとか、そういった感情的なこととは関係ない。それぞれがそれぞれの果たすべきとこを、ただ行っただけなのである。ではそれは人間性を欠いた作業なのかというとそうではなく、むしろ全く違っているということが、機械的シミュレーションによって明らかになる。感情的なドラマではなく、人間の行動によってこの奇跡は起こっているのだ。乗客にしても、個人個人としての存在は確かだが、それも感情的なドラマではない。全ては抑制された画面中で進行する。



ところで、本作で最も気になったのは「声」である。機長は、何度も見つめることとなる「映像」ではなく、一つの「声」によってその疑惑を晴らし分裂は統一されることとなる。仕事と関連したことでいえば、事故発生時にスチュワーデスが乗客へと向かって繰り返し発する号令も非常に印象的である。

そしてもうひとつ、機長はよく妻へ電話をかける。それは分裂しそうになっている彼にとっては支えであるはずだが、しかし時に、例えば片方の声が遠のくときなどはその繋がりに危うさがあるし、電話が必ずしも支えとなってはいなかった。この電話という要素は前作『アメリカン・スナイパー』の夫婦の会話に通じているように思う。あちらもまた電話によってのみ良好な会話をしていた夫婦が、段々と声が通じなくなっていた。また特にここ最近のイーストウッド作品は、この「声」という要素が強いように思う。例えば『インビクタス』ではモーガン・フリーマンが詩を朗唱し、『ヒア・アフター』のマット・デイモンは霊界からの声を伝える役割を持っていた。『J・エドガー』でFBI長官となる男は盗聴によって情報を把握していたのであるし、『ジャージー・ボーイズ』はそのまま、歌手の物語であった。



イーストウッド自身は、一度聴いたら耳から離れない、特徴的な「声」を持っていた。だからこそ、彼の作品はどうしても「声」に耳を傾けざるを得ない。そしてイーストウッド自身が主演しなくなったここ最近の作品において、「声」という要素が並んでいるのは面白いと思うのだが、しかし元をたどればそもそも監督デビュー作である『恐怖のメロディ』がまず、狂気の女性に襲われるラジオDJの話でもあった。

イーストウッド作品における「声」という要素については今何かを語れるほど自分の中に確固たる考えはないものの、しかしやはり無視はできない。数々のイーストウッド印が刻まれる『ハドソン川の奇跡』ではあるが、何より印象的なのは、その「声」だったのだから。

機長、究極の決断 (静山社文庫)

機長、究極の決断 (静山社文庫)

2016-09-21

『BFG』を見た。

オ・ヤサシ巨匠SS

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スティーブン・スピルバーグ監督最新作。ロアルド・ダール著『オ・ヤサシ巨人BFG』の映画化。巨人役には監督の前作『ブリッジ・オブ・スパイ』でアカデミー助演男優賞を受賞したマーク・ライランス。主演の少女ソフィー役には新人のルビー・バーンヒル。



ロンドン児童養護施設で暮らすソフィー(ルビー・バーンヒル)は毎晩眠りにつくことが出来ず、暗い施設の中を歩き回り、本を読んでいた。しかしある日、彼女がふと窓から街を覗くとそこには巨人(マーク・ライランス)がいた。すぐさまベッドにもぐりこむが、巨人は彼女をつまみあげ、巨人の国までさらって行ってしまうのだった・・・



ネタバレ



「隠す」ということが徹底されている。深夜に部屋を抜け出した少女が寮母に見つからぬよう階段の踊り場で全身にシーツをかぶる、巨人に捕まらないよう布団にもぐる、巨人が闇に紛れ隠れる、巨人の目を盗み少女が逃げる、バケツで顔を隠す、巨人が地中に隠れている、巨人の目を避けお化けきゅうりの中に隠れる。ひたすら登場人物、もしくは登場巨人が、隠れる、隠す、逃げる、そして探すということによってこの物語は進行してゆく。この「隠す」という嗜好はスピルバーグ作品において多用されている。それは『激突』や『ジョーズ』などの怪獣映画であれば姿を隠すということと通じ、『E.T』であれば存在を隠すという行為がまさにそれであり、『マイノリティ・リポート』は身分を隠していた。『キャッチ・ミー・イフ・ユーキャン』は詐欺師の話であったわけだし、『リンカーン』のトミー・リー・ジョーンズは隠していた思いが鬘によって表出していた。また今年公開された『ブリッジ・オブ・スパイ』についても『ミュンヘン』がそうだったのと同じく秘密任務である。枚挙に暇がないため他の作品については割愛するが、スピルバーグは多くの作品で、「隠す」ことについて撮っている。

この「隠す」という嗜好はスピルバーグ作品の主題としてだけではなく、既に一部作品を例に出しながら述べたようにサスペンスであり、またアクションでもある。本作では、はじめ少女は巨人から隠れようとするものの、すぐにその巨人が心優しい巨人だとわかる。しかしその後も、心優しい巨人が、少女ソフィーを人食い巨人から守るため彼女を「隠す」、もしくは少女自ら「隠れる」という行為が連続する。優しい巨人が人食い巨人の目を逸らし、その隙に少女は隠れ、しかし見つかりそうになるとまた心優しい巨人が一計を案じることにより、少女は姿を隠し通せる。ここにはサスペンスとアクションがあるが、それはすべて「隠す」という行為によってなされているのだ。この「隠す」という要素は単純にかくれんぼ的で楽しいというのがあるし、それは『ジュラシック・パーク』でも『宇宙戦争』でも、他のいくつもの作品で魅せた、スピルバーグお馴染み且つ絶対的な手腕によるものである。本作は児童文学が原作のファンタジー映画いうことで『E.T』的な心優しい映画ではあるのだが、僕は『ジュラシック・パーク』の方が近いのではないかと思う。というのも鼻息を荒くして少女を食おうとする人食い巨人から隠れる様子は、どう見てもティラノサウルス・レックスやヴェロキラプトルから身を隠す、あの様子にしか見えないからだ。また少女が生物の体液を全身に浴びるというところまでそっくりである。

尚この「隠す」行為を楽しく見られるのは演出手腕は勿論、画面の奥行や高低差を利用しつつ長回しでとらえる複雑なアクション設計にもかかわらず、中心をしっかり捉えるヤヌス・カミンスキーの撮影による力も当然大きい。画面の具合に関しては、いわゆる黒いスピルバーグはほとんど顔を出しておらず、つまり『クリスタルスカルの王国』『タンタンの冒険』と同様のラインにあり、またそれらと同じようにやり過ぎともいえる作り込みアクションの連続が楽しいのである。



この「隠れる」ということと関連して、「模倣」という要素もいくつか出てくる。例えば、はじめに巨人が少女を連れてロンドンの街を抜け出すシーンで、巨人は街灯に模したり、トラックの積み荷に模したりしている。巨人が人間の街へ姿を現すとき、決まって何かを「模倣」しながら「隠れて」いるのだ。また、影絵を使うシーンもある。影絵とは光によって作り出された疑似的な像であって、それは本物を模倣しているに過ぎない像である。そして「模倣」は、巨人という存在が「露呈」する女王陛下との会食シーンでも行われている。つまり巨人はここで人間を「模倣」した食事をとっており、また人間も巨人を「模倣」して飲み物を飲むのである。ここではスピルバーグらしい異種との接近と相互理解、はぐれものへの共感救いというテーマが顔を出しているが、それよりも本作では重要な要素として、夢というものがある。夢とは現実を模倣しつつも、しかし現実からは遠い現象である。巨人はそんな夢を、湖に「隠されていた」反転した世界の中から捕まえては人々の目から隠れつつ吹き込んでいる。本作はそんな夢について、それは所詮まがい物だよなどと言いはしない。むしろ夢を信じ、見ること追うことの中に先の人生への光が見えるのだと言う。



スピルバーグはSFやファンタジーなどのイメージがあり、非現実的なものを創造するのに長けていると思われているし事実それは間違いないと思うのだが、実のところ本作のような、全くの非現実でファンタジーな世界を見せることはほぼない。『フック』と『BFG』以外はどれも現実世界をベースにしており、異世界は登場していないはずだ。しかもその異世界の描写は正直うまくないというか、その世界自体が新鮮な驚きを与えてくれるようなことはない。しかし本作に限ってはアニメーションとの融合により、画面全体にどこか作り物めいた懐かしい手ざわりと不思議な浮遊感とを漂わせていることが多く、その浮遊感と作品がもつめまぐるしさ少女の見た夢かのようにも思え、夢を信じ、見て追うことの尊さは一つの作品の中の主題として説得力を持っていたように思うし、はぐれものへの共感、異種への相互理解と夢を追うことへの純真なまなざしとは、スピルバーグが個人的に追い続けている系譜の中にきちんと納まっているのである。



冒頭、睡眠障害だと宣言する少女は自らがいる施設の鍵を閉め、夜に窓からくる異種の存在に怯え「隠れ」ていた。しかし、ラストでは深い睡眠の後、朝の光が差し込む窓辺でそっと巨人に語りかける。そしてその巨人も窓を開け少女の声に耳を傾けている。おそらくはこの巨人も、かつては他の巨人から「隠れ」て生きており、それまでは窓を開けてなどいなかったはずなのである。しかし彼らはもう「隠れる」必要はない。それはもちろん、暴れん坊の人食い巨人が島から去ったからではない。『未知との遭遇』『太陽の帝国』『ターミナル』のような作品と同じく、文化・言語・行為の「模倣」が彼らの間に理解と成長と夢を生んだからだ。

この作品は歴史に残る傑作ではないだろうし、スピルバーグの作品群にいおいてもあまり注目されないかもしれない。しかし、僕はこの作品が好きである。確かに、「露呈」してからの会食シーンはそれまでに比べテンポも落ちるし妙に丁寧でゆったりしている割に最後の見せ場はあっさりしていて妙なバランスではあるし、おならギャグも、一発目こそ大真面目にそれを映像にしていて笑ったものの、2発目は厳しいものがあるとは思う。しかしそれでも好きなのだ。妙に愛おしい。つまるところ、やっぱり僕はスピルバーグが好きなのだ。