リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『エクソダス 神と王』を見た。

超大作死劇
リドリー・スコット監督最新作。旧約聖書の『出エジプト記』を現代的な視点も織り交ぜつつ、壮大なスケールで映像化。クリスチャン・ベールジョエル・エドガートンジョン・タトゥーロベン・キングスレーらが出演。


紀元前1300年のエジプト。第2代ファラオの王子ラムセス(ジョエル・エドガートン)と、彼と兄弟同然に育てられたモーゼ(クリスチャン・ベール)はカデシュの戦いで戦果を挙げ、王国での地位を確立させていた。しかしある日、モーゼは自分が当時はヘブライ人奴隷の息子であると聞かされ動揺し、またラムセスも自分より秀でたモーゼに対し、情と脅威の中で葛藤し、ついに国外追放としてしまう。砂漠を彷徨いたどり着いた町で妻と子を得たモーゼだったが、嵐の日にモーゼは神からの啓示を受け、同胞を助けるためにエジプトへと戻るのだが・・・

死体だらけの映画である。登場する人間の数も動物の数もやたら多いが、画面は右も左も上も下も、人や家畜や魚や蛙やら何もかもの死体で埋め尽くされる。しかも一言に人と言っても、それは戦士や奴隷だけではない。女であろうと子供であろうとも、いとも簡単に無慈悲に殺され、死体は積みあがってゆく。
はじめ死体は人間同士の争いにより築かれるが、しかし何より、死は神によってもたらされている。神がひとたび猛威を振るえば、人間同士の戦争等比べ物にならないほどの惨劇がもたらされることになるのだ。その点において、本作は『プロメテウス』『悪の法則』に続く作品である。つまり、【「私たちの理解を超えた何か」に触れてしまったがために、その何かが圧倒的な暴力を、こちらの希望や要望とは無関係に、とどまることなく与えてくる物語】と言う点で、この3作品は共通していると僕は思う。
これらは希望から一転、死に満ちた地獄へ突き落される物語とも言い換えることができる。『プロメテウス』は神だと思っていた神秘的な存在によって阿鼻叫喚の内臓地獄へ突き落される映画だったし、『悪の法則』は、末端とはいえよく知りもせず犯罪組織と関わってしまったがために生き地獄をさまようこととなる物語だった。そしてこの『エクソダス 神と王』についても、むしろ神を疑問視していた男が神の協力者となるまではいいのものの、男は神の圧倒的な暴力によりエジプトが地獄と化すのを、いくら拒もうともただただ眺めていることしかできない。SF、犯罪、史劇とジャンルも脚本家も違うが、最近のリドリー・スコット作品には一貫した要素が見られると思う。



その地獄とその舞台を圧倒的スケールで描くというのが本作最大の見どころである。大掛かりかつ拘られたセット、それにCGによる映像の数々は見事としか言いようがなく、二輪戦車を用いたや戦争シーンやダイナミックな風景、空撮も非常に見応えがあり、とにかくスクリーンで見ると圧倒される、まさに「大作」という言葉がふさわしいスケール感が作り上げられている作品だ。
しかし個人的には『グラディエーター』や『キングダム・オブ・ヘブン』、そして本作のような大スケールの史劇よりも、SFや犯罪映画の方がリドリー・スコットのビジュアルは冴えていると思うし、パニックホラー風味な場面こそ演出の力が振るわれているように思うのだ。本作でも十の災いは先に書いたように死屍累々地獄絵図なので楽しいし、津波が迫りくる場面の迫力も凄まじいが、力を入れて再現された王宮内における平穏なシーンなどではあまり画に良さを感じられず、特に中盤のモーゼが結婚するあたりはいささか退屈ではあった。室内と言えば、唯一、モーゼがラムセスに「次は子供が死ぬだろう」という事を伝えに行く場面は、画面上の布がゆらゆらと揺れる様に何か惹かれるものがあった。



ところで、本作はリドリー・スコットの弟であり、2012年に自殺したトニー・スコットに捧げられている。それ故か、確かに本作は兄弟のドラマが軸であり、人格を持っていそうなキャラクターと言えばモーゼとラムセスくらいのもので、両者の妻や子、それに母(シガニー・ウィーバーが演じているというのに)も、モーゼに真実を伝えるヌンにしてもモーゼの従者にしても、モーゼやラムセスに行動を起こさせ、それが終われば後は登場すらしなかったりと、ぞんざいな扱いをされているように思える。
それは兄弟のドラマをに焦点を絞りたかったからなのか。確かに2人の対比はよく描かれる。だが、本作は兄弟として育てられた者同士が袂を分かち対立する様子を感傷的に描くようなことをしなかった。そのようにして、いかにも観客の涙を誘いそうなドラマを紡ぐことだってできたはずだ。しかしそうはしなかった。
ではどうなっているのか。まずモーゼはいくらか狂信的な人物で、次第に神によって追いつめられるような役柄となっている。そしてラムセスは、地位にしがみつくため現状に対しての処置に迷い、モーゼの忠告を受け止めない人物して配される。作品に対し現実の人間関係を当て嵌めるのは邪なことかもしれないが、この作品が弟に捧げられていることを考えると、やはり本作はトニー・スコットの死に対するメッセージだと思えた。映画の最後、神に選ばれ追い詰められつつも屍の眠る海を挟んで対岸へと渡ったモーゼは、一人神の元で石板を掘る。それに対しラムセスは、同胞の死体が転がる岸にて一人呆然と立ちすくみ虚しく呟くことしかできない。このラムセスの風景が、リドリー・スコットの風景なのではないかと僕には思えた。それは『悪の法則』で妻を含めた多くの死を止めることができず、「遅すぎた」ことに対し無力に泣き叫ぶことしかできなかったマイケル・ファスベンダーと重なるかもしれない。冒頭でも書いたようにリドリー・スコットは画面に死が充満した作品を撮り続けているが、それは偶然ではないだろう。
その作風について念頭に置きつつ、本作で重要なだと思われるのは何度も悲劇を止めるチャンスはあったという事だ。モーゼは何度も警告する。しかしそれをラムセスは聞き入れない。ここでモーゼを一方的な英雄として描くことももちろん可能だったはずだ。しかし、そうはせずに、暗さの付きまとう結末にした。それは何故かと考えると、やはりこの作品がトニー・スコットに捧げられていることと無関係とは思えなかった。



しかしこの終り方の後、リドリー・スコットは次回作でどのような作品を撮るのだろう。『プロメテウス』や『悪の法則』ほどの傑作とは思えなかったけど、一監督の作品の流れという意味では、色々面白く感じられました。