リンゴ爆弾でさようなら このページをアンテナに追加 Twitter

2016-02-29

『キャロル』を見た。

天が許し給うただ一つ

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パトリシア・ハイスミスによって1952年に書かれた小説を原作とした作品。監督はトッド・ヘインズ。主演はケイト・ブランシェットルーニー・マーラ



1952年ニューヨーククリスマスでにぎわう百貨店のおもちゃ売り場で働くテレーズ(ルーニー・マーラ)は、ある女性客に目を奪われる。キャロル(ケイト・ブランシェット)というその女性は幼い娘へのプレゼントを買いに訪れていたのだが、会計の際に脱いだ手袋をカウンターに置き忘れてしまっていた。テレーズは自らの手で手袋を返却するのだが、そのお礼にとキャロルからランチに招待される・・・



粗さが残る16ミリフィルムの映像は『エデンより彼方に』の色彩とはまるで違うようでありながらも実は鮮やかな色を持っており、それがエドワード・ホッパーの絵やソール・ライターという写真家の雰囲気とまじりあうことで、画面にはすすけた孤独が刻まれ、また温かみにしてもくぐもったような感触で、感傷的でもあるような風情に満たされており、全体にどこか未成熟な空気を充満させる。吹き出す煙や曇るガラス窓を通した姿、水とネオンの反射、画面の構図、それに美術、衣装、どれをとってもその適切さ、美しさは素晴らしく、画面からは届かないはずの温度ですら感じ取れるかのような撮影である。



しかしその撮影にもまして素晴らしいもの、それが視線である。『キャロル』は視線のドラマだ。はじめてキャロルを見つけたテレーズの、その視線ひとつで物語を確信することが出来る。テレーズは見つけたのだ。しかしテレーズ自身は、それが何であるかを確信してはいない。曇りガラスの向こうから、レンズから、キャロルを覗き見るテレーズの視線に宿るのは、憧れの曖昧な感情である。自分ではメニューも決められない少女の視線には、キャロルという女性が持つ人間としての美しさに対する憧れが宿り、次第にその存在と交わりたいという衝動を持ち始める。

ではキャロルはどうかというと、彼女の視線は確固たるものであって、その目には誘いの色さえ見える。それ故に二人の関係は対等ではなくて、はじめキャロルを覗き見るばかりであったテレーズの視線は、徐々にキャロルへと近づいてゆくようになる。同性愛という、犯罪的ですらあった愛は視線の交流と電話という細い繋がりによって成長し、密室によって触れ合い、あるとき遂に視線は、鏡と俯瞰のショットにより、我々にもわかる形で完全に結びつくこととなる。いかにも普遍的な恋愛ドラマは、視線という、映画にとって不可思議な領域において完成する。



ただしこの恋愛ドラマは多少異質であって、それはこの視線と密室という領域で成立する、という部分によるのだが、これは既に書いたように、犯罪的とすらいえる関係ゆえの成立であり、そしてどこかでまさに犯罪映画的な雰囲気すら漂わせているのである。それが顕著なのは車でシカゴへと向かう、あの解放的で快感を伴う旅行であって、その旅行はまるで自分たちを追うものからの反抗的逃避行に見えてくる。

では何が彼女らを追うというのか。それは一言でいうなら、抑圧であろう。彼女らは恋愛の為というだけではなく、抑圧を振り払い、自分という存在のために逃避するのではないか。劇中、彼女らはよく、〇〇の妻、○○の知り合いと呼ばれる。台詞にもあるが、存在が常に誰かの付属品なのである。愚鈍で女性を個として認めない男達の社会において、テレーズもキャロルも、そこではモノ化してしまっている。彼女たちの存在が認められるのは、他者のいる開かれた空間では隠された視線によってか、はたまた電話という他を切り離した声の交換か、もしくは密室という限られた空間においてである。その秘かな逢瀬は、犯罪者たちのロマンスのように、逃げ場を求めているかのごときものである。あの車の旅行が美しいのは、追いつかれることがわかっている共犯者たちの、逃走への願望を匂わせているからではないのか。しかしやはり、彼女たちの逃走は長くは続かない。視線が結びつく美しい欲望の瞬間でさえ、「証拠」としてモノ化されてしまう。

存在が未完成だったテレーズは、キャロルの未知へと誘う視線によって開花してゆく。誘惑者たるキャロルはそういう意味でもファム・ファタール的だ。ところでもしかするとテレーズが写真を撮っていたのは、自らの視線物事を見たい、男の付属品として旅行へ行くのではなく、自らの世界を見たいという願望なのかもしれないし、それをいつまでも作品としては発表できなかったのも、願望の叶え方を知らなかったからなのかもしれない。そこへキャロルが現れた。キャロルの赤を身に纏いながらテレーズは次第に自分という存在を確立し、キャロルと対等の視線を獲得する。

一方、キャロルはどうであろう。キャロルは自らの願望も欲望もしっかりと理解していた。しかし、していたがために、テレーズを受け止めることが出来ても、自らを完全に差し出すことが出来なかったのではないか。その結果が、不気味な偵察者と不能の銃による、モノ化からの逃走に対しての、最も悲劇的結末なのであろう。



終盤に冒頭のシーンへと戻る手法を本作は採用しているが、しかしここは全く同じ場面へ戻ったのではなく、テレーズの側から始まったはずの物語が、いつの間にかキャロルの側へとシフトしていることに気付く。ここで重要なのは手だ。手を使った演出は幾度か登場する。まずは冒頭の、キャロルがテレーズの肩へ手をやる場面。次に手袋を忘れる場面。香水をつけあう場面。そしてまた、テレーズ肩へと手をやる場面。最初と最後は同じようにみえて、その感情の向きが冒頭とは全く違うようにみえる。そして最後、キャロルの下へと走りだしたテレーズ。たどり着いた先に座るキャロルと見つめあう二人の視線は、憧れでも誘惑でもない。ここにあるのは対等な二人の女性が、自らをぶつけ合う姿である。地上に降りた天使と女神が、一人の女性として向き合っているのだ。僕は恋愛映画にあまり興味がないのだが、『キャロル』に関していえば、画面全体から漂う芳醇な香りと思いがけぬジャンルとの邂逅に驚かされた。傑作。

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