リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『ちはやふる-下の句-』を見た。

われても末に 逢はむとぞ思ふ
末次由紀による大ヒット漫画の実写映画化2部作の後篇。後篇からのキャストとしては松岡茉優が参加。主題歌はPerfumeの「FLASH


東京都大会で優勝したその日、幼少期のカルタ仲間だった新(真剣佑)から電話越しに「もうカルタはやらん」と告げられた太一(野村周平)は千早(広瀬すず)と共に新のいる福井を訪ねる。カルタの師匠でもあった祖父を亡くした新は千早の話も聞かず追い返してしまうが、太一は全国大会へ集中しようと千早を励ました。しかし千早は新とカルタの世界へ引き戻すために、全国大会よりも同い年でクイーンの称号を持つ若宮詩暢(松岡茉優)との対戦に燃えており、部員間の溝が深まりつつあった・・・

『-上の句-』の感想についてはこちら(http://d.hatena.ne.jp/hige33/20160321/1458568254)に書いた通りで、競技かるたによって生み出される水平の運動と、それを広くとらえた画面、そして敗者たちのドラマに泣かされてしまい、原作もアニメも全く見たことのなかった身としては、この予想外の面白さにすっかりと引き込まれてしまった。そんな不意の衝撃的な出会いに心躍らせた僕は、またかるた部の面々に会いたくて『-下の句-』の公開を待ちわびていたのだけれど、実際に作品を見ての結論を一言でいえば、もうかるた部の面々に会う気はしな、というものであった。



『-上の句-』は競技かるたのみならず、広瀬すず演じる千早がひたすらに動き回ることで映画全体に快感をもたらしていた。物語的には机君や太一が主軸となっていたものの、それをよどみなく動かし続けることができたのは、カルタを取るときもそうでないときも、常に「考える前に動く」千早の行動を、最後まで止まらせないまま最後まで駆け抜けさせたからである。彼女の行動や思いというものは、突飛に見えて、しかし決して意味不明ではない。というのも、千早という人となりはその動きによって体現されているからである。また千早は自由気ままに動き回っているように見えても、実際はカルタを通して人と人とをつなげる機能を果たしていた。彼女がきれいに動くことで画面には水平の連携が現れ、余計な説明がなくとも映画として気持ち良さを作り出していた。
しかし『-下の句-』で千早は停滞する。その結果何が起こったかというと、当然のごとく画面は停滞し、快感が消え、言葉を紡ぐことによる平凡な青春ドラマが表出した。前半、千早がうじうじと悩んでいるシーンは物語としての納得こそあれど、そこに映画的な動きの魅力はなくなっている。ようやく走りだしたかと思っても、それは非常に説明的な走りであって、映像的な快楽は薄い。しかもその後すぐに雨の中座り込みというずっしりしたシーンに戻ってしまうため、せっかくの動きも持続しない。また新と若宮詩暢の会話シーンなどは、詩暢が新を何度も手で押しつける動きによって多少救われているもののやはり面白味のある画面ではなく、千早が新に残した伝言が、詩暢もまた新に伝言を残すこととなるという変化を促す展開も、新自身が停滞しているため映像の快感には遠い。
後半になると停滞していた千早はつなぎ目としての機能を取り戻すが、しかしそのとき千早は、「絆」だの「繋がれ」だのといった台詞に基づく行動しかしなくなる。さらにその後半というのは過剰な説明感情台詞の連打に情感ベッタリな音楽、そして白く飛んだ画面とスロー映像の反復といった要素にも彩られており、このように過剰に説明・演出された中にある言葉というのは、いかにも嘘くさい。もともと「絆」だの「繋がり」だのという言葉は嘘くさいことこの上ないというのに、劇中言葉で語れば語るほど、本作で提示される「カルタを通して得たものたち」は嘘くさくなってゆく。
こういった演出というのは『-上の句-』でも見られた特徴ではあるが、言葉と感情の乗せ方が過剰になった『-下の句-』では、その白々しさが強調されてしまっている。せっかくの手の演出も、その過剰さによって良さが消えてしまっている。新の「見つめる」ということによる視線の物語もまた、悉く言葉に打ち消される。『-上の句-』で見せた千早の肉体の野性的な説得力も、やはり無駄な情感により打ち消される。試合の緊張感も弱い。なぜなら机君も太一も、肉まん君や大江ちゃんも、更に千早にしても、誰一人敵と戦ってなどいないからだ。彼らは新や詩暢に向けて、孤独を解消するためのセミナーをカルタを通し行っているのであって、そこに闘いの要素はなく、若宮詩暢との目つきに始まる死闘を期待してもそこは肩透かしを食らう。もちろん、『-上の句-』のようなカルタの戦いにおけるロジックも存在はしない。あるのは仲間と絆をつなげるためのカルタである。



ところで千早の停滞という部分には、画面の高低差も絡んでいるのではないかと思う。千早は3度、すれ違いを起こす。一つ目は新との再会。千早との出会いに新はバランスを崩し、土手の下へと落ちてしまう。千早は『-上の句-』で太一にしたのと同じように彼に飛びつくのだが、太一は土手の上にいる。その後の新の家のシーンでは千早と新との間に高低差があり、そこで千早は新の変化に怯む。ここでの2つの差異に、その後千早は停滞することとなる。次に千早は校内でかるた部のメンバーとすれ違うのだが、ここで千早は階段の下に身を隠している。最後に若宮詩暢とすれ違う際には、千早は階段の真ん中で彼女の姿を立ち止まったまま見ている。カルタを取るということ、校内を走り回るということ、カルタを飛ばすことといった水平の動きよって人と人とを繋ぎとめていた千早は、すれ違いが起こす高低差の中に沈み、停滞していたのではないか。そして団体戦の後、土下座する千早を引き上げたのはチームであり、いつの間にか広がったカルタの輪を認識した千早は、個人戦でその絆を活力にする。



思えば、『-上の句-』でその差に悩んだのは机君であり、彼は千早に引き上げられ、同じ畳の上、肩に次々と手を置いてゆくという水平の流れによって一つのチームとなった。そして『-下の句-』の最後には新と詩暢も交えて、皆同じ畳の上にすわり、更に千早は殆ど観客に向ってまで手を伸ばす。しかし既に書いたように『-下の句-』の彼らに僕は嘘くささしか感じていない。『-上の句-』では机君と同じように自分も引き上げられたと感じていたにも関わらず、最後の最後で僕が感じたのは、スクリーンと観客との間に存在する永遠の距離感という、至極当然でありながら絶望的な断絶であって、「またかるたしようね」という言葉にも反応することが出来ず、きらめく青春の群像を遠くから眺めた後、一人劇場を去るだけであった。