リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『海よりもまだ深く』を見た。

雨降って自固まる
是枝裕和監督最新作。是枝監督は原案・脚本・編集も務める。出演は阿部寛真木よう子小林聡美樹木希林ら。


15年前に一度文学賞を受賞したきりで、その後はうだつの上がらない人生を歩んでいた良多(阿部寛)は、小説のための調査のためとうそぶき探偵事務所で働いていた。しかしギャンブルにのめりこむせいでお金はなく、良多は姉(小林聡美)や部下からお金を借り、母や息子に見栄を張ってプレゼントを渡すような生活を送っていた。さらに彼に愛想を尽かし出て行った元妻(真木よう子)にことを監視し、彼女の新しい恋人に嫉妬しやり直したいと思うも、元妻は養育費を払わずに息子との接触を求める良多に呆れ果てていた・・・

是枝監督にしては台詞が過剰で、どうにも伝えたいことが先行しすぎているようにも思えたし、また特に樹木希林などは、これがまた達者な演技をするものだから非常に息苦しく感じられてしまったために、前半で集中力を欠いてしまったことをまずは反省したい。反省したいということは、後にその考えを改める出来事に遭遇するわけなのだが、とりあえずそれは置いておいて、そんな状況でも最後まで見ることが出来たのはやはり、些細な演出や撮影に光るものがあったからである。例えば阿部寛演じる良多は、その行動のあまりの卑小さ、つまり例えば、家族内での窃盗という、まるで小学生のやりそうな程度の悪事であるとか、また別れた妻の動向をひたすら気にするも口から出る言葉は「もうしたのかな」などという中高生男子程度の嫉妬であるという、擁護のしようがない器の小ささをこの男は見せる。
この器の小ささに対して、阿部寛という男の体の大きさ。これが面白く、団地の一画にある小さな小さな実家の部屋に対し、その巨躯はあまりに不釣り合いである。この団地とそこに住む人を映し出す撮影がいい。『海よりもまだ深く』はどうにも『歩いても歩いても』を連想させる部分が多いが、僕としては『誰も知らない』の方をこそ連想し、それには撮影監督が同じであるということも関係しているのだろうが、特に日本家屋ではなくアパートの小さな部屋が頻繁に登場するという点で、より『誰も知らない』を思い出させる。部屋は、『誰も知らない』ではそこのみで生きる子供たちの世界のように描かれていたが、『海よりもまだ深く』の部屋は明らかに良多にとって生きづらさしかない、家庭という枠に入り込めないということが、その体と空間によってはっきり映し出されている。
『誰も知らない』との関連性では、植木鉢がある。『誰も知らない』で子供たちは、それぞれカップ麺の容器に雑草を詰め育てていた。それは彼らの生であって、だからその容器が崩れてしまったときには、彼らもまた崩れてしまった。『海よりもまだ深く』では台詞でわざわざ、まるで良多のようにとの説明を加えながら、実のならないまま大きくなり過ぎたミカンの木というものが登場する。台風が来るからと、その木をどかそうとしたとき良多は誤って窓を割ってしまうのだが、これもまた、良多という人の、容器に守られながら根を張ったはいいものの、その身体の不自由さゆえに、思い通りに動かせず壊してしまう性質故である。否定しつつも、家族の壊れた欠片を拾ってしまうのが良多であって、それは遺物であり饅頭であったりするのだが、しかし窓の修繕を他人に任せてしまうように、自分の壊したものについて彼は治すことが出来ない。



家族の壊れた欠片の最たるものが、おそらくかつて賞をもらったという、良多の書いた本であろう。小林聡美演じる姉がはっきりと口にしたように、その本は私小説である。その本の詳しい内容まで知ることはできないが、そこに書かれていたのは『歩いても歩いても』にも通じる父への反発であり自身と家族の物語であったのだろう。ではなぜ彼は書けなくなってしまい、探偵業という副業で糊口をしのいでいるかといえば、それは自分自身の人生を見つめなくなったからに違いない。彼は元妻からも「家庭に向いていない」と言われ、三行半を突きつけられていたのだけれども、既に書いたように良太の方は未だに未練を残したままで、探偵業という職をいいことに、自分の生活を改善する努力をせず、ただその場を取り繕う毎日を過ごし、その合間に元妻を監視していた。「小説家としての観察眼」を発揮するのは他人に対してのみであって、良多は自分自身を少しも見つめようとしなかった。かつて賞を取ったのはおそらくそれが私小説だったからであるというのに、自分を見つめようとしない良多には本が書けない。



この「見つめる」という行為について、僕は先に書いたように途中集中力を切らしてしまっていたことを反省したいのだけれど、おそらく良多は見つめることは得意であっても、見つめられることは得意ではない。良多はよく人を見つめている。いや、覗き見していると言い換えた方が正しいだろうか。というのも、どうも良多は他人から見つめられているときには往々にして目をそらしていたように思うからだ。例えば同級生であるとか、姉であるとか、そして元妻であるとか。彼らの視線は見ないようにして、自分ばかりが覗き見していた。だから彼は、自分自身を見つめる視線に気づいていない。いや、気付かないふりをしていたということになる。
そんな自らの有様に気付くのは台風の通過によってである。不意に訪れた台風は良多と元妻、そして子供を自らの実家という空間に押し込める。ここでの台風は台風自体に意味があるのではなく、台風という現象によって出現した空間にこそ意味がある。それは二度と戻りえない家族の空間である。彼らは良多の母の計らいにより、狭い部屋で川の字になって寝るはずだったのだけれども、結局そんな場面は映らず、大雨の夜、立ち入り禁止の遊具の中で過ごすことになった。この台風とそれにより出現した空間が、良多は家庭というものを持つことはできないものの、それでもやはり彼らは家族なんだということを認識させる。良多と元妻そしてその子供は、部屋の中ですら3人とも同じ空間に居ることはない。カレーうどんを食べるときにしても明らかに線が引かれ、良多は引き離されている。しかし公園という外の空間では、わずかながら3人は同じ空間に居座ることが許される。台風により出現した空間が、3人を家庭ではないけれども、家族だった、ということを浮かび上がらせる。ちなみにこのように視線と雨について書いていて思うのは、おそらく本作は意識的に成瀬巳喜男をやったのだな、ということである。



雨が上がり、不意に留まることとなった元妻と子を余所にして、良多のみが新しいシャツに着替える。それは新しいようだが父の形見のシャツであって、良多は灰色のシャツから白いシャツへと着替えることになる。この着替えという些細な描写が素晴らしい。ただその後良多は相変わらず家庭内窃盗をやってしまうのだが、しかしその質入れ先で思わぬ事実が発覚する。今まで小説など読んだこともなく、自らを毛嫌いしていたと思っていた父の、予想とはまるで違う姿をそこで聞かされるのだ。ここで良多は、見つめていた視点から見つめられていたという視点の変化を感じ取ることになる。
雨が上がって、緑が露で濡れた様子を見ながら僕が思ったのは、この作品が是枝監督にとって、おそらくは最も主観から入り込んだ作品であって、その思い入れと伝えたいことの強さや決定的な言葉の多さにに少し苦手意識を持ちつつも、『誰も知らない』『歩いても歩いても』『そして父になる』『海街diary』に通じる作品だったのだな、ということであった。

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