リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

『溺れるナイフ』を見た。

止まってないで転がって踊れ

2004年より別冊フレンドにて連載中の、ジョージ朝倉による漫画を原作とした作品。主演は小松菜奈菅田将暉重岡大毅上白石萌音ら。監督は山戸結希。


東京で雑誌のモデルをしていた夏芽(小松菜奈)は、父親の実家がある田舎町へと引っ越すこととなり意気消沈し、新しい土地に馴染めずにいた。しかし、夏芽は海岸でコウ(菅田将暉)という少年とであう。地元を仕切る神主の跡取り息子であるコウは、不思議な魅力を持ち、夏芽は心を奪われるのだが・・・



驚いた。初めて画面に映る海の、その黒さに驚いた。直後の、現実の動きに先立つカット割りに驚いた。この作品のカットのタイミングは、ある人物が夏芽にとってどういう立ち位置であるのか、ということと重なるわけだが、わけてもコウといるときの、まるで感情が現実を追い越しているかのようなカット割りに驚いた。音楽使いに驚いた。ロングショットのキマり具合に驚いた。階段を降りること、画面の奥行きによる空間の豊かさ、そしてそれを利用した、例えば柵などの障害物によって人物の関係性を分断する手法に驚いた。人物の動かし方、動線の設計に驚いた。役者の魅力を引き出す力に驚いた。つまり、全編とにかく驚かされたのである。その驚きは、良いものもあれば悪い物もあるのだが、とにかくこの作品には、随所で驚かされた。



この映画では夏芽を中心として、登場人物が一定の距離を保ちつつまるで円を描くかのように動く場面が幾度か登場する。この円を描く動きというのは山戸監督の過去作品、と言っても『5つ数えれば君の夢』『おとぎ話みたい』しか僕は見れていないが、それらの作品に共通するまるでダンスのごとき動きであり、特有の場を作り出している。さらにこのダンスとは、パートナーを必要とする類のものではなく、また規則性を持った競技でもミュージカルでもない。彼女たちにとってダンスとは、あくまで自らの内なる精神を引き出すための手段なのである。そして山戸作品の少女たちにはダンス的動きの他にもう一つの特徴として、おおよそ現実的とは思えない言葉を相手に投げかける、ということがある。動きと言葉とが密接にかかわり合いながら、少女は自らを表出させるのである。



つまるところ、ダンスとは少女たちにとって自らを表出させるための儀式的行為なのである。ダンス的動きによって彼女たちは自らの肉体をつかみとり、また自らが受けた衝撃を言語によって伝えることが出来るのだ。不可解な動作も異様に装飾された言葉も、そのすべては儀式、もっといえば、神性を降ろすための行為だからではないのか。ダンスとは神を降ろす舞で、台詞は祝詞であり、そしておそらく本作最大の問題点である音楽もそう考えれば、儀式の重要な要素といえよう。そして神性とは外部からやってくるものではなく、あくまで自分自身の中にあるものである。
故に写真家の男や、その写真を見たのであろう男は夏芽の中にある感情を引き出すことはできず、表面を掬い取るのみである。彼女と共にダンス的空間を作り出したコウと大友だけが、夏芽という少女を引き出すのだ。その引き出し方、引き出され方というのは、すでに述べたようにカット割りによって両者差異を持っているが、夏芽はそのカットによって生まれる物語的な立場とは関係なしに、円を自由に動き、それこそ突如斜めに横断し、また相手を動かすことが出来るという点において空間的上位を保つことが出来る。それはすなわち、小松菜奈という女優の魅力を映画に叩きつけることが出来ているということだ。



最後に夏芽は自らをカメラマンの男に売り渡す。それは彼女が内面に持っていた神性の終わりであり、青春の終わりである。夏芽とコウは同じように神性を失うわけだが、コウは自らを肯定しているとして疑わなかった土地によって神性をむしろ失っている。コウは土地に従うことで過去を乗り越えるが自らを封じ、夏芽は写真家に従うことによって過去を乗り越えるが自らを封じることとなる。だからこの映画は、自らを引きずりだし新しい世界へと連れて行ってくれるであろう存在が、結局のところ土地に縛られたままでしかないことに気付く少女と、少女によって土地に縛られているということを否応なしに引き受けざる得なくなる少年の話なので、初めから終わりが決定づけられている者たちの恋愛物語といえるだろう。ラスト、夏芽とコウのシーンではカットを細かくせず長く撮られているのは、この場面がお互いの幻想を消し去った後に見ている幻想だからだ。そこには憧れも期待もない。ストップモーションの先に出口はなく、ナイフのようにきらめいて尖っていた青春が、その瞬間の輝きのまま海の底に沈んだことを確認しているのである。そして何度も書いてきた神性とは、ある時期の人生に訪れる一瞬のきらめきであり、山戸結希監督は常に、その儚いきらめきを力づくで引き出そうとしているのではないか。
全編を通して流れる音楽の過剰さや、MVみたいな画面など否定したい部分も大きい作品ではあるのだが、ダンス的空間と動線等多くの驚きを受け取ったこと、そして何より、何処へも行けず終りを運命づけられている男女の恋愛ものとして、もしくは青春の終わりを描いた作品として、僕はこの作品を強く支持したいと思ったのである。