リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た旧作の感想その30

『顔役』(1971)
勝新太郎主演であり初監督作品かつ、菊島隆三と共同で脚本を手がけ制作までした一作でありながら、未だこの作品はDVDはおろかVHSですら見ることの叶わない状況に置かれている。しかし、先日まで行われていた没後20年の特集上映により遂に見ることができた。そして驚いた。アヴァンギャルドな作品だという話は聞いていたがまさか『警視-K』や『新座頭市物語 折れた杖』を上回る作品だとは思いもしなかったのである。



一体何がそんなにおかしいのか。ストーリー自体に難しいことはない。同じく菊島隆三が脚本を手がけた、黒澤明監督の『野良犬』を思わせるうだるような暑さの中、ベテランと新人かと思われる刑事がある事件を追うのだが、勝新太郎演じる先輩刑事の立花はほとんど彼が追うヤクザと同じような性分を持っており、上司役の大滝秀治にもそのように評されている。これだけ聞くと平凡な刑事ものの範疇に収まっているように思える。しかし問題なのは、その語り口なのだ。例えば、ピントがボケるほどの接写の連続であるとか、鏡や反射の効果により誰がどこにいて喋っているのか判断のつかない前後不覚な編集、ぶっきらぼうでそっけない描写に説明不足のまま次の展開へ進む唐突さ。かと思えば、不必要に長いと思われる場面があったりする。これらの要素は、互いに呼応しあいひとつの世界を作り上げているといったような代物ではない。それぞれがそれぞれに画面と物語を破壊し、繋がりは分断され、暴力的に圧迫され続けるのだ。
この映像的特徴は、後のテレビドラマ『警視-K』に大きく受け継がれている。しかしあちらと異なるのは、その効果においてである。例えば『警視-K』では手前に物を置く執念が画面に奥行きを与え、鏡の多様は相変わらずであるものの前後不覚に陥ったまま整理されないということはないし、長いシーンは役者の突発的な面白さを引き出すためだろう。また事件の顛末が重視されないことはあっても、最後には家族の風景が静かに街へと溶け込み、ぶっきらぼうな男が暗く沈んでゆく心地よさが『警視-K』にはあった。しかし『顔役』はそうではない、ドキュメンタリックなつくりは似通っていても、『警視-K』が心地よく暗く陶酔させてくれる作品だとしたら、『顔役』は暴力的に泥酔状態へと連れ込まれ、終いに放置させられるような感覚に陥るのである。両者の終わりの風景にも明らかな差異がある。



ところで、この作品は勝新太郎の兄・若山富三郎主演、三隅研次監督の『桜の代紋』(1973)と似ている部分が多い。モデルが同じであるらしく、そのためある程度似ているのは当然だろうが、陰鬱でカタルシスを掴めない展開も似ているし、何より反射演出は『桜の代紋』でも頻出している。しかし三隅研次はそれ以前より光の反射に強く美的関心を抱いていたことは間違いないだろうから、これをしてすぐに相互の影響が、というつもりはない。問題なのは、三隅研次はいくら暴力的で陰惨であろうともやはり美学と呼べる演出がそこに伴っていたということなのだ。そしてこの2作は北野武監督『その男、凶暴につき』の物語とも似ている。ただし北野武に関しては、陰鬱な暴力性が引き延ばされた退屈な遊戯の感覚としてひたすらに歩くシーンを伴いながら演出されおり、やはりそれが作品のリズムのように成立していた。物語のみならず暴力シーンの突発さなどで共通しあう作品の中でも、『顔役』の極端さや無茶苦茶さは群を抜いている。



では勝新太郎はこの作品で一体何をしようとしたのかというと、それはおそらく、破壊であろう。文法的な破壊により分断された画面や展開は勿論だが、この作品では警官という存在が破壊されており、それは彼が警察手帳に触れる瞬間に表れている。立花が警察手帳に触れるのはそれを捨てるか、投げるか、もしくは部下が手にしたのを叩き落とすぐらいなものである。さらに一度投げ返した警察手帳を再び受け取ったかと思いきや、彼はヤクザも真っ青の行動に出ており、手帳が象徴する「警官」という存在は破壊されている。そして勝新太郎は続く『新座頭市物語 折れた杖』で座頭市という存在を破壊した。そこに英雄的姿はなく、ひたすら蔑まれ忌み嫌われる存在となっていたのだ。その後の『座頭市』や、『警視-K』ではその傾向が減少していることを考えると、何故そうしたのかはわからずともこの2作の異様さはより際立つ。なかなか見ることの叶わない作品だが、強烈な個性に殴られるのは楽しいものだ。何とかして手軽に見れる環境を整えてほしい。

ちなみにこの作品の山崎努は不敵さも色気もあって最高。勝新太郎は自分のことだけではなく役者の扱いがうまいのだと思う。