リンゴ爆弾でさようなら

91年生まれ。新作を中心に映画の感想を書きます。旧作の感想はよほど面白かったか、気分が向いたら書きます。

最近見た新作の感想その21

女神の見えざる手
極めて視界良好な作品であって、異常に開けたガラス窓が全編に渡って登場人物を取り囲んでおり、まるでここにいる誰もの行動が見透かされているようである。しかしながら、ジェシカ・チャスティン演じるスローンの動機や、その行動自体は誰にも見通されない。それどころか、読唇術によって彼女は本来見通されないものですら見通すのであって、それこそがロビイストなのだと冒頭から喝破している。つまり彼女は紛うことなきプロフェッショナルであり、プロフェッショナルの倫理ゆえに社会的な倫理とは著しく反する部分も当然のごとく出てくる。しかし信念まで倫理的に曖昧なのではない。だからこそ台詞にも出てくるように、彼女は最後「正義は行われよ、たとえ天が落ちるとも」を、あくまでも行動によって、遂行することが出来るのだ。この行動というのも非常に重要な要素であって、スローンは絶えず行動している。例えばスローンが働いているオフィスは全体としてカメラも人物も動いていることは多く、中でも彼女が一人で動いている場面はかなり多いはずだ。それは人物描写としても機能しているし、ロビイストという題材に対し画面に活気を与えるという点においても機能している。反対に、敵陣営となるチームはそんな動きに対して後手に回っているのだから、座っていることが多い。そんな陣営同士を、例えば歩きや電話というアイテムでつなげてカットを割るなど、画面に流れを持たせるという点でもうまい。こういった心地の良い画面の運びと、そして膨大なセリフを一気に読み上げるスピード感覚が気持ちいい。
ロビイストという題材に対してはもう一つ手段が持たれている。それはこの作品が、スパイ映画的な側面を持っているという点だ。大規模な潜入や破壊工作は登場しないかもしれないがそれに準ずる行為はしっかりと登場しているし、相手の裏をかく情報戦の興奮はスパイ映画と呼んで差し支えないだろう。加えて、ビルの外に集めて指示を出すシーンでの俯瞰にはチームものとしての画のカッコよさもある上に秘密道具まで登場するのであって、つまり娯楽としての面白さもきちんと確保されているのだ。文句なしの傑作。

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南瓜とマヨネーズ
人物が、壁や画面の上下左右もしくは手前奥によって区切られ、その区切られた空間に声が届けられる。この、声の方向性とでも呼ぶべき現象がドラマを生んでいる。例えば土田(臼田あさみ)がホテルの一室で客の欲望を聞かされる場面において、画面は彼女が一方的に言葉を投げつけられているのを映す。また、同じ空間に居るようで実はそれぞれしてほしいこととやっていることが食い違ってしまう土田とせいいち(太賀)は、はじめの会話からしてそれぞれの思いがすれ違っているわけだけれども、そのすれ違いは徐々に、しかし明確に視覚化されていく。その場合、大抵せいいちは風呂場という、住まいにおいて個人的な空間にいる。これはせいいちが本来共有を苦手とする人物だからではなかろうか。せいいちはかつてのバンド仲間と会っても口論が絶えず、しかもその内容について、「自分の中で凝り固まった考え」と指摘される始末だ。だがせいいちが、土田のある事実をきっかけに外へ稼ぎに出始めるといよいよ住まいからは姿を消し、土田はかつて親しい仲にあったハギオ(オダギリジョー)と再び関係を持ち始める。しかしながら土田とハギオも声の方向性似はすれ違いがあって、彼らは親しげでもそれぞれ逆方向を見ながら話していたりする。何故こういったすれ違いが起こるかといえば、この作品に出てくる男女は自分の見たいものを追っているからであって、そのために視線はズレ、空間は区切られ、音だけが相手に届けられる。
このような曖昧なすれ違いの状況から抜け出そうとしたせいいちは、土田とは共有できないことをとっくに理解していたかのように、風呂場から別れを告げる。土田はごみ袋から金を拾うという動作でもあらわされるように「捨てられない」人物であって、それ故に「あの時」と「これからも」を求めてしまうから、ハギオのような曖昧に漂い続ける男とも上手くいかない。このようにしてすれ違いから別れへと導かれた物語は、しかしそこで終わりはせず、最後に声の共有が起こる。せいいちに別れを切り出された土田がその顔を覆ったタオルの鮮烈な赤は、ギターによってここで繰り返されるのだが、せいいちは結局ギターを弾かず、歌声とコンガが二人の空間に響きわたる。そんな音による空間の共有が、何より感動的なのだ。

南瓜とマヨネーズ

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