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2009-02-19

[][]南京事件の被害についてどのような史料に基づいて認定するか


笠原十九司氏の発言をまとめると以下のようになる。


まず前提作業として、

第一に、「南京事件が発生した地域の地理的な状況を理解しておく作業」が必要となる。

笠原氏は、実際に現地を調査しており、

また「折あるごとに南京の写真、とくに航空写真や俯瞰図、地図などを見て、南京の地理的概念を豊富」にする。


第二に、「南京事件の背景となった当時の南京の歴史的社会的状況をできるだけ歴史実態にそくして豊富にイメージしておく作業」。

必ずしも事件に関係しないことでも、当時南京に滞在した人からヒアリングを行ったり、

兵士の日記や体験記、写真集や紀行文、雑誌、新聞などにより南京の社会や時代のイメージを豊富にしておく。

笠原氏は、占領下の南京にいた『ニューヨーク・タイムズ』の記者ダーティンと『シカゴ・デイリーニュース』の記者スティールのヒヤリングを行っている。


以上の前提作業をふまえ、様々な史料から「立体的に事実を明らかにして」いく。


たとえば、中国兵の虐殺については、日本軍側の資料、中国軍側の資料、それと第三国人の資料としてアメリカ人の資料を使っています。日本軍の資料では、偕行社の『南京戦史資料集』と『南京戦史資料集II』、南京攻略戦に参加した諸部隊の資料を編集したものをよく使用します。中国軍側の資料としては、南京防衛戦に参加した将校の記録を集めた中国人民政治協商会議全国委員会編『南京保衛戦』などがあります。この両方を突き合わせて、内容が照合しているものについては事実であると認定していいわけです。

(90-91頁)


一方、民間人の殺害*1については史料的に解明が難しい。

民間人の殺害について実数の解明が非常に難しいのは、日本軍の資料では民間人が混じっていたという程度の資料だけで具体的な数は書かれていないし、中国側の資料は目撃者の見聞ですから、必ずしも正確とは言えない点です。また、外国人の資料は、当時、外国人は難民区内とその周辺で活動していたわけですから、彼らが見たのは場内でのことが中心になります。

(92-93頁)


また民間人の犠牲者に関する史料としては、埋葬記録がある。

民間の犠牲者の資料では、もう一つ、南京陥落後しばらくしてからですが、死体の埋葬作業を中国の慈善団体がやっていて、その埋葬諸団体の記録の合計が一八万八六七四体となります。この記録には戦闘中に殺害された兵隊の死体も入っていますし、埋葬作業のダブりもカウントされていますが、それでも一つの判断材料になります。

(93頁)


強姦については、難民区の記録がある。

南京で難民区を組織していた南京安全区国際委員会の人たちが、強姦の実態についてはかなり記録して、南京の日本大使館に報告していますが、これも南京城内の難民区を中心とした記録です。

(93頁)


城内区より被害が大きかったと推測される近郊農村の史料は、

日本側が強姦に関して公には記録することがないため、なかなか残らない。

元兵士自らの強姦体験の証言、また被害者による証言も難しい。


農村の被害に関しては、今後のヒアリング調査によって解明の可能性があるという。

南京の近郊農村における被害については、今後の調査によって明らかにできる可能性があります。私自身華北の農村で調査をした経験から、農村の場合、村中で殺害された人数は村民が記憶していますから、各村でヒヤリング調査をして集計すれば、かなり実数に近いものがわかります。中国では九五年の抗日戦争勝利五〇周年に前後してこの種の詳細な調査を全国的に行い、各県の『県誌』に収録していますので、南京近郊についてこのような村、鎮、県単位の調査が行われていれば、それらを整理、集計すればいいわけです。

(98頁)

*1:笠原氏は、「民間人被害で大きかったのは、南京陥落時に敗残部隊といっしょになって避難した民間人が日本軍の殺害にあったという被害、占領後の敗残兵狩り、つまり日本軍が難民のなかから敗残兵を狩り出して処刑したときに巻き込まれて殺害された民間人がかなりいます。あとは、攻め入ってきた日本軍に驚いて逃げようとした民間人が殺されるというような状況もありました。」(92頁)と述べている。

史料批判史料批判 2011/01/02 10:06 笠原氏が史料の現物の確認をしておられないことが確認できました。私は史料批判の要諦の普及を目指している者です。
井家又一日記の検索語でこちらのサイトが出てきましたので書いています。
史料批判の要諦では、常に偽作の可能性があるので、史料現物の吟味を怠るなと教えています。
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/rekisigakukennkyuuhou.html
またその結果、南京事件元兵士の井家又一の日記は、偽作であると判定できます。
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/ikemataitinikki.nihonngo.html
くずし字解読技能をお持ちなら、是非、中島今朝吾日記の現物も確認していただきたい。
中島今朝吾日記はカタカナの連綿です。これも疑問がいろいろあります。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1143583&tid=nrbbk652jbdqldbj&sid=1143583&mid=19202

junjun 2011/01/05 22:33 >史料批判氏

横槍で、リンク先をちょっと読ませていただきましたが・・・。
日記を国民党による偽作と「判定」された根拠が雑すぎますね。
一般的な日本人は「しまった」を「志満っ多」などと表記しない→国民党の偽作、としておられますが、逆に日本人でなければ考えつかない当て字だと思いますね。
そもそも偽作だとするなら、なぜそんな(失礼ですが、あなたに見破られる程度の)不自然さを残すのでしょうか。
真筆と考えたほうがはるかに自然なのですよ。
史料批判をなさるなら、まずご自分の「願望」を自覚することです。

史料批判史料批判 2011/01/05 23:54 国民党の偽作というのは、とりあえずの仮説です。私としては、未完成部分だと思っています。
そこは、問題視する必要はないと思いますよ。私は、状況が変われば引っ込めるつもりだと書いてあるつもりなのですが。

「志満っ多」は当て字ではありません。変体仮名(へんたいがな)です。

日本人は、明治時代より前は、1音に対し複数の漢字を元にした「くずし字」を使い、
それらをまとめて「かな」と呼んでいました。

版本などで使われるかな文字が、相当整理された幕末で、100余字くらい。
自由な手書きは、それでもなお、制限がなかったわけです。

明治33年(1900年)の小学校令で「現代かな」を使うことが決まり、
それ以外の「かな」は、全部まとめて変体仮名と呼ばれるようになりました。

翌年からそれが実施されたので、明治34年(1901年)が、
現代ひらがな使用の固定化が一段と進むきっかけになった年なのです。

それで、およその目安として、明治34年頃に小学校に入学したかどうかで、
著名人が日常的に現代かなを使うかどうか、
予想してみたのが、

「井家又一日記はニセモノ」http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/nannkinnjikenn.motoheisinikkinisemono.html
からリンクしている

「井家又一日記の日本語」ページ
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/ikemataitinikki.nihonngo.html

から、さらにリンクしている「著名人とかな遣い」
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/tyomeijinntokanadukai.html
です。

現代でも、書道家や和歌俳句などを好む方は、文語文の文学的文章の中で、そういう文字を使うこともあります。

ただ問題は、それが、昭和12年の虐殺を記録した個人日記で使われるかどうかです。

昭和12年には、明治34年に教育を受け始めた現代かな使用者は、43歳でしょうか。

井家又一上等兵が43歳以上で、書道趣味や和歌俳句趣味があって、
戦場で、戦闘や虐殺に対して、書道や文学趣味を発揮したいと思う人物だった可能性は、
どれくらいあったでしょうか。

junjun 2011/01/06 06:29 はあ〜勉強になりました。
しかし、説明をお聞きすると、ますます「日本人が書いた文」としか思えませんが・・・。

>井家又一上等兵が43歳以上で、書道趣味や和歌俳句趣味があって、
>戦場で、戦闘や虐殺に対して、書道や文学趣味を発揮したいと思う人物だった可能性は、
>どれくらいあったでしょうか。

少なくとも、国民党の偽作と飛躍するより、はるかに妥当だと思いますが・・・。

それから、「43歳以上で」ではなく、「43歳以上、もしくは」ですよね?
書道趣味や和歌俳句趣味がある人物ということなら、普通に一定の割合で存在するでしょう。

>著名人が日常的に現代かなを使うかどうか、
>予想してみたのが、

すみませんが、「予想」で終わって「検証」されていないのでは、反応のしようがありません。

史料批判史料批判 2011/01/06 07:55 「〜ニセモノ」のページで、私手持ちの、昭和10年刊『手紙講座』平凡社について触れています。
これには、当時の著名人らしい(当時の著名人ですから、私は知らない、という方もいます)
手書き実例が載っているのですが、「候文」以外の口語文で書かれた手紙で、これほどの変体仮名、画数の多い数字、
を使っている例は、8巻通して全くありません。つまり、このころは、平均的な日本人同士の日常的な場面では、
ひらがなに関しては、現代人とあまり変わらない手紙だった、と考えていいと思います。

掲示板などでお話していて、秦著『南京事件』を見ないまま話される方に、たびたびお会いしているのですが、
秦著p131を開いて、「井家又一日記の日本語」のページにある変体仮名の説明など、疑問点を照合していただけたでしょうか。

疑問は変体仮名だけではありません。「かな遣い」の「いる」は、正しくは「ゐる」であって、旧かな遣いを習った戦前の世代は、
絶対間違わなかったそうです。以下のようなコメントをいただきました。
「小学校に入学したのは昭和5年、そのときの国語教科書の第4ページに、カラスガヰマス スズメガヰマス と旧仮名遣いが出る。
この旧かな遣いを戦前の人は決して間違えなかった。」

そういう間違いや、満月に近い月の出は、夕方には低いのに、夕方空高く月、など、あり得ない矛盾した描写もあり、
当時その場で書かれたものとは判断し難い部分があります。

まだ秦著を見ておられないなら、一度手にとって、「井家又一日記の日本語」のページと、p131を照らし合わせてください。

「43歳以上、もしくは」です。

専門家にお近づきがあるのなら、私の疑問に沿った検証を、お願いしてみていただけないでしょうか。

junjun 2011/01/06 18:07 申し訳ありませんが、秦著『南京事件』は未読です。
貴兄のサイトだけを拝見して、疑問点を指摘させていただいています。
本来なら議論のマナーに反することですが、それでも首をかしげざるを得ないところがあるので、指摘している次第です。

貴兄のサイトに記載されている井家又一上等兵の日記を見ましたが、私の感想は貴兄とはまったく逆です。
これはきっと本人が自分の意志で書いたものだろうな、と。
文学的素養のある人だったようなので、「夕方空高く月」と書いてあっても、「ああ、文学的に脚色したんだな」としか思いません。そもそも、地平線スレスレでもないかぎり、「空高く」と表現しても別に不自然ではないと思いますが。

具体的な出典は思い出せませんが、戦場で俳句や和歌を詠んでいた兵士がいたというのは、わりとよく聞く話ではないでしょうか。
戦場で文学など不自然、などということはなく、戦場だからこそ文学で自己を保とうするのは、私には何の違和感もない心理です。

それから、引用されている箇所が書かれた日付の12月16日は、戦闘中とは言えないでしょう。すでに日本軍が南京を占領し、敗残兵の「摘発」にあたっている時期です。翌日には入城式が行われているぐらいです。

それ以外にも、「ありえない」「はずがない」がちょっと多すぎると思います。人間が完璧であるはずがなく、例外や間違いなど普通にありえることです。
率直に言いますと、「結論先にありき」の検証にしか見えないのですね。最初に「まずご自分の『願望』を自覚すること」と申し上げたのは、そういうことです。

これ以上の議論はおそらく並行線になると思いますし、さらに議論を深めるほどの知識も私にはありません。
「変体がな」の件など、私には勉強になることもありました。
最後に、当初のコメントがいささか喧嘩腰だったことをお詫びいたします。

junjun 2011/01/06 18:15 追記です。

>専門家にお近づきがあるのなら、私の疑問に沿った検証を、お願いしてみていただけないでしょうか。

専門家の知人はおりませんので、ご期待には添えません。申し訳ありません。
しかし、おそらく私と同じような評価をするのではないかと思います。

史料批判史料批判 2011/01/06 22:34 あんまりな。

せっかく私の、元兵士の手書きの日記についての書き込みに、コメントしたのですから、
秦著『南京事件』に掲載の、いくつかの手書き文書くらい、
見てみましょう、
くらいのことは言ってもいいのではないでしょうか。

現代史の関係者の方は、手書き文書が苦手なようですが、
これをきっかけに、少しは手書き文書に関心を払っていただきたい。

見もしないで、議論は平行線になるだろう、というのは、最初から議論しない、ということと同じです。

私は、事実確認の必要があるから、史料調査できる立場にある方に、調査の進展をお願いしたいのです。
秦著掲載の1枚では何とも言えませんから。

日記の真贋を疑ってみるというのは、思考仮説の一環です。
そういう作業には、最初から意味がないと言っているみたいです。
それでは思考範囲を自ら狭めるのと同じではないでしょうか。

「見ない」と宣言しておいて、私の「願望」の問題に転化するなんて、不思議ななさりかたです。

junjun 2011/01/07 00:49 私が指摘した点は、手書き日記を見るか見ないかで左右される内容ではないと思いますが。

それから、大事なことを書き忘れていましたが、

>笠原氏が史料の現物の確認をしておられないことが確認できました。

>「現代史の関係者の方は、手書き文書が苦手なようですが、
>これをきっかけに、少しは手書き文書に関心を払っていただきたい。

こういう根拠薄弱な決めつけはやめましょうね。
根拠薄弱だと思われないのであれば、もはや私から申し上げることはありません。

>日記の真贋を疑ってみるというのは、思考仮説の一環です。
>そういう作業には、最初から意味がないと言っているみたいです。

いや、私は貴兄の「検証」の問題点を具体的に指摘しましたよね?
意味がないと思っていれば、頭ごなしに全否定しますよ。
そもそも、専門家はちゃんと「日記の真贋を疑ってみる」作業を当たり前にやっています。そのうえで「真」と判断したものでしょう。
もちろん、新たな視点が提起されれば、真贋を見直す作業は必要になります。
しかし残念ながら、貴兄の「検証」は専門家を動かせるレベルにはないというのが私の結論です。

以上、これで本当に失礼します。

史料批判史料批判 2011/01/07 08:14 結論先にありきなどとおっしゃいますが、私は秦著を読むまで、南京事件は息子の教科書通りに、何十万もの虐殺があった、
ような気がしておりました。秦著を読んで、やっと、具体的な状況、というものの、内容を知りました。

読みながら井家又一日記を見ていると、それまで私がよく知っていた手書き文書実例と比べて、非常に違和感があると感じました。

私がよく知っていたのは江戸時代の古文書です。
例えば以下のような古文書講座の例があります。http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0703kaidoku10_1.htm

このような「くずし字」文書から現代の手書きへと、どうやって変化してきたのか、それを説明する本がないと思いながら、
明治から昭和と、いろいろな文献を調べていたのです。そもそも、そのようなことをしている人がいないという気がします。

井家又一日記は、昭和12年時の日本人の日常文としては、変です。

多数の変体仮名や「拾貳」という画数の多い数字などは、間違いや例外と判断されるようなものではないと思います。
明治大正時代の手紙手本か、もしくはそれを手本にした昭和の書道趣味の手本、というものがあります。

それらを、平均的な日本人が書いた手紙であると誤認して、昭和12年には、日本人は普段、このような文字使いで文章を書いていた、
と、考えて、わざわざそのように書いたものだと、私は思います。

「拾貳」は、正式文書には使うことがありますが、これも日常的な用法だと勘違いしているのではないかと思います。

史料批判史料批判 2011/01/09 22:55 一次史料がニセモノだったために、
それまで世界の共通理解だったことが、全部ひっくり返った実例があります。
それが、偽イシドールス法令集です。

「偽作の実例は、遺物・報告、どちらも古今東西に渡って極めて多いが、これは西洋で最も有名なものである。

 9世紀に、セビリアの司教イシドールスの編と称する、教皇法令集なるものが出された。
しかしその中には多くの偽作が含まれていた。しかもそれらは、いずれも、教皇権が大であることを基礎づけるものだった。

その最も有名な一つ「コンスタンティヌスの寄進状」は、
ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が、改宗の際に、
ローマ教皇にローマ・イタリア・西方諸地域の宗教上の至上権のみならず、統治権をも寄進したことを記している。

この寄進状は、中世を通じて本物と信じられていたが、ルネサンス時代にその真実性が疑われ、
ラウレンティウス・ヴァラが、歴史的批判的方法によって、それが偽作であることを証明した。

ただし、この偽作の制作年代・場所・作者については、その後の研究者によっても、なお、明らかにされていない。」

林健太郎著『史学概論』有斐閣より  (『史学概論』は、昔、東大で教科書だった本)


という具合に、ローマ教皇が中世に強大な権力を握ったその源泉は、
偽文書だったらしいのです。

権威の証言は、真実の証明ではありません。

史料批判史料批判 2011/01/11 11:55 昭和10年平凡社『手紙講座』採録人名リスト、
1巻から4巻までと、5巻から8巻までを、UPしました。
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/tegami1kara4.html
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/tegami5kara8.html

江戸時代に「ふりがな」で多用され、その簡略さのために、
明治大正時代も生き残ったいくつかの簡略変体がなについて、
説明しました。

全体を通して言えるのは、「口語文」において、
「井家又一日記」並みの、簡略化されていない「変体がな」を使っているのは、

第8巻の最後に出てくる竹本土佐太夫の例と、
第1巻の有島武郎の例くらいです。

どちらも、相手に非常に気を使った手紙です。

「かな」に草書の漢字を使うのは、書道では華やかさの演出、
みたいに受け止められていると感じています。

だから、「井家又一日記」に草書漢字風の字が出てくると、違和感が強烈なのです。

明治34年(1901年)は、現代ひらがな使用の固定化が一段と進むきっかけになった年です。

1894年生まれの人は1901年に小学校へ入学する、とすると、

それ以前に生れた人とそれ以降に生れた人では、
大体の傾向で見ても、やはりかなり違うと思われます。

昭和10年(1935年)に、
現代かなを習った世代ですでに著名人になっている人というのは、
40歳前に名前が売れていなければならない。やはり少ない。

大体、1900年以降は、周囲の活字の世界が、
完全に現代かなに統一された世界になってきています。

小学校から、公式には現代かなしか習わない状態ですと、
「現代かなよりも、変体仮名の方が簡略である場合」にのみ、
使用頻度が高くなる傾向があります。

「拾貳」という画数の多い数字(大字)などは、日常では使いません。

だから「井家又一日記」は、異常に丁寧だと言えます。
それなのに、文章が日本語としておかしい、のです。

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