ゆれる

何が「ゆれる」のか?

 弟のオダギリジョーが、兄の香川照之が思いを寄せる同僚の幼馴染と関係を結んでしまうところから物語は始まる。そして、3人ででかけた渓谷のつり橋から幼馴染は転落、帰らぬ人となる。その時、同じ橋の上にいた香川は、幼馴染殺害の被告として逮捕される。象徴として描かれるのは、「ゆれる」つり橋である。

兄が「ゆれる」

 面会室で、または、法廷で、被告人の香川はオダギリや、検察の木村祐一*1に追い詰められていく。東京で好きなことをして暮らし、収入もある弟に対して、田舎に縛られ、しがないガソリンスタンドを細々と営業する兄。さらに好きな女まで奪われて、しかも拒絶される兄。日常では決して表に出てくるはずの無いルサンチマンが、「殺人事件」という非日常において顔を見せ始める。しかし香川は懸命にそれを押しとどめようとするのである。いいじゃないか、「このいつもいい思いをしてばかりの弟がオレの惚れた女を横から奪いやがったからこんなことになったんだバカヤロウ」とか、「さんざん面倒見てよくしてやったのにあの馬鹿女、都会モンの弟になびいたあげくオレに触られたくらいでギャーギャーわめきやがって死んで当然だこのヤロウ」くらい言っても。でも香川は言わない。いや、父や弟といった家族、田舎という社会という日常のしがらみが、それをさせないのだ。香川は「田舎に住む善良だけれどもいつも貧乏くじを引く男」という役割を最後まで押し通そうとする。しかし、この非日常の世界において、ともすれば前述のようにわめきちらしたくなるほどの心理的状況とが、互いにせめぎあい、ともすれば「日常の役割」は破綻寸前にまで追い込まれる。このギリギリのところで兄は「ゆれて」いるのだ。この辺りの演技は実に秀逸であり、ちらりと見せる非日常の狂気を、表情や語り口だけで表現してしまうこの香川のものすごい存在感が、さらにストーリーにスリルを与えている。

観客が「ゆれる」

 しかし、なぜ観ている私達がそれに「スリル」を感じてしまうのか。この香川の父(伊武雅刀)や、弟であるオダギリは、当事者の兄とは異なり、日常の世界に生きたままなのである。つまり、香川の法廷での言葉やふるまいによって、彼らが非日常の世界に放り込まれる可能性がありうる、というわけだ*2。ここまで僕を含め、圧倒的な香川の存在感から、兄に感情移入して観ていた観客は多いはずである。そうならば、兄はここで一挙に溜まりにたまった鬱憤を晴らすが如く、「お前が悪い」「社会が悪い」「おれは悪くない」とわめき散らすことが観客のカタルシスへとつながるはずである。これによって、兄は重圧から解放されるのだから。しかし、我々はそれを望まない。それは我々が日常の世界の住人だからであり、作中のオダギリをはじめとする、兄の周囲にいる人々と立場が同じだからである。
「うまくいきそうなんだから、頼むからお前、だまっててくれないか。お前が我慢してくれればみんなが助かるんだから。」
そんな一心で僕はスクリーンを見つめていた。兄に感情移入をしていた我々は、奇しくも弟の心情でスクリーンを見つめているのである。そう、私達観客の視点も「ゆれて」いる。時には兄に、時には弟に。座りの悪い椅子に座ってしまい、尻を何度も動かすように。

弟が「ゆれる」

 そして、弟である。彼は作中では「ゆれっぱなし」である。田舎を捨てて東京へ飛び出していった者の居心地の悪さ。兄を殺人事件の被告人にしてしまったかもしれないという後ろめたさ、そして、隠し事。彼は冒頭から、様々な場面において、そして最後まで「ゆれ」続けている。オダギリは、父親の前で、幼馴染の前で、そして兄の前で、どんな顔をすればいいのか分からないのだ。彼の家族への態度は、いや、故郷への態度と言い換えてもいいのかもしれない。それらには一貫性が無く、その場その場での反応でしかない。そこには、田舎という閉ざされた社会に縛られる兄とは異なる縛りがあるのだと感じるべきなのだろう。過去の思い出と、現在。または田舎と都会。兄は後者の狭間で「ゆれる」。そして弟は、前者の狭間で「ゆれる」。

「ゆれる」が表すもの

 悲しいことに私達が社会で暮らすということは、限りなく存在する行動のパターンにおける選択肢を、自動的に消去されて生きなければならないということである。私たちはその人間の集合(=社会)に対して親和性を持っている間は選択肢の自動消去をわずらわしくも思わないし、むしろ効率的に日常を生きることができると言える。しかし、もしも何らかの事情によって、自動消去された選択肢を選ばなければならない衝動に駆られてしまったら。または、信頼していた社会から裏切られたり、阻害されたりすることによって、自分が所属する社会を拒絶するようになったのなら。私達個人の行動と、社会的規範とが対立し、私達は引き裂かれてしまう。引き裂かれまいとする私達が最後にとる手段とは、まさにその狭間で「ゆれる」しかないのである。
 兄と弟。田舎と都会。過去と現在。隣の家の芝は青く見え、我が家の芝生は枯れているように見ようとも、しかしそれは隣の家も同じことであり、結局はすべての家の芝は枯れている。この映画が示した世界は正にそれである。しかし最後に青い芝生の存在が示され、映画は終わる。青い芝生はどこにあるのか。隣の家か、それとも我が家か。それとも・・・。その結末に、私は一抹の清涼感と、あっけなさを感じたものの、安心して家路に着くことができたのでありました。

*1:ものすごくいやらしい検察官である。じつに素晴らしい。

*2:父が物語の途中で法廷に行くことを放棄してしまうというシーンが象徴的である。