帰り来ぬ「黄金時代」

テレビの黄金時代 (文春文庫)
小林信彦『テレビの黄金時代』(文春文庫)読了。テレビ局とプロダクションの関係や藝人たちの浮沈を、適度な距離をおいて叙述しているので、面白く読めた。
ところで、たとえば父が、「ハイそれまーでーョ」とおどけてみせたり、懐かしそうに「緑の丘の 赤い屋根♪」と口遊んだりするのを聞くとき、私はそれをたいへん羨ましく思うと同時に、埋めることのできない決定的な〈世代差〉に打ちのめされることしばしばである。
当時のラジオドラマやテレビ番組は、一回性の消耗品であったから、「復原不可能」である。小林氏もそのことを嘆いていて、「NYのテレビのミュージアムへ行けば、古い番組を指定して観られるのに」――というようなことを、この本でも何度か書いている。これは非常に惜しむべきことで、全盛期のクレイジー・キャッツコント55号を、「映画」ではなく、それよりも制約を受けない「テレビ番組」で観るのが困難*1というのは、一種の文化的損失であるといっても過言ではないと思う。

〈テレビの黄金時代〉がいつ始まり、いつごろ終ったかについては、かつて何人かで相談しながら、略年表を作ったことがある。
ごく大ざっぱながら、それは「若い季節」「夢であいましょう」「シャボン玉ホリデー」、TBSの警視庁ドラマ「七人の刑事」が始まった一九六一年、あるいは、これらに「てなもんや三度笠」(朝日放送)などが加わった一九六二年あたりを始まりとするのが妥当と考えられる。(中略)
きびしくいえば七一年、甘くみて七三年が、〈黄金時代〉の終りだった。なによりも驚くのは、この年が、テレビ放送開始以来二十周年に当ることで、あらゆる実験、エンタテインメントは、この二十年間で試み終えられた感が深い。(p.320-22,太字は傍点部)

それから余談だが、この本には、井原高忠永六輔の「決裂」が描かれている。井原に、「光子の窓」(テレビ番組)をとるか「デモ」をとるか、と問いつめられた永は「デモ」を選び、結局は番組をおろされる。永氏自身は、「デモをえらんだのは、『日曜娯楽版』にかかわっていた間に身についた、反体制、反権力の姿勢のせいだろう」(永六輔『昭和』光文社知恵の森文庫,p.187-88)と自己分析しているが、小林氏は「永六輔は、この時、初めて、その種のはしか*2にかかったのだと思う」(p.71)と述べている。
さて昨日は、木村惠吾『娘の縁談』(1955,大映)を観た。原作林房雄*3、音楽万城目正の楽しい作品。脚本は、木村と齋村和彦が共同で執筆している。
「老け役」の北林谷榮*4(泉あぐり)が実にいい。短いカットつなぎのやや長いシークェンスが後半部に多々あるのだが、弛緩しがちなそれをうまく締めてくれる。〈九州弁〉も板についている。北林と、このあいだ亡くなってしまった根上淳(島本幸喜)とのかけ合いが特に素晴らしい。
まだ、これといった代表作がない頃の若尾文子(瀬木友子)は、準主役格ながらあまり目立たないが、南田洋子(泉千栄子)の魅力は存分に味わうことができると思う。中村伸郎、清川玉枝、潮万太郎など魅力的な傍役も揃っている。ちょっと顔を出す川崎敬三は、この頃デビューしたばかりではないのだろうか。
書き忘れるところであったが、丸山修(運転手)を使ってのラストの演出はなかなか素敵である。

*1:大半は不可能。

*2:「その種のはしか」については、以下を参照のこと。「学生運動に深入りしなかったのは、コミンフォルムによる日本共産党批判の影響で、精神的にずたずたにされた先輩たちを身近に見ていたからで、その辺はぼくなりのバランス感覚で生きてきた。学生運動どころか生活費がなく、卒業まで新宿の裏通りの店でアルバイトをしていたが、『火炎ビンをあずかってくれないか』とたのまれれば、その程度の手伝いはした。学生のころは、ぼくなりの葛藤があったわけだが、これ以上、書く必要もなかろう。単純にいえば、ぼくははしかを経験していたのである」(同,p.71)。

*3:集英社版日本文学全集『林房雄檀一雄集』の「年表」をみると、次のようにある。「五月から八月まで「息子の縁談」を、十二月から翌年六月まで「娘の縁談」を『朝日新聞』に連載。乱作により精神的、肉体的疲労が重なった」(昭和二十九=1954年)。『息子の縁談』も、春原政久によって映画化されている。

*4:いま九十四歳くらいだから、このときは「まだ」四十四、五である。