雪たたき

日本の名随筆 (別巻74) 辞書
 柳瀬尚紀編『日本の名随筆 別巻74 辞書』(作品社)に、紀田順一郎「存在しない語彙」という文章が収めてある(pp.208-10)。この文章は元々『奥付の歳月』(筑摩書房1994)に収められていた。そこに「雪たたき」なる語の話が出て来る。「戦後この語彙*1をはじめて採用した辞書は『広辞苑』(一九五五)で」云々(p.209)とある*2
 紀田氏はこの文章で、一九九三年刊の『集英社国語辞典』も「雪たたき」を採録したということを、驚きをもって記している。
 そもそも「雪たたき」なる語は、『雪たたき』という幸田露伴の作品名としては著名であるが、一般にひろく使用された形跡のない語だという。辰野隆『忘れ得ぬ人々』(昭和十八年刊)に収められた「露伴先生の印象」が、「雪たたき」を耳慣れない言葉であると記しており、紀田氏も辰野のこの文章に触れている。しかしそれ以前に、『革新』(昭和十四年七月)上で、露伴辰野隆が対談を行っており、「雪たたき」のことも話題にのぼっている。露伴はそこで、「雪たたき」という作品名とその前半部の内容を、『足利季世記』畠山記「雪たたきの事」に拠ったことを明らかにしている。「露伴先生の印象」は、それらを踏まえた上で書かれた文章なのであった。
 そのことについて詳述しているのが、久保忠夫『三十五のことばに関する七つの章』*3(大修館書店)の第四章(初出は『季刊芸術』第三十九号,昭和五十一年十月)である。久保氏は、「(畠山記の―引用者)原文には、『アシダニ雪ノツキケルヲ名屋ガ小門ノ板ニテタヽキテ落シケレバ』とあるのであるから、『たたいて雪を落とすこと』(『日本国語大辞典』初版の語釈。―higonosuke註)というように一般化していいのだろうかと疑問が出てくる」(p.67)と述べており、辞典の語釈に疑義をさしはさんでいる。
 ここで露伴の『雪たたき』を見てみよう。実は作中に、「雪たたき」という語は出て来ない。

雪はもとよりべた雪だった。ト、下駄の歯の間に溜った雪に足を取られて、ほとほと顛(ころ)びそうになった。(中略)叱咤したとて雪は脱(と)れはしない、ますます固くなって歯の間にいしこるばかりだった*4。そこで、ふと見ると小溝の上に小さな板橋とおぼしいのが渡っているのが見えたので、その板橋の堅さを仮りてと橋の上にかかったが、板橋ではなくて、柴橋に置土をした風雅のものだったのが一ト踏で覚り知られた。これではいけぬと思うより早く橋を渡り越してその突当りの小門の裾板に下駄を打当てた。乱暴ではあるがかまいはしなかった。
「トン、トン、トン」
蹴着けるに伴なって雪は巧く脱けて落ちた。左足の方はすんだ。今度は右のをと、左足を少しひいて、また
「トン、トン」
と蹴つけた。ト、ようやくに雪のしっかりと嵌りこんだのが脱けたとたんに、音もなく門は片開きに開いた。
幸田露伴『雪たたき』,集英社版日本文学全集『幸田露伴樋口一葉集』所収,p.246。新字新かな)

 この行為がすなわち「雪たたき」である。この語が『足利季世記』畠山記「雪たたきの事」に由来することはさきに述べたとおりだが、他に典拠が見つからない以上、久保氏の慎重な見解が差当たりは妥当であろう。
 ちなみに『日本国語大辞典』第二版では、その語釈が、「たたいて雪を落とすこと。特に、下駄の歯の間にはさまった雪を落とすこと。」というふうに改めてある。久保氏の指摘を受けたものなのであろうか。
【附記】紀田氏は後に、『本の窓』に「『雪たたき』という難語」を書いたようである(2000)。未見。

三十五のことばに関する七つの章

三十五のことばに関する七つの章

*1:「語彙」の用法が適当でないような気もするが―。

*2:しかし、引用されている語釈は初版のものではなく第二版のものである(1955年は初版の刊行年)。

*3:高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)の「楽しい楽しい言葉のセンサク」(pp.110-12)は、『三十五のことば〜』の書評である。ただ高島氏も、惜しむらくは誤植が多いことだ、と嘆いている(正誤表まで作ったのだそうだ)とおり、確かにこの本には誤植が多い。

*4:原文は、「居(ヰ)しこるばかりだつた」。久保氏は、この「いしこる」は辞書に見えない語であると書いているが、『日本国語大辞典』第二版には採録されている。やはりその用例は、露伴の『雪たたき』から拾っている。