宇野哲人の本

晴れ。
午後から大学。夜帰る。
清国文明記 (学術文庫)
宇野哲人『清国文明記』(講談社学術文庫)という本が最近出て、いまこれを読んでいるのだが、「宇野哲人」という著者名が目に入らなかったら、多分手に取ってさえいなかっただろう。『支那文明記』のことだと知って、ようやく合点がいったのだが、しかしなぁ……*1。この書物は、宇野が明治三十九年の初めから四十一年までの二年間、北京に留学した際の記録と論文数篇とをまとめたものである。
宇野は帰国の途次に長安旅行をしたのだが、そのとき桑原隲蔵*2と同行している。「九月三日午前七時、畏友桑原学士と同行長安に向かいて北京西火車站を発す」にはじまる「長安紀行」(pp.172-258)は、「十月二十七日桑原君と袂を分か」ち、翌日漢口に到るまで、五十六日間に及んだ。
考史遊記 (岩波文庫)
五年前には、桑原隲蔵『考史遊記』(岩波文庫)が出ている。これは、桑原が明治四十年から二年間、中国に遊んだ際の旅行記なのだが、「長安旅行」に同道した宇野哲人と矢野仁一が序文を寄せている。この序文で宇野は、「余は毎夜燭を剪って、その日の見聞する所を記し、これを郷里の父母妻子に送った。拙著『支那文明記』に載する所の長安紀行は即ちそれである」と書いており、私は『支那文明記』の存在をこれによって知った。
宇野が「郷里の父母妻子に送った」手紙は、まず『熊本日日新聞』紙上で公開されて好評を博したらしく、明治四十五年には大同館から刊行され、さらに大正七年には改訂版が出たのだが、それ以降、長らく絶版となっていたようだ(宇野精一「学術文庫版刊行に当たって」*3『清国文明記』所収による)。それだけに、今回の再刊はまことに喜ばしいことである*4

*1:下に述べる桑原隲蔵『考史遊記』(岩波文庫)では、「支那」を「中国」に言い換えてはいない様だ。宇野哲人『中国思想』(講談社学術文庫)は、題名こそ「中国」に改められたが、本文は「支那」のままだ。…なにも「支那」が良い、というわけではないので(高島俊男氏や呉智英氏らの擁護論は筋が通っているので同意するが)、ただ、無闇な言い換えをやめて欲しいだけなのである。出来るだけ、原本に近いかたちで出して欲しいと希うものである。

*2:くわばらじつぞう。桑原武夫はその息子。

*3:ここで書かれた宇野哲人の略伝も面白い。『中国思想』(講談社学術文庫)の「著者のプロフィール」で述べられたエピソードもあるが、例えば五高時代、漱石に影響をうけて英文を専攻する積りもあった、という話などは面白い。

*4:一応、「近代デジタルライブラリー」では読めるが。