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2013-07-10 「なすぎる」? 「なさすぎる」? このエントリーを含むブックマーク

 先日、政治家某氏の発言中に「勉強しなさすぎ」という表現が出てきたとき、Aさんがわたしに、「この『さ』は餘計ですよね? 要りませんよね?」とお訊きになったので、さしたる深い考えもなく、「『やらなすぎる』を『やらなさすぎる』と言ってしまうようなもので、例の『サ入れ言葉』のように、この場合の『さ』も不要ですね」、というふうにお答えした。

 しかし、そう言ったあとでよく考えてみると、「勉強しなすぎ」というのも、どこか舌足らずに感じるようになってきた。

 そもそも、わたし自身、形容詞ex.「少ない」「切ない」)に「すぎる」が下接するばあいなどを除いて、「〜なすぎる」「〜なさすぎる」という表現をほとんど使ったことがないので、内省がきかずに困り果てていると、ことばに通暁されているBさんが、Aさんに対して、何かプリントを見せながら、「ミチウラさんが確か…」とおっしゃっているのが聞こえてきた。

 ミチウラさんというのは「道浦俊彦」氏のことであろう、とおもいつつも、話の輪に加わることが出来ずにいたが、あとで検索してみると、道浦氏のコラム「とっておきの話」に行きあたった。「ことばの話1504―知らなすぎる? 知らなさすぎる?」 である。当該記事は連載時に読んだはずなのだが、すっかり忘れてしまっていた。

 さて道浦氏が、その問題について塩田雄大氏(NHK放送文化研究所)に「教えを請うと」、塩田氏はメールで『明鏡国語辞典』(大修館書店)の記述を引かれたというので、まずはその『明鏡』の記述から孫引きしておく。

すぎる(二)

動詞連用形形容詞形容動詞語幹などに付いて複合語を作る>

物事がある程度をこえる。度をこえる。

「働き−・みじか−」「自信がなさ−」「人の意見を聴かな−」

[語法]形容詞の「ない」に続くときは「なさ−」(お金がなさ−)、接尾語の「…

ない」に続くときは「…な−」「…なさ−」(せわしな(さ)すぎる)、打ち消しを

表す助動詞の「…ない」につづくときは「…な−」(読まな−)となるのが一般的。

 このコラム2003年12月19日に書かれたものから引用は、『明鏡』の初版にもとづいている。

 いま、手許にある『明鏡』第二版(2010.12.1初刷)を開いてみると、「すぎる」の項目の記述は、上に引いたものとあまりかわらない。ただし、「ない」に関するコラムが新設されており、それを参照すると、助動詞「ない」が付いたもの(例として、「知らない」「飽き足りない」「書けない」「構わない」「くだらない」「済まない」「足りない」「つまらない」「ほかならない」「やむを得ない」「相談しない」「誠意が感じられない」が挙げられている)は、「すぎる」(または「そうだ」)に接続する場合、「な」に直接付く、とあった。さらに、「『さ』を介した形でも用いられるが、慣用になじまない。『△知らなさそうだ・読まなさすぎる』」(p.1280)と書かれている。これによるならば、「相談しなさすぎる」は「慣用になじまない」ということになり、したがって、上に述べた「勉強しなさすぎ」も「慣用になじまない」ということになろう。

 だが、道浦氏のコラムは、それで万事解決、というわけではない。

 塩田氏のメールは、さらに以下のようにつづく(こちらも孫引きしておく)。

ただ、『来なさすぎる』は、『明鏡』の記述(これに従えば「来なすぎる」になる) とは反していますね。おそらく、語幹1拍(カ変・サ変・上一・下一)のものは、別ルール(「さ」付きに なる)になると考えたほうがよさそうです。

しない  ○しなさすぎる ×しなすぎる

来ない ○来なさすぎる ×来なすぎる

見ない ○見なさすぎる ×見なすぎる

出ない ○出なさすぎる ×出なすぎる

 これによると、「勉強しなさすぎる」がむしろ正しい、ということになる。

 しかし、それにしても、「しなさすぎる」「でなさすぎる」という表現にまつわりつく「違和感」の正体はいったい何であろうか。特に、「いなさすぎる」(居なさすぎる)に対しては、かなりの据わりの悪さを感じる*1。これは、あるいは個人的な語感の問題なのであろうか。

 また、語幹が1拍のものは、「すぎる」(「そうだ」)に接続するとき「さ」を介する、という「正しさ」の根拠は何なのか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。

 ところで、道浦氏はさきのコラムを書かれる前に、「ことば会議室」でこの問題について質問されたことがある

 そこでは飯間浩明先生が、文化庁編『言葉に関する問答集【総集編】』(大蔵省印刷局1995)や『口語文法講座3 ゆれている文法』(明治書院1964)の記述渡辺実氏による)を紹介されている。いずれも、いわゆる認識的モダリティの「そうだ」の接続に関する記述ではあるが、飯間先生によると、「すぎる」の接続もこれに準ずるのではないかという。たしかに、『明鏡』第二版のコラムも、「すぎる」「そうだ」の接続については、同項目内にまとめて記している。

 それでは、渡辺氏がどのように述べているかというと――これは「イ形容詞」に限定した話題ではあるが――、「語源意識が弱まれば、つまり長い語幹という意識が強まれば、『さ』の介入を要しなくなる傾向が強まる、と言えそうである」と結論しているらしい。つまり語幹が短ければ(というよりも特に語幹が一拍であるあい)、これとは逆に、「良さそうだ」「無さそうだ」等の如く、「さ」の介入を要するということである。そしてその理由については、「一音節語幹不安定に対する一種の補強」と解釈している。

 ただし、そこで例外として挙げられた「濃そうだ」について、当時はどうであったか知らないが、渡辺氏は「あまり言いもせず聞きもせぬ形」と言い切ってしまっている。しかしこれは、やや言い過ぎのようにおもう。確かに、現在は「濃さそうだ」「濃ゆそうだ」等の形もしばしば耳にするけれども(「濃ゆい」「濃いい」は、「濃い」そのものの補強だろうから、「濃ゆそうだ」は事情が違うかも知れない)、ATOKでは「濃そう」が一発変換できるのに対し、「濃さそう」は文章校正で引っかかる。

 しかしいずれにせよ、「しなさすぎる」「でなさすぎる」等が、語幹の拍数を安定させるために「さ」を介するようになったという解釈は、許されそうである

 なお、道浦氏が「『さ』は要らないように思う」と書いている「知らなさすぎる」、つまり語幹が二拍以上のものに「さ」を介することについては、飯間先生違和感を表明されているが、前掲「ことば会議室」の同スレッド内で、岡島昭浩先生は、島崎藤村井上ひさしの「しらなさすぎる」の使用例を挙げておられる。

 ちなみに、「青空文庫」に入っている作品であれば、岸田國士「母親の心理学」に「自分の子供のことを知らなさすぎ」という例が見当る。同じく岸田の「歌舞伎劇の将来」にも、「現代を知らなさすぎる!」という例が会話文中にみつかった。

 一方、語幹が一拍の動詞(漢語サ変動詞含む)で「さ」を介するものもさがしてみたが、あまり出てこない。なかなか見つけられないのは、そもそも、「〜なさすぎる」「〜なすぎる」というのが、口頭ではともかく、文章にはあらわれにくい表現であるからかも知れない。

 今のところは、折口信夫「『なよたけ』の解釈」の「一返ぎり芝居を見なさ過ぎる」という例や、堀辰雄「Ein Zwei Drei」の「まだなかなか完成しなささうだ」という例がみつかっている。ざっと検索してみただけなので、まだほかにあるかも知れない。

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 井上章一編『性欲の研究エロティックアジア』(平凡社2013)に、井上章一「『乳』と『おっぱい』」というコラムが収められている(pp.194-204)。

 これは、「乳」「おっぱい」をめぐる語誌であるが、笠亭仙果こと柳亭種秀の『於路加於比』(19世紀中葉成立)に、「乳汁をおつぱいとは、ををうまいの約(つづま)りたる語なるべく」とあるというのは、知らなかった。

 また井上氏は、新村出編『広辞苑』が初版1955年刊)からおっぱい」を拾っていたことに言及し、「後発の辞書は、その多くがこれにならったのだろう」(p.196)と書いているが、戦中の金田一京助編(実際は見坊豪紀が手がけている)『明解國語辭典〔初版〕』(三省堂1943)がすでに拾っており、「おっ-ぱい(名)〔兒〕乳。」、とある。ただしこれだけでは、「乳」が「乳汁」のみを指すのか、「乳房」を含めていっているのかわからない。

 見坊氏は、『明解初版編纂するにあたって、「新規項目の補充には『言苑』を利用したが、それ以上に利用したのが、新聞雑誌その他日常生活のいろいろな場面に現われるなまの資料だった」(見坊豪紀辞書日本語玉川選書1977:74)と述べている。

 そこで、新村出編『言苑』を参照したいのだが、あいにく戦後第三版(1951刊)しか手許にない。とりあえずこれを見てみると、「おっ-ぱい(名)(「一杯」の訛)乳。」と出ていた。戦前*2は載せているのかどうか。

 とまれ、『広辞苑』以前に「おっぱい」を載せた国語辞典は存在したのである

 もっと井上氏が、「これ(「おっぱい」―引用者)を『幼児語』としてしか説明しない国語辞典には、やはりたよれない」(p.198)と歎いているとおり、たとえば現代語に強いとされる『三省堂国語辞典』も、「児童語」と見なしている。

 ところで、『言苑』に「『一杯』の訛」とあるのは、何にもとづいているのだろうか。山田忠雄ほか編『新明解国語辞典』が、最新第七版(2012年刊)でもこれを引き継いでいるのが*3気になるところである

*1存在動詞を含めた状態動詞は、区別されるべきなのかもしれない。

*2初版1938年刊。

*3:「『一杯』の意という」、とある

森 洋介森 洋介 2013/07/10 21:14  手許にある博文館版『言苑』(奧附刊記「昭和十三年二月十五日 印刷」」「昭和十三年五月十日 三十版發行」)でも、「おっ-ぱい」の項(p.154)は全く同じでした。 
 これだけですと愛想無しなので、ついでに。語源を「「一杯」の訛」とするのは、眉唾物と思はれます。文獻的根據はありませんが、元は幼兒語であることからの推論です。かのロマン・ヤコブソンの名論文「なぜパパとママ?」が想起されます。と言っても洋書はよう讀まんので、その紹介などで知ってゐるだけですが。ウェブ上ですと、増田桂子「最初の一語」(下記URL)等參照。 
 http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20100218.htm
その要點は、第一にpやmなどの兩唇音が幼兒にとって發聲しやすいこと。日本語ではハハとチチだから例外なのかと言ふと、御存知の通り「母は昔パパだった」、つまり古代にハ行はp音で發音してゐたから、やはり該當します。そして第二に、乳兒は單に發音しやすい聲を出して呼んでゐるに過ぎぬ以上、母親と食物・食事とが區別されてゐないこと。從ってマンマがママ(母)であり食物であるのと同樣、オッパイは乳汁でもあれば乳房でもあり識別されなかった(換喩――部分で全體を表はす――と言ふ程でもないでせう)。赤ん坊の出すm音がンマンマと聞かれるのと同樣、p音がオパオパと聞こえることもあり得るし、それが周圍によって乳を指す「言葉」として聞き做されて轉用されるのもありさうなことでは、と愚考します。無論これは語源説に過ぎず、それが幼兒語から大人も乳房の意味に使ふ俗語となってからのことが、井上章一氏らの領分になるわけでせう。 
 となると國語辭典より俗語辭典、より古くは雅俗辭典の類に探せないかとも思ひますが、幼兒語だとやはり載せられにくいか。一往、雅俗辭典を引っ繰り返したコンセプトの特異な辭典である福永恭助・岩倉具實編『口語辭典 Hanasikotoba no Zibiki』(口語辭典出版會、一九四〇年八月第二版)でBonyūその他關聯しさうな類語を繰ってみましたが、見當りませんでした。

higonosukehigonosuke 2013/07/12 19:18 森様。ご指教いただき、まことにありがたく存じます。
そうすると、見坊氏は戦前版『言苑』を参照して「おっぱい」を採録した可能性がありそうですね。語釈も同じ「乳」ですし。
さて「一杯」語原説は単なる語呂合わせで、いわゆる「音義説」の域を出ず、私も胡散臭いとおもっております。ただ、この「一杯」説が何に由来するかが気になるところではあります。『言苑』や『新明解』が典拠としたのは何か、と云うことです。
また幼児語に両唇音が多いのは仰るとおりですね。bもそうですね。尾籠な話になりますが、「ばば」(糞)、「ばあば」(お婆さん)等。
また何か分ったことが御座いましたら、当ブログに書く積りです。ありがとうございます。

森 洋介森 洋介 2013/07/12 20:06  一杯語源説を怪しむのは同感ながら、『言苑』で既存の語からの「訛」とする以上それは、各音節ごとそれぞれに意義があると説く所謂「音義説」とは別物でせう。特に典據がありさうにも思へず、『於路加於比』と同樣に、『言苑』が想ひ着きで似た音の語を擧げたに過ぎない可能性が高いのではありませんか。 
 ついでに訂正、『口語辭典』の副題は正しくは‘Hanasikotoba o hiku Zibiki’でした。すみません。

higonosukehigonosuke 2013/07/13 19:27 森様。御丁寧なことで、まことにありがとう御座います。
「音義説」の件、仰るとおりです。「『音義説』と同程度で」「『音義説』と大差はなく」という意味で書いた積りが、不正確な、誤解を招く表現になってしまっておりました。たいへん失礼致しました。
さて、いま参照できる古い辞書類をとりあえず見てみましたが、「おっぱい」はなかなか出て来ませんね…。『俗語の考察』に「ちち」(乳)は出て来たのですが。

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