「魔」字の話

 いまも新刊で買えるのかどうか分らないが、田中慶太郎編譯『支那文を讀む爲の漢字典』(研文出版1962,以下『漢字典』)という辞書がある。これはもともと1940年に田中慶太郎の文求堂から刊行されたもので、1962年の四版から版元が「(山本書店出版部)研文出版」に変っている。その際には長澤規矩也の「重印の序」も附された。手許にあるのは1994年の十版で、高校生の時分に新刊書店で購ったのだった。
 この書物の実質的な翻訳者が松枝茂夫であるということについては、かつて安藤彦太郎が、次のように書いていた。

 中国の古典を中国のものとして読むための手ごろな字典の刊行を企画した田中慶太郎という人物は、具眼の士といえるであろう。田中氏については、『急就篇』の発売元である文求堂の主人として、すでに紹介した。竹内好さんも「田中慶太郎氏のこと」という文章(『中国を知るために』第一集、一九六七年)を書いて、その識見を称揚している。その字典というのは、文求堂発行の『支那文を読む為の漢字典』(一九四〇年。戦後、山本書店・書籍文物流通会から再刊)である。
 この字典の原本は、陸爾奎・方毅共編『学生字典』(一九一五年、上海商務印書館)という小字典で、田中慶太郎編訳となっているが、松枝茂夫さんが実際の翻訳にあたり、さらに『辞源』などを参考にして増補したものである。(安藤彦太郎『中国語と近代日本』岩波新書1988:186)

 また百目鬼恭三郎も、次の如く書いている。

 この辞書は、戦前中国から出ていた『学生字典』を増補和訳したもので、実際に翻訳に当たったのは『紅楼夢』などの訳者として知られる松枝茂夫氏である。収録語数は八千にすぎず、熟語も、語義の中に少し引いてあるだけだが、ひくごとにこちらが知りたがっている語義がつごうよく載っているのは不思議なくらいである。こういう語義の選択は、結局、編纂者の勘に帰すわけで、辞書作りの天才か凡才かは、ここできまるのだろう。語義の説明もまた簡潔にその意を伝えている。たとえば、「言の項の説明は「口が声を発し以て意思を表示する所の者なり。自ら言ふを言といひ、答述するを語といふ」となっている。意を尽くして間然するところがない。
 この辞書の存在を教えてくれたのは、いま山口大学にいる東洋史学者の沢谷昭次氏だったろうか。これが、辞書というもののありかたを考えさせるきっかけになったことを、いまでも感謝している。(百目鬼恭三郎『乱読すれば良書に当たる』新潮社1985:80)

 この簡便な辞書がかつて重宝がられたのはほかにも理由があって、そのことに関しては頼惟勤氏が、「(『説文解字』の)所属の部首のわかりにくい字や、古今字(古今で字形が相違する字)や、重文などを引くのには困ることがあります。(略)そういう時、文求堂の『支那文を讀む爲の漢字典』が役に立ったものです。しかし、以上は皆、過去の話で、いまは便利な索引がいろいろな形で出ている」(頼惟勤=監修/説文会編『説文入門』大修館書店1983:51)と述べているとおりだ。この件について、『漢字典』はその「例言」で、「説文部首の順位を文求堂で加へた」「かゝる普通字典に説文部首の順位を注したのは本書を以て恐らく嚆矢としよう」などと書いており、それが原書の『学生字典』にはない特色である旨を強調している。
 ただしその特色にも難点があって、たとえば「魔」字を引いてみると、「説三四六」とある。「説三四六」というのは、許慎『説文解字』(以下『説文』)の「鬼部」にあることを示しているのだが、これだけを見ると、おそらくは『説文』本文に「魔」字が出現するのかと早合点してしまうことだろう。だが、『説文解字 附檢字』(中華書局1963*1)をみてみると、「魔」字は「魑」「魘」両字とともに、「鬼部」末尾の「新附」というところに掲げてある。この「新附」とは何かというと、北宋の徐鉉(917-91)があとから独自につけたした部分で、実はオリジナルの『説文』にはなかった箇所なのである*2。もっとも、西暦100年頃に成立したとされる『説文』は原本が残っておらず、徐鉉によるいわゆる「大徐本」が長らく標準的なテクストとして扱われてきたから、已むをえないことといえばそれまでの話なのかも知れないが、この記述のみをもって、『説文』が編まれた時代に「魔」字が存在したと速断してしまうとまずいのである。
 いきなり話が飛ぶようだが、ここで洪自誠/中村璋八・石川力山=訳注『菜根譚 全訳注』(講談社学術文庫1986)の「降魔者、先降自心」(38)の「魔」字につく注をみてみると、「梵語māraの音写語である魔羅の略。古くは摩羅とも音写され、梁の武帝が「魔」の字を作らせたとも伝えられる」云々(p.70)とある。少し古い辞書――たとえば宇野哲人編『明解漢和辭典 増訂版』(三省堂1927*3)の「魔」字の項にも「梵語の音譯」とあるし、現行の戸川芳郎監修『全訳 漢辞海 第四版』(三省堂2017)にも「梵語(ボンゴ)māraの音訳「魔羅」の略」とある。またたとえば、白川静『字通』(平凡社)も「梵語māra、すなわち悪鬼・外道の音訳語として作られた。唐以後の文献にみえる」と書いている。「梁の武帝」云々は後にも触れるようにあくまで伝説にすぎないとしても、「魔」字が、仏典を漢訳する過程においてサンスクリットの音訳字として生れた漢字であることはまず間違いないだろう。なお、「魔」が梵語由来であるという事実は、昔から日本でもそれなりに知られていたらしく、たとえば道元正法眼蔵』は「発菩提心」で、『大智度論』の「魔是天竺語、秦言能奪命者」(魔ハ是レ天竺ノ語、秦ニハ能奪命者ト言フ)というくだりを引いている(全訳注 増谷文雄『正法眼蔵(六)』講談社学術文庫2005:324)。
 「魔」字の成立事情や伝承についてくわしく述べたものに、船山徹『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(岩波書店2013)がある。同書は、「梵」「塔」「僧」「薩」「鉢」「伽」「袈裟」などに加えて「『魔』が仏典の漢訳を通じて創成された新字なのはまちがいない」(p.185)と述べたうえで、武帝以前のものと確認できる複数の写本に「魔」字がすでに出現していることを指摘している。さらに武帝を「魔」字の創案者と看做す最初期の資料として、湛然(711~782)『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』(智顗『摩訶止観』の注釈書)を紹介し、かかる説が流布した結果、『康煕字典』にまで採用されたことに言及している。
 ところで上に、『菜根譚 全訳注』から「古くは摩羅とも音写され」というくだりを引いたが、船山徹『仏教漢語 語義解釈―漢字で深める仏教理解』(臨川書店2022)によれば、「より古い表記として「摩羅など」を挙げるのは或いは不適切かも知れない。(略)中国には「魔」は「磨」から派生したとする説があるから,元の表記は「磨羅」だったとすべきか」(p.104)という。
 ちなみに「魔羅」について補足しておくと、「もともとは「魔界の王」の意で、転じて「修行を妨げる魔物・悪魔」を広くいうようになり、よく知られるように、僧侶の間で「男根、陰茎」を指す隠語として用いられるようになった」(田中章夫『日本語スケッチ帳』岩波新書2014:47)。楳垣実編『隠語辞典』東京堂出版1956)で「まら〔魔羅〕」を引くと、「男陰。〔←仏教で「障害」を意味する梵語からという〕(僧→俗)(鎌)」とあり、鎌倉期には使われていた隠語だとする。また佐藤紅霞『世界艶語辭典』(中村書店1946)というのを引くと、「マラ(麻羅)男陰。まうらとも訛す。元僧侶間の隱語なり。之れ梵語にて麻羅と言ふは修道の障礙擾亂の義なればなり」とあるが、「麻」は誤記であろう。

説文入門

説文入門

  • 大修館書店
Amazon

*1:2009年の重印本。

*2:『漢字典』は「魑」「魘」両字についても、「魔」字と同様に「説三四六」とのみ記す。

*3:手許のは昭和十六(1941)年五月十五日増訂百三十一版。

『舞姫タイス』を入手した話

 前回イーヴリン・ウォー吉田健一=訳『黒いいたずら』(白水Uブックス)のことを話題にしたが、「白水Uブックス」で思い出したことがある。
 昨年わたしは、「コリン・ウィルソンが語るアナトール・フランス」というエントリで、「フランスの作品としては少くともあと一つ、『タイス』だけは、生涯のうちに読んでおきたい」などと書いたが、その『タイス』を過日、白水Uブックス版ですんなり入手することができたのであった。
 『タイス』がかつて角川文庫版で出ていたのは知っていたけれど、容易に入手のかなわない代物だということは判っていた。いずれどこかで見つかるといいが……などとのんびり構えていて、一年に一度はかならず立寄る古書肆の棚を何気なく見ていたところが、アナトール・フランス水野成夫=訳『舞姫タイス』(白水Uブックス2003)の背表紙が目に飛びこんできたのだった。この邦訳版は奥付によると、先ず1950年に「アナトール・フランス長篇小説(全集)」第8巻として刊行され、2000年に「アナトール・フランス小説集」第3巻として復刊、さらに03年、白水Uブックス入りしたものであるらしい。解説は堀江敏幸氏、帯には「『神の名のもとに生まれた真実の愛』とは?」などとある。550円だった。
 ただし小田光雄氏によると、「1950年」というのは「アナトオル・フランス長篇小説全集」全十七巻が完結した年をさすようで、水野訳『舞姫タイス』自体は戦前すでに刊行されていたらしい(「『アナトオル・フランス長篇小説全集』と『小さなピエール』」『近代出版史探索V』論創社2020所収:25)。ちなみに小田氏は、フランスの愛読者として、柳田国男中井英夫の名を挙げている(同pp.26-27)。
 まったく迂闊なことに、わたしは件のエントリを書いた後、小田氏による上掲の文章、および「フランス『舞姫タイス』と林達夫『文芸復興』」(同pp.29-31)という文章の存在に気づいたのだったが、後者の末尾で小田氏は、「『タイス』は水野成夫訳『舞姫タイス』の他に、岡野馨訳『女優タイス』(新潮文庫、昭和十三年)などが刊行されている」(p.31)と書いている。戦後の角川文庫版もたしか岡野訳だったと記憶するが、この新潮文庫版は知らなかった。
 前のエントリでも記したように、わたしが『タイス』を読みたいとおもった切っ掛けは、コリン・ウィルソン柴田元幸監訳『超読書体験(下)』(学研M文庫2000)を読んだことであった。ついでながら、柴田氏が村上春樹氏との共著『本当の翻訳の話をしよう 増補版』(新潮文庫2021←スイッチ・パブリッシング2019)でこの本に触れていたので、一寸紹介して置く。

柴田 村上さんはコリン・ウィルソンの思想自体には、どこまで共鳴しているんでしょうか? 学生時代にかなり読まれたと思いますが。
村上 いや、全然共鳴してない(笑)。
柴田 じつは、僕が監訳者になって『わが青春 わが読書』(一九九七年 学習研究社刊、二〇〇〇年九月に学習研究社の意向で『超読書体験』と改題されて文庫化)というコリン・ウィルソンの読書遍歴を綴った本を何人かと翻訳しているんです。内容は、要するに、「人間は意志の力でもっと高い次元に上がれる」という思想に貫かれています。
村上 柴田さんがコリン・ウィルソンを翻訳しているのは知りませんでした。僕は七〇年代にはコリン・ウィルソンをよく読んでたんです。『オカルト』も『至高体験――自己実現のための心理学』も面白く読んだ記憶があります。(p.157)

 さて、くどいようではあるが、『超読書体験』におけるウィルソンの言を引く――

 私は『タイス』に圧倒された。これほど偉大な小説はそうざらにないと思った。アナトール・フランスはショーと並んで、私の頭のなかで二十世紀の文豪の殿堂に君臨するようになった。彼がほとんど評価されていないのは、まったく不可解な話だった。(E.M.フォースターの)『小説の諸相』を読むまで、私がフランスの名前さえ聞いたことがなかったのはなぜだろう? 私の結論は単純だった。彼はあまりに卓越した知性で、ほとんどの人間が愚かだからだ――特に、思索的な作家を傲慢に切り捨てがちなイギリスでは。(p.247)

 若き日の芥川龍之介も、『タイス』に感銘を受けた一人であった。

 それからアナトオル・フランスの「タイス」という小説を読んだ。なんでもそのころ(芥川が中学五年生だった頃―引用者)早稲田文学の新年号に安成貞雄君が書いた紹介があったものだから、それを読むとすぐ丸善へ行って買って来たという記憶がある。この本は大いに感服した。(今でもフランスの著作中、いちばんおもしろいのは何かと問われれば、すぐに僕は「タイス」と答える。その次に「女王(レエン)ペドオク」をあげる。名高い「赤百合」なぞという小説は、さらにうまいと思われない)もっとも議論のおもしろさなぞは、所々しか通じなかったらしい。しかし僕は「タイス」の行の下へ、むやみに色鉛筆の筋を引いた。その本は今でも持っているが、当時筋を引いたところは、ニシアスの言葉がいちばん多い。ニシアスというのは警句ばかり吐いているアレクサンドリア高等遊民である。(「仏蘭西文学と僕」『藪の中・将軍』角川文庫1969改版*1:256)

 こういった文章を読むにつけ、『タイス』を早く読んでおかねばという気にさせられるが、実をいうとまだ、『舞姫タイス』に著手していない。アナトール・フランスの生誕180年、歿後100年に当る来年(2024年)にこそ、この本を読もうと独り決めに決めているからだ。
 そしてさらに、気が早いことであるが、今度はフランスの『現代史』四部作も(一部でいいから)読んでみたくなってきた。木下杢太郎が名篇「残響」で自身を仮託したのが『現代史』の主人公ベルジェレエであったことは前にも紹介したとおりであるが、ヴァルター・ベンヤミンの「『パサージュ論』初期覚書集」にも、その書目が(書目のみであるが)出て来る。

アナトール・フランス作、ベルジュレを主人公とする長篇小説群〔『現代史』全四巻、一八九七―一九〇一年〕〈Q゜、3〉
(浅野健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション6 断片の力』ちくま学芸文庫2012所収:652)

 残念ながらこれは『パサージュ論』本文(=「覚書と資料」)に取り込まれることはなかったから、ベンヤミンがどういう積りで挙げていたのかはもはや判らない。ただ、「覚書と資料」b:ドーミエには、以下のような興味ふかい引用がみられる。

モニエについて。「だがこれらの、容赦がなく、物に動じぬ注釈者たちはなんと多くのものを供給し続けていることか! シボという……名前をバルザックはモニエから拝借してきたのだし、デロッシュやデコワンといった名前もそうだった。そしてアナトール・フランスはベルジュレ夫人という名前を頂き、フローベールは「ペギュシェ氏」という名前を頂いて、それをほんのちょっとだけ〔ペキュシェに〕変えたのだった。」マリー=ジャンヌ・デュリ「モニエからバルザックへ」(『ヴァンドルディ』誌、一九三六年三月二〇日号、五ページ)[bla, 5](今村仁司三島憲一他訳『パサージュ論(5)』岩波文庫2021*2:19-20)

 モニエというのはMonnier,Henri(1799/1805-1877)で、「フランスの風刺画家,劇作家.「プリュドム」というブルジョワの典型的なキャラクターをつくった」(同「人名総索引」pp.89-90)由。とまれ、期せずして『ブヴァールとペキュシェ』の命名の秘密?まで知ることができたわけだが、これは洋の東西を問わず、登場人物の命名には作者自身の思いつきによる場合だけでなく、何かしらの「典拠」がある場合もまた多いという事実を物語るものでもあるのだろう。

*1:手許のは2009年改版三十八版。

*2:もと岩波現代文庫2003。これは「覚書と資料」を中心に訳出したもので、ちくま学芸文庫に収める「『パサージュ論』初期覚書集」三篇(学芸文庫版が本邦初訳という)は省いてあるから、両者は相補う関係にある。

ウォー『黒いいたずら』復刊のこと

 今秋とある新本屋に立寄ったところ、白水Uブックスの創刊40年を記念するフェアが展開されており、そこにイーヴリン・ウォー吉田健一=訳『黒いいたずら』が出ていたので愕いた。長らく版元品切れとなっていたはずの本であった。
 奥付をみると、「1984年11月10日 第1刷発行/2023年6月15日 第2刷発行」となっていた(このたび「オンデマンド印刷・製本で製作され」たものと云う)から、かなり長い間増刷されることなく品切れになっていたものとおもわれる。この本は、もともと吉田健一が1964年に訳出したもので、訳者解説の末尾にも「昭和三十九年七月」とある。
 同書の存在をはじめに知ったのは、小林信彦『本は寝ころんで』(文春文庫1997←文藝春秋1994)によってであった。小林氏はこれを、フレドリック・ブラウンやリチャード・フッカーの諸作品と共に「海外ユーモア小説・ベストテン」の一つとして挙げ、

 イヴリン・ウォーが日本で読まれているかどうか、ぼくは知らない。特殊な人以外は読んでいないような気がする。
 小説もトイレットペーパーも同じ消耗品、という文化風土において、とにかく、「黒いいたずら」が書店の棚にあるのは奇蹟に近い。イヴリン・ウォー入門書としても、イングリッシュ・ヒューマー入門書としても絶好の一冊だ。内容に触れるのはやめよう。吉田健一の訳と解説(日本の文化を差別しているラストの一行がすごい)もよい。実に不親切な解説だが。(pp.35-36)

と書いていた。わたしがこれを目にしたのは、世間にインターネットがさほど普及していなかった頃のこと。「内容に触れるのはやめよう」「日本の文化を差別している(訳者による)ラストの一行がすごい」などと云った思わせぶりな書き方も手伝って、余計に気になってしまったものだった。小林氏は94年時点で「書店の棚にあるのは奇蹟に近い」と書いているが、わたしがこの本を読んだ2000年前後には、すでにuブックス版も入手が困難だったとおもう。
 それから約7年後に、大阪・淡路の古本屋でW.A.グロータース/柴田武『誤訳―ほんやく文化論』(三省堂新書1967)を200円で拾った。その冒頭でグロータースは、吉田訳の『黒いいたずら』をさんざん槍玉にあげていた。『誤訳』の書かれた当時はUブックスはまだ刊行されていなかったから、グロータースが参照したのは1964年に刊行された元本(白水社刊)である。
 一寸具体的にその中身をみてみると、次の如くである。

わたしも、この作家(イーヴリン・ウォーのこと―引用者)はもっと読まれていいと考えている点で丸谷(才一)氏と意見が一致するが、丸谷氏が「非常に優れた翻訳」と言っている『黒いいたずら』(白水社 昭和三九)――”Black Mischief” の訳――を手にして読んでみて驚いた。本文の最初から誤訳また誤訳である。全体として、いい加減な仕事という印象を受けた。二、三その証拠を並べてみよう。
 この小説は、アザニア国皇帝がインド人秘書を相手に布告文の口述をするところから始まる。口述をやめて、ちょっとおしゃべりをしたあと、
「それで、どこまでいったんだっけ。」
と皇帝が尋ねたのに対し、秘書が、
「逃げて行きましたものについてのお言葉は書かないのでございますね。」(八ペ七行)(’ The last eight words in reproof of the fugitives were an interpolation? ’)と答える。 interpolation は「書かない」ではなくて、むしろ「書く」こと、無関係なことの書き入れである。(略)
 すぐ次の段落(九ペ三行)に、
「複雑な烙印が押してある牛の群れ」
とある「複雑な」は、原文では elaborately(細かく仕上げた、念入りな)である。
 一行おいて(九ペ五行)、
「共同で粗末な畑を耕して」
とあるが、原文は cultivated it in irregular communal holdings だから、「でこぼこした共有地を耕して」というのがもとの意味である。(pp.2-4)

「二、三」の例をと云いながら、グロータースはその後もいくつかの誤訳あるいは脱落のある箇所を指摘したうえで、「文学の翻訳について大事な点は、語学的な正確さよりは新しい文体の創造であるということ、これはもっともなことである。しかし、言語学者として言いたいことは、語学上の正確さが無視されては、いい文体も何もないということである」(pp.5-6)と述べている。
『誤訳』はこのように、名訳とされてきたものを手厳しく批判したから、刊行当時かなりの反響があったらしい。たとえば、以前「『小出楢重随筆集』のことなど」で紹介した植村達男『本のある風景』(勁草出版サービスセンター1978)にも、その書評が収められている。
 ただしこれには後日譚があって、谷沢永一が次のように書いていた。

▽ベルギー生まれの神父で日本滞在十数年のグロータースが、日本語の細かいニュアンスまで理解できると自称して『わたしは日本人になりたい』(昭和三十九年・筑摩書房)や『誤訳』(四十二年・三省堂新書)などを刊行、現代の翻訳小説に勇ましく噛みつき、野次馬の喝采を博したことがある。だが、その直後に都立大助教授・永川玲二が「ほんやく文化の悲惨と栄光」(『展望』四十二年十二月号)を書き、グロータースこそ吉田健一などの苦心の名訳を“誤訳”と錯覚する文学的不感症にすぎないと反証した。
丸谷才一の「誤訳について」(『文藝』一月号によれば、永川論文に答えるよう『展望』編集部がいくらすすめてもグロータースは応じなかったそうだ。こういう問題では沈黙こそ敗北だ。(『紙つぶて(全)』文春文庫1986:158-59*1

 谷沢の書きぶりも少し意地悪のようにおもえるが、永川の論文を――直ちには読めないとしても――角地幸男「吉田健一と翻訳の文体」における引用などでみてみると、なるほど確かに、少くとも一点目の interpolation の訳し方については、永川のほうに分がありそうだ。
 とまれわたしは、この吉田訳『黒いいたずら』を本屋で見つけるなりいそいそと購入し、さっそく読んだのだったが、噂にたがわず、すこぶるつきのおもしろさだった。現代的な観点からすると、たしかに人種差別的な描写も目につくけれど、それはあくまで言葉(訳語)の表現上でのことであって、吉田も訳者あとがきで「この小説には、何々というものは、ということがない。それは先入主が働いていないということと同じであって」(p.308)云々と書いているとおり、ウォー自身が偏見や予断をもって書いていたのではないことは判る。
 ちなみにこの『黒いいたずら』は、1931年5月に書き始められ、ウォーは当初「約三週間で用意できる」と張り切っていたそうだが、実際には「完成するのに八カ月かか」り、最終的に手を入れたのは、翌32年5月21日のことだという(フィリップ・イード/高儀進訳『イーヴリン・ウォー伝 人生再訪』白水社2018*2:258-59)。
※ウォーの作品については、「イーヴリン・ウォー『ラブド・ワン』のことなど」にも記したことがある。

*1:日付は1972年3月23日。「自作自注最終版」ではp.280。

*2:訳者の高儀氏は2020年に亡くなったから、これは最晩年の訳業ということになる。

あるイソップ寓話のこと

 室井光広『おどるでく―猫又伝奇集』(中公文庫2023)は芥川賞を受賞した表題作のほか、「猫又拾遺」「あんにゃ」「かなしがりや」「万葉仮名を論じて『フィネガンズ・ウェイク』に及ぶ」、それから加藤弘一氏による著者インタビュー(1995年)、多和田葉子氏のエセー(2020年)等々を収めているが、これまで書籍には収録されてこなかった短篇「和らげ」(初出は「すばる」1996年1月号)も入っている。
 この「和らげ」には、高倉村(架空の自治体)の生涯学習振興センターの機関誌「和らげ」が登場するのだが、その機関誌名の由来となった「和らげ」の語義についての説明がひとしきりつづいた後、次のようなくだりが出て来る。

 記述の典拠は、昭和四十六年初版発行の角川文庫版(大塚光信校注)で、この中からいくつかの物語を撰んで拡大コピーしたものをセミナーのテキストとして用いたと『和らげ』第二号にある。
 煩瑣になるので詳細は省くが、キリシタン版『エソポ物語』には古活字本『伊曽保物語』というのも併録されていて、雲野(いと子。機関誌の編集人―引用者)さんはこの中の「十八 男二女(ふため)を持つ事」の全文を『和らげ』に転載している。文庫版でも十四行に終る短い教訓話で、ここにあらためて孫引きするに足る内容とはいえないが、こんな話をテキストにつかった雲野さんの心持ちに興味を覚えるので、彼女の現代語訳(やわらげ)を参考にしながら紹介しておく。ある男二人妻を持けり。一人は年たけ、一人は若し、とそれははじまる。ある時、男が老いた女のもとにゆくと、年をとっている自分があんな若い男とナニして(これは僕の言葉ではなく彼女の現代語訳による)と、世人にあざけられるのが気恥ずかしいので、「御辺(ごへん)の」(=あなたの)鬢(びん)の髭の黒いところを抜いて白髪だけを残すようにしてしまいたいといって、たちまちその通り事に及んだ。男は何テコッタイと思ったが、夫婦の愛情にひかれて痛さもじっとこらえ、抜かれるままになっていた。またある時、今度は若い女のもとに行くと、じぶんはまだ若々しい身なのに、あなたのように白髪まじりの人を夫としたとあっては人のもの笑いになり、恥ずかしいので、「御辺の鬢髭の白きを抜かん」といい、全部抜きすててしまった。かくしてこの男「あなたに候へば抜かれ、こなたには抜かれて」とうとう鬢髭が無いありさまとなった。
 物語はここから最後の教訓にうつる。曰く、君子たらん者が「淫乱にけがれなば」(=色好みにふけると)、たちまちかかる恥辱をうけることになる。およそ「二人の機嫌をはからふは、苦み常に深き物也」、だからこそことわざにも「二人の君につかへがたし」というのである、云々。(「和らげ」pp.343-44)

 ここに引用・紹介されている物語はイソップ寓話がもとになっている。その原話を、E.Chambry校訂版ギリシア原文に拠った山本光雄訳『イソップ寓話集』(岩波文庫1942*1)は「五二 ごましお頭の男と芸者」(p.55)というタイトルで収めている。おなじくChambry校訂版に拠った塚崎幹夫訳『新訳 イソップ寓話集』(中公文庫1987)は「7-6 ごましお頭の男と愛人たち」(pp.144-45)として訳出、さらにB.E.Perry校訂『アエソピカ』第一巻のギリシア語寓話を全訳したという中務哲郎訳『イソップ寓話集』(岩波文庫1999)は、「三一 ロマンス・グレーと二人の愛人」(p.45)という題名で収めている。
 府川源一郎『「ウサギとカメ」の読書文化史―イソップ寓話の受容と「競争」』(勉誠出版2017)によると、山本訳『イソップ寓話集』は、旧版は英語読みでない『アイソーポス寓話集』というタイトルだったという。府川著は上記のほかの文庫にも言及しており、それぞれの特徴について簡潔にまとめているので、以下に引いておく。

 一方、間違いなく成人に向けた訳業としては、一九四二(昭和一七)年に岩波文庫の一冊として刊行された『アイソーポス寓話集』(三五八話収録)が挙げられる。訳者は山本光雄。この本は、フランスの研究者シャンブリ(Emile Chambry)が一九二七年にパリで刊行したテキストの中のギリシア語原文からの翻訳だった。シャンブリのテキストは、それまでのヨーロッパにおけるイソップ寓話研究の成果を踏まえて原典を校訂し、それにフランス語訳を添えた書物である。これ以降、シャンブリのテキストは「シャンブリ版」と通称されて、イソップ研究の基礎文献となり、数々の寓話も「シャンブリ版の○番」という通し番号で呼ばれるようになる。(略)
 また一九八七(昭和六二)年には、塚崎幹夫が『新訳イソップ寓話集』(中公文庫)を刊行する。この翻訳の底本もシャンブリ版である。この本は、奴隷の身分だったといわれるイソップという人物がなぜイソップ寓話を表した(ママ)のかという問題意識に立って、イソップの作成意図を想定し、話材を「主張別」とも言える独自の配列で並べたことが特徴である。これまでにも「動物(獅子・狐など)」や「人間」などの題材別にイソップ寓話の各話を並べて示した試みは存在した。しかし、原作者であるイソップの「主張」を仮設的に推定し、それに基づいて全体を再構成するという発想は新機軸だった。シャンブリ版では相互に遠く離れて並べられていた話も、メッセージ別に並べ替えてそれらを続けて読むことで、新たな発見が生まれてくることが興味深い。
 (略)次いで、一九九九(平成一一)年に岩波文庫から、中務哲郎の訳で四七一話が収録された『イソップ寓話集』が刊行された。これは、ベン・エドウィン・ペリーの校訂した『アエソピカ』の第一巻に掲載されたギリシア語の寓話四七一話を全訳したものだという。イソップ寓話に関する最新の研究成果を取り入れた労作である。(pp.163-65)

 塚崎訳は「主張別」に各話を排列した、ということだが、たとえば「ごましお頭の男と愛人たち」であれば、「7 選びかたを誤ればすべては崩れる――疑わしいものは避けよ」の下位項目の第6「利害の反する者」のなかに、「いっしょに旅をするロバと犬」「炭屋と洗濯屋」「父親と娘たち」と共に収められている。
 柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫2008)によると、この「ごましお頭~」(「ロマンス・グレー~」)の寓話は、河野与一が「大人のためのイソップ」で紹介したことがあるのだそうで、単行本の『学問の曲り角』に収められたというが、残念ながら手持ちの岩波文庫版『新編 学問の曲り角』(2000年刊)には入っていない。
 柳沼氏は、

 桂文楽がやきもちの話、例えば『悋気(りんき)の火の玉』などという、それ自体が小噺風の話をやる時に、決まって枕にふった小噺に、このイソップとそっくりなのがある。違うのは、イソップでは二人の妾だが、文楽ではご本妻さんとお妾さんだ。枕に降った話だから、落語全集めいたものにも載っていない。思い出しながら書いてみると、こんなふうだ――(「イソップなどを読んで文楽志ん生を思い出すこと」p.88)

と前置きしたうえで、1ページ半にわたって当該のマクラを紹介している。そして次のように述べる。

これはまちがいなくイソップから出た小噺だろう。いわゆるキリシタン文書の中に入っていた『エソポ物語』がやがて漢字・仮名まじりの『伊曾保物語』となって流布している。岩波文庫の武藤禎夫校注『伊曾保物語』の下巻十八番の「男、二女(にじょ)を持つ事」というのがこれだ。
 ふつうイソップの寓話には、それぞれの終わりに教訓が添えられているが、この話について今挙げた三つ、つまりハウスラートやシャンブリが校訂したギリシア自身の収集、キリシタン文書(原文ママ)の『古活字本伊曾保物語』、それと河野先生の(たぶんハウスラート版からの)訳を比べてみるとなかなかおもしろいのでご覧に入れると、
まずハウスラート版とシャンブリ版は同じで、「このように、不一致というものはどこにおいても有害なものです」。
『伊曾保物語』では、「其(その)ごとく、君子たらん者、故なき淫乱にけがれなば、たちまちかゝる恥を請(うく)べし。しかのみならず、二人の機嫌をはからふは、苦み常に深き物也。かるが故に、事わざに云、「ふ(た)りの君につかへがたし」とや」。この諺とはキリシタンのものではなく漢文の教養から得たものだ――「忠君不事二君、貞女不更二夫」(『史記』)。(同上pp.90-91)

 いずれにせよこの話は、キリシタン版の『エソポ物語』(『イソポのハブラス』。岩波文庫には、新村出翻字『天草本 伊曾保物語』として1939年に収められた*2)は採らない。国字本『伊曾保物語』の下巻第十八に出る話なのである。
 ちなみにいうと、各話について各版のイソップ寓話や、『伊曾保物語』等のどこに収載されているかを表の形で対照・一覧したものが、さきの中務訳『イソップ寓話集』巻末に掲げてあって、これが非常に参考になる。
 また、『イソポのハブラス』と国字本『伊曾保物語』とは、同一の祖本から別々に編集されたと思われるが(大塚光信も武藤氏もそのような見立てである)、内容・形式ともにかなりの逕庭が有る。その違いを容易に比較できるものとして、大塚光信校注『キリシタン版 エソポ物語 付 古活字本伊曾保物語』(角川文庫1971)が、やはり「実に重宝な一書」(武藤氏)となる。もとより旧くなってしまった情報もあるものの、日本語学・国語学的視点からの分析を主とする「解説」、脚注が充実している。
 ところで、先の柳沼氏が引用していたのは古活字本の方であったが、上引の如く、武藤禎夫校注『万治絵入本 伊曾保物語』(岩波文庫2000)にも触れている。実はこの巻末補注の二六で武藤氏は、八代目桂文楽による口演のマクラを全文引用の形で紹介しつつ、「おそらく伊曾保物語の話を読んだ贔屓客の勧めで、マクラに用いたものであろう」(p.292)などといった注まで附しているから、柳沼氏はその注釈を参照しておればよかったので、わざわざ「思い出しながら書いてみ」なくてもよかったわけである。
 とはいえ柳沼氏が、この話の末尾の「教訓」部分について、「漢文の教養から得たものだ」と示唆していることは重要だと思われる。たとえば中務訳『イソップ寓話集』は「解説」で、

 三一「ロマンス・グレーと二人の愛人」は八代目(六代目)桂文楽(一八九二―一九七一)が落語「悋気(りんき)の火の玉」の枕に振って有名にした話であるが、『伊曾保物語』下一八に「男二女(ふため)を持つ事」として訳出される前に、仏教説話集『三国伝記』(一五世紀前半)巻一ノ二五「抜髪男事」によってわが国に入っている。(p.369)

と説いており、この物語が「一六世紀のキリシタン宣教師による将来以前に、別のルートでわが国に伝わった話」であることを示している。そのため、「教訓」(「下心」ともいう)部分に漢籍による影響がうかがえるのかも知れない。
 ありがたいことに、武藤校注『万治絵入本 伊曾保物語』の補注二六には、玄棟編『三国伝記』巻一第二十五話「抜髪男事」も平仮名本から全文引用されている。それによれば、最終的に「男」は禿頭になるどころか、「二人の妻に嫌はれて、浅ましくなりて、命終りぬ」(p.291)といった末路を辿ることとなる。そもそも、もとのイソップ寓話では「二人の愛人」だったのが、『三国伝記』や『伊曾保物語』では「二人の妻」(文楽のマクラでは「妻と愛人」)となっていることからして、興味深いといえる。
 イソップ寓話の(あるいは『伊曾保物語』の)受容・変容史については、野村純一「「伊曾保物語」の受容」(小川直之編『野村純一|口承文芸の文化学』アーツアンドクラフツ2022所収)を面白く読んだことをおもい出す。当該の論考で野村は、檀家めぐりの説教僧が教導や訓戒の材料として説話集を用いたことが、『伊曾保物語』等の説話を種とした昔話が各地に点在する契機になった、と説いていた。
 ちなみに、物語行為全般を一種の「編集作業」に準えていたのは野家啓一氏であった。

物語の語り手は「作者」ではなく、いわば「編集者」なのである。その編集作業を「解釈学的変形」と呼べば、そこでは「オリジナル・テクスト」の探索や「テクストの同一性」の保証などは望むべくもないことは明らかであろう。(『物語の哲学』岩波現代文庫2005:74)

 イソップ寓話それ自体も、「教訓」部分はオリジナルではないというし、巷間にはいくつもの「変奏」が流布されていたりするので、オリジナルの探求などもはや「望むべくもな」く、これらもやはり、名もなき編集者たちによって担われてきた物語だということが出来るのだろう。
--
 『語学者の散歩道』は何度か読み返している本の一冊で、この本についてはここなどに書いたことがある。

*1:1974年の第30刷で改版された。手許のは1981年9月10日の第42刷。

*2:手許のは2009年刊の第3刷。そもそも天下の孤本であった『エソポ物語』を明治末期に最初に翻字したのは新村だったようで、岩波文庫版はその後の校合を経たものと思しい。

続・近松秋江「黒髪」への誘い、4月の中公文庫のこと

 前回の記事で紹介した荒川洋治氏の「忘れられる過去」が、4月刊の『文庫の読書』(中公文庫)に入った(pp.24-29)。単行本の『忘れられる過去』、その文庫版の『忘れられる過去』、そして『文学は実学である』(みすず書房2020)にも収められてきたエセーである。
 当該の文章は、岩波文庫版の近松秋江『黒髪 他二篇』所収の「黒髪」について書いたという体裁になっており、文末にも「一九五二年、岩波文庫」とある。東京堂書店神田神保町店が、『文庫の読書』発売に合わせて「荒川洋治『文庫の読書』フェア 荒川洋治が選ぶ文庫100」を展開しているが、そこで配布されていたチラシには、岩波文庫版ではなく、現下新本での入手が可能な文芸文庫版の近松秋江『黒髪・別れたる妻に送る手紙』を挙げ、「同書(『文庫の読書』)で言及した作品が収録される別レーベルの文庫です」と注記しているのだけれども、しかし、荒川氏は「忘れられる過去」の冒頭で、

 近松秋江(一八七六-一九四四)の「黒髪」は、大正一一年の作品である。岩波文庫『黒髪 他二篇』の他、講談社文芸文庫『黒髪・別れたる妻に送る手紙』(一九九七)などに収録。新字新仮名で引用。(p.24)

と書いている。よって引用部は、旧字旧仮名の岩波文庫版ではなく、新字新仮名を採用した文芸文庫所収版と全同となっており(ルビが附された箇所も同じ)、しかも荒川氏は、岩波文庫所収の「他二篇」には特に触れていないので、「別レーベル」ということにあえて拘る必要もない。つまり、文芸文庫版『黒髪・別れたる妻に送る手紙』所収の「黒髪」について書いた文章、とみなしてもまったく問題はない。
 なぜこんなことを諄々と述べたのかというと、秋江の「黒髪」その他の作品にはどうも「異版」があるらしい、ということを知ったからだ。
 中島国彦氏は、近松秋江『別れたる妻に送る手紙 他二篇』(岩波文庫)巻末の「本文庫版のテキストについて」(1992年11月)で、次のように書いている。

 文学者が折に触れ自作に手を入れ修訂するのは自然だが、文学者の持つ〈興〉〈感興〉をエネルギー源として執筆活動を続けて来た近松秋江の諸作品は、他の文学者の作品以上に本文の手入れが激しく、そこに多くの問題が生まれている。(略)改稿の追跡は、作品の内容的価値とすぐさま直接つながらないことも多いが、秋江作品の場合は、改稿過程に作品の成長とその本質が内包されており、眼が離せないものになっているのである。(p.223)

 わたしには、いまその「改稿過程」をあきらかにする用意はもちろんないのだが、前回の文章をあげた後、恰もよし、近松秋江『霜凍る宵―「黒髪」三部作・雑誌初出版』(東都我刊我書房2023)が刊行されたのを知った。そこで早速、この本を取寄せた。同書は“後の「黒髪」”連作、すなわち「黒髪」「狂亂」「霜凍る宵」を収めており、初出の形に従って、「霜凍る宵」を、正篇と「霜凍る宵 續篇」とに分けている(このあたりの事情については前回の記事を参照のこと)。それぞれの初出誌・発表年月は次の通り。「黒髪」(「改造」大正十一年一月)、「狂亂」(「改造」大正十一年四月)、「霜凍る宵」(「新小説」大正十一年五月)、「霜凍る宵 續篇」(「「新小説」大正十一年七月」)。
 ただし注意すべきは(そしてやや残念なのは)、まず、「初出版」とはいえ原則として「新字新仮名」に改めているということ(少くとも「旧仮名」は残して欲しかったが、致し方ないだろうか)。もっとも校正漏れゆえか、「念を押すやうに」(「黒髪」p.19)と旧仮名づかいの残ったところも幾らか有る。
 第二に、明らかな誤脱が少なからずみられるのだが、それが初出誌に由来するものかどうか判断し難いということ。編集の際に生じたミスであることも否定できない。だから、意味が通じないと判断したところには、「ママ」注記などを附してくれるとなおよかった。
 この二点目について、「黒髪」一~三を見てみると、たとえば次の如くである(以下、我刊我書房版を「初」、岩波文庫版を「岩」とする。漢数字は節)。
 「紙白粉でを拭く」(一、初)「紙白粉で顔を拭く」(岩)、「と云ってもいゝくらの女」(一、初)「と云つてもいゝくらゐの女」(岩)、「高い思われるのは」(一、初)「高く思はれるのは」(岩)、「両頬をおうて」(一、初)「両頰をおほうて」(岩)、「女は九日の初に」(二、初)「女は九月の初に」(岩)、「あそこにいないとえば」(二、初)「あそこにいないと云へば」(岩)、「定めていない」(三、初)「定めてゐない」(岩)、「違えちゃけ可ないよ」(三、初)「違へちや可けないよ」(岩)、「すぐ居合あわせた俥」(三、初)「すぐ居合はす俥」(岩)、「小い*1(にきび)」(三、初)「小さい面皰(にきび)」(岩)、「女中ばかりの歩くとはちがう」(三、初)「女中ばかりの歩くのとは違ふ」(岩)、「ところどころに織りた縮緬の羽織」(三、初)「ところ/\゛に織り出した黑縮緬の羽織」(岩)……。
 とは云い條、「初出版」を三作ともすべて一冊で読めるようにしてくれたのは劃期的なこと。それに、①ルビがあることによって読みを確定できるところもあるし、②後の版で意図的に改められたであろう点、にも幾つか気づかされる。
 ただし、岩波文庫版の「黒髪」は何に拠ったか不明である。最初に述べたとおり文芸文庫版はこれに同じだが(新字新仮名に改めただけ)、文芸文庫版は巻末に「『日本現代文学全集45 近松秋江葛西善蔵集』(昭和四十年十月 講談社刊)を底本として使用し、新かなづかいにして若干ふりがなを加えた」とあるのみで、肝心のその現代文学全集の底本がそもそも判らない。
 しかしヒントはあって、前掲の文章で中島国彦氏は、「別れた妻に送る手紙」について、

本文庫(岩波文庫)の本文は、その表記やルビの付け方からみて、この「創元選書」版(昭和二十二年七月刊『黒髪』のこと)を底本にしていると思われるが、細部にはわずかの異同がある。(p.225)

と述べている。岩波文庫版『別れた(る)妻に送る手紙 他二篇』は1953年1月刊、同文庫版『黒髪 他二篇』は前年の1952年3月刊。とすれば、後者所収「黑髮」も同じく1947年刊の創元選書版所収の「黒髪」を底本としている可能性がたかい。それでも、創元選書が出たのは秋江歿後のことだから、この創元選書が何を底本としているかを探らなくてはならない……とまあ、どんどん溯ってゆくとキリがない。だからこそ、「表記」の面白さにまず惹かれた者としては(そしてまとまった時間をなかなかとれない身としては)、近松秋江『霜凍る宵―「黒髪」三部作・雑誌初出版』の刊行は、ありがたいことなのだ。
 以下、とりあえず「黒髪」一~三について、①ルビがあることで読みを確定できるところ、②後版で意図的に改められたであろう点、をそれぞれざっと眺めてみることにする(漢数字は節、ページ数はことわりのない限り我刊我書房版)。
 まず①には、次の様な例が有る。

口元なども屡々彼地(あちら)の女にあるやうに(仮名遣いママ)(一、p.11)

 岩波=文芸文庫版にルビなし。前回の記事で指示詞の漢字の宛て方について述べた通り、この用字はいかにも秋江らしい。

ひとりでに淡紅(とき)色を呈して、(一、p.11)

商売柄に似ぬ地味(こうとう)な好みから、(一、p.12)

これから行ってみたところで爲方(せんかた)もない(字体はママ)。(二、p.14)

心あたりもなく爲方(せんかた)なく(同じく字体ママ)(二、p.14)

 以上、いずれも岩波=文芸文庫版にルビなし。「為方」は「しかた」とも読みうるところ。これについてはたとえば「狂亂」五で、岩波文庫版は「飛びまはつても爲方(しかた)がない」(p.75)と態々ルビを振っているのだが、初出版の方は、「飛び舞わっても爲方(せんかた)がない」(p.80、同じく字体はママ)となっている。その他、たとえば「狂亂」六でも岩波は複数箇所の「爲方」に「しかた」とルビを振っている一方、初出版はいずれも「せんかた」となっている。少くとも初出版で「せんかた」とルビが振られているところは、それに随って読むべきではないか。
 また、

繰返しいって越(よこ)したにもかゝわらず(二、p.14)

女から越(よこ)したので、(三、p.15)

の2例はやや特殊か(①と、次に述べる②に跨る例とみてよいか)。これらは岩波版で「繰返しいつて寄越したにもかゝはらず」(p.9)「女から寄越したので」(p.10)となっているが、初出版を誤脱とするのは早計で、秋江の用字法としては「越(よこ)す」が本来であった蓋然性がたかい。というのは、「狂亂」二に「金だけ長い間送って越す」とあるところ、岩波版は「越(おこ)す」とルビを振っているが(p.60)、初出版はこちらにも「越(よこ)す」と振っているからだ(p.65)。岩波版のルビも、初出版に随って改めるべきではなかろうか。
 つづいて②に関していうと、たとえば、

電車の通ってる(二、p.14)

「私をよく覚えてたねえ」(三、p.21)

すらりとした姿が立ってた。(三、p.23)

といったいくぶん口語的な表現――小説作品でいうと獅子文六が多用するような――が、岩波版でそれぞれ、「電車の通つてゐる」(p.9)、「私をよく覺えてゐたねえ。」(p.16)、「すらりとした姿が立つてゐた。」(p.17)となっていることが挙げられる。これがかりに1か所だけであったならば、誤脱(初出誌の誤植もしくは転記ミス)で済ませてもよいだろうが、複数箇所にわたるので、偶然ではないと判断されるわけである。
 こういったものはほかにもある。以下3例挙げておく。まず、

「あの、お電話っせ」(三、p.18)

「今日そこから何処へおいでやすのす」(三、p.19)

これらは岩波版で、「あの、お電話つせ。」(p.13)、「今日そこから何處へおいでやすのす。」(p.13)となっていて、こちらも意図的に改変したものと察しられる。
 それから、

なるけそこに近いに宿を取りたい(二、p.15。「近いに」はママ)

「(上略)都合して成るけ早くおいで」(三、p.22)

 これらは岩波版で「なるたけそこに近い處に宿を取りたい」(p.10)、「(上略)都合して成るたけ早くおいで。」(p.17)となっており、「なるだけ」(初):「なるたけ」(岩)という対応がみられるし、また、

そして京都に着いたのは(三、p.17)

女に京都まで見送られて(三、p.23)

 こちらは岩波版では、「そして京都驛に着いたのは」(p.12)、「女に京都驛まで見送られて」(p.18)。いずれも「驛」が挿入されているのである。
 三部作を通して比較すると、さらに精しい傾向がみえてくるであろう。ここではあくまで、「黒髪」一~三に限って比べてみたにすぎない。
――
 荒川氏『文庫の読書』に触れたので、4月に出た中公文庫について少し述べておく。
 まず『文庫の読書』に、岩田一男『英単語記憶術』(ちくま文庫2014)について書かれた「会話のライバル」という文章が収められているのだが(pp.280-82*2)、そこに、

 半世紀前は、たとえば privacy (プライバシー)ということばは一般的には知られていなかった。プライバシーという概念そのものが日本にはなかったのだ。それで本書では、「三島由紀夫の『宴のあと』をめぐる紛争で有名になったプライバシー」という説明がある。こういうところには時代を感じる。でもそれも勉強になる。(p.281)

とある。同じく4月に出た小島信夫『小説作法』(中公文庫)には、「モデルとプライバシイ」(pp.40-47)という一文が見える。初出は「週刊読書人」(1961.4.3)なのだそうで、まさに『宴のあと』事件の渦中に書かれている。小島のこの文章は、

 このごろ、人の口からプライバシイということを時々きくたびに、おやおや、ムズカシイ単語が日常に使われだしたと思っていた。モデル問題とかんけいがあるらしいとは分っていたが、ジャーナリズムから外れたところで暮していたので、ただ騒がしいことだなと思ったくらいだった。(p.40)

と書き起されている。
 さらに同月刊の、中央公論新社編『対談 日本の文学―素顔の文豪たち』(中公文庫)*3に収める「田山花袋とその周辺」(田山瑞穂×平野謙、1970.3.14)の冒頭では平野が、「プライバシー」について、「いま、やかましくいわれているプライバシーにふれる点が多いわけですね。ところが、いわゆる私小説家といわれる人たちには、自分からプライバシーを公開するというような傾向があって…」(p.51)と語っている。
 ところで、この『対談 日本の文学』に収める「里見弴をめぐって」(里見弴×伊藤整、1968.6.15)には、次のようなやり取りがみえる。

伊藤 ところで「縁談窶(えんだんやつれ)」、ようございますね。あれは、実に鎌倉の雰囲気がいたします。例の小津安二郎監督のような人に撮らせたい作品ですね。
里見 題名は忘れましたが、映画にしているんですよ。しかも僕はそれを知らなかった。晩年親しくなってから撮ったと白状したんだけど、その時分は知らない人だから、けしからん奴がいると……。
伊藤 作者にはわかりますね。
里見 まるで俺の「縁談窶」そっくりじゃないかというんで、初めて会った時、いきなり僕は言ったんですよ。「あなた、人の作品盗んで、随分ひどいよ」って。「やあやあ」なんて言ってごまかしていたけどね。(p.158)

 里見の「縁談窶」は、丸谷才一が作品の内容は認めつつ、タイトルについて「エンダン『ル』」としか読めないじゃないか、と難詰していたことを思い出す。講談社文芸文庫版『恋ごころ』で読めたが、すでに版元品切となっている。それがこの4月、小津のメモリアルイヤー(生誕120年、歿後60年)に因んで*4(そして里見の歿後40年でもある)、里見弴/武藤康史編『里見弴 小津映画原作集 彼岸花秋日和』(中公文庫)の第二部「『晩春』をめぐって」に再び収められたのだった(武藤氏は、『晩春』のみならずモチーフが『秋日和』に似ていることにも言及している)。
 わたしもこれで、実に14年ぶりで再読しているところだ。なお編者の武藤氏によれば、「「縁談窶」全文が伏せ字を埋めて印刷されるのは今回が初めて」(p.349、詳細は同書に就かれたい)だという。
 このように、4月刊の中公文庫は互いにリンクするところがあって、まさに「芋蔓式」読書にうってつけなのだ。
 ちなみに小島の『小説作法』にも、秋江に触れた文章が収めてある。「いかに宇野浩二が語ったかを私が語る」(pp.341-64、初出は「早稲田文学」1985.8)というのがそれで、小島は、

「蔵の中」の序文で、(宇野は)近松秋江論というのをやるんだけども、それがものすごく手がこんでるわけです。(略)あっちからこっちから、短い序文の中に文壇のことから、近松自身のことから――近松もある程度宣伝しなければならない、自分は近松を全面的に人間として、大変な人間だと思ってる。変わった一途な人間でヘンな興味をもってる。だけど小説家としては、そうバカにならない恐ろしいところもあるかもしれないぞという、そういう全部を込めたことを序文に書いているわけですね。だから非常に手がこんでいるわけですよ。(pp.347-48)

などと語っている。

*1:「小い」というのは、秋江元来の送り仮名法だったとおもわれる。たとえば「靑草」五に、「小(ちさ)い芝居小屋」(『別れたる妻に送る手紙 他二篇』岩波文庫所収p.193)とある。

*2:初出は「モルゲン」二〇一五年三月号。『過去をもつ人』(みすず書房2016)に収む。

*3:中央公論社版『日本の文学』(全80巻)の月報対談を再編輯した三分冊の第一冊。毎月刊行予定。

*4:小津映画の原作小説といえば、その前月には大佛次郎『宗方姉妹(むねかたきょうだい)』が、やはり中公文庫で復刊されている。

近松秋江「黒髪」への誘い

 近松秋江『黑髮 他二篇』(岩波文庫1952*1)は、「黑髮」「狂亂」「霜凍る宵」の三篇を収めている。秋江の作品に初めて触れたのはこの文庫によってであったが――正確にはそれ以前、コラム集『文壇無駄話』(河出文庫1955)を「つまみ読み」したことがある――、内容というよりも、まずはその表記の面白さに惹かれて読んだのであった。
 表記の面白さというのは、たとえば「一寸遁れに逃れて居りたい」(「狂亂」p.50)、「捕まりさうで、さて容易に促まらない」(同p.67)、「慨いても歎いても足りないで」(「霜凍る宵」p.151)、「幾度もいくたびも」(同p.154)、「可愛かはい人どつせ」(同p.165)という、異字同訓等を利用した云わば換字的な表記例、「悒鬱(うつとう)しくつて」「鬱陶しい五月雨」(いずれも「狂亂」p.61)、「眞實(ま)に受けて」(「霜凍る宵」p.116)「母親の言つた詐りごとを眞に受けて」(同p.123)「それが眞實(ほんと)でござりますやろ」(同p.145)、「靜(ぢつ)としてゐれば」(「黑髮」p.11)「靜(そつ)と胸の動悸を」(「霜凍る宵」p.127)「靜(ぢつ)とそこに坐つたまゝ」「凝乎(ぢつ)と兩腕を組んで」(いずれも「霜凍る宵」p.130)、「綺麗さつぱりと思ひ斷(き)つてしまはうか」(「狂亂」p.83)「彼女を潔く思ひ切つて」(同p.85)、「男に落籍(ひか)されたのに」(「狂亂」p.74)「引かしてやらうといひ出した」(「霜凍る宵」p.150)といった漢字の宛てかた等々をさす。
 このうち「靜(ぢつ)と」という用字については、現代言語セミナー『辞書にない「あて字」の辞典』(講談社+α文庫1995*2)の「じっと(静と)」の項に、大塚楠緒子「そら炷」の「仕方なしに静と座った」という用例と共に、まさに秋江の「別れた妻に送る手紙」が挙げてある(こちらは書名のみで、引用文はなし)。
 「別れた妻に送る手紙」は「別れた『る』妻に送る手紙」という作品名になっていることが一般的で*3、文庫だと、近松秋江『黒髪|別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫1997)*4などで読める。で、これを見ると、「別れたる…」には、「静(じっ)として」(p.72)という例があり、そのほか「静(そっ)として置きたい」(p.140)もある。
 当該の文庫に収められた「別れたる…」の続篇にあたる「疑惑」にも、「静(じっ)と気を落ち着けて」(p.152)、「静(じっ)とお前達のことや」(p.156)、「静(じっ)と寝ていないか」(p.195)のほかに「静(そうっ)と両手を翳して」という例があり(多すぎるので主な例だけ)、秋江はこの訓を多用していることが知られる。ここでふたたび『辞書にない「あて字」の辞典』を披いてみると、「そっと(静と)」の項には、嵯峨の屋お室「初恋」(引用文はなし)とともに、秋江の「寝ている裾から静と入れてくれた」(「別れた妻に送る手紙」)という用例を挙げている。秋江は「そっと」に「密(そつ)と立つてゐた」(「霜凍る宵」岩波文庫p.120)、「密(そつ)と」(同p.121)などと「密」を宛てていることもあるが、この「密と」について『辞書にない「あて字」の辞典』は、露伴五重塔』や十一谷義三郎『唐人お吉』などでの使用例を挙げており、秋江の用例には触れない。
 そのほか指示詞に具体的な漢字表記を宛てて距離感を把握・視覚化させるということも、秋江がよく用いる手である。たとえば「上京(かみ)から祇園町(こつちや)へ」(「黑髮」p.43)、「西洋(あちら)」(「別れたる…」p.92)、「彼家(あすこ)」(同p.122)、「東京(こちら)」(「疑惑」p.183)、「其店(そこ)」(同p.183)、「四畳半(あちら)」(同p.201)といった類。少し外れるが、「料理屋(そと)じゃ銭(かね)ばかりかゝって詰らない」(「疑惑」p.189)という例もあって、この様なものは枚挙に遑がない。
 またこれは表記面の話ではないけれど、一拍の語を二拍に延ばして発音する(ex.「血ぃ」「目ぇ」)関西方言の特徴が、巧まざるユーモアを醸し出すくだりがあって、なかなか印象的だったので、ついでながら挙げておく。

「そんなによかつたら、こゝをあんたはんのまあにしときまへうか。」
「まあとは。……あゝ間(ま)か、あゝどうぞ居間にして置いてもらひたい。」(「狂亂」p.61)

 なお、敬愛する近松門左衛門を筆名に用いた秋江らしく、たとえば「黑髮」には「(心中)天の網島」が(p.33)、「霜凍る宵」には「冥途の飛脚」が(p.151)唐突に出て来たりして、ことに後者では、態々「毎度近松の作をいふやうであるが」などとことわっているところも可笑しい。
 さて山田稔氏は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した掌篇集『ああ、そうかね』(京都新聞社1996)の「ある晩年」(初出は1995.7.28付京都新聞夕刊)に、秋江「黒髪」の冒頭部を作品名を伏せながら引用し、「ああ、書き写しているときりがない。ここまでで、あれだなと思い当たる方もいるだろう」(p.189)と述べているから、秋江、というよりも「黒髪」はひところ、かなり読まれたようだ。ちなみに「ある晩年」は、いま『山田 稔 自選集1』(編集工房ノア2019)pp.81-83でも読める。
 また荒川洋治『忘れられる過去』(朝日文庫2011←みすず書房2003、この本は10年以上前にここで紹介した)の表題作「忘れられる過去」も、秋江の「黒髪」について述べたものだ。こちらも、近年出た『文学は実学である』(みすず書房2020)に収められた。荒川氏は書く。

「黒髪」は、待つことから生まれた名作だ。待っててねといわれて、男が待つ場面が多い。待つのは飽きるので散歩くらいしたい。でもほんのしばらくの間なので、あまり遠くへ行ってはまずい。(略)
 待って、待って、待ちくたびれる。そして「根負け」して、自分から出かける。この繰り返しについて、秋江はどう思っているのか。
 同じことを書いているという気持ちは、ないのではなかろうか。そのときそのときに、そう思ったことが、秋江の場合絶対のもので、少し前に同じようなことがあったとしても、また書いたとしても、そうした過去のできごとはすっかり忘れられた。文章のなかの過去を消していくことができた。書いたことが少しも身になっていないのだ。これは一度書いたことをたいせつにする文学にはゆるされないことであり、なかなかできないことでもあり、文学としては新しいことである。(『文学は実学である』pp.129-32)

 「待つこと」は、一見能動的な行為であるかのように思われるが、その実、「待たされること」という受動的な行為である。「黒髪」は「待たされる」側の男のほうにばかり目が向けられ勝ちであるが、逆に「待たせる」側の女に着目して、「じらしのテク」という面からこの作品を読み解いたのが、斎藤美奈子氏である。

 じらしのテクがまたすごい。「私」に対する女のじらし方も、読者に対する作者のじらし方もだ。一年半ぶりに会ったのに、何を聞いても女は「こゝではそのことも云えませんから、私、かえります」「下河原の家へこれからいて待っとくれやす」。指定の料理屋に行けば行ったで「こゝではいえまへん」「あんたはん、私、ちょっと帰ります」。
 じらされた読者はつい語り手に肩入れしてしまう。(略)
 なにゆえ女はこんなにじらすのか。ラストですべてが明らかになる。
斎藤美奈子『吾輩はライ麦畑の青い鳥―名作うしろ読み』中公文庫2019←『名作うしろ読みプレミアム』中央公論新社2016:34-35)

 ここで重要なのは、作中の人物だけでなく、作者によって読者もまたじらされているという、二重のじらし構造になっているとの指摘だろう。なにしろ「黒髪」は、これからようやく物語が動きはじめるかと思わせるところで、突然の終幕を迎えるのであるから。
 斎藤氏も書いていることだが、「黒髪」は実は「それ単独では完結していない」作品である。つまり“連作”(そしてこの連作がまとめられて『黒髪』という書名で出ていたりする)の一部なのだ。「次回乞う御期待!」という文字列でも入りそうな「黒髪」の突然のラストは、まさに秋江一流の「じらしのテク」を体現するものにほかならない。
 とは云えわたしの場合、最初から岩波文庫版の『黑髮 他二篇』で表題作から順を追って読んだので、さまで気にとめることもなかったのだが――というのは、この「他二篇」すなわち「狂亂」「霜凍る宵」は「黑髮」の続篇なのであるから――、たとえば文芸文庫版の『黒髪|別れたる妻に送る手紙』で「黒髪」に触れただけでは、作品が唐突な幕切れを迎えることに戸惑ってしまう読者もあるだろうし、「黒髪」のいったいどこが「名作」なのか、と訝しむ向きもあることだろう。
 もっとも柳沢孝子氏は、文芸文庫に収める「作家案内」で、そのことについてきちんと書いている。すなわち、「残念ながら本書未収録の作品」(p.268)である「狂亂」「霜凍る宵」の梗概を紹介し、「黒髪」を「傑作と見るかどうか、もっと言えば好きか嫌いか(略)最終判断を下すためには、実は本書収録の小説「黒髪」だけではなく、連作三篇すべてを通読する必要があるだろう」(p.269)と述べているのである。
 この“連作”については、梯久美子氏も2014年11月2日付「日本経済新聞」の「近松秋江(4)「情痴」の人―恋に敗れた大正文士の栄光(愛の顚末)」で、

秋江が入れあげ、4年にわたって東京から送金を続けた京都の芸妓(げいこ)・金山太夫。彼女とのいきさつは「黒髪」一編では終わらず、「狂乱」「霜凍る宵」「霜凍る宵続編」と書き継がれている。通読すれば、金山太夫には相愛の男がおり、年季が明けても秋江のところにいく気などさらさらなかったことがわかる。

と書いている。また正宗白鳥も『黑髮 他二篇』の解説で、

「黑髮」からはじまつて、「狂亂」「霜凍る宵」「續霜凍る宵」は、連續して讀むべきもので、…(p.190)

と書いている*5。梯氏の文章とは作品名が若干異なりはするものの、いずれも、「霜凍る宵」には続篇が存在することに言及している。それなら、岩波文庫はなぜその続篇を収めてくれなかったのだろうか――などとおもいはしたものの、ろくに調べもせずにいたところが、その疑問が、最近になってようやく氷解したのであった。
 結論をさきにいうと、「續霜凍る宵」(「霜凍る宵続編」)は、岩波文庫版『黑髮 他二篇』のなかにすでに含まれていたのである。
 謎を解いてくれたのは、佐藤正午『小説家の四季 2007-2015』(岩波現代文庫2022←岩波書店2016)の「2011年春――黒髪」「夏――黒髪2」である。佐藤氏は次のように書く。

そこで(八木書店刊『近松秋江全集 第四巻』の―引用者)巻末をひらき、遠藤英雄による「解題」に目をこらしてみると、(略)事情はこうだ。大正十一年五月に発表された「霜凍る宵」の章立ては一から四まで、七月に発表された「霜凍る宵続篇」(これがほかでは「續霜凍る宵」と表記されている作品だろう)のほうは一から三まで、このふたつを足して七章立てにしたもの、それが実は「霜凍る宵」である。つまり「霜凍る宵」はそもそも「續霜凍る宵」を吸収合併して成り立っている。だからいま「霜凍る宵」とされる作品を読めば、そこにふくまれる続篇まで自動的に読んだことになる。(pp.138-40)

 まったく別の方面の興味から手にとった本が、なが年の疑問を解いてくれるというのも読書の妙味である。ここでは必要箇所を書抜くにとどめたが、佐藤氏は、秋江の「じらしのテク」に見事に嵌った読み手として、「黒髪」の書誌的な問題を探索しているので、たいへん面白い。
 ついでにいうと、佐藤氏の文章を読んでいて、ある箇所に穏やかな親しみを感じた。というのは、秋江の「黒髪」を読み始めたときに、わたしも佐藤氏と同じところで一瞬引っかかった、ということをふと思い出したからである。

 その「黒髪」も青空文庫で公開されている。このさいだからと続けてざっと読み始めたところ、途中で「二階がり」という見慣れぬ言葉が出てきた。(略)その「二階がり」が目に止ったとき、なぜか学生時代から記憶している和歌「思いかね 妹がりゆけば 冬の夜の 川風寒み 千鳥鳴くなり」を連想し、…(p.128)

 当該箇所は、「黒髪」の冒頭近くに出ていて、

それまでゐた餘處の家の二階がりの所帶を疊んで(p.8)

という件である。佐藤氏と同じく、わたしもこの「がり」とはいったい何だろう、と思ってしまったのだった。思ってしまったのだが、小さな引っかかりをおぼえつつ、構わず読み進めていった。
 ちなみに、そういった読書のあり方については、永田希氏が最近うまく表現してくれていたのを偶々目にしたので、次に引用して置こう。

 読書とは、そこに書かれた文字や言葉を読み解きながら進めていくものだと普通は考えられています。しかしこの『アガタ』の冒頭を読むときのように、「「サロン」って何だっけ、家の中のどこかだろう」とあたりを付けて読み飛ばしたり、「「打ちのめされたような優しさ」って何だ? 少し変わった表現だな」と保留したりしながら、疑問や違和感を忘れたり、無意識に思い起こしながら読み進めてもいるのです。違和感や疑問を感じたときに、あまりそれらを大きな問題として捉えないことが大事です。(『再読だけが創造的な読書術である』筑摩書房2023:49)

 まさにそのような小さなもどかしさを「二階がり」という表現にも感じたわけだが、この謎は佐藤氏も書いているように、たちどころに解消される。というのは、「黒髪」ではこの少しあとに、

女はなぜ、あの二階借りの住居を疊んでしまつただらう。(p.9)

という件が出てくるからだ。ここにも、秋江の、工夫というよりも気紛れ?な換字的用法が見られる、といえるのではなかろうか。
 さて秋江の「黒髪」連作だが、書誌的にややこしいのは、「黒髮」「狂亂」「霜凍る宵(霜凍る宵續篇)」だけが「黒髪」連作ではない、ということ。つまり、もうひとつ別の「黒髪」連作があるのだ(こちらはわたしは読んでいない)。これに就いては、たとえば小谷野敦氏が、

 その(秋江が東雲太夫に溺れたり「鎌倉の妾」と密通したりする―引用者)前から京都の娼婦・金山太夫となじんでいたが、これは本名を前田志(じ)うといい、数年の交情ののち、またしても姿を消し、秋江は南山城あたりを探索し、志うが風邪から狂気に陥ったと知る。この金山太夫のことを描いたのが「黒髪」連作である。なお東雲太夫連作の最初も「黒髪」なのでややこしい。(『文豪の女遍歴』幻冬舎新書2017:63)

と書いているし、後の『近松秋江伝』では、次の様にさらに精しく述べている。

秋江といえば「黒髪」の、京都の娼婦お園(前田志う)が知られるが、その前に大阪の娼婦・東雲太夫に耽溺した時期があり、その時のことを書いた同名の「黒髪」があってまぎらわしい。(小谷野敦近松秋江伝―情痴と報国の人』中央公論新社2018:89)

先の(東雲太夫の―引用者)「黒髪」が発表されたのはすぐあと、大正三年の『新潮』だが、この「黒髪」という題は、長唄の曲名を思わせる。(略)だが、あまり作品として成功しなかったので、前田志うの時に再度使ったということになる。先の「黒髪」の続きは、「仇情(あだなさけ)」(『早稲田文学』三月)、「青草」(『ホトトギス』四月)、「春の宵」(『婦人文藝』五月)、「春のゆくえ」(『文章世界』六月)と続くのだが、「別れたる妻」や、のちの「黒髪」のような決定的名作はない。しかも岩波文庫の『別れた妻に送る手紙』には「青草」が入っている。娼婦と春の野辺を散歩していて、娼婦がしゃがんでおしっこをする話だが、よほど秋江について知らないと、これを京都の「黒髪」の娼婦だと思ってしまうだろう。辻原登も「黒髪」で秋江の二つの「黒髪」で混乱させられたさまを描いている。辻原は、後藤明生の講演を聴いて、「黒髪」と言っているのが「後の黒髪」だと思っていたら「先の黒髪」のことだった。後藤自身が「先の黒髪」を「後の黒髪」だと思って『近松秋江全集』で読んだことは『小説は何処から来たか』(白地社)に書いてある。(同pp.97-98)

 実はさきに紹介した佐藤正午氏も、のちに別の「黒髪」連作があることを知り、「2013年冬――喪服」でそのことに触れていた(『小説家の四季2007-2015』pp.192-95)。
 そこで佐藤氏は、次の様に結論している。

 世に近松秋江の「黒髪」といえば、一応はあの有名な短編「黒髪」を指すのだろうが、軽々にそばへ近寄るのは危険である。いったん「黒髪」を読み出せば一応ではすまなくなる。小説中で黒髪の女を恋いこがれる男のように、読者もまた、追いかけても追いかけても正体をつかめないもどかしさを体験し、つまりは近松秋江の術中にはまってしまうのだ。(p.195)

ーーー
 上の文章をアップした翌日、素見のつもりで行きつけの新本屋の古書コーナーを覗くと、近松秋江『別れたる妻に送る手紙 他二篇』(岩波文庫1953)が置いてあった。1999年の6刷で、220円。もちろん購った。つい4日ほどまえ同コーナーに寄ったときにはなかったもので、「本に呼ばれた」気がしたものだった。
 しかし小谷野氏は『近松秋江伝』で、岩波文庫版の書名は『別れた妻に送る手紙 他二篇』であることを明記しており(p.5、p.97等)、わたしの入手したのが『別れた「る」妻…』となっているのを不思議に思ったのだが、どうもこの6刷(もしくはその前の5刷あたり?)で、書名が変更されたようである。それが証拠に、目次部分の作品名「別れたる妻に送る手紙」や、奇数ページの左肩に附された作品名「別れたる妻に送る手紙」は、活字の形や状態から見て、後に差し替えられたものであることが一目瞭然なのだ。
 1992年11月に同文庫が重版(増刷)された際に附されたらしい、巻末の中島国彦「本文庫版のテキストについて」でも、ゴチで見出しに示された書名部分が「別れた妻に送る手紙」となっているから、少くとも1992年時点では、まだ書名が『別れた妻…』だったと思われる。
 この中島氏の文章によれば、『別れたる妻…』は初出誌(「早稲田文学」で4回に分けて連載)では伏字が数箇所あったが、創元選書の一冊『黒髪』(1947)で伏字が解消された際に表題が「別れた妻に送る手紙」と改められ、「以後この表題で多くの読者に読まれる形となった。本文庫の本文は、その表記やルビの付け方からみて、この「創元選書」版を底本にしていると思われる」(p.225)。そのため、書名が長らく『別れた妻に送る手紙』となっていたのだろう。(4.19追記)

*1:手許のは1994年の第9刷。

*2:もと1984年冬樹社刊『遊字典』。のち角川文庫1986。講談社+α文庫版は(改題)再文庫化というわけではなく、文献や用例をいくらか追加している。

*3:底本によっては「別れた妻~」の形になっているということ。岩波文庫版の表題もこの形だそうで(未所持)、『辞書にない「あて字」の辞典』の誤記ではない。

*4:手許のは2015年の第7刷。

*5:白鳥は、この解説(1951年11月1日)では「私はこの頃讀返して、以前みじめだと見てゐたところをユーモラスに感ずるやうになつた」(p.192)などと誉めているが、ほぼ同時期(多分1951年頃)に書かれた「舊友追憶」では、「秋江は、はじめのうちは、話は面白いし、打解け易いし、女性にも好かれるのであつたが、次第に、しつこくてうるさい本性を出して來るので、いやがられるのであつた。私は、「黑髮」から「狂亂」「霜凍る宵」を通じて、今度三度目に讀んだのだが、終末の「續霜凍る宵」まで讀みつゞけるとうんざりした。女性に關係して惑溺した心境は、秋江獨得の味はひを持つてゐる譯だが、終末のあたりになると、秋江式しつこさ、うるさゝのマンネリズムが鼻につくのだ。私も老人の心境に次第に陷りだしたので、あくどい作品に心を惹かれなくなつたのか」(『自然主義文學盛衰史』創元文庫1951所収,pp.184-85)と書いていて、微苦笑を誘われる。どちらが本音かというと、おそらく後者なのだろうが。

「ドルジェル伯」と大岡昇平『武蔵野夫人』

 レーモン・ラディゲ(1903-23)は、ことし生誕120年、そして歿後100年をむかえた。ラディゲはその短い20年の生涯のうちに、『肉体の悪魔』『ドルジェル伯の舞踏会』の二大傑作をものしたが、特に遺作となった『ドルジェル伯の舞踏会』(以下「ドルジェル伯」)は、本邦の作家たちにも大きな影響をあたえている。
 わたしは「ドルジェル伯」の邦訳本を、鈴木力衛訳の岩波文庫版(1957年刊*1)と渋谷豊氏訳の光文社古典新訳文庫版(2019年刊)との2冊を有っている。なお新訳文庫のラディゲといえば、2008年に中条省平訳『肉体の悪魔』も出ている。中条氏が「ドルジェル伯」ではなく『肉体の悪魔』を択んだ理由については、『肉体の悪魔』にはラディゲの精神だけでなく、肉体もしくは無意識から来る謎めいたエネルギーに満ちているように思われるからだ、といったことを訳者あとがきで述べていた。
 新訳文庫版「ドルジェル伯」の売りは、ラディゲ自身が定めた最終形の「批評校訂版」を初めて翻訳した、ということと、訳者解説が約60ページにわたり充実している、ということとだ。その解説によると、ジャン・コクトーらが手を加えた初版(1924年7月刊)には、最終形と実に700箇所にわたる異同が有って、「その内、約六〇〇箇所で明らかに「純粋に物理的、文法的な訂正」の域を超えた加筆修正が行われてい」る(p.264)という。
 巷間でよく知られているのは堀口大學訳であろう。そもそも堀口大學は、ラディゲの詩2篇(「制服」「昆虫あみ」)を大正十一(1922)年に「白孔雀」誌上に訳出しており、これが日本で初めてのラディゲ紹介となったとされる。大學が「ドルジェル伯」を訳したのは昭和に入ってからだといい、長谷川郁夫『堀口大學――詩は一生の長い道』(河出書房新社2009)は次の如く記す。

 (昭和)六年二月に、白水社からレーモン・ラディゲ二十歳の遺作「ドルヂェル伯の舞踏会」が訳刊された。ラ・ファイエット夫人の「クレーヴの奥方」に範をとったといわれる、社交界を舞台とする恋愛心理小説である。(略)
 装幀は東郷青児。表紙は、幾何学模様のコンポジションの一部に薄グリーンと墨のベタが配されたモダンで品のいいデザインだった(堀口さんの回想には、「けざやかな装幀」と記されている)。口絵に、コクトーによるラディゲの肖像の線描、本文中には青児の挿画六葉がある。(略)かれ(青児―引用者)にラディゲへの強い思い入れがあったことは、昭和二十五年に自らが「肉体の悪魔」(白水社)を訳出したことにも明らかといえる。(略)
ドルジェル伯の舞踏会」の翻訳作業は昭和五年中に行われた。白水社では草野貞之が担当編集者だったと考えられるが、長谷川巳之吉の了解を取りつけるのには難儀したことだろう。巳之吉には、堀口さんを占有したいとする思いが強かった、と容易に想像されるからである。しかし、当時の文藝書としては破格の初刷五千部という発行部数には、さすがの巳之吉も脱帽するほかなかったに違いない。(略)堀口さんの訳文はこののち、八年三月発行の春陽堂「世界名作文庫」の一冊に収録され、十三年一月には白水社から普及版が発行された。(p.495)

 この白水社版は小田光雄氏も所有しているのだそうで、その書物の体裁については次の如く書いている。

 手元にある一冊の幾何学模様のコンポジションのモダンな装幀、挿画は東郷青児によるもので、菊判を少し小さくした判型を採用し、三二三ページにもかかわらず、厚い紙を使用していることによって、束は三・五センチに及んでいる。(小田光雄「ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』と堀口大学」『近代出版史探索V』論創社2020:44)

 さて大學訳「ドルジェル伯」に魅了された者として有名なのが、若き日の三島由紀夫である。

 「ドルヂェル伯の舞踏会」訳文の評価については、三島由紀夫のあの名批評を借りるにしくはない。昭和三十八年十二月一日の「朝日新聞」、「一冊の本」欄に掲げられた絶賛の文章からの引用である。

 ラディゲがニ十歳で夭折する前に書いた傑作「ドルヂェル伯の舞踏会」には他の訳者の訳も二、三あるが、私にとってのそれは、どうしても堀口大學氏の訳でなくてはならない。私は、堀口氏の創つた日本語の藝術作品としての「ドルヂェル伯の舞踏会」に、完全にイカれてゐたのであるから。それは正に少年時代の私の聖書であつた。白水社版のこの本を、一体何度読み返したかわからないが、十五歳ぐらゐで初読のときは、むつかしいところなど意味もわからずに魅せられ、くりかへして読むうちに、朝霧のなかから徐々に村の家々や教会の尖塔(せんたふ)がくつきりと現はれてくるやうに、この小説の作意も明瞭になつた。
 しかし、少年の私をはじめに惹きつけたものは、人間心理への透徹した作者の目よりも、訳文の湛(たた)へてゐる独特の乾燥したエレガンスであつた。

(長谷川前掲p.496)

 三島のこの文章の一部は、長谷川著の序文(p.15)にも引かれているが、昭和二十七(1952)年に角川文庫に入った大學訳「ドルジェル伯」七刷(1964年刊)の帯にも、惹句として引かれていたのだそうだ。

 文庫本蒐集家のあいだでもあまり知られていない事柄を一つ紹介しておきたい。それは、角川文庫版『ドルヂェル伯の舞踏会』の七版(一九六四年五月三十日)にだけ、通常の赤帯の上にさらに橙色の上質紙の帯がかけてあり、その帯に白抜きの活字で大きく「正に少年時代の私の聖書であった」という三島由紀夫の言葉が印刷されていることである。「私の聖書」という一句によって、ラディゲが若き日の三島に与えた影響力の大きさを知ることができる。事実、三島には「ラディゲの死」や「ドルヂェル伯の舞踏会」といった小品があり、彼の最初の長編小説『盗賊』はラディゲの影響のもとに書かれたと三島自身が公言している。また、『美徳のよろめき』というタイトルは伯爵夫人マオ・ドルジェルの恋愛を連想させる。(「レーモン・ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』[田村道美]」、近藤健児/田村道美/中島泉『絶版文庫三重奏』青弓社2000:103-04)

 ここで田村氏のいう「『ドルヂェル伯の舞踏会』といった小品」は、「世界文學」21号に掲載された三島由紀夫「ドルヂェル伯の舞踏會」をさすのではないか。
 「世界文學」は以前、神保町のK店頭の3冊500円コーナーで、第7、21号の2冊*2を「近代文學」第6号と共にたまさか拾っており、その21号の「作品研究」コーナーに、三島の「ドルヂェル伯の舞踏會」が載っている。
 三島の「ドルヂェル伯の舞踏會」は、「僕」と「レイモン・ラデイゲ」との対話形式からなる作品である。「僕」が「ドルジェル伯」について、「作者の影がどこにもみえないでゐて、これほど深く作者の不幸を語つてゐる作品はないやうに」思う(p.42)と評したかと思えば、「ラデイゲ」が「『ドルヂエル伯(ママ)の舞踏會』で、僕は人間の心が血を流す場面をあきもせずにくりかへして描いた。あの小説の終りに近づく數節に流血の慘事を見ない讀者を僕は信用しない。古い慘鼻な叙事詩が忠節といふ倫理的な主題で貫ぬかれてその血の匂ひを淸らかなものにしてゐるやうに、僕は貞節といふ主題をとり用ひた」(p.43)と応じるなどしている。末尾には「一九四八、三、三〇」の日付がある。
 多分その「小説の終りに近づく數節」のなかには、ナルモフ大公の「チロリヤンハット」をめぐる挿話、すなわち、ドルジェル夫人(マオ)とその夫アンヌ、マオと恋仲になる青年フランソワの三者三様の心理劇も含まれるのではないかと思うが、このくだりなどは、読んでいて非常にスリリングであった。
 三島のほか、「ドルジェル伯」に魅入られた人物としてよく知られるのが、大岡昇平である。1950年に連載(「群像」)、刊行(講談社刊)された大岡の『武蔵野夫人』も、「ドルジェル伯」の影響下に書かれた作品である。エピグラフとして、「ドルジェル伯」の冒頭部――「ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは時代おくれであろうか」を引いている。ちなみに「ドルジェル伯」が範をとったラファイエット夫人クレーヴの奥方』の光文社古典新訳文庫版(永田千奈氏訳)の帯文には、これをもじって「クレーヴ夫人のような心の動きは時代おくれであろうか?」とある。
 わたしは『武蔵野夫人』も2冊有っている。先ず十数年前に下鴨の納涼古本まつりで薄桃色のカバーの河出新書版(1955年刊)を拾った。当初これを読んだときはあまりピンとはこなかった。しかし後に、「ドルジェル伯」を読み了えて、それから新潮文庫版『武蔵野夫人』(2013年刊の改版)を購って改めて読み直してみたところ、打って変っておもしろく読めたのであった。武蔵野の地に昵みを感じるようになりつつあったことも理由としてあるのかも知れないが。
 当該の2作品には、人物設定や結構も似通ったところが有る。たとえば「ドルジェル伯」がマオのバックグラウンドから説き起こしているのに対し、『武蔵野夫人』の冒頭は、国分寺崖線下の窪地の斜面「はけ」に棲む人々の背景説明から始まる。また「ドルジェル伯」のマオとフランソワとは遠縁だが縁戚関係にあって、一方の『武蔵野夫人』のヒロイン道子と、恋仲になる勉とはいとこ同士である。それから、フランソワがマオから離れてバスクを旅行するという展開があるのと同様、勉の方も道子から離れて葉山でひと夏を過ごすというくだりがある。
 『武蔵野夫人』でとりわけ印象に残るのが次の場面である。

 土手を斜めに切った小径を降りて(勉、道子の―引用者)二人は池の傍に立った。水田で稲の苗床をいじっていた一人の中年の百姓は、明らかな疑惑と反感を見せて二人を見た。
「ここはなんてところですか」と勉は訊いた。
「恋ヶ窪さ」と相手はぶっきら棒に答えた。
 道子の膝は力を失った。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかったが、伝説によればここは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦いに行った男を慕ってこの池に身を投げている。
「恋」こそ今まで彼女の避けていた言葉であった。しかし勉と一緒に遡った一つの川の源がその名を持っていたことは、道々彼女の感じた感情がそれであることを明らかに示しているように思われた。
 彼女はおびえたようにあたりを見廻した。分れる二つの鉄路の土手によって視野は囲われていた。彼女は自分がここに、つまり恋に捉われたと思った。(新潮文庫版pp.82-83)

 これは溝口健二『武蔵野夫人』(1951東宝)では――ちなみに道子は田中絹代が演じ、勉は片山明彦が演じている――、ごくあっさりと描かれる場面であるが、青山七恵氏が、奥泉光氏と岡田利規氏との鼎談で、

 たとえば、道子が勉に対する自分の想いを恋だと意識する場面。道子と勉は二人で散歩しているんですが、たまたまそこにいた田植えのおじさんにここはどこですかと聞いたところ、「恋ヶ窪さ」と返されます。それで道子は「恋」という言葉に反応してしまって、そしたらこれは恋なんだ! と膝の力が抜けるほどの衝撃を受けちゃうんです。(略)
 恋というものがどういうふうに人の心に起こって、どういうふうに暮らしの中に入っていって、どういうふうな面倒が起こるかというのが、独自の恋愛格言みたいなものを交えながら逐一細かく書いてありますね*3。(「大岡昇平を読む」、奥泉光・群像編集部編『戦後文学を読む』講談社文芸文庫2016:234-35)

と語るように、実に劇的な瞬間を描いていると思う。第三者にその地名をいわせるという趣向もその効果を高めている*4
 一方の「ドルジェル伯」にも、「恋」という言葉によって、マオが自分の感情を初めて理解するという場面があるが、こちらでは、言葉そのものは外側からではなく、内側からやって来る。

 マオは自分がフランソワに恋をしていることを認めないわけにはいかなかった。
「恋」という恐ろしい言葉をいったん口にしてしまうと、彼女にはすべてが明らかになった。(新訳文庫版p.187)

 それにしても、『武蔵野夫人』のこのくだりは劇的である。劇的でありすぎて、とってつけたような観もある。そもそも小説の舞台は、水量の豊かなところという条件さえ満たしておれば、べつに「はけ」でなくてもよかった筈で、「恋ヶ窪」にインスピレーションを得た大岡が筋立てを逆算的に考えていったのではないか、という気さえする。
 前田愛もやはりこのくだりを一部引きつつ、物語内部での位置づけについて述べていた。

 道子は、この源流行の途中で若い従弟を抱きしめてやりたくなった衝動に、〈恋〉の一字をかぶせることにあるためらいを感じている。自分がえらびとった妻の役割にほとんど疑いをもたなかった彼女にとって、それはたんなるコトバ以上のものではなく、現実の感情との結びつきは、禁忌の領域に閉ざされていたからである。ところが、「中年の百姓」がぶっきら棒につぶやいた〈恋ヶ窪〉の地名が道子の禁忌をひらくきっかけをつくる。このコトバとココロの出会いは、日常的な世界が文学という自律した言語空間に昇華して行く微妙な一瞬をとらえているかぎりで、私たち読者にも発見のよろこびを頒(わか)ち与えてくれる。(「大岡昇平『武蔵野夫人』――恋ヶ窪」『幻景の街 文学の都市を歩く』岩波現代文庫2006:229)

 なお前田は、『武蔵野夫人』というタイトルについて、

『武蔵野夫人』がはじめ『武蔵野』と名づけられ、最終的に今の題名に落ちついたことはよく知られる。しかも地名+夫人という題名の形式を、さいしょに思いついた近代の作家はまぎれもなく独歩であって、作柄としては大したものではないが、独歩が佐々城信子とその情人に鎌倉の海岸で行きあわせる奇縁を描いたことで記憶されている『鎌倉夫人』が発表されたのは明治三十五年である。(pp.233-34)

と書き、以下、『鎌倉夫人』や独歩の『武蔵野』、『武蔵野夫人』の類縁性を説いているけれど、タイトルに「夫人」を附けたのは、大岡自身の発案ではなく、しかも必ずしも本意ではなかったということを、後に本人が明かしている。

「武蔵野」は「対主人公」ということですが、なにぶん独歩に名作があるんで、ヒロインの方へくっつけて「夫人」をつける。まあ、編集者の選択ですが、それはたしかにあの小説を何万部かよけいに売りましたが、主題がぼけたことになって、作者としては損をしてるかもしれません。(大岡昇平『わが文学生活』*5中公文庫1981:232)

 もとの題は「武蔵野」だったので、この小説の主人公は自然なのです。自然描写によって読まれるだろう、とぼくは最初からいっているので、……(同前p.111)

 ところで前田は、次のようにも述べる。

 昭和二十二年四月に発効した「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的処置に関する法律」の第五条には、「夫婦の財産関係に関する規定で両性の本質的平等に反するものは、これを適用しない」と記されている。富子と世帯をもつ資金を捻出するために家屋の譲渡委任状と権利書を持ち出したまま、秋山が失踪してしまったとき、道子は改正される民法の摘要を解説書で調べ、自分の遺言により財産の三分の二を好むものに遺贈することができるのを知った。つまり、秋山が家を売る前に自分が死ねば、勉に財産を残すことができるという論理である。これはまさに家つき娘の論理であって、道子は、土地の旧家から格安の価格で「はけ」の湧水を含む武蔵野の一等地をまきあげた父親、宮地老人の呪縛から遁(のが)れられなかったのである。
 自分の身体を勉に向かって投げかけるかわりに、夫への復讐の意図がこめられているとはいえ、「はけ」の家を勉に遺そうとする倒錯。道子の貞淑の美徳なるものを、ブルジョアにふさわしい私有財産の観念にまで還元してしまった作者の冷ややかな計算は、読者に冷水を浴びせるていの衝撃力に欠けていない。(前田前掲pp.243-45)

 ここに「作者の冷ややかな計算」とあるが、大岡本人によると、道子と秋山との夫婦関係の変化に「民法改正」を利用したことは、窮余の一策であったという。

『武蔵野夫人』の民法改正による夫婦関係の変化は、最初の予定にはなかったので、苦しまぎれです。あのすぐあと福田恆存の質問に答えて書いた通りですよ。最初の姦通罪廃止を問題にしたところとなんとなく釣合いがよくなっちゃったんですが、ほんとはそれだけ復員者勉の持つ破壊力が減殺されて、ロマネスクの展開が阻害されたことになるでしょう。だから一応福田のいう通り失敗と認めたんですが、……(『わが文学生活』p.111)

 その福田は、『武蔵野夫人』を失敗作と断じ、脚色したうえで『戯曲武蔵野夫人』を書いているが(こちらは未読)、映画版はオープニングクレジットに「潤色 福田恆存 脚色 依田義賢」と表示されているので、戯曲版に基づくとおぼしい。たとえばラストで、道子の死に富子=轟夕起子や勉らが立ち会うシーンなど、原作とは大いに異なる。これも戯曲版に基づくものであろうか。
 佐々木基一も、『武蔵野夫人』の特に後半部を「失敗」とみている。

 この作品の後半、特に道子と勉が村山のホテルから帰って以後になると、だいぶ調子が乱れてくる。勉に対する道子の愛情にもどこか弱さが感じられる。(略)お手本になった『ドルジェル伯の舞踏会』のいちばん重要な箇所は、「マーオは、別の世界に坐って、アンヌを眺めていた。伯爵は、相変らず自分の世界に住んで、マーオの心の中に起った変化には何一つ気づかなかった。」という巻末に近い一句であるが、道子は結局俗物的世界から絶縁して「別の世界」に移ることなく、秋山との無意味な夫婦生活を清算する勇気もなく、文字通り古風な女として死ぬのである。そこに道子の魅力の乏しさと、この作品の主題の限界がある。(「大岡昇平―『武蔵野夫人』について」『同時代作家の風貌』講談社文芸文庫1991所収:p.182)

 ちなみに大岡は、映画版『武蔵野夫人』については次の如く評している。

 あれはいいにくいけれど、溝口さんのものの中ではあまりいい出来ではなかったな。ぼくは試写を見に行かないで鎌倉で観て、途中で外へ出て、やけ酒飲んじゃったことを覚えているな。ぼくは武蔵野の美しい自然をふんだんに撮ってほしかったんだけど、溝口さんはセットを据えて、劇に仕立てちゃったんだよね。あれは東宝争議と関係があって、セットをぶっ立てたのは、撮影所占拠だった、とこの頃になって知りました。ああいう風に撮られちゃうと、ぼくの小説の欠陥がたちまち露呈しちゃって、ぎくしゃくした動きになってダメだな。(『わが文学生活』pp.222-23)

 さすがに、セットの塀の外側からクレーンで舐めるように回転しながら内部に侵入して行って人物を捉えつづける俯瞰ショットなどは、溝口作品の面目躍如たるものがあるけれども、全体としては、セットとロケーションとが中途半端に入り交じった観があるのは否めない。
 せっかく武蔵野を舞台にしているのだから、大岡がいうように、屋外での撮影をもっと重視してもよかったような気がする。

*1:手許のは1989年11月15日刊の第4刷。

*2:小田光雄氏は「世界文學」の第6号を所有しているといい、発行人の柴野方彦についても言及したことがある(「『世界文学』、世界文学社、柴野方彦」『近代出版史探索V』:192-95)。また山本貴光氏は全三十八巻を蔵している(!)のだそうだ(https://www.webdoku.jp/column/yamamoto/2021/07/13/115706.html)。

*3:この発言で思い出したが、『ドルジェル伯』にも「格言」が頻出する。たとえば、「恋愛とは心の安らぎを奪うものなのだ」(古典新訳文庫版p.126)、「幸福は健康と同じだ。人は幸福には気づかない。気づくのは苦痛だけだ」(同p.155)等々。

*4:上引の鼎談で岡田氏は、「『恋ヶ窪さ』というせりふをいうだけのためにいるおじさんとか、もろにご都合主義」(p.245)と発言している。

*5:1974年8月10~11日、秋山駿、菅野昭正、中野孝次の質問に大岡昇平が答える形でなされた討論の記録に、高橋英夫亀井秀雄の書面での質問に大岡が回答したのを加えてまとめたもの。1975年中央公論社刊。