HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

嫉妬と階級、宗教、そして社会の安定

いやなことに気づいてしまった。

人間の欲望が最も見境なく発揮されるのは、嫉妬心に駆られるときではないだろうか?「なぜ、あいつはあんならに楽をしているのに、おれは?」とか、「あいつは最高の医療サービスをうけられるのに、うちではできない...」とか、嫉妬心というには切な例を出してしまったが、人との比較において人間の欲望の量、際限のなさがきまるという気がする。

この場合、どれくらいの「広さ」の人間と自分を比較するかで、この欲望の量は決まる。前提として、べき乗分布でないが、サンプルの大きさがサンプル中の最大値を決めるということがある。

こうした場合に、階級社会というものが近代以前に存在したというのは、技術などの革新の少ない変動が少ない社会であり、安定をその旨にしていたからだと想像できる。なぜなら、階級というシステムにより、自分と比較対照するサンプルの数が減り、富が不平等に存在していることに納得性が生まれるからだ。宗教という社会の究極のリアリティーを人に与える仕組みも、人々に偏在を納得させる仕組みとなりうす。なぜなら、神がそう定めたもうからだ。

この意味で、現代社会において技術革新が続く限り、安定社会を志向することはなく、したがって社会を階級などで固定することもないのだろう。これは、技術革新が常態である限り続くと想われる。

Q.E.Dと書いてしまっていいのだろうか?