武士の「一分」とは

(第1号、通巻21号)

    旧臘(きゅうろう)の一日に封切られた山田洋次監督の映画『武士の一分』が好評のようだ《参考》。「一分」は、「いっぷん」、「いちぶ」、「いちぶん」と少なくとも3通りの読み方があり、それぞれ意味が違う。

   「いっぷん」は1時間の60分の1、つまり時間の単位を表す。「1分1秒を争う」などとも使われる。

   「いちぶ」は普通、10分の1を指す。「梅が3分咲き」と表現する場合は全体の3割程度、の意味だが、1割の10分の1をいうことも多い。野球の打率を「3割5分6厘」という時の「5分」は1割の半分の意だ。さらには、「ごくわずか」あるいは「まったくない」という語義もある。「敵にも一分の理はある」とか「彼の服装には一分の隙もない」とかはその例だが、この場合は洋数字ではなく漢数字を使う。

   で、最後の「いちぶん」と読む場合の意味はどうか。「譲ることの出来ない一身の面目、名誉」。有り体に言えば、「メンツ(面子)」や「体面」とほぼ同義だが、もっと重々しく、古風な響きがする。背景に「恥の文化」も感じられる。映画「武士の一分」はまさにこれにあたる。

   映画の宣伝ポスターやパンフレット類には「一分」のわきに「いちぶん」とルビがふってある。今どきあまり耳にしない言葉なのだから止むを得まい。ともかく藤沢周平の小説を元にした作品と聞いて、藤沢周平の本を探してみた。自宅の書棚にないのはともかく、本屋にもなく、図書館でも「武士の一分」という題の本は見つからなかった。ないのも道理だ。「武士の一分」の原作の題名は『隠し剣 秋風抄』(文春文庫)だった。しかも、映画の題材になったのは、その中の「盲目剣谺(こだま)返し」という短編である。

   「隠し剣 秋風抄」にしても「盲目剣谺返し」にしても、小説の題名をそのまま映画のタイトルにしたのでは『武士の一分』ほど話題にならなかったろう。私が読んだ限りでは、原作には、このキーワードはたった1回しか出てこない。

   夫の将来を案じる妻につけ込み籠絡した剣士との果たし合いの場面。盲目の主人公が相手の動きを知る術は気配だけだったが、突然その気配が消えた。「この勝負、負けたか」との思いが一瞬頭をかすめる。が、その後すぐに主人公が平静さを取り戻す内面の様子を作家・藤沢周平は、次のように淡々とした筆致で書いた。

    (だが、狼狽(ろうばい)はすぐに静まった。勝つことがすべてではなかった。武士の一分が立てばそれでよい。敵はいずれ仕かけて来るだろう。生死は問わず、その時が勝負だった〉
 
    「武士の一分が立てばそれでよい」。映画の題名は、このさりげない行(くだり)から取ったのである。山田洋次監督の慧眼というほかない。実は、私自身まだ映画は観ていないのだが、監督は、現代にも通じる人間のしっとりとした情愛を縦糸に、そして古風な「武士の一分」の精神を横糸にして、切っても切れぬ夫婦の絆の強さを物語として紡いだのに違いない。映画を、ぜひとも観てみたい。

 
【参考】1月10日付の朝日新聞朝刊によれば、『キネマ旬報』の06年公開の日本映画ベストテンで5位に選ばれた。

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