ハ行音の謎の前歴――続・「母」は昔々、「パパ」だった      

(第19号、通巻39号)
    前号のブログで「ハ行音は、ずっと古い時代には、“p”音の『パ、ピ、プ、ペ、ポ』であった」という橋本進吉博士の言葉を引用した。前号の内容を要約すると、ハ行音は現在のような“h”音の「ハ、ヒ、フ……」になる前は“f”音の「ファ、フィ……」と発音されていたが、それより以前の古代日本語では“p”音だったというものだ《注1》。

    しかし、ひらがなもカタカナもまだ成立しておらず、ましてやテープレコーダーなどの録音機もなかった時代の発音がどうして分かるのだろうか。

    ここで登場するのが音声学、音韻論だ。日本語には、次のような濁音と清音の対立がある。英語で言えば有声音と無声音の関係に対応する。

   「ガ、ギ、グ、ゲ、ゴ」 “g”音―― 「カ、キ、ク、ケ、コ」 “k”音
   「ザ、ジ、ズ、ゼ、ゾ」 “z”音―― 「サ、シ、ス、セ、ソ」 “s”音
   「ダ、ヂ、ヅ、デ、ド」 “d”音―― 「タ、チ、ツ、テ、ト」 “t”音

    上の各行とも左側と右側では、発音する時の口の形、唇、舌の位置もほとんど変わらない。音韻的には調音点が同じだ。

    では、濁音のバ行“b”音に対応する清音は何か。ハ行、つまり“h”音と思われがちだが、発音してみるとすぐ実感できるように「調音点」がまったく違う。第一、“h”音は“b”音のように唇を使わない。実は“b”音に対応するのは、“p”音なのである。国語の世界では、“p”音のパ行は半濁音と言いならわされているが、言語学的には清音というべきかもしれない。

    その昔、漢語を中国から受け入れる際、中国原音のpをハ行音の漢字で写し《注2a》、また中国原音のhはハ行音に似たカ行音で写していた《注2b》。これは、古い日本語のハ行子音はhでなかったこと表している、というのが橋本進吉博士の恩師・上田萬年博士の有名な『P音考』の骨子である。

    沖縄など西南諸島で、現在でも「花「のことを「パナ」と言い、「船」を「プニ」と発音しているのは、ハ行が昔はパ行で発音されていたことを今に示す《注2a》の言語学的“物証”である。同じような例はアイヌ語にも多いと言われる。

    また、注2bの具体例としは、てサンスクリット語から漢語を経由して入った仏教の用語も分かりやすい。
         Arahan  → 亜羅漢(あらかん)
         Maha   → 摩訶(まか)

    「漢」「汗」の日本での音読みは「カン」とされているが、中国語では「ハン」と発音する。「チンギス汗(ハン)」が「チ(ジ)ンギスカン」と呼ばれるのはその一例と言える。


《注1》 前号の注で挙げた文献のほか、『日葡辞書』の解説書など参照。

《注2》 『日本語百科大事典』(大修館)