「すべからく」は「全て」ではない(改訂版)

(第60号、通巻80号)
    
    当ブログは、先週金曜日の2月22日にpv(ページビュー)が5万の大台を超えた。“愛読者”が増えているのは喜ばしい限りだが、同時に、言葉を題材に文章を書くことの難しさも実感している。人によって言語観が違う。その前提になる経験、知見にも差がある。一知半解の身としては、頼りになるのは辞書である。辞書にも時に間違いはあるが、それでもなお、文章を書く者の基本的な心構えとして「すべからく」座右に辞書を備えておくべし、と改めて思う。

    文筆を業としているような人でもうっかり間違えて使う言葉の一つに「すべからく」がある。漢字では「須らく」あるいは「須く」と表記する。元々は漢文訓読から生まれた用法で「すべからく〜すべし」と使う。昔、高校時代に受けた漢文の授業では、漢文訓読の際、二度読みする漢字を「再読文字」というと教えられた。よく知られているのは「未(いまだ〜ず)」、「将(まさに〜とす)」などだが、もちろん「須(すべからく〜べし)」も再読文字の一つである《注1》。「当然(あるいは、為すべきこととして)〜しなければならない」という意味だ。「学生はすべからく勉強すべきである」といった具合に用いられる。
    
     ところが、この「すべからく」を「すべて」のという意味に誤用している例が目立つ《注2》。よく引き合いに出される「学生は……」という上記の例文のように、「すべて」の意味でもごく自然に通じるケースが多いからだろう。実際、両様にとれる文脈も少なくない。だからというわけではないが、私自身も若い頃、「すべて」の意味で使ったことがあるような気がするが、「すべからく」には「すべて」の意味はまったくない。

    言葉についての造詣が深い呉智英氏や高島俊男氏は、それぞれの著作の中で高名な学者・評論家の実名を挙げて「すべからく」の誤用例を指摘しているが、私が自分で見つけた、誤用ではないかと思われる例を一つだけ挙げてみよう。

    それは、直木賞受賞者というより当代きっての流行作家・渡辺淳一氏の『創作の現場から』(集英社)のこんな一節だ。「はっきりいって小説家に限らず表現者たるものはすべからく、時代に合わせたいと思っているものです」。

    「すべからく」は下に「べし」や「べきだ」を伴って“義務”や“当然”、“必要”を表すのが普通の語法なのに、渡辺氏のこの文には、「すべからく」に呼応する「べし」や「べきだ」という語もないので、「表現者たるものすべて」の“願望”を示しているものと思われる。文体が「です、ます調」だから、あるいは口述筆記をして編集者が誤ったのかもしれないが、本のオビに「小説をどう書いてきたか。小説はどう書けばよいか。」とあるのは皮肉だ。

    「すべからく」という語を辞書はどう扱っているか。日本最初の和英辞典とされるJ.C.ヘボンの『和英林語集成』第3版の復刻版(講談社学術文庫)でも、「SUBEKARAKU スベカラク 須」の項目で、“Well or proper to do, ought, necessary, requisite ”と英文で語義が示され、続いて「Subekaraku kokoro wo kore ni mochiyu beshi」と日本語の例文が“ヘボン式ローマ字”で挙げられている。「すべからく」の後は「べし」だ。再読文字の原則にきちんと則っている。

    ここ数年の間に刊行された新しい国語辞典の中には、誤用について注意を喚起しているものも出てきた。『明鏡国語辞典』(大修館書店)の場合、「語法」欄に〈「落ち武者たちはすべからく討ち死にした」など、「すべて」の意に解するのは誤り〉と解説している。また、『大辞林』第3版(三省堂)も、言葉の由来と語釈《注》の後に、第2版にはなかった次のような注記を添えている。〈近年、「各ランナーはすべからく完走した」などと「すべて」の意で用いる場合があるが、誤り〉。
    
    いずれの辞書も、「すべからく=all」の意味で使うのは誤用としている。
        

【お断り】 今回のブログは、「gooブログ」時代の2006年11月10日号と11月20日号の題材を基に一部加筆補正した改訂版です。

《注1》 『社会人のための漢詩漢文小百科』(大修館書店)は、「漢字一字で、国語の副詞的な意味と助動詞または動詞的な意味とを兼ね備えている文字」と解説した上で、「はじめに副詞的に読んでおいて、さらに下から返って助動詞または動詞的に読む」と説明している。

《補足》 「すべからく」の語の文法的な解析について『日本国語大辞典』第2版(小学館)は次のように記述している。〈サ変動詞「す」に、推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。多く下に推量の助動詞「べし」を伴って用いる〉

《注2》 『辞書と日本語』(見坊豪紀著、玉川選書)、『日本語誤用・慣用小辞典』続(国広哲弥著、講談社現代新書)ほか。