議論が「煮詰まる」と結論はどうなる?

(第82号、通巻102号)
    今月25日の朝刊各紙に文化庁の「国語に関する世論調査(平成19年度)」の結果《注》が掲載された。調査対象に挙げられた慣用句の中には当ブログですでに取り上げたもの(「話のさわり」「憮然」「檄を飛ばす」)もあるが、今回は新たに次の3語に焦点をあてて考えてみたい。「煮詰まる」、「足をすくわれる」、「琴線に触れる」。
    この中で意外に思ったのは、「琴線に触れる」だった。言うまでもなく「感動し共鳴をおぼえること」の意だが、16歳以上の男女1975人に面接調査した結果によれば、35パーセント余の人が「怒りを買ってしまうこと」と誤った意味にとらえていたという。
    「琴線」とは、その字の如く「琴の糸」のことだが、比喩的に「人間の心の奥深くにある感じやすい部分」をも指すようになった(小学館現代国語例解辞典』)。理屈をこねれば、感じやすい心に触れたら怒りを買うこともあるだろうが、ふつう「琴線に触れる」と言えば、「感動する」というプラスのイメージで使うのが常識のはずである。
    世代間でくっきり差が表れたのは「煮詰まる」。原義は「煮えて水分がなくなる」だが、そこから転じて「議論や検討が十分になされて、結論の出る段階になる」(大修館書店『明鏡国語辞典』)という意味の慣用句としてもっぱら使われている。
    ところが、こう正しく理解しているのは50代以上では多数派だが、「議論が行き詰まって結論が出せない状態になる」と間違えて解釈している人の割合が40代を境に多くなり、10代から30代では実に7割前後にもなる。意味をまったく逆にとっているわけだ。
    その現状を無視できなかったのか、『三省堂国語辞典』第6版(通称『三国』=さんこく)が「俗に」と注記しながらも「どうにもならなくなる。いきづまる」の語義を出しているのには驚いた。むろん、「議論・交渉をかさねて結論に近づく」と正統な語義を示し「問題が煮詰まる」の用例を挙げた後の記述ではあるが、あえて「俗な用法」を入れたのは語義の変遷の過程を記録しておこうという考えがあってのことかもしれない。
    『三国』にはしかし、もっと思い切った記述もある。「足をすくわれる」の項の語釈はその一例だ。文化庁の調査では、「卑劣なやり方で、失敗させられること」について、「足をすくわれる」と言うか「足下(もと)をすくわれる」と言うか、どちらの用法を使うか尋ねている。文化庁が本来の用法としているのは「足を…」の方なのだが、『三国』はこの慣用句の意味を説明するのに「ひきょうなやり方ですきをつかれる。足もとをすくわれる」としているのである。つまり、「足を…」も「足下を…」も同様に扱っていることになる。意図的なのか、単なるケアレスミスなのか。


《注》 文化庁のホームページのURL(http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h19/yoten.html

【謝辞】 当ブログ「言語楼」は毎週水曜に更新していますが、先週更新した第81号は予想もしなかったほどの多くのアクセスがあり、1週間当たりのpv(ページビュー)が7000を超えました。当ブログとしては通常の数倍にもなる記録的な数字です。つい先日まで2000を超えたと驚いていただけに信じられぬ思いです。しかも、前回のブログのテーマは、それ以前に扱った「重言」の番外編のような内容に過ぎないのですからうれしい誤算としか言いようがありません。アクセスしていただいた方々に、ただただ感謝するのみです。