下沼部分水(仮)
さて、ここにあるのは沼部駅周辺の航空写真です。ここで15秒待ってみてください。
あれ、開渠? 線路をまたいでる? 等々力駅みたい。
Yahooの航空写真より
沼部分水(仮)は大田区付近で六郷用水から分流し、沼部駅付近で東急多摩川線をまたぎ、多摩川に平行に南下し、最終的に大田区嶺町小学校付近で多摩川と合流していました。その流路は単調で、どこの写真も同じような風景ばかりですが、ところどころに開渠や水門、暗渠、その他ゆかりものもあり、アクセントに富んでいます。
明治時代の地図(東京管内絵図 大田区地図集成に収録)や昭和中期の(地図から見る大田区(1)収録)にこれと思われる水路が書かれている一方、大正や昭和初期の大東京・横浜・川崎三千分の一地形図には書かれないなど、地図によりこの分水の扱いに差があります。
ここで六郷用水から分流していました。現在の六郷用水の水路はせせらぎになってしまいましたので、その痕跡は一切ありません。
分流した水路は右手(多摩川方向)に向かって進みます。ちょうど、田園調布南33番地と34番地の境目が流路になっています。川跡が行政の区画の分け目に利用されやすいという話は有名です。
ここがその区画の分け目。少し暗渠テイストな感じがします。ただ、これが暗渠そのものかといわれると微妙です。区境は民家の物置になっていました。
そしてそのそばには、このミニ橋があります。線路沿いには、水路と思われるスペースも確認できます。肉眼で見たい方は、ぜひ東急多摩川線の先頭車両でかぶりついてください。なお、昭和中期の地図には線路わきの水路、ミニ橋が細い青線(開渠)として書かれています。
ちなみに、先日の新田川探検の日にこの電車に乗ったところ、この辺りで急に徐行運転を始めました。そこで、チャンスとばかりに線路わきの三角スペースをのぞいてみたら、草の生い茂った細い溝が見えました。また、ミニ橋が思った以上にしょぼいことも分かりました(満願寺の流れほどでない)。
そして流れは東急多摩川線をまたいだ後、暗渠となって少し西に進み、玉堤通りにぶつかります。
これがその暗渠。春の多摩川(最終回)2つの橋と未公開編にも登場しました。 玉堤通りから撮影しました。
そして、普通の小さな道となって南下します。昔の地図を見ると、道路脇多摩川側に水路があったようです。
多摩川側からみてみました。
てくてくと進みます。そして、新幹線と在来線をまたぎます。
ここで、品鶴線下丸子三菱重工引込線がまたいでいました。そのような痕跡は今は一切ありません。
片側がガードレール付き歩道になっています。暗渠らしいといえば暗渠らしいです。しかし、一般的には歩道と車道が段差によって分かれているタイプよりは、暗渠である可能性が低いです。
ここで西に曲がります。つまり、多摩川方向に流路が進みます。
歩道と車道が分かれているタイプ(呑川深沢4丁目支流(仮)2010年7月)
そして、曲がると、おや…!?
まっすぐ進むと、脇にも!
目の前にも! 先にこちらを紹介します。
目の前には沼部排水樋管(1972年完成)があります。樋管や水門は大規模河川に小河川・用水路が合流する地点に設置されることが多いです。
ここで、樋管や水門の役割をおさらいします。通常時は雨水を流したり、大規模河川増水時は水門を閉めて洪水を防止する役割を持っています。また、樋管は小河川を利用したものや、新規で作ったものがあります。沼部排水樋管は新規で作られたもののようです。
さて流路は現在の道の南側から暗渠となって南下します(先ほどの写真)。ずいぶんと細いですね。
このあとはジグザグと南下していきます。
現在、田園調布南。今は住宅になってしまいましたが、ここを水路が多摩川に平行に流れていました。このあと水路は嶺町小学校の脇に沿って流れます。
航空写真から流路を見ると、嶺町小学校の出っ張りがこの水路によるものだったことがわかります。
ここは嶺町小学校わきの多摩川の土手、この土手のしたに水路がありました。このあと水路はしばらくした後多摩川に合流していました。
この辺りで、六郷用水から流れてきたほかの分水がニアミスしています。その分水は旧嶺町排水樋管に合流していたようです。
ここが、合流地点でした。実はここには、下沼部排水樋管がありました。その樋管は1988年に廃止され、写真からは、その面影がありません。
実は樋管の痕跡が多摩川の河原にあります。ここだけ岸が草地でなく、コンクリートになっているんです。
ちなみに、この樋管ができる前の合流点はもう少し多摩川下流寄りでした。多摩川の土手の中に入る地点は現在と同じだと思われますが、土手内で多摩川と少し並走していました。
以上になります。まだいろいろと伏線を拾っていなかったり、書いていないところがありますが、ひとまずは完結です。
続きはまたいつか。
今回の情報:暗渠ポイント:暗渠、開渠、区境、樋管跡、古い航空写真
全長:1.1 km
撮影日:2012年12月2日、2015年10月3日・4日、11月22日
参考文献・引用元
大田区の文化財 地図から見る大田区(1)(2)(3)、
大田区の文化財 大田区の民具
京浜河川事務所 多摩川
町の風土記 水上市郎平著
大田区地図集成 大田区立郷土資料館著
感謝
京浜河川事務所様
東京都下水道局南部事務所様
大田区立郷土資料館様
雑談:
- 困っていることがあるのですが、書物によって、すごいときは書物内(地図や研究本)でも六郷用水の分水や席の名前が統一されていないことです。むろん、ネット上でも。(俗名や別名とはおそらく違うと思います)
例:御鷹野圦⇔御鷹野の圦、お鷹の圦:子の神堀⇔子の根堀
また、同じ時代に書かれた地図でも流路が、同じ河川であっても異なったりしています。例:Aという蛇行した水路が区画整理対象地域に存在する。その区画整理反映した地図BとCがあり、Bには区画整理を反映したと思われる直線なAの水路が書かれ、Cには街並みは区画整理されていても、区画整理前のAの蛇行した水路が書かれている。(わかりにくかったらすみません) こんなかんじものが六郷用水の分水にちらほら存在します。北古川にも…
なにを信じたらよいのでしょうか?
- 月に0〜2回ほどの更新を予定しています。
また、画面の端にある『プロフィール欄』にて、いろんなことを不定期につぶやいておりますので、そちらもよろしくです。
- この間知ったのですが、『良いお年を』は12月30日までにいうべきフレーズなんだとか。大晦日を乗り越えて新年を迎えましょうという意味なんだそうです。
来年もよろしくお願いいたします。
新田川完全版
下丸子分水(仮)、矢口川の正式名称が新田川と判明いたしましたので、前回からその名前を使っております。
以前、書かせていただいた、六郷用水分水の新田川に関する記事があまりにも酷いので、補筆、リメイクさせていただきます。なにがどう酷いかというと、なにを伝えたいのか分からない、説明が粗い、写真が見にくいの3点です。これって紀行系ブログならば出来てなきゃダメなやつですよね… また、新しく分かったこともあるのでそれも書き込みたいと思います。
原作3点。一応リンクを貼ります。
新田川は下丸子にある六郷用水の分水口から流れ出し、弧を描くように多摩川方向に進み、多摩川のそばで北古川に合流します。北古川はその後下丸子二丁目付近で多摩川に合流。
特徴的なのが、六郷用水との接続部周辺以外の流路が多摩川の旧河道*1であることです。しかも、北古川に新田川が合流して多摩川に合流するまでの区間も旧河道です。また、東急多摩川線を越えたあたりから矢口2-5まで六郷用水南堀の分水三百間堀が並走しています。
今回は、上流から、つまり六郷用水の分水口跡から始めます。
さて、やってきたのは、東京都大田区の東急多摩川線下丸子駅そばの六郷用水(藤森稲荷交差点そば)。環八沿いです。
この辺りに分水口があったはずなのですが、こんもりとしている木々によってみると…
こんな看板がありました。ここに、石組みのトンネルがあったのですね! 驚き。それ以外の書いてある内容はほぼ新田川の特徴と一致します。
六郷用水から別れた新田川は、小道の歩道になって多摩川方向に進みます。
少し進むと…
この写真は下丸子3-3付近。正面(南西方向)は下丸子駅方面、右手(北西方向)は光明寺方面、左手(南東方向)のガラス貼りの建物は大田区民プラザ。
この先で水路が分岐します。ややこしいのでまとめます。推測の部分も少しあります。
北西方向:光明寺の池からの流れ(明確な流路不明)。その流路の途中に光明寺池端の洗い場があったと思われます(下丸子3-3)。
北東方向:新田川(今来た所)
- 排出
南東方向:新田川(下流)
南西方向:商店街を流れ、さらに細かく分岐して矢口西小学校や目蒲病院方面などに向かう水路。
目蒲病院方面に向かう水路は北から順に、駅前の名称不明の洗い場、石原の洗い場、伊勢前の洗い場、下河原の洗い場、阿弥陀の下の洗い場を流路に持っていました。
新田川は南東方向に進みます。ここから、旧河道区間スタート。曲がり角はこの先一切ありません。
ちなみに、
参考
光明寺の池。背の高いフェンスで池が一切見えません。ここも、多摩川の旧河道の一部で、この池は多摩川の残留湖と呼ばれることもあるぐらいです。なお、大田区の民具より、昭和60年代までは池のフェンスがないことを確認しました。
市民プラザ内。ここのあたりを流れていたのですが… あるのは人口の池。この光景から、用水路があったなんて信じがたいですが、昔の航空写真を見ると用水路が見えます。
市民プラザを横断するとケヤキ並木の都道11号線と交差。さらに直進。
小道になります。ちょっと高低差が気になるところですが、気にしない(実際は都道11号線が周囲より低いだけ)。この小道は東急多摩川線の線路にぶち当たって行き止まりになります。
小道の真ん中に並木が現れます。この辺りは民家の庭先のようになっていますので、通行する際は配慮の精神を忘れずに。
さて、この後線路にぶち当たるのですが、
そのぶちあった所の線路わきにこんなものがありました…
あれは、よくある暗渠に突き出るパイプですよね?
線路の向こう側はどうなっているかというと…
並木道が再開されています。
このあと新田川は弧を描くように多摩川に向かって進んでいきます。
自然堤防の新田神社の脇(右方向)を通過します。この辺りには新田川の橋付き参道があったようですが、その面影はありません。ちなみに、右手の駐車場にはかつて慶応大学の野球合宿場があったそうです。
この後、新田川は暗渠の路地になります。
なんだかキリが悪いので新田川合流後の北古川も紹介します。
マンションの谷間になっています。この辺も多摩川の旧河道を利用した流路です。
ちょうどこの道の暗渠のある部分だけに歩道があります。
北古川、多摩川方向に最後の曲がり角です。そこそこに歩道も広くなってきました。
空が開けてきました… 終点も近いです。実は一段分歩道が車道よりも低いんです。暗渠の歩道によくあります。
参考
車道より一段下がった暗渠。しかも奥のほうには暗渠に突き出るパイプが見えます。(砧の仙川沿いの暗渠、2015年6月)
この歩道橋を上がれば多摩川の土手です。土手の向こうで多摩川に合流していました。
武蔵小杉に向かって…
ちなみに、多摩川の河原は世田谷区で唯一の市街化調整区域*2です。
新田川のデータ
全長:約1.5 km
暗渠ポイント:暗渠、暗渠歩道、洗い場跡、遺跡
次回は、このエリア初の開渠のある六郷用水の分水が登場します。お楽しみに。
北古川
ご無沙汰しておりました。更新をお休みしてしまいすみませんでした。
そして、皆様のおかげで5周年を迎えることかできました。特に、勝手に休んでいる間にも、時々このブログをわざわざ覗いて下さった方、当ブログアクセスランキング1位の新宿区のみなさま、ありがとうございます。
さて、今まで何をしていたのかについて書かせていただきます。念願の夢を叶えるために2014年の1月ごろから準備をしました。そして、それを叶た後は、夢をかなえたことによってがらりと変わった周りの環境になれようとしていました。とても答えになっていないような抽象的な書き方ですみません。ただ、下手に書くとプライバシーうんぬんかんぬんがありますので。
この記事は一気に書き上げたものではなく、2013年に企画して、2014年の夏ごろに下書したものです。そのころはすごく病んでいて下書きの文章があまりにも暗すぎたので、かなり文章を変えました。最終回について考える記事なんてまだ公開できませんよね… また、数か月おきにこの文章に加筆・順序入れ替えを重ねています。文章の中には飽きているときに書いたものもあれば、そろそろ復帰しようと思って(結局復帰しなかった)書いた時のものもあります。ですから、すこしちぐはぐしている部分があるかもしれません。
ご覧になる前にひとこと
矢口川(仮)、下丸子分水は、矢口川(1)、(2)は浅はかで間違えたことばかり書いてしまいました。すみませんでした。今回はその訂正内容や新しく分かったことの一部を含んでいます。
3年ちょっと振りの、暗渠特集になります。あと記事が長めです。
今回は、北古川という用水路をたどります。
北古川と言われても、どこそこ?と言う感じになるかもしれません… 流路自体は有名かもしれませんが。
今の北古川は六郷用水の分水で大田区西嶺町にある有名な堰『スッポン』で分流し、中流でスッポンの分水の水を集め、下流で新田川が合流し、多摩川に注いでいたと思われます。また、流路の大部分が東急多摩川線以西にあり、その一部分は東京府大森区と蒲田区*1の区境にもなっていたことがあります。
今回の地図になります。流路の一部だけしか載っていませんが。
大田区の文化財 第23集 地図で見る大田区(3) 57ページ 大東京・横浜・川崎三千分の一地形図 鵜の木 より引用です。測量年1937年。
右半分に分かりづらいですが北古川と書いてあります。また、上が北方向です。
前置きはこの辺にしておいて…
さて、東急多摩川線鵜の木駅北(西嶺町35)にある六郷用水のスッポンにやって来ました。今の北古川はここから写真右手の家の方向に延びていたと思われます。
『スッポン』という言葉がはじめてな方へ。
これとは当然違います。
ここのスッポンとは、六郷用水の堰(地下樋口)のこと。別名、樋口(とよぐち)。樋が用水路の底にあったため、大量の水が分流していたそうです。大量に水を吸い込むからスッポンでしょうか? それにしても、大量の水が流れていたということは、そうとう大きな流域面積を誇っていたのでしょうね。
流路は玉堤通りの1ブロック奥(六郷用水側)で平行に南に進んでいます。また、1ブロック横には六郷用水もあります。正直言って、このあたりの水路がどこにあったかは不明な点がありますが、位置関係的にここだと推測しました。ここは鵜の木3-3付近
特筆することがないような光景が鵜の木駅付近まで続きます。ちょうど流路がガードレール付きの歩道になっています。この辺りは上の地図で波線小川になっている区間です。
曲がると目の前には玉堤通りが。今度は南(左手)に曲がります。
このあたりで今の北古川は玉堤通りに合流します。この地点の流路は少し不明な点があります。
鵜の木駅前の明かりに照らされます。
玉堤通りの歩道になった暗渠。マンホールが目立ちます。こんな感じが光明寺付近まで続きます。
あともう少しで光明寺というところで、急に西(右手)に曲がります。つまり、北古川は多摩川に向かって進みだします。ここは下丸子4-1。
水路は東急多摩川線の線路を超えます。特にミニ橋やその他の痕跡はありません。ちなみに、東急多摩川線の『東急』は鉄道会社を示すためにつけているもの(例:JRの乗換案内で聞こえる東急田園都市線のような)ではなく、西武多摩川線と区別するためにつけられた冠です。つまり、東急多摩川線が正式路線名なんです。
線路を超えると…
ここから、暗渠らしさが全開になります。北古川は弧を描きながら進みます。この区間は大森区と蒲田区の区境になっていました。かつては鵜の木村と下丸子村の区界。しかも、この区間は多摩川の旧河道だったのです。旧河道とは昔の大きな川の蛇行のあとのこと。
この辺では珍しい生産緑地。
樋口橋(とよぐちばし)通過。この辺り(下丸子4-9)には樋口の洗い場があったそうです。大正末期の耕地整理で消滅したとのこと。ここから先は植込みがなくなり、ただの幅の広い道になってしまいました。
オリンピックというスーパーのある角で、別の流れ(スッポンからの)が合流していました。さらに、ここには池がありました(昭和初期の地図で確認)。現在のタマリバーハイツがある場所です。
そして、ここで、流路は南(上の写真左手)に曲がります。つまり、北古川は多摩川と平行に進みだします。
北古川はスーパー堤防わきの大きな道の歩道になって進みます。この周りには戦前から三菱重工の工場がありましたが、現在は移設し再開発されました。そこではブルドーザーといった建設機械を製造していたそうです。また、以前書いた品鶴線下丸子三菱重工引込線の終点にあたります。それにしても再開発によって工場地帯であった雰囲気が一切感じられません。ちなみに、この直線区間の北古川沿いは土地柄、戦中は強制疎開地域になっていました(そして空襲に遭っています)。
ここで気になる記述を紹介したいと思います。水車に関する記述です。鵜の木村と下丸子村の境界線となる光明寺池の排水路が南東向に流路を伸ばし、現在の矢口ポンプ場で多摩川に排水するがその途中の六所神社西側(下丸子四丁目16番付近)にあった。所有者は天明宗右衛門家である。(大田区の文化財第21集 大田区の民具より)
この辺りにも、坂口の洗い場と呼ばれる洗い場が二箇所あったそうです。廃止された時期は不明。下丸子4-17,3-29
しばらく進むと、見おぼえのある景色が…
ここで新田川と合流!*2 新田川(正式名称)とは昔自分が下丸子分水(仮)だ!!とワーキャー馬鹿みたいに騒いでいた六郷用水の分水の一つです。新田川は下丸子駅付近で六郷用水から分水し、東急多摩川線を越え、弧を描くように南に進み、この場所で北古川と合流しています。以前書いた下丸子分水・矢口川の記事内容は間違えた記述ばかりですので、そろそろ訂正記事を出します。
この景色を見ると、まだ未熟だったころを思い出します(今も未熟かもしれませんが)。当時の記事は見ただけでも恥ずかしさがこみあげてきます。5年前の自分は何のルールも知らなくて、文章も下手で、がつがつし過ぎで、甘い考えで、ユーモアと無茶をはき違えていて… 今もそうかもしれませんが、進歩したと思っています。少なくとも、ほかのブログさんに下手なコメントは書かないように注意していますし、ブログの質も上げたつもりですし、周りにも配慮もしているつもりです。2011年頃に暗渠の先輩方のブログに訳のわからないコメントを書いていた自分が恥ずかしいです。すみませんでした。
そんな思いもあったので、一時期はここを閉鎖して新しい名前でブログを一からやりなおそうと思っていました。また、こんな恥ずかしいブログの書いているので、楽しそうな暗渠の集まりにも出席しづらくて、困っていました。ただ、閉鎖すると続けてきた意味がなくなりますし、自分を自分で否定しているような気がしてきました。なので、続けることにしました。これからもよろしくお願いいたします。
昔からご覧になっている方はご存じですが、この先の流路を改めて5年前の写真とともにご紹介したいと思います。
マンションの谷間になっています。実はこのあたりから下流端までは多摩川の旧河道を利用した流路になります。
多摩川方向に最後の曲がり角です。
この歩道橋を上がれば多摩川の土手です。堤防の向こうはどのような感じでしょうか。
そんな足元には治水記念の石碑があります。2010年の写真
あのころはみやすさ関係なしに写真の色温度をいじるのにはまっていました。恥ずかしい。
歩道橋のそばには矢口ポンプ場があります。ここでは汚水の大きなごみを取り除く処理が行われているそうです。さらに、この場所には矢口浄水場(矢口水道)がありました。しかし、昭和中期に廃止されました。両者とも北古川と大きな関係がありそう感満載です。
土手からは、平成18年に完成した矢口ポンプ排水樋管が見えます。樋管や水門は大規模河川に小河川・用水路が合流する地点に設置されることが多いです。ここで、樋管や水門の役割をおさらいします。通常時は雨水を流したり、大規模河川増水時は水門を閉めて洪水を防止する役割を持っています。また、樋管は小河川を利用したものや、新規で作ったものがあります。
土手を下ります。
樋管からの水が多摩川に合流します。
「北古川が矢口ポンプ排水樋管で多摩川に合流!」と、行きたいところですが… ちょっと考えておきたいことがあります。
現在の樋管の位置が、昭和の航空写真や地図よりも、多摩川の河口側にずれているような気がします。
かつての水門は北古川の流路延長上にありましたが、今の水門は矢口ポンプ場の延長上にあるのです。つまり、今ある樋管(平成18年建造)は北古川がベースではなく、矢口ポンプ所のために新規で作られたものではないかと思います。ただ、推測の域を出ないので事実関係を確認中です。
この考え方からすると、北古川の下流端、多摩川との合流点は現存しないということになります。
加筆:やはり、北古川の合流口は現存していませんでした。往時の樋管の写真が大田区立郷土資料館に展示されていました。
さて、今回特集させていただいた『北古川』ですが、まだまだ書いていないことがたくさんあります。いろいろと話が本当にややこしいので、周りにあるほかの分水を一通り紹介した後で、いろいろと書きたいと思います。キーワードは耕地整理と光明寺です。お楽しみに!
今回のデータ
全長:約3㎞
暗渠ポイント:暗渠型歩道、旧河道、樋管(?)
↑流路の地図です。これからいろいろと書き足していきます。うまく表示できていなかったらすみません。
リンク:https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zPECgdXaZX_g.kLHNfkh9XzMQ&msa=0&hl=ja&brcurrent=3%2C0x60186052c1a36643%3A0x4fc26aac505c0d49%2C0&ie=UTF8&ll=35.595548%2C139.696645&spn=0.072737%2C0.11131&t=m&vpsrc=6&iwloc=0004b472002ab98ac12da&source=embed
参考文献・引用元
大田区の文化財第24,25、26集 地図から見る大田区(1)(2)(3)、
大田区の文化財第23集 大田区の民具
写真素材 足成
京浜河川事務所 多摩川
感謝
大田区立郷土博物館様
最後に、北関東や東北地方の大洪水のいち早い復興などを応援しています。
沼部の引き込み線
お待たせしました、更新です。
おくれてすみませんでした。
机上レポートだからといって、がっかりしないでください。でも、レポートというよりも自由研究みたいなものです。
目次
1.導入
2.机の上で動く
3. 思いがけない結論
↑今回もクリックするとその項目に飛ぶ仕掛けです。
さて、『地図で見る大田区』シリーズをペラペラとめくったところ… こんなページにこんなものが書かれていたのです。
『大田区の文化財 第24集 地図で見る大田区(1) 26.昭和30年代の田園調布方面』より引用・一部加工。地図は1955年修正測量のもの。
土手に軌道???
地図から軌道は単線とわかります。 目蒲線沼部駅付近の東海道貨物線(現横須賀線)から分岐し、盛土の状態で道路や水路を跨ぎ、多摩川の堤防に合流、堤防に沿って走り、現「特別養護老人ホームたまがわ」に向かいます。特別養護老人ホームたまがわは昔は、「三菱日本重工東京工場」。昔の輸送は鉄道命でしたから大規模な工場に引き込み線があっても不自然ではないです。
また、軌道に関しては、堤防の上や脇を走ることは用地の点からも理にかなっているのように感じられます。以前紹介した多摩川の砂利軌道もそうでしたし…
それにしても、高度経済成長前の多摩川沿いはのどかだったんでしょうね。
その沿線のイメージをふくまらせる写真。
その軌道跡の脇にできた水門。大田区田園調布南4−13
いままで何回も読んでいた、いや、観察していたのですが初めて気が付きました。自分の観察眼の欠如に呆れました。もともと先入観でものを観察しやすい性分なのですが。
それにしてもいったい何なんでしょうか?
2.机の上で動く
「そうだ、直接伺おう!!」と思い、その引き込み線の終点だったと思われる三菱重工さんにお問い合わせ先が不明な場合のお問い合わせ先でお伺いました。
さてその回答は日後に頂きました。引用します。
お問い合わせありがとうございます。
残念ながら当時の引き込み線につきましては、資料が無く当社のものであるかも確認できません。
当時、ご質問の地域には三菱日本重工業(株)東京製作所があり、主力製品としてブルドーザ等の建設機械を生産しておりました。また、この工場の名称は昭和30年代組織の変遷を経て、何度か変更されております。
上記の内容程度しか回答できませんが、この内容であれば貴殿指定のブログに掲載して頂くことは構いません。
以上宜しくお願い申し上げます。
三菱重工業(株)
機械・設備システムドメイン
事業戦略総括部 相模原管理部
総務・環境課
浮ヶ谷
フォームを休日に送信。送ったのが未明なので『ご回答No.1』(ただ単に回答1ページ目という意味かも)。そして、その週の初めての平日に届きました。思ったよりも早くて、しかも、届いたメールに詳細のページのリンクが貼ってあったのでぬか喜びをしました。まあ、結構昔のことですし、本当にわずかな期間に存在していたようなので、資料が残っていなくても仕方ないですね。でも、わざわざ、ご返事くださってありがとうございます。
答えがなかなか見つからないっていいですよね。最終的には見つけたいけど。
今度は手持ちの資料からアプローチをします。
これが書かれたのは1960年(発行は1963年)。この場所の後の年代の地図や航空写真は、沼部付近で分岐した後の盛土の跡地と思われる弧を描いている空き地などが見受けられました。また、東急多摩川線との立体交差地点には横須賀線の東側に不自然に広い敷地と橋台跡があり、その場所は地図上の分岐場所と一致します。それは、googleさんのストリートビューを傾斜してよく見るとわかります。ですからここに軌道があったことは間違いないと思われます。
『大田区の文化財 第25集 地図で見る大田区(2) 129ページ』より引用。昭和59年(1984年)の航空写真。わかり辛いですが、東急多摩川線(縦の線)と横須賀線(横の線)の立体交差付近から多摩川に向かって弧を描く線があります。ちなみに、この曲線の多摩川側(西半分)はマンションが建ったので消えました。
3. 思いがけない結論
さて、人がだめならあらゆる古地図や区史を探そうと思い、インターネットで探してみました。すると…
なんとすでにこの物件既出。この本の100ページ目に『品鶴線*1下丸子三菱重工引込線』として載っているそうで…
- 作者: 宮脇俊三
- 出版社/メーカー: JTB
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 単行本
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おまけにwiki『丸子信号場』までもあるなんて、しかもよそさまがそれぞれ至高を凝らした記事を書いていらっしゃるなんて。当時の写真らしきものも載っているものもありました。
まとめると、1949年末からあったこの引き込み線は、在日米軍(GHQ)の管理下におかれていた、三菱日本重工業東京製作所で修理する戦車を搬入のために使用されていたそうです。1950年頃の朝鮮戦争中は大量の戦車が送られてきたましたが、休戦すると貨物列車(汽車らしい)の入線は激減、1956年6月末に米軍管理が終了すると使用されなくなったそうだとか。ちなみに、引き込み線が通っていた盛土は、東海道新幹線の建設が始まるころまで残っていたそうです。先ほどの地図は1955年修正測量ですから、ほぼ廃線状態の時の軌道が描かれていたみたいです。
おわり
次回の更新は未定ですが、北古川とかを特集しようと思います。
第2回インドアツアーズ:佐倉市(5)
前回のつづきです。佐倉城址・旧日本陸軍の駐屯地を探検していて、本丸に行くところです。
今回の地図と目次です。(前回の使いまわしですみません)
前回
- 姥ヶ池
- 菖蒲田
- 空堀たち
- 二の門跡
今回
おまけ
+円勝寺・愛宕神社跡
+地層
+古園石仏大日如来像
+なぞのキャラ
今回もクリックするとその項に飛んじゃう仕掛けです。
非常に更新が遅れてすみませんでした。理由もいろいろあるのですが、再開します。
-15th 台所門跡
不明門?? これは門の正式名称が分からないからこのような表記になっているのです。
台所門をくぐれば、本丸跡なのですが、その前に… 隣に門(本丸に通づる門)に移動します。
-16th 一の門跡
ちゃんとした感じのする門。
解説のパネルがありました。正岡子規がここまで来ていたんですね。坂の上の雲、1年目だけ毎回見ていました。あと、日露戦争は大大迫力でしたね。
昔は城郭、今は芝生。広いです。なかには、ピンクの服を着た不思議なおじさんがいましたが、スルーしました。
土塁の説明。土塁はまだ残っていて… 土塁は川のそばにも城にもあるんですね。
本丸跡の外周に土塁があります。しかも、一部は質素な遊歩道になっています。
さて、土塁の上を歩いていると、なぞの石畳が、まるで小石が碁石のよう。ちなみにですが、私は囲碁はできません。
でも、一体、何の後なのでしょうか?
銅櫓とはどのよな施設なのか?と思い、インターネットで検索をかけてみたのですが、ここに関することばかりでした。
さて、ただ広い芝生を歩いていたら…
ちょっとした盛り上がりがありました。この盛り上がりの裏手に回ってみようと思います。
この置き石は何でしょうか。地図で確認すると、この辺りが天守閣だそうです。どうやら置き石は天守閣を偲ぶもののようです。
さて、急にですが、この城の由来について書きたいと思います。この城は堀田さんが江戸時代の城主で、堀田さんの旧家はお城から東に少し離れたところにあります。そうえば、TRICKのロケでも使われたんだとか。見栄を貼りまくる二人とセットが好きでした。
そういえば、門の紹介を度々していますが、なんだか自分で言うのもなんですが、雑な気がします。なぜベストを尽くさないのか。
場所的にはこの辺りに馬出しがったはず。馬出しとは、kotobank.jpより引用1 直線の馬場で馬を乗りだす所。馬場本(ばばもと)。⇔馬留(うまとど)め。「一条の―の舎(いへ)の下にして死にけり」〈今昔・一三・一〇〉 2 味方の人馬の出入りを敵方に知られないように城門の外に半円形に築いた土手。 おそらく今回は後者に当たるでしょう。
ここからは隠れてそうな名物や道端の発見を巡った順に紹介します。つまりおまけです。
この辺りに、いまはツツジの植え込み、昔は社寺。
-18〜19th 大仏
なぜ模造品をこしらえる必要があったのでしょうか、いや必要ない。
-19th 謎のキャラ
スルーします。
大手門跡(トップの地図の3付近)をぬけ外に出ます。佐倉城は以上となります。ここまでありがとうございました。
次回まではまた期間が空いてしまいます。申し訳ございません。あと、シリーズ更新中のものが多くてすみません。
第2回インドアツアーズ:佐倉市(4)
前回までのあらすじ:佐倉城址に行くところです。
今回は佐倉城址・国立歴史民俗博物館の一部を探検します。
-10th 歴史博物館の前にて
急坂を上ると、目の前に駐車場と広場が現れました。歴博の入り口の大階段の下にはバス停があります。そこは、大病院のバスターミナルのようになってました。
歴博・佐倉城址の前についたので、史跡探検のまとめを作ります。
佐倉城址専用の地図です。これで佐倉城址を巡るのですが・・・
今回の目次です。↑クリックするとその項目に飛びます。
佐倉城は、1532年から1552年に千葉氏の一族である鹿島幹胤 が鹿島台に築いた中世城郭を原型として、1611年から1616年に造られた平山城でした。千葉氏とは下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族のことです。ちなみに、この城を造ったのは1610年に佐倉にやって来た土井利勝です。
土井利勝は安土桃山時代の武将・江戸時代前期の譜代大名です。ちなみに、江戸幕府の老中・大老という大役も務めました。
ローターリー前を歩いていると…
斜面を下る階段と会いました。こういうタイプの谷底には基本的には池があります。確認してみましょう。
階段を下ると・・・
一面がハスの姥が池が見えました。奥には噴水、周りは草むらと林。これだけ蓮が生えていると、辺りが暗い時はどこが池なのか草むらなのか分からなくなってしまいます。
姥ヶ池の説明です。前半は明るい話、後半は暗い話と非常に明暗がはっきりしています。あるあるですが、お城の傍の池には入水の悲話が多いです。こんなに蓮が生える前はかきつばたの名所だったのですか…
かきつばたの画像。フリー写真素材 イメージスタイル カキツバタの花 複数 紫4より。かつては、カキツバタが生えられるぐらいの湿地だったそうです。しかし、今の姥ヶ池は頑張れば入水自殺を図れそうな水深のある池になっています(言葉が非常に悪いですが)。このことから、江戸時代中〜後期には湿地からそこそこ水深のある池に変わっていたようです。ちなみにカキツバタは準絶滅危惧種(NT)となっています。
姥ヶ池から南を望むと中央にはいい感じの原っぱ、右の山際には湿地がありました。ここは菖蒲田で、たくさんの菖蒲が見ごろを迎えていました。
奇跡的に花が残っていました。萎れていますが…
ところで、よく話題になるのが花菖蒲、アヤメ、カキツバタの違い。アヤメは乾燥した土地に適していて、花菖蒲は湿地や乾燥した土地にも適していて、カキツバタは湿地の実に適しています。また、花弁の根元の色がそれぞれ違い、花菖蒲は黄色の目玉模様、アヤメは網目状の模様、カキツバタは白い目玉模様となっているんだとか… ちなみに、菖蒲湯の菖蒲は葉が似ているだけのサトイモ科で別物です。
ところで、菖蒲田の片隅(左側の山際)には… 階段でしょうか 段差が並んでいます。かなりの高さがあり上段から下を見るとちょっとびくついてしまうような気がします。
段差の幅は新書のたて幅より少し広いぐらいと、余り階段の段差としては実用的ではありません。ところで、このコンクリートの段差の集まりはどこへ繋がっていたのでしょうか?
実はどこにもつながっていません(当然建物跡ではありません)。これは帝国陸軍の使っていた飛び降りジャンプ台跡だったのです。
説明板です。佐倉の帝国陸軍について簡単に書きます。
1884年に帝国陸軍歩兵第2連隊が佐倉城の敷地を活用して駐屯地を造った後、1908年に歩兵第2連隊は水戸に移転、代わって、習志野から歩兵第57連隊がやって来て管理しました。ちなみにですが、歩兵第2連隊は1944年にペリリューの戦い(パラオ)でアメリカ軍にかなりの苦戦をさせた後、11月24日に玉砕。歩兵第57連隊はセブ島(フィリピン)で終戦を迎えました。
右を振り向くと、小さな谷のようなものが見えました。どうやら立ち入り禁止のようです。これは何かと思い辺りを観察していると…
なるほど、こういうことですか。たしかにあの谷の上り下りはキツそうですから、結構な防御の役割を買っていたような気がします。このような堀を薬研堀(やげんほり)と言います。薬研とは漢方薬の粉を挽くときに使う道具です。
本丸跡の近くには、こんな感じの深い空堀もあります。これは薬研堀の中でも斜面の急な片薬研堀と思われます。
二の門の傍にあった二の丸跡。かなり広いです。規模の大きなものには、二の丸御殿などの居住空間が設けられたそうですが、この二の丸は政治をつかさどる場所でした。このように二の丸には様々な役割がありますが、本丸防衛がメインの役割だったそうです。
次回はついに本丸を探検。さらに、マイナースポット候補(?)、陸軍の史跡を巡ります。
第2回インドアツアーズ:佐倉市(3)
前回までのあらすじ:京成臼井駅から、印旛沼を通って佐倉の市街地に移動中です。
天気が晴れてきたので、急に暑くなってきました。加えて、照り返しも強いので、一歩一歩の足取りが重くなります。
いつまで歩いても、右に線路、左に田んぼの構図は変わらず…。 好きで散歩しているはずなのに、無理やり散歩させられているような感覚に陥りました。
予定では線路沿いの道をしばらく歩いて、その後、わき道を通り国道296号線に出て市街地に向かうつもりです。
奥に見える長めの階段を撮ろうと思って何気なく撮った、この一枚。事後調査であるものが写りこんでいることが分かったのです。
もちろん怪談系ではありません。そんなもったいぶることではないのですが、この写真に未成駅の痕跡(ローターリー予定地と資材置き場)が写りこんでいただけのことです。
風車を中心とした「佐倉ふるさと広場」の横を通過する。急カーブを超えると左側の田園地帯とは対照的に、右側には住宅街が広がる。広いロータリーのような広場が見えるが、ここはかつて「江原台駅(仮称)」が建設される予定だった場所(詳細はユーカリが丘の項目を参照)Wikiの京成本線より
江原台駅は、京成臼井駅と京成佐倉駅の間(駅間5.3kmの中間地点)にできる予定でした。なぜできなかったのかというと、理由は単純で、駅用に用地取得した土地が6両編成分と狭かったからです… 仮にできていたら、左側も新興住宅街で、あの変わり映えのしない景色を見ずに済んだような気がします。でも、駅ができていなくて良かったような気がします。ちなみに、今の京成本線は8両編成です。
踏切があったので、気分転換に向こう側にわたってみます。
印旛沼の低地と、大地の境界にある崖。所々に何十段もありそうな気がする階段もあります。
戻ります。
遠くの丘陵には、凸形をした建物が見えます。あの辺りに市街地があると思うと…
日を遮るものは無く、日射と照り返しの攻めにあいます。うっかりして、入る脇道を間違えてしまいましたが、結局、国道には出ることができました。
鹿島川を眺めます。なんだか隅田川の面影を感じます。
国道296号線(船橋⇔九十九里浜方面)を通って佐倉市街地に向かいます。鹿島川を渡ると次第に、マンションや商店、住宅などが増えてきました。
-9th 歴博入口
国道の交差点の脇に石標がありました。なんて書いてあるのか読もうと思ったのですが、集中力が出ずに敗北しました。
振り向くと…
信号に『歴史博物館』と書いてあります。そして目の前には、大規模な施設の入り口があります。行き先が増えました! しかも、木が茂った所に入れるなんて!
ゲートをくぐり、堀をまたぎ、坂を上ります。なんだか、皇居(江戸城)のお濠を渡るような感じです。
早速眼に飛び込んできたのは…
ここってお城だったんですか。なるほどだから… と色々なものがふに落ちました。
この坂を登ればもうすぐ城址につきます。
接続回はこのくらいにして、次回は、城址めぐりの前編をやります。