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示山橋

31 December 2015

下沼部分水(仮)



さて、ここにあるのは沼部駅周辺の航空写真です。ここで15秒待ってみてください。

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あれ、開渠? 線路をまたいでる? 等々力駅みたい。

Yahooの航空写真より


 沼部分水(仮)は大田区付近で六郷用水から分流し、沼部駅付近で東急多摩川線をまたぎ、多摩川に平行に南下し、最終的に大田区嶺町小学校付近で多摩川と合流していました。その流路は単調で、どこの写真も同じような風景ばかりですが、ところどころに開渠や水門、暗渠、その他ゆかりものもあり、アクセントに富んでいます。

 明治時代の地図(東京管内絵図 大田区地図集成に収録)や昭和中期の(地図から見る大田区(1)収録)にこれと思われる水路が書かれている一方、大正や昭和初期の大東京・横浜・川崎三千分の一地形図には書かれないなど、地図によりこの分水の扱いに差があります。

 


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ここで六郷用水から分流していました。現在の六郷用水の水路はせせらぎになってしまいましたので、その痕跡は一切ありません。

分流した水路は右手(多摩川方向)に向かって進みます。ちょうど、田園調布南33番地と34番地の境目が流路になっています。川跡が行政の区画の分け目に利用されやすいという話は有名です。

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ここがその区画の分け目。少し暗渠テイストな感じがします。ただ、これが暗渠そのものかといわれると微妙です。区境は民家の物置になっていました。


 そしてそのそばには、このミニ橋があります。線路沿いには、水路と思われるスペースも確認できます。肉眼で見たい方は、ぜひ東急多摩川線の先頭車両でかぶりついてください。なお、昭和中期の地図には線路わきの水路、ミニ橋が細い青線(開渠)として書かれています。

 ちなみに、先日の新田川探検の日にこの電車に乗ったところ、この辺りで急に徐行運転を始めました。そこで、チャンスとばかりに線路わきの三角スペースをのぞいてみたら、草の生い茂った細い溝が見えました。また、ミニ橋が思った以上にしょぼいことも分かりました(満願寺の流れほどでない)。


そして流れは東急多摩川線をまたいだ後、暗渠となって少し西に進み、玉堤通りにぶつかります。


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これがその暗渠。春の多摩川(最終回)2つの橋と未公開編にも登場しました。 玉堤通りから撮影しました。

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そして、普通の小さな道となって南下します。昔の地図を見ると、道路脇多摩川側に水路があったようです。

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多摩川側からみてみました。

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てくてくと進みます。そして、新幹線と在来線をまたぎます。

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ここで、品鶴線下丸子三菱重工引込線がまたいでいました。そのような痕跡は今は一切ありません。

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 片側がガードレール付き歩道になっています。暗渠らしいといえば暗渠らしいです。しかし、一般的には歩道と車道が段差によって分かれているタイプよりは、暗渠である可能性が低いです。

ここで西に曲がります。つまり、多摩川方向に流路が進みます。

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歩道と車道が分かれているタイプ(呑川深沢4丁目支流(仮)2010年7月)



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そして、曲がると、おや…!?

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まっすぐ進むと、脇にも! 

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目の前にも! 先にこちらを紹介します。


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 目の前には沼部排水樋管(1972年完成)があります。樋管や水門は大規模河川に小河川・用水路が合流する地点に設置されることが多いです。

 ここで、樋管や水門の役割をおさらいします。通常時は雨水を流したり、大規模河川増水時は水門を閉めて洪水を防止する役割を持っています。また、樋管は小河川を利用したものや、新規で作ったものがあります。沼部排水樋管は新規で作られたもののようです。

 

河原に降りると…

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橋のような物体があります。





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さて流路は現在の道の南側から暗渠となって南下します(先ほどの写真)。ずいぶんと細いですね。

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このあとはジグザグと南下していきます。

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 現在、田園調布南。今は住宅になってしまいましたが、ここを水路が多摩川に平行に流れていました。このあと水路は嶺町小学校の脇に沿って流れます。

航空写真から流路を見ると、嶺町小学校の出っ張りがこの水路によるものだったことがわかります。



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 ここは嶺町小学校わきの多摩川の土手、この土手のしたに水路がありました。このあと水路はしばらくした後多摩川に合流していました。

この辺りで、六郷用水から流れてきたほかの分水がニアミスしています。その分水は旧嶺町排水樋管に合流していたようです。

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ここが、合流地点でした。実はここには、下沼部排水樋管がありました。その樋管は1988年に廃止され、写真からは、その面影がありません。

実は樋管の痕跡が多摩川の河原にあります。ここだけ岸が草地でなく、コンクリートになっているんです。

ちなみに、この樋管ができる前の合流点はもう少し多摩川下流寄りでした。多摩川の土手の中に入る地点は現在と同じだと思われますが、土手内で多摩川と少し並走していました。









https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zPECgdXaZX_g.kLHNfkh9XzMQ&msa=0&hl=ja&brcurrent=3%2C0x60185f7b01bd5057%3A0x88c9f317cacfd3cb%2C0&ie=UTF8&ll=35.58894%2C139.65443&spn=0.09148%2C0.18048&t=m&source=embed

↑今回地図のURL

以上になります。まだいろいろと伏線を拾っていなかったり、書いていないところがありますが、ひとまずは完結です。

続きはまたいつか。

今回の情報:暗渠ポイント:暗渠、開渠、区境、樋管跡、古い航空写真

全長:1.1 km

撮影日:2012年12月2日、2015年10月3日・4日、11月22日


参考文献・引用元

大田区の文化財 地図から見る大田区(1)(2)(3)、

大田区の文化財 大田区の民具

京浜河川事務所 多摩川

町の風土記 水上市郎平著

大田区地図集成 大田区立郷土資料館著


感謝

京浜河川事務所様

東京都下水道局南部事務所様

大田区立郷土資料館様


雑談:

  • 困っていることがあるのですが、書物によって、すごいときは書物内(地図や研究本)でも六郷用水の分水や席の名前が統一されていないことです。むろん、ネット上でも。(俗名や別名とはおそらく違うと思います)

例:御鷹野圦⇔御鷹野の圦、お鷹の圦:子の神堀⇔子の根堀 

また、同じ時代に書かれた地図でも流路が、同じ河川であっても異なったりしています。例:Aという蛇行した水路が区画整理対象地域に存在する。その区画整理反映した地図BとCがあり、Bには区画整理を反映したと思われる直線なAの水路が書かれ、Cには街並みは区画整理されていても、区画整理前のAの蛇行した水路が書かれている。(わかりにくかったらすみません) こんなかんじものが六郷用水の分水にちらほら存在します。北古川にも…

なにを信じたらよいのでしょうか?



  • 月に0〜2回ほどの更新を予定しています。

また、画面の端にある『プロフィール欄』にて、いろんなことを不定期につぶやいておりますので、そちらもよろしくです。


  • この間知ったのですが、『良いお年を』は12月30日までにいうべきフレーズなんだとか。大晦日を乗り越えて新年を迎えましょうという意味なんだそうです。


来年もよろしくお願いいたします。

20 September 2015

北古川

 ご無沙汰しておりました。更新をお休みしてしまいすみませんでした。

そして、皆様のおかげで5周年を迎えることかできました。特に、勝手に休んでいる間にも、時々このブログをわざわざ覗いて下さった方、当ブログアクセスランキング1位の新宿区のみなさま、ありがとうございます。


 さて、今まで何をしていたのかについて書かせていただきます。念願の夢を叶えるために2014年の1月ごろから準備をしました。そして、それを叶た後は、夢をかなえたことによってがらりと変わった周りの環境になれようとしていました。とても答えになっていないような抽象的な書き方ですみません。ただ、下手に書くとプライバシーうんぬんかんぬんがありますので。

 

 この記事は一気に書き上げたものではなく、2013年に企画して、2014年の夏ごろに下書したものです。そのころはすごく病んでいて下書きの文章があまりにも暗すぎたので、かなり文章を変えました。最終回について考える記事なんてまだ公開できませんよね… また、数か月おきにこの文章に加筆・順序入れ替えを重ねています。文章の中には飽きているときに書いたものもあれば、そろそろ復帰しようと思って(結局復帰しなかった)書いた時のものもあります。ですから、すこしちぐはぐしている部分があるかもしれません。

 



ご覧になる前にひとこと

矢口川(仮)下丸子分水は、矢口川(1)(2)は浅はかで間違えたことばかり書いてしまいました。すみませんでした。今回はその訂正内容や新しく分かったことの一部を含んでいます。

3年ちょっと振りの、暗渠特集になります。あと記事が長めです。





 今回は、北古川という用水路をたどります。

 北古川と言われても、どこそこ?と言う感じになるかもしれません… 流路自体は有名かもしれませんが。

 今の北古川は六郷用水の分水で大田区西嶺町にある有名な堰『スッポン』で分流し、中流でスッポンの分水の水を集め、下流で新田川が合流し、多摩川に注いでいたと思われます。また、流路の大部分が東急多摩川線以西にあり、その一部分は東京府大森区蒲田区*1の区境にもなっていたことがあります。

今回の地図になります。流路の一部だけしか載っていませんが。

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大田区の文化財 第23集 地図で見る大田区(3) 57ページ 大東京・横浜・川崎三千分の一地形図 鵜の木 より引用です。測量年1937年。

右半分に分かりづらいですが北古川と書いてあります。また、上が北方向です。


前置きはこの辺にしておいて…

 さて、東急多摩川線鵜の木駅北(西嶺町35)にある六郷用水のスッポンにやって来ました。今の北古川はここから写真右手の家の方向に延びていたと思われます。

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スッポン』という言葉がはじめてな方へ。

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これとは当然違います。

ここのスッポンとは、六郷用水の堰(地下樋口)のこと。別名、樋口(とよぐち)。樋が用水路の底にあったため、大量の水が分流していたそうです。大量に水を吸い込むからスッポンでしょうか? それにしても、大量の水が流れていたということは、そうとう大きな流域面積を誇っていたのでしょうね。

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 流路は玉堤通りの1ブロック奥(六郷用水側)で平行に南に進んでいます。また、1ブロック横には六郷用水もあります。正直言って、このあたりの水路がどこにあったかは不明な点がありますが、位置関係的にここだと推測しました。ここは鵜の木3-3付近 

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 特筆することがないような光景が鵜の木駅付近まで続きます。ちょうど流路がガードレール付きの歩道になっています。この辺りは上の地図で波線小川になっている区間です。

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道幅がここから狭くなります。

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曲がり角に来ました。西(右手)に曲がります。


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曲がると目の前には玉堤通りが。今度は南(左手)に曲がります。

このあたりで今の北古川は玉堤通りに合流します。この地点の流路は少し不明な点があります。

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鵜の木駅前の明かりに照らされます。


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玉堤通りの歩道になった暗渠。マンホールが目立ちます。こんな感じが光明寺付近まで続きます。

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あともう少しで光明寺というところで、急に西(右手)に曲がります。つまり、北古川は多摩川に向かって進みだします。ここは下丸子4-1。

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 水路は東急多摩川線の線路を超えます。特にミニ橋やその他の痕跡はありません。ちなみに、東急多摩川線の『東急』は鉄道会社を示すためにつけているもの(例:JRの乗換案内で聞こえる東急田園都市線のような)ではなく、西武多摩川線と区別するためにつけられた冠です。つまり、東急多摩川線が正式路線名なんです。






線路を超えると…

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 ここから、暗渠らしさが全開になります。北古川は弧を描きながら進みます。この区間は大森区蒲田区の区境になっていました。かつては鵜の木村と下丸子村の区界。しかも、この区間は多摩川の旧河道だったのです。旧河道とは昔の大きな川の蛇行のあとのこと。


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この辺では珍しい生産緑地

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 樋口橋(とよぐちばし)通過。この辺り(下丸子4-9)には樋口の洗い場があったそうです。大正末期の耕地整理で消滅したとのこと。ここから先は植込みがなくなり、ただの幅の広い道になってしまいました。

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 オリンピックというスーパーのある角で、別の流れ(スッポンからの)が合流していました。さらに、ここには池がありました(昭和初期の地図で確認)。現在のタマリバーハイツがある場所です。



そして、ここで、流路は南(上の写真左手)に曲がります。つまり、北古川は多摩川と平行に進みだします。


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じつは車道よりも一段分ここの歩道が低いんですよね。

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 北古川はスーパー堤防わきの大きな道の歩道になって進みます。この周りには戦前から三菱重工の工場がありましたが、現在は移設し再開発されました。そこではブルドーザーといった建設機械を製造していたそうです。また、以前書いた品鶴線下丸子三菱重工引込線の終点にあたります。それにしても再開発によって工場地帯であった雰囲気が一切感じられません。ちなみに、この直線区間の北古川沿いは土地柄、戦中は強制疎開地域になっていました(そして空襲に遭っています)。


ここで気になる記述を紹介したいと思います。水車に関する記述です。鵜の木村と下丸子村の境界線となる光明寺池の排水路が南東向に流路を伸ばし、現在の矢口ポンプ場多摩川に排水するがその途中の六所神社西側(下丸子四丁目16番付近)にあった。所有者は天明宗右衛門家である。(大田区の文化財第21集 大田区の民具より) 

この辺りにも、坂口の洗い場と呼ばれる洗い場が二箇所あったそうです。廃止された時期は不明。下丸子4-17,3-29




しばらく進むと、見おぼえのある景色が…




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ここで新田川と合流!*2 新田川(正式名称)とは昔自分が下丸子分水(仮)だ!!とワーキャー馬鹿みたいに騒いでいた六郷用水の分水の一つです。新田川は下丸子駅付近で六郷用水から分水し、東急多摩川線を越え、弧を描くように南に進み、この場所で北古川と合流しています。以前書いた下丸子分水矢口川の記事内容は間違えた記述ばかりですので、そろそろ訂正記事を出します。



 この景色を見ると、まだ未熟だったころを思い出します(今も未熟かもしれませんが)。当時の記事は見ただけでも恥ずかしさがこみあげてきます。5年前の自分は何のルールも知らなくて、文章も下手で、がつがつし過ぎで、甘い考えで、ユーモアと無茶をはき違えていて…  今もそうかもしれませんが、進歩したと思っています。少なくとも、ほかのブログさんに下手なコメントは書かないように注意していますし、ブログの質も上げたつもりですし、周りにも配慮もしているつもりです。2011年頃に暗渠の先輩方のブログに訳のわからないコメントを書いていた自分が恥ずかしいです。すみませんでした。

 そんな思いもあったので、一時期はここを閉鎖して新しい名前でブログを一からやりなおそうと思っていました。また、こんな恥ずかしいブログの書いているので、楽しそうな暗渠の集まりにも出席しづらくて、困っていました。ただ、閉鎖すると続けてきた意味がなくなりますし、自分を自分で否定しているような気がしてきました。なので、続けることにしました。これからもよろしくお願いいたします。


昔からご覧になっている方はご存じですが、この先の流路を改めて5年前の写真とともにご紹介したいと思います。

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マンションの谷間になっています。実はこのあたりから下流端までは多摩川の旧河道を利用した流路になります。


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多摩川方向に最後の曲がり角です。

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空が開けてきました… 終点も近いです。

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この歩道橋を上がれば多摩川の土手です。堤防の向こうはどのような感じでしょうか。


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そんな足元には治水記念の石碑があります。2010年の写真

あのころはみやすさ関係なしに写真の色温度をいじるのにはまっていました。恥ずかしい。

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 歩道橋のそばには矢口ポンプ場があります。ここでは汚水の大きなごみを取り除く処理が行われているそうです。さらに、この場所には矢口浄水場(矢口水道)がありました。しかし、昭和中期に廃止されました。両者とも北古川と大きな関係がありそう感満載です。

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 土手からは、平成18年に完成した矢口ポンプ排水樋管が見えます。樋管や水門は大規模河川に小河川・用水路が合流する地点に設置されることが多いです。ここで、樋管や水門の役割をおさらいします。通常時は雨水を流したり、大規模河川増水時は水門を閉めて洪水を防止する役割を持っています。また、樋管は小河川を利用したものや、新規で作ったものがあります。

 


土手を下ります。


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樋管からの水が多摩川に合流します。



 「北古川が矢口ポンプ排水樋管で多摩川に合流!」と、行きたいところですが… ちょっと考えておきたいことがあります。

現在の樋管の位置が、昭和の航空写真や地図よりも、多摩川の河口側にずれているような気がします。

 かつての水門は北古川の流路延長上にありましたが、今の水門は矢口ポンプ場の延長上にあるのです。つまり、今ある樋管(平成18年建造)は北古川がベースではなく、矢口ポンプ所のために新規で作られたものではないかと思います。ただ、推測の域を出ないので事実関係を確認中です。

この考え方からすると、北古川の下流端、多摩川との合流点は現存しないということになります。

加筆:やはり、北古川の合流口は現存していませんでした。往時の樋管の写真が大田区立郷土資料館に展示されていました。



 さて、今回特集させていただいた『北古川』ですが、まだまだ書いていないことがたくさんあります。いろいろと話が本当にややこしいので、周りにあるほかの分水を一通り紹介した後で、いろいろと書きたいと思います。キーワードは耕地整理と光明寺です。お楽しみに!




今回のデータ

全長:約3

暗渠ポイント:暗渠型歩道、旧河道、樋管(?)




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↑流路の地図です。これからいろいろと書き足していきます。うまく表示できていなかったらすみません。

リンク:https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zPECgdXaZX_g.kLHNfkh9XzMQ&msa=0&hl=ja&brcurrent=3%2C0x60186052c1a36643%3A0x4fc26aac505c0d49%2C0&ie=UTF8&ll=35.595548%2C139.696645&spn=0.072737%2C0.11131&t=m&vpsrc=6&iwloc=0004b472002ab98ac12da&source=embed

参考文献・引用元

大田区の文化財第24,25、26集 地図から見る大田区(1)(2)(3)、

大田区の文化財第23集 大田区の民具

写真素材 足成

京浜河川事務所 多摩川

感謝

大田区立郷土博物館様



 最後に、北関東や東北地方の大洪水のいち早い復興などを応援しています。

*1大田区の前身

*2:正直どちらがどちらに合流するかは微妙なところなのです。しかし、大東京・横浜・川崎三千分の一地形図 矢口を見る限り水路の幅の広い北古川に幅の狭い新田川がぶつかっているので、ここでは合流したと書かせてもらいました。間違えていたらすみません