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2014-12-26 ホームワークが終らない

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痛いニュース(ノ∀`) : 生活の党に山本太郎氏入党 党名は「生活の党と山本太郎となかまたち」に変更 - ライブドアブログ

今はひとり」の頃のセンスは好きだったんだけどなあ。


 広島帰省のついでに大和ミュージアムに寄ってまいりました。艦これのおかげで大分軍艦には詳しくなってたので結構楽しめました。感想大和の最終型は本気で対空機銃でハリネズミみたいなのねとか、回天って意外とでかいのね、とか呉って意外と遠いのねとか。まさか広島から小一時間かかるとは思わなんだ。アイツとかアイツとかよくこんな距離通学してたなあ。


艦これ進捗

SRWZ時獄篇進捗


いつまでも見えてこない君はメビウスのGoal

微笑みの爆弾+歌詞+解釈

微笑みの爆弾 - 脱積読宣言

微笑みの爆弾

唄:馬渡松子*1作詞:リー・シャウロン*2作編曲馬渡松子

フジテレビTVアニメ幽☆遊☆白書』オープニング主題歌東映劇場版アニメ幽☆遊☆白書』オープニング主題歌、OVA『幽☆遊☆白書 映像白書』第2巻主題歌

初出:『微笑みの爆弾』(1992.11.6)

収録盤:『微笑みの爆弾』、『幽☆遊☆白書 オリジナルサウンドトラック』、『nice unbalance』、『サービスフジテレビ'93ベストヒット曲集』、『幽☆遊☆白書 熱唱編2 〜デュエット&カラオケスペシャル〜』、『YU★YU★HAKUSHO メモリアルCD BOX』、『幽☆遊☆白書・最強ベストセレクション』、『幽☆遊☆白書 YU☆YU☆HAKUSYO 〜collective rare trax〜』、『幽遊白書 collective songs』、『アニソン・ヒッツ!〜歌えるアニメソング集』、『輝け!週刊少年アニメ王・増刊号』、『オリジナルTVアニメヒット』、『みんなアニメが好きだった〜緑盤〜』、『歌いたくなるアニソン+カラオケベスト!』、『ザ・プレミアムベスト 昭和アニソンヒッツ集』

歌詞はこちら

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歌詞

1、和歌に用いる言葉。歌語。うたことば。

2、歌謡曲または歌曲・歌劇などの歌の文句。(『広辞苑 第五版』より引用)

解釈

 文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、それを説明すること。(『広辞苑 第五版』より引用

 90年代を代表する名作アニメ幽☆遊☆白書』のオープニング主題歌「微笑みの爆弾」。歌詞を解釈すれば一番のAメロにあるとおり「ちょっぴりオトナ」を目指す背伸びしたい盛りの思春期少年の心情を歌い上げた詩。となるんでしょうが、肝心の作品自体が前半はともかく、中盤以降は覚悟完了な強靭かつイカレタ精神の持ち主たちの競演になってくるのでちょっとテーマから外れちゃうかな?って感じ。主題歌選定ってのは難しいですね。


徳川家康

ムーンライト・ラブ - 脱積読宣言

夢の飛礫 - 脱積読宣言

永遠のために君のために - 脱積読宣言

ミエナイチカラ〜INVISIBLE ONE〜 - 脱積読宣言

徳川家康

 天文十一(1543)〜元和二(1616)年。武将江戸幕府初代の将軍三河国岡崎の城主松平広忠*3とお大(水野氏)*4の子。幼名は竹千代。

 松平氏は西三河の大名で、駿府の今川氏に従属していた。1548今川氏人質として送られる途中、奪われて尾張織田信秀*5のもとに送られたが、'50返還され、'61まで駿府で過ごした。桶狭間の戦いの前日'60.5.18敵中に孤立した大高城に兵糧を入れることに成功して武名を挙げ、戦後今川氏から独立して、'61織田信長*6と和睦した。'63今川義元*7からもらった元康の名を、家康と改めた。'63三河一向一揆勃発、'64鎮圧し、次いで東三河勢力圏に入れた。'66松平を徳川と改姓し、源氏の名門である新田氏の一族得川氏の子孫と自称した。'68甲斐武田信玄*8と連絡をとって、今川氏を攻め、遠江に進出して、'70浜松に本拠を移した。'70織田信長に協力して姉川の戦いで浅井・朝倉両氏に勝ったが、'72浜松の北方の三方ヶ原で武田信玄の軍に敗れた。しかし信玄の没後、子の勝頼*9の軍を'75長篠の戦いで、信長と共に破り、'82同じく信長のもとで武田氏をほろぼし、駿河国を領国に加えた。'82.6本能寺の変に際しては、和泉国の堺から間道を経て帰国し、次いで信濃国南部と甲斐国に出兵して、ここも領土とした。'84羽柴秀吉*10と対立した織田信雄*11を援助して、尾張に出陣し、小牧・長久手の戦いで勝利を得た。こののち秀吉と和睦し、また駿府に本拠を移したが、'90後北条氏がほろびると、秀吉の命により関東地方に移って、江戸を本拠と定めた。

 豊臣政権下で最大の大名として、250万石を領し、やがて秀吉の没後、五大老の筆頭として勢力を伸ばし、ついに1600関ヶ原の戦いに勝って、武家政権代表者となり、'03朝廷から征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開いた。'05将軍職を子の秀忠*12に譲ったのちも、駿府にあって全国的な政務を統轄(大御所)、対外的には、朱印船貿易を推進するとともに、長崎での交易を統制し、'09朝鮮との国交を回復した。'14-'15大坂の陣によって豊臣氏をほろぼして、次いで武家諸法度禁中並公家諸法度を制定して幕府の基礎を固めた。'16駿府で病没。神式によって久能山に葬られたが、'17東照大権現の神号が勅許されて、日光東照宮に改葬された。

 家康は正妻*13を早くに失い、15人の側室に10男5女を生ませた。幼少のころに不遇を経験したため、忍耐力に富み、また状況に対応する的確な判断力を備えて、諸大名の信望を集めた。狡猾な策謀家とみられたこともあるが、それは正しい評価ではなく、むしろすぐれた現実主義者であったといえよう。(『朝日日本歴史人物事典』より引用


 徳川幕府の祖、神君家康公。当然のごとくに数百年に亘る分厚い研究が積み重なっているので、私ごときの手の出せる代物ではございません。なので、まだ比較的マイナーな、「徳川家康」になるまでの概史を簡単に紹介したいと思います。

 家康の生まれた天文十一(1542)年は三河を統一した英雄祖父の清康が「森山崩れ」で家臣の振るう村正の凶刃に斃れてから早7年。西三河は織田家に蚕食され、残る東三河も今川の庇護なしには掌握できないという苦難の時期でした。今川家への依存を強める父広忠により、僅か三歳にして今川家への人質に出される羽目になった竹千代ですが、苦難はそれで終わりません。織田と内通した家臣の手により名古屋へ搬送され、敵地の織田家での人質生活を余儀なくされます。二年後には父広忠も家臣の手にかかり24歳の若さで横死。松平家臣団は主を失い苦難を極めます。翌年には今川の天才軍師太原雪斎の活躍により本来の居場所駿府へと引き取られ、義元から偏諱を給い「元信」と名乗り元服を果たしますが、松平家の状況は変わりません。主君が籠の鳥ではなす術もなく、対織田の最前線の捨て駒として使い捨てられていました。

 状況の変わるのは桶狭間今川義元が横死してから。今川家を見捨てた元康*14織田信長と同盟し東三河で独立を果たし、名も義元の偏諱「元」の字を捨て「家康」を名乗ります。しかし、苦難は終わりません。三河統一に向けた戦力増強の為の軍役増加に反発した一向門徒が一揆を結んで蜂起しました。さんざ苦しめられながらも、騙し討ち*15で何とか平定に成功した家康は永禄八('65)年に念願の三河統一に成功し、翌九('66)年には徳川の名字と従五位下三河守の官位を手に入れ、ここに後世「神君」と讃えられる英雄が誕生したのです。

徳川家康 文庫 全26巻 完結セット (山岡荘八歴史文庫)

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保科正之

君さえいれば - 脱積読宣言

保科正之

 慶長十六(1611)〜寛文十二('72)年。江戸前期の大名。徳川秀忠の三男、母は神尾氏の出、お静の方*16徳川家光*17の異母弟。信濃国高遠藩主保科正光*18の養嗣子。幼名:幸松麿、肥後守

 陸奥国会津藩の祖。1631高遠藩3万石の藩主を継ぐ。'36出羽国山形藩20万石に転封し、'43さらに陸奥国会津藩23万石の大名となる。「会津家訓」を作り家臣団の編成、税制の整備、義倉・社倉の設置による備荒貯穀などの藩政方針を明らかにし、幕藩体制成立期の名君と称された。'51三代将軍徳川家光の死後、遺言によって幼少の4代将軍徳川家綱*19の補佐となり、10年間幕政の担当者となった。由比正雪の乱など幕政の動揺に際し、末期養子の禁をゆるめ、殉死人質制度を廃止するなど、文治政治の方向へ幕政を転換させていった。『輔養編』・『玉山講義附録』・『会津風土記』などを編纂させた。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用

 江戸名君列伝では上杉鷹山水戸光圀と並んで頻出の会津藩保科正之。彼の人生ですが、絵に描いたような江戸の君主の模範の優等生人生で、けちの付けようもありません。そつがなさ過ぎてエピソードに欠けるのが欠点といえば欠点でしょうか。よくあの複雑な生まれでこうも真っ直ぐ育てたものです。あの馬鹿兄貴二人*20と半分とは言え同じ血を引くとは思えません。よっぽど育ての親に恵まれたのでしょうか。氏より育ちを痛感させてくれます。以下そんな彼の事績を略述。

 保科正之の誕生は慶長十六(1611)年。大の恐妻家で妻のお江の方に頭の上がらず側室も持てなかった二代将軍秀忠が駿府に鷹狩りに行った際にそこで出会った大工の娘とやっちまって出来たのが彼。その報告に恐れ慄いた秀忠はその存在をひた隠しに隠しお江の方存命中は父秀忠に面会すらかなわぬ有様でした。しかし、家光・忠長の兄二人にはその不憫さからか、殊の外愛され両名ともから死に当たって後事を託されています。

 そんな日陰者の彼が本格的に世に出るのは家光死後。存命中から腹心として信濃高遠3万石から出羽山形20万石、そして会津23万石と順調に累進していた彼は、息子家綱の後見役に指名されます。その後の活躍は皆さん知っての通り、慶安の変や明暦の大火などの災厄を大過なく乗り越え、末期養子の禁の緩和など文治政策への転換を推し進めました。

 徳川宗家への忠誠は生涯揺るがず、下賜された松平の姓と親藩の座を分不相応と固辞。臨終に当たっては、子々孫々に亘る徳川宗家への絶対の忠誠を厳命しこの世を去ったのでした。後世この遺訓に従い会津藩が滅びゆく幕府を見事に看取ったのは人口に膾炙している通り。

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫)


転がる夢なんだよ追いかけていたいのは

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帰って来た今日の一行知識

徳川家康の死因は鯛の天ぷらの食べ過ぎというのはガセ

最近は胃癌説が主流ですね。病理史学の発展の成果として喜ばしいことなんでしょうが、なんだかロマンがないなあ。

*1:Pit'a Pat所属。代表作:「デイドリームジェネレーション」、「P-U」、「帰りたい」他。

*2:代表作:「ホームワークが終らない」、「誰も行けない場所」、「さんざんな恋をしても」他。

*3:父清康、母青木貞景女。守山崩れ後阿部定吉に擁立され当主襲名。今川義元に臣従し三河を回復するも近臣により暗殺。

*4伝通院松平広忠・久松俊勝夫人。父水野忠政、母華陽院。子に徳川家康松平康元松平康俊松平定勝・多劫姫・松姫・天桂院。

*5尾張末森城主。三河守。父信定、母含笑院殿。守護代織田大和守家の庶流ながらも勢力を伸張。斎藤・今川両氏との抗争に明け暮れ「尾張の虎」の雷名を轟かせた。

*6近江戦国大名右大臣。父信秀、母土田御前。「うつけ者」と蔑まれながらも家督を継承。弟信行や主君たる織田大和守家との抗争に勝利し尾張統一。宿敵の今川・齋藤両氏を滅ぼし一大勢力を築き、将軍義昭を擁し上洛。天下布武を唱え中世秩序の解体に邁進。数度に亘る信長包囲網を各個撃破し天下統一の目前に迫るも本能寺の変で横死。

*7駿河守護。治部大輔。父氏親、母寿桂尼。旧名:氏元。花倉の乱に勝利し家督を継承武田・後北条との抗争に明け暮れながらも三河に勢力を拡大し、「海道一の弓取り」の雷名を馳せる。甲相駿三国同盟により後顧の憂いを失くし上洛に打って出るも桶狭間の戦いで戦死。

*8:晴信。甲斐守護。信濃守。父信虎、母大井の方。父を追放し家督継承。上杉・後北条・今川各氏と抗争和睦を繰り返し信濃駿河を併呑。信長包囲網に参加し西上作戦を企図するも途上で陣没。

*9信濃守護。大膳大夫。父信玄、母諏訪御料人。信濃の名族諏訪氏後継者として育つも、信玄の急死により武田家の家督承継。しかし人心収攬に失敗し長篠の戦いに大敗。多くの重臣を失い家運は衰退に向かう。宿敵上杉家との同盟などでそれに抗うも武田征伐に抗しえず敗死滅亡。

*10:豊臣。関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母大政所、養父竹阿弥→近衛前久信長に見出され墨俣築城や美濃衆調略・小谷城攻略などで頭角を顕し、織田四天王の一人として累進。本能寺の変後、山崎の戦い清洲会議賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなどを経て信長後継の座を確保。関白に就任し天下人として全国統一に成功。次いで唐入りを目指し文禄慶長の役を起こすも志半ばに病死。

*11大和宇陀松山藩初代藩主。内大臣。父織田信長、母生駒吉乃、養父北畠具房。旧名:具豊→信意→信勝。伊勢の名家北畠家の養子となるもその暗愚を父や家臣団に疎まれ逼塞。本能寺の変安土城焼亡などの失態を犯すも秀吉に擁立され信長後継の座を掴みかけるも、長久手の戦いでの独断講和により失脚。

*12:徳川第2代将軍太政大臣。父家康、母西郷局。信康の横死により早くから家康後継者に擬される。将軍就任後も、家康存命中は大御所政治により実権を持てなかったが、家康死後は本多正純粛清などにより権力を確立。武家諸法度の制定やキリスト教禁教の強化により幕府の礎を強化した。

*13:築山殿。徳川家康正室。父関口親永。子に信康・亀姫。

*14元服から二年後、築山殿を娶った際、三河の英雄祖父清康にあやか改名

*15:「首謀者お咎めなし、仏閣は元の通り」の条件で講和するも、実際は関係者一斉検挙・寺社は全て破却の横紙破り。当然の如き猛講義に「約束通り元のままの野原に戻してやったぞ」と呵呵大笑したのは有名。

*16:浄光院。徳川秀忠側室。父神尾栄嘉。

*17:徳川第3代将軍権大納言。父秀忠、母崇源院。「生まれながらの将軍」として、土井利勝・松平信綱らの輔弼を得て各種改革を断行。武家諸法度参勤交代鎖国など江戸時代を象徴する諸制度を完成させた。

*18信濃高遠藩初代藩主。肥後守。父正直、母跡部氏。信濃の名門保科氏の嫡流として家康の庇護を受け、小牧長久手の戦いや小田原の役などに従軍し下総多胡に1万石を得る。関ヶ原の戦い信濃高遠に転封となり大坂の役での活躍で3万石に加増された。

*19:徳川第4代将軍右大臣。父家光、母宝樹院。最初期こそ慶安の変などで動揺したが、寛永の遺老や保科正之酒井忠清らの輔弼を得て内政に力を入れ30年に亘る長期安定世間を樹立した。

*20:「暗愚の竹千代」こと三代将軍家光と『シグルイ』でも有名「駿河中納言」忠長。

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