2009-11-18
経済学者は感情で動く
クルーグマンが経済論争に関して面白いことを書いている。以下はその拙訳。
ゴドウィンの法則の拡張提案
ゴドウィンの法則――ネットでの議論がある程度長引くと、相手をヒトラーに喩える輩が必ず出てくる――は、もし実際に相手をナチに喩えることに走ったら、議論に負けたことになり、もはやまともに相手にされなくことを意味する、と解釈されることが多い。私はその解釈に全面的に同意する。(それは共和党の重要人物の意見をもはや真剣に受け止めるべきではないことを意味するのか? 答えはイエスだ)
しかし、倫理的にナチの喩えと同等の喩えは数多く存在し、それらはやはり同じ扱いを受けるべきである。私がここで提案したいのは、
- ある分野での一層の政府の行動を求める声――雇用創出、医療改革、その他諸々――に対し、ソ連の例を引き合いに出して反応する人
もしくは- 適度なインフレないしドル安が受け入れ可能という提案に対し、ジンバブエの例を引き合いに出して反応する人
もしくは- 予測された債務水準が、高くはあっても、先進国が過去に成功裡に対処できた範囲に収まっていることを示すと、アルゼンチンの例を引き合いに出して反応する人
は、迅速に外の暗黒*1につまみ出すことである。
そうすべきなのだ。
Proposed extensions of Godwin's Law - NYTimes.com
この話は、日本の経済論争についてもそのまま当てはまるだろう*2。
ちなみに、ある種の人たちの議論のやり方を見ていると、小生は時折り国民的小説の下記の一節を思い出す。
迷亭もここにおいてとうてい済度(さいど)すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭を凹(へこ)ましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢(とんちんかん)な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥(はる)かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目(めんぼく)を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑(けいべつ)して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
夏目漱石 吾輩は猫である
ただし、ここで漱石が見落としているのは、「嘘も百回言えば真実となる」という言葉にある通り、強情を張り通せば、それなりに知性の高い人も、あるいは彼の言うことは正しいのかも、と思わせてしまう場合があることである。残念ながら、それこそナチスからオウム真理教まで、そうした例は歴史上枚挙に暇がない。実際、最近の経済論争でもそうした傾向が見られたように思われる。
[2010/2/16修正]
クルーグマンが共和党に触れた括弧内の文章の訳で「受け止めること」と誤記していたのを「受け止めるべきではないこと」に修正。
- 833 http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51527920.html
- 197 http://m.ld.tv/extlink/?.next=http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20091118/soseki_and_debate&mb=1&.plane=
- 122 http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/
- 117 http://d.hatena.ne.jp/
- 113 http://www.hatena.ne.jp/
- 104 http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/himaginary/20091118/soseki_and_debate
- 102 http://b.hatena.ne.jp/
- 69 http://b.hatena.ne.jp/hotentry/economics
- 59 http://ime.nu/d.hatena.ne.jp/himaginary/20091118/soseki_and_debate
- 49 http://b.hatena.ne.jp/hotentry?mode=general
クルーグマンの論議はなかなかその通りかとは思いますが。下の部分に関して、
やはり、ある意見や論議が、「真実のもの」なのか、「100回言われた嘘」であるのか、
端的に判断はできませんので、厳密である場合ある種の懐疑主義に堕ちますね。
難しい問題かと思いますが、結局のところは読む側の公正の感覚の問題だと思いますけども。
クルーグマンの認識では相手をナチスと例えることは議論に負けたことと同じであるとのこと、
一方で、強情を張りとおすものだけは、ナチスやオウム真理教の例えになるというのは…。
経済主体が限定的な時間的安定性を追求する活動の全体、を観察しているので。
限定的な安定性と崩壊(部分崩壊か全面崩壊か)の記述しないといけない。
論理性は、経済に対して害のある時すらあると思う。
もしくは「適度なインフレないしドル安が受け入れ可能という提案に対し、ジンバブエの例を引き合いに出して反応する人」
もしくは「予測された債務水準が、高くはあっても、先進国が過去に成功裡に対処できた範囲に収まっていることを示すと、アルゼンチンの例を引き合いに出して反応する人」
が、ナチに喩える人と同じ扱いを受けるべきと書かれています。
しかし、ナチに喩える人と同じ扱いを受けるべき理由は、書かれていません。
なぜ、ナチに喩える人と同じ扱いを受けるべきなのか、説明できる人はいますか?
「質問があります」さん>
例えばそこで議論されている特定の福祉政策が具体的にどのような経路をとってソ連型の陥穽に陥るのかを議論すれば、それほど顰蹙は買わないんではないですかね。
議論の発展する余地がある。
それでも、「ソ連」を口にするのは印象操作を狙っているといわれても仕方がないように思いますが。
ジンバブエの例もアルゼンチンの例も同様だと思います。
すべての社会政策はソ連型停滞をもたらし、
すべてのインフレ政策はハイパーインフレーションの道であり、
すべての財政出動は対処不能な債務の山を築くのである。
つまり一顧の価値もないと。
こういう形の議論にはわずかな事例をもとにそれが一般原理であると断定するという誤りがあるわけです。
今まさに雇用を失い、あるいは高額な医療費のゆえに治療をあきらめなければならない人々がを救うための政策を議論しているときに単純な"Ad Hominem"で議論自体を放擲するような誘導を試みる輩は、すでに議論に敗北しているのでしょう。(←これも余りフェアな書き方ではないかも)
>なぜ、ナチに喩える人と同じ扱いを受けるべきなのか、説明できる人はいますか?
Cruさんが説明してくださいましたが、要は、比較対象の事象と極端な事象を、両者の間の幾つもの途中段階を無視して単純比較している、というのが共通項になっているかと思います。
>クルーグマンの認識では相手をナチスと例えることは議論に負けたことと同じであるとのこと、
>一方で、強情を張りとおすものだけは、ナチスやオウム真理教の例えになるというのは…。
例えば論点をあくまでもプロパガンダを繰り返すという点に限るならば、「嘘も百回言えば真実となる(はてなキーワードの説明によるとゲッベルスの言葉だそうですが)」という戦略をナチスに喩えることには、特に中間段階をすっ飛ばした飛躍はないかと思います。クルーグマンの議論をそうした場合にまで適用すると、却って本当におかしなことを言っている人を利する恐れがある、というのは注2で指摘した通りです。
>韓非子の三人市場って奴ですね。
聚蚊成雷とか曾参殺人とか浮石沈木という言葉もありますね。
ジンバブエの話は私もよく目にいたしますが、それに対して「ハイパーインフレーションの定義は年率13000%であるから起こるわけないだろう」という反論になっていないものをみかけることがあり、脱力しますね。12999%でなくても、500%でもぞっとしますよ…
>真理なんてないですね。物理的な再現性がない
http://www2.plala.or.jp/kohsaka/page017.html
ポパー先生の論述を引用しようと思ったらキリがなくなりました。
「自然科学の典型的なものとして、ともすれば、天文学で遠い未来の正確な予測ができるというような例を考えやすいんですけれども、計算どおりの運行をする天体は、自然界としてはむしろ例外的な事例なのです。実際には自然界はもっと複雑で予測もあれほど厳密にはできないもののほうが多いのです。(略) ところが、人文科学者や社会科学者は、天文学で暦を作ることのようなものが自然科学の典型的なものだという素朴な誤解をしたうえで、自分たちにはそれとは別の方法があると考えたり、あるいは逆に、誤解した自然科学の手法を適用しようとしている・・・。それは間違っているというのがポパーの主張なのです。(略)
ある固定した尺度や価値観・観点でものごとをみますと、明快な展望や解釈ができますが、その明快さは、他の解釈を許さない頑迷さの裏返しでもあり、終局的には相手を無視ないし抹殺せざるをえない状況に陥ることをポパーは指摘しているのです。」
社会科学をあくまでも科学たらしめんとする人々の努力を軽んじたり甘く見たり(西欧近代合理主義?笑、みたいに)逆に理系科学をジャンル的属性から信用しない方がいいですね。
>ある種の懐疑主義
保留し(反証可能性)中腰である(いつでも誤りであったら認めて引き返す)ことの「科学的態度らしさ」でしょうね。
半分は同意、半分は異議あり です。
はじめまして。初コメントさせていただきます。
理由は 西洋では これは成立します。理由は 物事を善悪付ける慣習法が存在するからです。
しかし、このまま 日本に持ち込む場合 善悪を付ける方法を取る=何かしらの争いを経ないと
成立しない場合が多々あると考えられることです。(日本の場合、根底には多神教由来の慣習法が
存在するため 完全な善や完全な悪は存在しない可能性が高い。)
そして 日本での ナチス の立ち位置が 意味は欧米に比べて 多くございます。
故に 使う人間がもし居た場合、議論の最終決戦を仕掛けたものだと出来る場合も
実は ございます。(昔、私も実験でやってみて結構効果あったので。)
故に ブログ主様。3次元下での議論の場合は成立するが、2・4次元下では
成立するのは 発言者の立ち位置次第 だと申し上げて答えにさせていただいても
よろしいでしょうか?(影絵 をまず立法体 にして そして その空間に 時間
を流す イメージから考えて どちらの場所から それを言っているのかを考えると
分かってもらえるかと。)
以上です。失礼します。