もう一つのトリレンマ

経済学においては、国際金融のトリレンマと呼ばれる有名な関係――資本移動の自由、国内金融政策の独立性、固定為替相場は同時に達成できない――がある。たとえば昨日紹介した研究は、このトリレンマが海外の出稼ぎ労働者からの送金で緩和される、という話だった。このトリレンマはマンデル=フレミング・モデルの帰結として導かれるので、マンデル=フレミングのトリレンマや、マンデルのトリレンマとも称される。


一方、ダニ・ロドリックは、国際経済におけるもう一つのトリレンマの概念を提唱している。それは、以下の3つは鼎立不可能というものである。

  • 民主主義
  • 国家主権
  • 経済統合

彼は5/11付けのProject Syndicate論説で、ギリシャ危機はそのトリレンマの表れであった、と分析している(Economist's View経由;なお、そこではロドリックが早くも2007年にこの概念を提唱したエントリにもリンクしている)。


ロドリックはこのトリレンマを以下の事例を元に解説する。

  • 国家主権を保ちつつ経済のグローバル化を進めると、民主主義と整合しなくなる。
    • 例:1914年まで続いた最初のグローバリゼーション
      • 国家の経済・金融政策が、国内の政治的圧力とは無関係に、金本位制と自由な資本移動の論理に従っているうちは良かったが、やがて参政権の拡大、労働階級の組織化、大衆民主主義の成立により、両者の矛盾が噴き出した。
      • 象徴的な事例は、戦間期の英国の金本位制への復帰。第一次世界大戦前のグローバリゼーションの体制に戻ろうとした試みは、国内政治が国内のリフレーション金本位制に優先させることを政府に求めた時に瓦解した*1
  • 国家主権と民主主義を保ちつつ経済のグローバル化を進めるならば、それは限定的なものとならざるを得ない。
    • 例:ブレトン・ウッズ体制
      • 1944年にブレトン・ウッズ体制を設計した人たちは、上記の教訓を胸に刻んでいたので、グローバリゼーションを「弱めた」。即ち、資本移動は主に長期の貸し借りに限定するようにした。ケインズは、資本移動の管理を、当座の方策ではなく、グローバル経済の恒久的な特徴と位置づけていた。
      • 1970年代のブレトン・ウッズ体制の崩壊は、拡大し続ける資本の流れを管理する能力もしくは意思を各国政府が欠いていたために生じた(どちらを欠いていたかは良く分からない)。
  • 民主主義を保ちつつ経済のグローバル化を進めるならば、国家主権を放棄せざるを得ない。
    • 例:米国
      • 連邦政府が州政府から政治コントロール権を十分に奪った後に、統一的な国家市場が誕生した。
      • 南北戦争に見られるように、それは決して円滑なプロセスでは無かった。
      • 現在のEUの問題も、同様のプロセスの途中で起きたものと考えられる。

なお、この論説を読んだEconlogのアーノルド・クリングは、ロドリックがEUにおいて強大な中央集権政府を求めているものと解釈したところ、ロドリックからそれは自分の本意ではないという主旨の以下のeメールを受けたとのことである*2

I don't think the world needs a strong government. I think the world needs to ease up on economic globalization, precisely because it cannot have (and should not have, for reasons you discuss as well) world government. Once you accept that political authority needs to be fragmented, you have to live with the economic transaction costs that this brings, and not assume you can wish them away.
(拙訳)
私は世界には強力な政府が必要だとは考えていない。私は世界における経済のグローバリゼーションを和らげるべきだと考えているが、それはまさに世界政府が実現できない(かつ、貴兄も論じたように、実現すべきでない)からだ。いったん政治権力が細分化される必要性を受け入れるならば、それに伴う経済的な取引コストは甘受せねばならず、そうしたコストがいずれは無くなるなどという甘い考えは捨てねばならない。

My point about Europe was that I thought this was the only region in the world that could/should potentially move toward closer political integration. Recent events have shown that they too have no other option than easing up on economic union.
(拙訳)
欧州はさらに緊密な政治的統合の可能性を秘めており、かつ、そうした方向に進むに違いない世界で唯一の地域、というのが私のかつての考えだった。今回の出来事で、彼らにも経済統合を弱める以外の選択肢は無いことが明らかになった。


ちなみに上記の文中に出てくる取引コストに関してロドリックは、2007/6/27のブログエントリで以下のように書いている。

...note that deep economic integration requires that we eliminate all transaction costs traders and financiers face in their cross-border dealings. Nation-states are a fundamental source of such transaction costs. They generate sovereign risk, create regulatory discontinuities at the border, prevent global regulation and supervision of financial intermediaries, and render a global lender of last resort a hopeless dream. The malfunctioning of the global financial system is intimately linked with these specific transaction costs.
(拙訳)
…緊密な経済統合が、貿易業者や金融業者が国境を跨いだ取引において直面する取引コストをすべて削減することを求める点には注意する必要がある。主権国家というのはそうした取引コストの根源なのだ。即ち、ソブリンリスクを創り出し、規制の国境での不連続性をもたらし、金融機関へのグローバルな規制や監督を妨げ、グローバル版最後の貸し手構想を見果てぬ夢に変えてしまう。グローバルな金融システムの機能不全は、そうした個々の取引コストと密接に関連している。

また、Economist's ViewのMark Thomaは、上記のロドリックの考えに似た話として、イギリスの経済学者Tamas David-Barrettのブログエントリ紹介している。そこでDavid-Barrettは、ジョセフ・ナイの国際社会に関する「3次元の3層構造(three-dimensional, three-layered box)」という概念を紹介した上で、それがグローバル化に与える制約について考察している。ここでナイが言う3層とは、従来からのハード・パワー(軍事パワー)の層のほか、ダイナミックな経済活動の層、そして国境を越えた社会政治的なプロセスの層である*3。David-Barrettは、この第一の層が主権国家と対応しており、それがグローバル化を妨げる傾向があることを、防衛力を重視する人ほどグローバル問題に関心が薄い、という調査結果をもとに論じている。



[5/17追記]マンキューは「これが本当ならば悲しいことだ」というコメントを添えてロドリックのProject Syndicate論説を紹介している。


[5/19追記]イースタリーはトリレンマについて、(1)グローバリゼーションのもたらす制約を誇張している、(2)民主主義か良い経済かの二者択一の予言は悲観的過ぎる、と論評している。

*1:2007/6/27のブログエントリでは、もう一つの例として、アルゼンチン危機におけるドルペッグ制放棄を挙げている。

*2:クリング自身はそれらのブログエントリで、金融機関救済に代表されるBig GovernmentとBig Financeの共生関係を指弾しており、そのいずれか、もしくは両方が無くなれば、巨額の資本移動とグローバル化にはさしたる問題は無いのではないか、と書いている。

*3:この伝で行くと、ナイの有名なソフトパワーの概念はこの第三層に属するものと思われる。