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himaginaryの日記

2010-09-12

トーマス・サージェントのインタビュー

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機関誌Regionの6月号にロバート・ホールのインタビューを掲載したミネアポリス連銀が、今度はトーマス・サージェントをインタビューしたEconomist’s View経由)。

以下はその概略。


現代経済学への攻撃について
  • 攻撃の一部は、数学を忌避する馬鹿げた知的怠慢から来ている。モデルで扱う経済がもっと動学や不確実性や曖昧さを含んだものになるならば、数学はますます必要になる。それが現実だ。
  • 合理的期待は、政治信条を問わず、マクロ経済学者の政策分析における基礎的な前提であり続ける。昨春のサックススティグリッツによるPPIPの分析が良い例だ*1。また、経済学者は合理的期待をより洗練されたものにするための努力を続けている。
  • リアルビジネスサイクルモデルやニューケインジアンモデルへの批判は、それらのモデルの目的を誤解している。それらは、市場が借り手と貸し手と滞りなく結びつける通常時のマクロ経済の変動を描写することを目的に構築されたものであり、金融危機や市場崩壊を前提にしてはいない*2

金融危機について

2009年の財政刺激策について
  • シカゴトリビューンが2009/1/13に「私の見たところ、財政刺激策を支持する計算は、封筒の裏でできるような簡単なもので、過去60年間に我々がマクロ経済学の研究で学んだことを無視している」というサージェントのコメントを掲載したが、どのような計算を見たのか、という質問に対し)確かにそんなようなことを記者に言った。私が見たのは、友人のジョン・テイラーがメールで送ってきてくれたCEAの資料だ。それが2009年時点の計算としてはあまりに素朴なものであるという点でジョンと私の意見は一致した。それには1945年以降得られた経済学の知見が反映されていなかったのだ。おそらくその資料は、急いで作るように言われて作成されたもので、お役所仕事の基準から見れば結構なものだったのだろう。封筒の裏の計算は、出発点ないしベンチマークとしては良い。しかしそれが喧伝されすぎると困ったことになる。
  • ニューケインジアンのモデルは、2009年のCEAの計算を支持するものもあれば、支持しないものもある。後者の例がジョン・テイラーらの計算で、前者の例がChristiano, Eichenbaum and Rebeloだ*3

欧州の継続的な失業について(米国もそうなる?)
  • 欧州の高失業率に対する1980年代初めの説明は、需要不足と賃金の硬直性のため、というものだった。しかし、その説明では、失業の継続性を説明できなかった。
  • ある理論は、欧州の手厚い失業保険政府による仕事の保証に原因を求めた。しかしそれらの理論は、1950〜60年代にもそうした制度は存在したのに、当時の欧州失業率は米国より低かったではないか、というクルーグマンらの反論を招いた。
  • そこでLars Ljungqvistと私は、次のような説明を試みた。欧州の手厚い失業給付は高失業率の大きな要因となっているが、それがそのような悪影響をもたらすのは、個々の労働者を取り巻くミクロ経済環境が悪化した時だ、という説明だ。
  • 我々の理論は、労働市場の摩擦を扱った各種理論と整合的である。また、高年齢の労働者ほど悪影響を受けるという実証結果とも整合的である。というのは、欧州で高年齢の労働者が受け取る失業保険は、最後に就いていた仕事の給料に連動するが、その給料は労働者の過去の人的資本を反映したものであり、現在の人的資本を反映したものではないからである。そうした仕組みにより、現在の減損した人的資本に基づいて給与を受け取るために働くよりは、過去の(今や陳腐化した)人的資本に基づいて失業保険を受け取った方が良い、というインセンティブがもたらされる。
  • そう考えると、失業給付の期間を延長しようとする最近の米国の動きは、逆効果をもたらす恐れがある。

欧州と「不愉快な計算」
  • 問題の発端は、2000年代に、欧州連合の中心であるフランスドイツの2ヶ国が、財政のルールを何年も連続して破ったことにある。もちろん、不愉快な計算で問題になるのは政府の基礎的赤字の現在価値であり、数年の赤字では無い。マーストリヒトの規制は過剰であり、現在価値ベースの財政均衡十分条件であっても必要条件では無かった。従って、その時点では目くじらを立てるような話では無かった、とも言える。
  • だが、今にして思えば、やはりその時点で目くじらを立てるべきだったのだ。というのは、その行為によってフランスドイツは、他の小国に範を示して財政規律を守るように説教することができなくなった。それにより、ギリシャを初めとする周縁国は、確信犯的にルールを破り、ついには不愉快な計算の脅威を招く事態に至った。
  • もしフランスドイツマーストリヒトの財政ルールを遵守し続け、かつ、欧州の有力銀行がカレケン=ウォレスの教えを良く守って周縁国の国債に手を出していなければ、ECBはギリシャに対して強硬な態度を取ることができただろう。そうなれば、ECBは本気だということが他の周縁国にも理解され、その出来事はユーロをむしろ強化する方向に働いただろう。政治的な可能性はともかく、経済学的にはそうなる可能性があった。
  • (もしそのような事態が予見されていたら、そもそもギリシャユーロ建て国債を発行できなかったのではないか、というインタビュアーの問い掛けに対し)そこでまた我々は金融政策と財政政策の分離の問題に直面するわけだ。イタリアユーロ参加を許された後に、その国債に大きなキャピタル・ゲインが発生した、ということがあった。果たしてそのキャピタル・ゲインは、イタリアが財政規律をきちんと守るようになる、という期待に基づくものだったのだろうか? それとも、いざと言う場合には他のユーロ参加国から救済されるようになる、という期待に基づくものだったのだろうか?
  • この話は、2009年の米国の銀行のストレステストにも当てはまる。ストレステストに合格したということは、銀行のバランスシートが健全だということを意味していたのか? それとも、FRBがお墨付きを出したのだから、そのお墨付きを守るために、今後はFRBが最後の貸し手機能をそれらの銀行に対し十分に発揮する、ということを実は意味していたのか?
  • こうした疑問に答えるのは難しい。しかし、こうした話をする際に、合理的期待を議論の前提に使ってきたことには注意しておくべきだろう。動学的で不確実な世界では、他の人々や機関がどう行動すると自分たちが思うかが、自分たちの行動の決定に当たって重要な役割を担うのだ。

*1cf. ここここ

*2:Economist's ViewのMark Thomaは、この部分について「I was pleased to read this」とコメントしている。cf. このエントリ

*3cf. ここ

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