Hatena::ブログ(Diary)

himaginaryの日記

2011-07-03

製造業フェチは誤りか?

|

Economist誌で、シーメンスのスポンサリングの下、製造業の重要性に関する討論が展開されているMostly Economics経由)。


ブログでもこれまで経済発展における製造業の重要性を訴える論説を幾つか紹介してきたが(例:ロドリックInterfluidity+ロドリックアンドリュー・グローブディーン・ベーカー)、今回の討論で肯定論者の役割を担っているHa-Joon Changも概ねそうした論者の見解に沿った議論を展開している。以下はその概要。

  • 製造業の基盤(=その規模と競争力)は一国の繁栄にとって最も重要な要素。
  • 確かにオーストラリアのように資源に恵まれた国ならば、大きな製造業部門抜きで高い生活水準を維持できるだろう。しかしそうした幸運な国は限られる。それ以外の国では、製造業の基盤抜きに高い生活水準を達成するのは不可能。
  • ある程度の発展を成し遂げた後のポスト産業社会や脱工業化社会の議論にも一理あるが、それはあくまでも雇用の話。製造業に従事する労働者の数は減るかもしれないが、最富裕国でさえ生産や消費の面でポスト産業社会に移行してはいない。金額的にサービスの消費の割合は増えているとしても、それは製造業生産性上昇の結果としてサービスの相対価格が高まったことが主な原因。
  • サービスには生産性上昇に本質的にそぐわない業種が多い。27分の弦楽四重奏曲を9分で演奏しても、生産性が3倍になったとは言わない。また、米英の小売業の生産性上昇は、質の低下という犠牲――店員数の削減、スーパーマーケットが遠くなったことによる客が車を運転する時間の増加、配送時間の増大、等々――によるところが大きい。
  • 近年では、金融や通信や輸送のように、製造業の一部の部門を上回る生産性の上昇を達成したところもある。しかしそれらの主な顧客は製造業であり、その成長はやはり製造業の活力に依存している。また、金融サービスの生産性の上昇が、金融資産リスクの(削減ではなく)曖昧化によってなされた維持不可能なものであったことは2008年の金融危機によって明らかになった。
  • 脱工業化が製造業の発展そのものによってなされるならば良いことではないか、と言う人もいるかもしれない。しかし、製造業が国内でサービス業に対して相対的に生産性が高いことと、製造業が国際的に競争力を持っているかは別問題。
  • 単純な製造業が善、サービス業が悪、といった見方を取るつもりは無いが、製造業過小評価するのは危険。産業革命以降、当面予見できる将来に至るまで、それは人間の物質的ならびに社会的進歩の基礎を担ってきた。

これに対し、反対論者の役を演じているのがジャグディシュ・バグワティ。ただ、理路整然と反対論を述べるというよりは、自分が見聞きした様々なエピソードを書き連ねて、製造業フェチ(manufactures fetish)は論拠が乏しい、と述べるに留まっており、正直言ってその文章は少し散漫な印象を受ける。ちなみにバグワティが製造業フェチの元祖として槍玉に挙げたのがほかならぬアダム・スミス*1、それ以外には自らの師であるカルドア卿も俎上に載せている。またバグワティは、金融業がこけたからと言って即製造業に行け、となるわけではない、DHLフェデックスのような金融業以外の革新的なサービス業もあるではないか、と論じてる。


討論のモデレータのPatrick Laneは、日本は製造立国であったが20年に亘り経済が停滞したこと、および、中国製造業が発展のきっかけになったが、インドサービス業が発展の基盤となったことを指摘し、この問題が一筋縄ではいかないことを示唆している。Mostly EconomicsのAmol Agrawalは、インド製造業が発展しなかったのは政府が介入したためで、サービス業(特にIT・ソフトウエア産業)が発展したのは政府がそれらの業界への課税や介入の仕方を良く分かっていなかったため、という皮肉な見方を示している。

*1スミス国富論牧師弁護士、医者、教会、文章を操る仕事全般、俳優、道化師、音楽家、オペラ歌手、オペラダンサー等を非生産的労働とけなしたのに対し、弁護士はともかく、バネッサ・レッドグレーブ、モンティ・パイソンサルマン・ラシュディキリ・テ・カナワはどうなんだ、と反論している。さらに、ソ連GNPからサービス業を除いたのはスミスの誤りのせい、というようなことも書いている。