新古典派経済学の謎:アダム・スミスが経済学の父ならば、新古典派経済学は私生児だ

2日エントリで引用したディローは、NAIRUは労使間の力関係を前提として出てきた話なのに、ニューケインジアンなどの後代の経済学者たちはそれを忘れてしまった、と嘆いている。このように後の人たちが最初の人の考えの重要な部分を捨象した別の例としてディローは、アダム・スミスを挙げ、Oscar Valdes Viera表題の論文(原題は「The Neoclassicals’ Conundrum: If Adam Smith Is the Father of Economics, It Is a Bastard Child」)にリンクしている。以下はその要旨。

Neoclassical economists of the current era frequently pay lip service to Adam Smith’s theories to certify the validity of natural-laws-based, laissez-faire policies. However, neoclassical theories are fundamentally disconnected from Adam Smith’s notion of value, his understanding of the economic individual and their interactions in society, his methodology, and the field of study he afforded to political economy. Instead, early neoclassical economists parted ways with the theories of Adam Smith in an effort to construct economic laws that would validate the existing capitalist order as universal, natural, and harmonious.
(拙訳)
今日の新古典派経済学者は、自然法に基づいたレッセフェール政策の有効性を裏書きするために、アダム・スミスの理論にリップ・サービスを払う。しかし新古典派理論は、アダム・スミスの価値の概念、経済的個人ならびにそうした個人の社会における相互作用についてのスミスの理解、彼の方法論、彼が生み出した政治経済の研究分野から、根本において断絶している。むしろ初期の新古典派経済学者たちは、既存の資本主義の秩序を普遍的で自然で調和が取れたものとして正当化する経済学の法則を構築しようとして、アダム・スミスの理論と袂を分かったのである。


これを受けてディローは以下のように書いている。

Neoclassical economists ... led us away from Adam Smith’s insights that people are social beings motivated by more than mere egotistic self-interest. If economists had more accurately followed Smith rather than be misled by ideological motivations or mathematical elegance, they wouldn’t have needed to rediscover the importance of institutions and complex (pdf) motivations (pdf).
(拙訳)
新古典派経済学者は、・・・人々は単なる利己的な自己利益以上のものに動機付けられた社会的存在である、というアダム・スミスの洞察から我々を遠ざけてしまった。もし経済学者たちがイデオロギー的な動機や数学的な美しさによって道を誤らずに、スミスをもっと正確にフォローしていたならば、制度や複雑動機の重要性を再発見する必要はなかっただろう。


なお、スミスが誤解されているという話はもちろん目新しいものではなく、例えば以前ここここで紹介したGavin Kennedyはその点について精力的な活動を行っている。

このように先代の考えが捨象されてしまったもう一つの例としてディローは、ケインズが指摘した最重要ポイントとも言える未来に関する人々の知識の乏しさを捨象したIS-LMを挙げている。ただしディローは、精緻な理論がそうした捨象をもたらしたとしても、経済学における数学を彼は否定しているわけではない、と断っている(cf. 3日エントリ)。ただ歴史にもっと目を向けて車輪の再発明を避けよ、というのが彼の主張とのことである。