川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(3)

 「群像」十一月号に作者のインタヴューがあった。聞き手は武田将明である。
 私は『すべて真夜中の恋人たち』の主人公冬子を「たんにつまらない、何にも無い人」だと書いた。それがこの小説の要だと思ったのだ。川上未映子が語りだすのはまづこの点であり、自分の読みが正しかったようで、ちょっとうれしい。彼女は言う、通常の小説では、「美人であるとか、美人でなくても母であるとか、特殊な能力を持っているとか」、そんな「物語に登場するための条件が課せられている」。冬子のような「何にもひっかからない人は主役になれないんですね」。『すべて真夜中の恋人たち』を書いた動機のひとつとして、「物語を奪われ、また物語から奪われてきた、今まで語られなかった人たちを小説的に語る」ことを挙げている。それに合わせて武田が、冬子の職業が校閲者であることと関連させ、「そこに書かれている物語を読んではいけない」ということを心がけている点を指摘したのは、鋭いと思う。
 読売新聞のインタヴューでは、重要な主題として光について、未映子語っていた。これは私が見落としていた点である。問題は光と冬子との関連だ。これについても語ってくれている。「ある光のもとでしか見えないものが誰にでもあって、それがあることは強さにつながると思います。それは誰に説明できなくてもいいです」。つまり、「何にもひっかからない人」であっても、「ある光」によって照らされたものは、「そこにあった煌めきみたいなものは、もう誰のものでもなくどこかに残っている」。それが「生の肯定として届けばいいなと思いながらこの小説を書きました」。冬子の場合の光は恋愛である。一読して気になった、冬子のような人間が恋愛することの意味も、これでわかった。
 特に、「誰に説明できなくてもいいです」という点に注目したい。むしろこれは、「誰にも説明できないものです」の意味だろう。『ヘヴン』を読んで私は、川上未映子の本質に「私的感覚へのこだわり」がある、と述べた。それが『すべて真夜中の恋人たち』では光に現れていることがわかる。もちろん、恋愛は二人でするものであり、私的感覚だけでは語れない。光をめぐる、冬子の恋愛の語り合いにおける、すれちがいとかさなりがこの小説の一番の読みどころになる所以である。それはすでに軽く述べた。

小川洋子『人質の朗読会』

 南米を旅行中の日本人八人が人質になり、救出作戦が失敗して全員が爆死してしまった。こんな結末から始まる短編集である。さて、人質たちは監禁されている間に、各々の物語を語る朗読会を続けていた。それは盗聴され録音され、そして公開された。それを九本の短編小説に仕立てたものだ。
 小川洋子を読んでいて、「ひっそり」とか「慎ましく」「慎み深い」なんて言葉が出てきたら、そこは作者が自分の最も好ましい情景を描いている箇所だ。そして、本書に収録された短編すべてが、「ひっそり」とした場所で「慎ましく」とりおこなわれた行為について書かれている。また、『アンネの日記』への関心の強さからもうかがわれるように、彼女の作品には「閉じこもる」、あるいは「閉じ込められる」主人公がよく出てくる。強制されて閉じ込められる場合と、自発的に閉じこもる場合の、違いはあまり問題ではない。例として『密やかな結晶』と『猫を抱いて象と泳ぐ』だけ挙げておこう。江戸川乱歩のように胎内回帰願望をかなえた主題ではない。小川ワールドのそれには、閉じこもることによってひっそりと慎ましく生きたい、という理想が読み取れる。今回の「人質」という設定もふさわしい。つまり、小川洋子らしい一冊なのである。
 アマゾンのレビューに、「朗読の語り口調に、国境や年齢、性別の違いが反映されていない感じ」で、「1人の人間の作り話だ」という印象だった、と書いたものがあった。同感である。この一冊が小川洋子らしい色で統一されていることと、朗読者全員が小川洋子らしくなってしまったこととは、意味が同じだと思う。

「新潮」十一月号、柄谷行人「哲学の起源」(5)

第五章 イオニア没落後の思想(2)「3パルメニデス パルメニデスは「有るものは有る、有らぬものは有らぬ」で知られる。エレアのゼノンはその弟子で、アキレスと亀の逆説で知られる。柄谷行人はこの二人をワンセットで考えてパルメニデスを論じた。すると、まづ見えてくるのが、彼の政治性である。ピタゴラス的な観想とは無縁の思想家であった。「有らぬものは有らぬ」とは、仮象を超えた「有らぬもの」を観想することへの拒否と関連している。ピタゴラスに始まりプラトンに受け継がれてゆくことになる、「真の知は仮象を超えた世界に存する」という、いわば正統的な哲学をパルメニデスは退けた。
 パルメニデスは「有るものは一である」と述べた。これは物質が生成変化し運動することを否定したように聞こえる。実際は逆なのだ。ゼノンの逆説を想起しよう。これもよく解説されるような、運動を否定した屁理屈ではない。ピタゴラス派のように「時間や空間を無限に分割できる」と考えれば逆説に陥り、運動というものが不可能に思えてしまう、と述べているのだ。彼の逆説は、運動を可能とするような思考を要求しているのである。そこで、万物は分割できず、「有るものは一である」と考えられる。

 今(現在)は過去と未来の間にあると考えられる。しかし、それは今を事後的に見ることである。「今」というとき、すでにそれは過去である。真の今においては、未来や過去だけでなく、「今」さえもない。それが、パルメニデスのいう「一なる有」である。つまり、それは、運動や生成変化をその最中において見ることを意味する。

 ピタゴラスの始めた哲学は理性の仮象を生みだすことだ。それはゼノンの逆説に追い込まれる。あるいは、そのような逆説によってしか、ピタゴラスの始めた哲学を批判できない。柄谷の言いたいことは明瞭である。パルメニデスはカントの先駆なのだ。
 「4エレア派以後」 パルメニデスの「一なる有」が含意するのは「無からの生成を否定し、始原物質の不変性を前提すること」だ。エレア派はイオニア自然哲学を否定したのではなく、むしろ、取り戻そうとしている。エレア派のあと、それを受け継ごうとした者の課題は、一なる始原物質がいかにして多様なかたちをとりうるのか、だ。エンペドクレスの四元素「火、空気、水、土」がその最初の答である。続くアナクサゴラスは元素が無数の原子論を考えた。
 ところで、エンペドクレスは四元素よりも小さな元素を考えてはいた。にもかかわらず、原子論には進まなかった。四元素レベルの事象を原子レベルに還元して説明することはできないからである。これは、エンペドクレスが四元素によって社会や歴史を説明したことを考え合わせると、意味が深い。現代主流の社会科学のように個体レベルでの集合として社会を考えてはいけないことを、彼は知っていたことになるからだ。『世界史の構造』などで柄谷自身が述べてきた「四交換説」はエンペドクレスに近い。
 政治性を有し、ポリスに立脚した思想家は、エンペドクレスが最後になった。彼の後はアテネが帝国的な性格を強め、各地のポリスの自律性が弱まり、思想家たちは自由な移動において選んだポリスではなく、政治経済の中心地アテネで活動するようになる。そしてアテネで外国人は市民になれなかった。したがって、思想家たちは非ポリス的、非政治的になる。彼らの思想は、原子論的な個人主義か、ポリスの社会的関係を離れたコスモポリタニズムになる。
 感想。次回が最終回だという。最後はきっとソクラテスに違いない。前回ですでに述べたような、私が以前から指摘してきた柄谷思想の欠点が、克服されているとますます感じる。次の一節を引用しておく、「もともとイオニア系の思想家は、植民者の子孫であり、自らも移動したので、たんにそこに生まれたという理由から、一つのポリスにこだわることはなかった。彼らがこだわったのは、彼らが選んだポリスがその選択に値するものとしてあることだった。そのためなら、彼らはポリスに忠実であり、命を賭けてそれを守ろうとした」。彼がこれまで論じてきたことでは、神との契約や信仰、預言者として選ばれてしまうこと、などが関連するだろう。ポリスを選ぶとは、ポリスに選ばれる、という側面もあるはずで、そうでなければ、命を賭けるほどのポリスへの忠誠もありえない。この関連づけ自体は柄谷自身によっては書かれていない。

「新潮」十一月号、長谷川郁夫「吉田健一」(第一回)

 吉田健一はなかなか読み切れない。文章が読みづらくていけないのだ。たまに読むと10/03/14 に書いたように、私は感激する。長谷川郁夫が彼の評伝を「新潮」で連載し始めた。来年の生誕百年に合わせたのだろう。長谷川は小澤書店の社長だったから吉田と付き合いのあった人だ。せめてこれでも読んでおきたい。
 連載第一回は若い吉田が留学から帰って、青山二郎小林秀雄などを中心とする文学青年たちと知り合った頃を描いている。酒を飲んでは文学を語り、語るというより、議論を吹っ掛けて、相手が泣くまで罵り、泣いたらさらに罵り続けるという「青山学院」の様子を、参加者の回想によって再現している。井伏鱒二は、「おれはさんざん小林にからまれたのが忘れられない。死んでも忘れられないんだ」と言っている。中島健蔵は、「泣いちゃ負けだと思うもんだから一生懸命我慢したけど、時にはどうしても泣かなきゃいけないようなひどいいじめ方だったね」と言っている。
 大岡昇平中原中也などの中にいて、吉田はあまり目立たなかった。ありていにいえば、見込みの無いつまらない奴だった。吉田が「この人についていこう」と思ったのは河上徹太郎だった。文壇政略的な攻撃性の強い小林よりも、精神のはたらきに余裕の感じられる河上に好感を抱いた、と長谷川は述べている。河上も吉田に目をかけてやった。
 当時の読書として森鴎外に心酔していたことが書かれている。以下、本人の言によると、「現代の日本語を用ゐて達しうる完璧さ」を示されたとのこと。鴎外を薦めたのは河上だった。また、ヴァレリイを読んて受けた影響を「生涯を通しての決定的なものだつたかも知れない」と述べている。ヴァレリイが「厳密」であり「正確」であるとはよく言われたことで、吉田が関心を持ったのは、「その厳密や正確を目指してこれを実現した人間がどのやうな形で所謂、普通の人間と少しも違はないものか」であった。
 彼の天津やケンブリッジでの経験についても、もちろん長谷川は書いている。ほか、私が驚いたのは吉田の記憶力だ。古典をよく諳んじ、また、外国語をさらさらと習得してしまう。この連載の第二回は二月号である。待ち遠しい。

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(2)

 一九日の「読売新聞」夕刊に川上未映子のインタヴューが載った。『すべて真夜中の恋人たち』について、こんな質問を受けている、「今作では「光」が重要なモチーフになっていますね」。未映子の答えはこうだ。

 見えるものと見えないもの、今あるけれどいずれはなくなってしまうもの、そういったことがいつも気になるんですよね。(改行)それは私たちの生そのものに対する驚きと問いみたいなもの。光というもの一つにしても、その都度その都度では分かるんだけれども、正体が何であるかまだ分からない。命もそうですよね。(改行)でも確実に私たちはそれを毎日体験していて。私にとって、人生を思ったり考えたりするときの本質的なものだと感じるから、気になるんだと思います。

 主人公と男性は光について語り合う。それは命や人生について語り合うようなものだったのだろうか。そんな感じはあった。ただし、男性が主人公に教えてくれる光の話は、物理学の対象としての光である。主人公の語り合いたい光とは異なる気がする。男性は、「おなじ光について話していると思いますよ」と言う。実際はたぶん違う。主人公は自分に無縁の話を受け止めようとして、本当はどうでもいい本を無理して読み、自分の望む光をつかめずにいる。われわれが命や人生について知りたいと思い、どうでもいい哲学書を読んで途方にくれてしまうのと同様に。
 二人の光が重なるように思えるのはショパンの子守唄を介したときだ。この曲が「まるで光のイメージなんです」と男性は言う。このCDの「ジャケットには濃紺を背にしてまだ幼さの残る男性がピアノを弾いている写真が使われていた」。その一曲目が子守唄なのだ。辻井伸行『debut』に違いない。主人公は子守唄ばかり何度も延々と繰り返し聴く。一九日のインタヴューで川上未映子は『debut』についてこう言っている。

 真夜中に満ちている光を音に置き換えることができたなら、きっとこんな風に鳴るんだろうなと思わせてくれる、とても美しい旋律。今回の小説を書きながら、気づけば3000回以上、聴いていました。

 目の見えない奏者の音楽に「真夜中に満ちている光」を感じている。アマゾンで『debut』を検索したら、子守唄の動画を見ることができた。主人公は、「そのメロディにはほんとうに光の感触がみちていて、何かをやさしく指さすように、何かをそっと導くように、ひとつひとつの音が目を閉じればやってくる淡い闇のなかを瞬くのがみえるようだった」と思う。そして、「その音楽が鳴っているかぎり、わたしは何もおそれることなく、どこまでもすすんでいくことができた」とも思う。命に、人生に触れる、とはこういうことなのだろう。このかわいい音楽自体は力強く励ますものではない。

「文芸」夏号、中村文則「王国」、「群像」5月号、伊坂幸太郎「PK」

 文学がキャッチコピーみたいになってる。問題を提出するのが文学の仕事だろう。なのに、「人生を三〇字以内でまとめよ」みたいな模範解答でオチをつけようとする。そんなオチ無しでも作品は仕上がったのではないか、と思う。解答を据えないと気の済まない作家の強迫心理の問題ではなかろうか。
 「文芸」夏号の中村文則「王国」に『掏摸(スリ)』の木崎が出てきた。最強の悪というキャラはそのままだ。人生に飽き飽きしているのもそのまま。そして今回は、自分の作ったシナリオ通りの人生を主人公に歩ませようとする。これは『悪と仮面のルール』の父親みたいだ。木崎の最強っぷりは、あらゆる登場人物の行動を読み切れる、全知の神のようなメタレベルに居ることで描かれる。そのような位置に立つことで木崎は自信を得る。これまで述べてきた、宇野常寛佐藤友哉にも共通する志向だ。木崎のように、簡単に人生わかりきってるよ、という感じで語る登場人物はとても多い。
 主人公は木崎の弱点を突くような一言を言う。木崎は人生に退屈している。だから、どんな相手に連戦連勝しようと、「何かを達成したとしても、あなたは虚しさを感じるだけでしょう」。ところが木崎の余裕は変わらず、笑って言う、「その時は、虚しさを楽しめばいいだろう。……それがこの世界の答だ」。自分の虚しさのさらにメタレベルに昇ろうとするあたり、木崎の言いそうなことではある。しかし、本当に自分の虚しさを自分で楽しむことはできるだろうか。そんなキャッチコピーみたいなセリフがあるだけで、そんな姿は無く、つまり説得力が無いのである。「群像」六月号「創作合評」で島田雅彦が「作品を蠱惑的なディテールで埋めてゆくのがつらくなって、適当にアフォリズムで逃げた」と述べているのが、このセリフについてだとすれば、私も同感だ。
 「群像」五月号の伊坂幸太郎「PK」もキャッチコピーで決めている。結末に驚いた。唖然とした。滅多に無いことである。主人公は決断を迫られている大臣で、この彼を最後に応援するのがキャッチコピーだ。この薄っぺらなキャッチコピーが残念だったのである。「がんばろう東北」という掛け声だけで、東日本大震災の難局を乗り切ってしまおうとするのと同じで、問題が軽く見えてしまう。伊坂は同じ雑誌の七月号にも同工異曲の「超人」を発表している。「PK」より出来が悪いからネタバレしても罪にはなるまい。そこで大臣を応援するキャッチコピーは「間違いは、それを正すのを拒むまで間違いとならない」である。こんな一言だけで悩みにオチがついてしまうと、たいした悩みぢゃなかったんだなあ、と思われてしまう。「PK」の場合、結末を作る技術に感心するだけになり、主人公には軽さしか感じない。他に書きようがあったろうに、もったいない作品だった。
 もちろん、「問題を提出するのが文学の仕事だ」というのもキャッチコピーである。

「新潮」10月号、柄谷行人「哲学の起源」(4)

第五章 イオニア没落後の思想 イオニアのイソノミアはリディアやペルシアの支配を受ける以前に崩れていた。イソノミアの維持は難しい。むしろイソノミアは失われた後に見出されるほどのものである。イソノミアを回復しようとする思想は、維持の難しさや崩壊に直面しているだけに単純でなく、思想家の置かれた状況を考えないと、イソノミアに反するようにさえ見える。
「1ピタゴラス イオニアでイソノミア(無支配)を回復しようとしたピタゴラスは、しかし、デモクラシー(多数者支配)の手法を採らざるをえず、それは結局、僭主を生んでしまうことにつながった。ピタゴラスイオニアを去り南イタリアで教団を組織し、イソノミアの回復運動を展開した。彼の教団は非政治的な瞑想者の集団のように見なされることが多いが、実際は社会改革をめざす結社だった。最終的には弾圧されてしまったが、国家にとってそれほど危険な集団であった。
 ピタゴラスの提唱した観想は、肉体感覚による知は仮象にすぎず、真の知は仮象を超えた世界に存する、という立場にある。このような真なる世界と仮象を分ける二重世界論によって、ピタゴラスは「最初の哲学者」と呼ばれる。彼の教団が研究した数も音楽も自然界を超えた世界に成立する。しかし、二重世界論は、イソノミアよりも、イソノミアが廃した祭司階級の考えそうなことであり、数も音楽もイオニアの自然哲学とは異なる性格を帯びている。ここに彼のイソノミアの単純でない面がある。

 ピタゴラスがそのように考えるようになったのは、イオニアの経験からである。彼がなそうとしたのは、すでにイソノミアが崩壊していた社会に、イソノミアを回復することであった。が、彼が見た民衆は、かつての独立不羈の市民とは違っていた。むしろ、すすんで僭主に服従するような人たちであった。そして、僭主となった彼の友人も、すでにイソノミアの精神をもたなくなっていた。この経験がピタゴラスを変えたのである。

 ピタゴラスは、仮象に惑わされる衆愚ではない、真なる世界を認識できる少数者による政治を求めた。「イソノミアを実現するためには、デモクラシーではなく、哲学者による統治が必要だと考えたのである」。つまり、プラトンは確実にピタゴラスの影響を受けている。
「2ヘラクレイトス イオニアを離れたピタゴラスに対して、居残ったのがヘラクレイトスであった。そして、戦わずしてペルシアに隷属したイオニア人を罵り続けた。戦わずして外国の支配を受けるようではイソノミアは存在できない。ヘラクレイトスが戦争を肯定し、万物の始原として火を挙げたのは、イソノミアを守る闘争が失われた時代に生きたからである。二重世界を否定したという点でも、ヘラクレイトスピタゴラスと対照的だ。ヘラクレイトスは万物が一であることを認めていた。つまり、プラトンイデア説につながるような世界が、自然界を超えたところに存在するとは考えなかった。
 ヘラクレイトスイオニアのポリスにとどまったというのはイソノミアに反するように見える。いつでも移動して共同体から離脱できることがイソノミアには必要だからだ。しかし、彼はポリスを断念せず、ポリスにおいてイソノミアを要求し続けることの意味を知っていた。「イソノミアは小さなポリスにおいて可能である」のだ。これは、死刑の宣告を受けてもアテネを離れなかったソクラテスを思わせる。
 感想 共同体が気に食わなければいつでも抜けてしまえばいい、というのが柄谷行人の言い草である。そこに彼の思想の問題点がある、と私は考えていた。しかし、今回の柄谷は、気に食わなくてもポリスに残る人間を高く評価したのである。私は、こういう、イソノミアに反するような思想家が実はイソノミアの回復に努力していた、という逆説を論じる柄谷が好きである。「内部」をつきつめたゲーデルこそが実は「外部」を志向していた、というような。