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ばらいろのウェブログ(その2) このページをアンテナに追加 RSSフィード

フツウを求めない、
ワタシの、ボクの、
バラ色の人生を創り出すために!

2015-04-11

選挙権がある人は、明日の選挙で必ず投票しよう!自民・公明・維新・京都党の議員を、一人でも落選させよう!原発の再稼働を止めさせよう!



 安倍内閣は、原発の再稼働をすすめ、集団的自衛権など戦争のできる国家を作ろうとしています。沖縄の民意を無視して辺野古での新基地建設を強行し、教科書の記述内容まで介入しています。国会では、一生派遣で働かせられかねない派遣法の改悪や、残業代ゼロ法案まで提案される事態です。従軍慰安婦や侵略戦争の加害性を認めないその歴史修正主義は、既に明確な極右政策です。報道機関に対する圧力も問題となっています。

 今度の選挙では、安倍内閣や政権与党自民党公明党)に対して明確に「不支持」の表明をすること、つまり自公(や維新)の議員を一人でも落選させることがとても重要だと思います。


大切なのは自公以外の候補者が当選し、自公などが落選すること

 棄権や無効票(白票など)では、ダメージを与えられません。

 そもそも今の自民党は、全有権者数から見るとたったの17%(比例代表)から25%(小選挙区)の得票しか得ていません。しかし衆議院自民党は単独で291議席を獲得し、安倍内閣が発足しました*1。棄権や無効票自民党の得票数の倍以上あり、最も「得票率」が高かった集団は「棄権や無効票」だったのですが、それは、安倍内閣や自民党へのブレーキには全くなりませんでした。

 大切なのは、例えば、明確に原発の再稼働に反対している議員が増えることです。安倍政権を許さないと公言する議員を一人でも増やすことです。沖縄の人々の声を聞かないフリするのをやめて、京都の地から「沖縄に米軍基地を押しつけるべきでない」と明言する議員を増やすことです。



私が全面的に支持できる候補者はいない

 実は正直に言うと、私の京都市左京区の選挙区には、私が心から、全面的に支持できる候補者はいません。

 もし私自身が立候補したら、まず最初に言うべきは、今の選挙制度の欺瞞性だと思っています。現在の選挙は日本国籍を持っている人にしか選挙権がなく、在日朝鮮人などから参政権を剥奪した「制限選挙」でしかありません。京都で生まれ京都で育ち共に京都で生きている人たちの一部分にしか参政権を認めないような差別が国籍を口実にして行われていること。所詮「日本国民祭」でしかない選挙であることへの批判的言及を明示的に行っている候補者に、私はまだ会ったことがありません。これでは、仮に候補者本人に悪意はなかったとしても、選挙それ自体が「在日朝鮮人らへの嫌がらせイベント」になってしまっています。

 また、今回の立候補者選挙公報を見る限り沖縄や辺野古への言及も皆無です。人口で日本全体の0.6%でしかない沖縄に米軍専用施設の74%を押しつけている現状と、その沖縄に更に新しい米軍基地を作ろうとしているのは、ヤマト(本土)に住む私たちです。また地方自治という観点から見ても、沖縄県や名護市といった特定の地方自治体に対して、選挙で示された民意をあえて無視して、日本政府が国策として基地を押しつけている現実は、地方自治の侵害です。(加えて、市長も知事も明確に反対している基地を押しつけるという地方自治侵害行為が、果たして沖縄以外のどこであり得るのでしょう。その意味でも、日本政府による沖縄差別があると言えます。)そしてそのような日本政府のあり方に危機感を持ち、意見書を送った愛知県岩倉市や長野県白馬村を、京都市会も府会も見習うべきではないでしょうか。

 その他、どの候補も「男女という制度」それ自体を問い直すような姿勢があると感じたことがありません。むしろ逆に、男性性や女性性の強調や異性愛規範がコミュニティーの基盤となっている文化に立脚しているように思えます。

 など、私の個人的な意見を率直に言うなら、どの候補も私が全面的に支持できる候補者ではありません。



棄権ではなく次善の候補に投票して欲しい

 にもかかわらず、今回私は、市会候補の広海ロクローへの投票を呼びかける「選挙ハガキ」というものを書きました。「選挙ハガキ」を書いたのは、人生で初めてのことでした。被爆を避ける取り組みを続けてきた候補であることと、既存政党からの候補者ではないことが主たる理由です。私は広海ロクロー候補に投票しますが、市会の左京選挙区候補者が多く、他の選択をする人もいるでしょう。ぜひ、自民・公明維新京都党以外の候補者に、投票をお願いします。

 【資料】京都市議会議員一般選挙 候補者情報


 また、府会では共産党のみつなが敦彦候補に投票する予定です。私は共産党は嫌いで支持はしませんが、それでも、原発の再稼働に反対だと選挙公報で明記しているのは、府会の左京区選挙区ではみつなが候補だけです。ちなみに原発といえば福島という訳ではなく、近々再稼働が目論まれているのが関西電力高浜原発だということを忘れてはいけないと思います。


 以上は私の住む左京区での話ですが、他の選挙区に住まれる方も、ぜひ誰かに投票に行って下さい。全面的に支持できる候補者がいることはまずないとは思いますが、次善の候補、よりマシな候補、消去法で残った候補でいいので、棄権ではなく投票して欲しいのです。自民党公明党維新京都党候補者を落選させるためには、棄権や無効票では何の効力もなく、他の候補者を当選させるしかないのが、選挙なのです。




参考資料

●京都府会・京都市会選挙 立候補予定者へのアンケート

京都市会に「慰安婦」意見書を求める会・女性国際戦犯法廷ハーグ判決を実現する会・アムネスティ・インターナショナル日本)

維新の会の畑本候補が、軍隊で「慰安婦は必要だった」とする橋下大阪市長の発言に対して「どちらかと言えば支持する」を選択しているのが目立つ。必ず落選させたい。)


「高浜原発3・4号機再稼働」についての公開質問状(京都市左京区・府・市議候補)

*1:先の衆議院選挙は投票率がたったの53%。そしてその実際の投票者のうちの33%(比例代表)48%(小選挙区)しか、自民党に投票していません。つまり有権者のうちの17%から25%の得票しかないのです

2014-10-15

「わたしはレズビアンだ」から「女性が好きな女性なのに『わたしはレズビアンだ』と名乗れないのは本人にプライド(誇り)が足りないからだ」までの距離


 百合魔王オッシー @herfinalchapter さんが、関西クィア映画祭公開質問状を出したみたいです。

その質問状の内容ですが、部分的に「それは言い過ぎ」な点を含んでいるものの、中心となる批判点は適切な批判だと思いました。(ただし公開質問状(2)では、かなり妄想全開な様子です(>_<))


 関西クィア映画祭のこれまでの取り組みの歴史や今年の実行委員メンバーについての背景情報がない場合には、つまり普通にネットで文章を読む人の立場から見たら、現在の映画祭ウェブサイトの記述では批判を受けるのもやむを得ない内容だ、と私も思います。


 映画祭サイトでは「私たちの周りにあふれる枠」の例として、「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」が挙げられています。これらはいずれも、フェミニズムやセクマイ系の社会運動から、性に関わる差別や偏見の例として、ずっと批判を受け続けてきた/いる考え方です。百合魔王オッシーさんもこれらについて「明確な性差別思想」と書いていますが、私もそう思います。

 そしてその列記の中に「わたしはレズビアンだ」が入っているのを読むと、まるで「レズビアンとしてのアイデンティティー(自認)を持つことそれ自体が問題だ」「誰であってもレズビアンというアイデンティティーを持つべきではない」と映画祭が主張しているように、読めます。『レズビアンは…男性(異性)を愛する可能性に“開かれる”ようつねに社会的・政治的圧力を受けて』いるのは事実ですし、百合魔王オッシーさんのように『そのような社会的・政治的圧力を可視化するために「レズビアン」という概念が存在する』という主張にも一定の妥当性があります。

 私自身の経験を思い出しても、私の目の前で「バイセクシュアルなんて存在しない」と堂々と言い放ったゲイ活動家のことを思い出します。そのような攻撃に抵抗するためには、時に、「バイセクシュアル」などのアイデンティティー語を使わざるを得ない場合というのは、実際にあります。

 もし本当に映画祭が「わたしはレズビアンだ」と誰かが言うことそれ自体が問題だと考えているのであれば、つまり「それが誰であれ、レズビアンとしてのアイデンティティーを持つことそれ自体が問題だ」と考えていたり主張するのであれば、それはレズビアンへの抑圧そのものであり、私は支持しません。


 ですので、もし本当に上記のような主張をすることを目的として現在のサイトの記述をしているのであれば記述を変える必要はありませんが、そうでないのであれば、もっと正確に意図が伝わるように直した方がいいと思います。「私たちの周りにあふれる枠」の例としてあげるのなら、「わたしはレズビアンだ」を挙げるのではなく、例えば「女性を好きな女性は皆、レズビアンだ」「女性が好きな女性なのに『わたしはレズビアンだ』と名乗れないのは本人にプライド(誇り)が足りないからだ」等を挙げれば、つまりもっと丁寧に言いたいことを記述すれば、言いたいことがより正確に伝わるのではないかと(勝手な推測も込みですが)思いました。


 百合魔王オッシーさんも知っている通り、レズビアンに限らず何らかのアイデンティティー語を掲げた社会運動のあり方や考え方(アイデンティティー・ポリティクス)についての批判も、既にたくさんなされています。私自身はゲイコミュニティーやゲイの権利を主張する社会運動の中で、「男性が好きな男性なのに『自分はゲイだ』と名乗れないのは本人にプライド(誇り)が足りないからだ」等といった主張を本当に聞いたことがあります(それどころか、「ひびのはゲイなのにそれを認めて受け入れることが出来ずにバイセクシュアルと名乗っている情けない奴だ、みたいに陰で中傷された事さえあるw)。強制異性愛社会に抵抗するという目的自体は全く正しいのですが、そういった政治的目的の正当性を背景にして、個々人に特定のアイデンティティーを持つよう強いたり圧力をかけたり、そしてまた逆に(今回の記述のように)特定のアイデンティティーを持つ事自体に反対したり、そういうのは本当にやめて欲しいです。これらはどちらも、「アイデンティティー・ポリティクス」による不当な暴力の一例です。


 言うまでもなく、これまで関西クィア映画祭では、アイデンティティー・ポリティクスの弊害や、セクマイ運動内部の差別や偏見を問題化するような映画も多数、上映してきました。例えば「アメリカのゲイ!」と言えば、シスジェンダーの白人健全者を想像してしまいがちですが、事実はそうではありません。同性婚を進めるキャンペーンのために「私たちのコミュニティー」の内部の多様性が不可視化されるような運動の進め方や運動内部の人種主義への批判を込めた映画『R/EVOLVE-結婚と平等とピンクマネー』などは好例でしょうか。民族とセクシュアリティーとが絡み合う現実を描いた特集『Queer Women of Color-有色女性のクィアたち』も充実したものでした。

 日本でも、企業行政大使館などによるセクマイ系のイベントへの支援も増えてきました。そんな中で、有名な活動家や地位と権力のあるひとの声ばかりが「LGBTの声」だと僭称されたり、米国政府イスラエル政府への批判が抑圧されたり、分かりやすく単純化された同性婚の話題がもてはやされる一方で「トランス貧困」問題が後回しにされたり、そして定番ですが「ゲイ男性の都合」だけがいつものように優遇されたり、そんな「少数派内部の多数派によるワガママ」が拡大する危惧もまた、ますます大きくなりつつあります。そんな状況の中で、関西クィア映画祭のような方向性を持つ企画の重要性は、増えることはあっても減ることはないでしょう。


 百合魔王オッシー @herfinalchapter さんのツイッターを拝見すると、あること無いこと好き放題書いていて、真面目に対応する必要などないのでは、とも実は思います。てか、そのうち自滅しそうな勢いw。しかし、まさに関西クィア映画祭2014は今週末。この時期に、「関西クィア映画祭の趣旨文を読んでみよう!」と様々な人に呼び掛けてまわってくれているのは、これほどありがたい広報はありません。「わたしはレズビアンだ」以外の部分の趣旨文や、今年実際に上映する予定の映画の案内などを見てもらえれば、ツイッターなどで映画祭の「悪口」を楽しんでいる人達のイケテなさと、関西クィア映画祭の魅力は、誰の目にも明かです。また、「実は『クィアな運動』の悪口を言いたいだけなのでは」とも感じられないことはない人からの意見に対してさえも誠実に対応している映画祭の姿を見せることが出来れば、それもまた、ますます映画祭への評価が高まる理由になるでしょう。ここはやはり、適切な内容の批判を寄せてくれたことことに感謝した上で、「アイデンティティー・ポリティクスに抵抗していたつもりが実は自分でもそれの悪い面をやってしまっていた、アイデンティティー・ポリティクスあなどりがたし」な事を認めて、記述の訂正をできるといいなぁ。一番忙しい時期に会議でどこまで出来るかという懸念はありますが、一応希望の表明。まぁ、返事は映画祭が終わってからになっても仕方ないような、そんなタイミングでの批判ではあったけれどもね。




以下蛇足

  • 百合魔王オッシーさんは今回GBTではなく「レズビアン」が例示されていることを【「レズビアン」の〈女性同性愛者〉としての政治的立場性の弱さに付け込んでいる】と書いちゃっているんだけど、今年ここで「レズビアン」が出ているのは、今年の実行委員会で実権を持っているのが、外から一般的に見たらまさに「レズビアン」とカテゴライズされるような(されてしまうような)人達だからなんだけどな…。今年の上映作品のラインナップを見れば、何よりも女子系作品の充実が目をひくはずだけど…。とはいえ、分からない人には分からなくて仕方ないし、その意味で批判自体は不当ではないけど、でもその意味では今年の実行委員かわいそうすぎ。
  • 今回初めてじっくりと今年の映画祭の趣旨文を読んでみて、特に【誰もが幸せに「好き」を味わえる挑戦をしてみませんか?】のあたり、これまでの映画祭でのトランスジェンダー関連の視点を特に重視するスタンスから、性愛関連の視点を重視する体制に変わったことがほのかに出てますね。ま、だから、いろいろその角度からの意見も内部でも出ているのよね。

2014-05-03

今日は憲法記念日。憲法を改正しよう!

なんと10年前に書いたテキストですが、改めて掲載します。

現憲法の24条の改定を検討する動きが当時自民党にあり、それに反対する運動もあって、24条を中心に書いています。が、憲法一般に対しての見方立ち方についての意見でもあります。

では、以下お読み下さい。


憲法を改正しよう!


第24条は、「結婚した男女二人」を中心とする典型的・古典的な家族のあり方だけをことさら奨励する抑圧的な条文です!

今イメージする「家族」という枠組みに収まるつもりのない人が、のびのびと安心して生活できる社会を創ろう!


 自民党・憲法改正プロジェクトチームが日本国憲法24条の「両性の平等」規定を見直すよう提案しています。このことに絡んで、日本の一定のフェミ業界では大きな危機感が抱かれ、「憲法の男女平等を守れ」と強く主張している人がいます。


 わたしは、「憲法を守れ」式の運動にもう飽き飽きしています。「自分たち」以外の誰かが「自分たち」の既得権を攻撃してくる、という図式の運動には、わたしは全く関心を失っています。

 わたしは改憲論者です。現行日本国憲法は、第九条を含め、アジアへの侵略戦争歴史から目をそらして国体=天皇制を維持するために作り出された不十分なものです。少なくとも、憲法の前文には、朝鮮併合とアジア各国への侵略の歴史を具体的に記述して、そしてアジア侵略の責任者であった天皇を処罰した上で天皇制を廃止し、侵略戦争の加害責任を果たすべきでした。第一章の天皇制の規定は全て削除して、君主制国家としての日本のあり方を共和制国家に変えるべきです。第九条も「国際紛争を解決する手段としては」「前項の目的を達するため」を削除して、自衛のために国家が軍隊を保持することを明確に禁じるべきです。もちろん自衛隊は即時解体、日米安保条約は破棄して米軍基地を全てなくすべきです。「第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める」との規定は改め、日本国籍を持たない旧植民地出身者とその子孫も日本国籍所有者と全く同等の(国政選挙の被選挙権を含む)政治的社会的な権利を持つようにするべきです。居住の事実のみに立脚して権利と義務を構成する、市民権型の制度を採用することを憲法上で明記するべきです。


 そしてもちろん、性別には「男・女」の二つしかない(両性の平等)ことを前提にし、しかも婚姻をその男女間のみに認めることを明記している第24条も、性別二元論に基づいているものであるので、改訂するべきです。「結婚した男女二人とその子どもで構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っているんであって、その間違い自体を残した上で「家族の中の男女平等」だけを主張されるとまるでお笑い番組を見ているような気になります。「大人になれば結婚する」ことを自明視する社会自体を変えるべきだし、結婚しないで暮らしている人が何の不自由なく生きることのできる社会をつくるべきです。「結婚した男女二人とその子どもで構成する家族」とは異なる形の「家族」や、そもそも「家族」という括りとは異なった「人々の支え合いのシステム」をつくるべく取り組むべきではないでしょうか。現憲法第24条は、決して守るべきものではなく、むしろ逆にその改正を主張していくことこそが「私たち」の仕事なのではないでしょうか。

(実態はよく知りませんが、例えば1996年に制定された南アフリカ共和国憲法では性的指向による差別を禁じるだけでなく、「marital status(婚姻の状態/配偶者の有無など)」を根拠とした差別をも明文で禁じています。 右ページ資料参照l )


 日本の左翼や社会運動は、長年、「憲法を守れ」式の既得権防衛的な内向きな発想に閉じこめられてきた、とわたしは感じています。「私たち」の生活の中の実感をもとに「よりよい」社会のあり方を考え、新しいあり方を社会の構成員に対して提案していく。多数派を説得するために出向いていく。自信を持った少数派として社会の多数派に対して立証責任を進んで負っていく。自己を少数派であると自覚した上で、多数派を説得するために策を練る。そういった外向きの行動スタイルが、「護憲」という発想には感じられないのです。一部の悪い人が「多数派の利益」を害する攻撃をしている、だから「私たちの利益」を守ろう、憲法を悪い人から守ろうーーこんな、既得権防衛的な運動に時々わたしは違和感を感じます。


 「現在の私たちの生活」は、守るべきものなのではなく、変わるべきもの、変えるべきものです。「現在の私たちの生活」を守るべきものだと感じるとすれば、それはその人が今の時点で特権を持っているということです。「憲法24条への攻撃は男女平等への攻撃だ」などという言説は、憲法24条はまるで守るべきものであるかのような認識を普及させます。「男女という制度」そのものに対する取り組みや、性別二元論を解体していくような取り組みをする必要はないと言っていることと結果として同じ効果を持ってしまいます。自民党が憲法第24条の改正を主張していることを口実に、「憲法を守れ」と主張する人は、第24条が自民党の言うように改正されなければ、今のままでいいとでも思っているのでしょうか。現状のままならいいのでしょうか。自分では、第24条をもっとよりよいものに変えるための運動をする気はないのでしょうか。


(このあたり、「男女という制度」それ自体を解体していく動きの契機を持っていた「ジェンダーフリー運動」が、それへの攻撃を右派から受ける中で、「男女の違い自体をなくしたいわけではない」と「言い訳」をせざるを得ない状況に追い込まれているのと似てはいます。でも、「憲法24条を守ろう」は、「言い訳」を越えてしまい、「男女という制度」を積極的に維持・再生産する機能をも持っているので、わたしには違和感は大きいです)


 もしそれでも「男女平等のために24条を守ろう」を言いたいあなた。もしあなたが第14条の平等規定では不十分だと考えるのなら、例えば明文で「女性差別をなくすことは政府の責務である」と明文化するような改憲を提案してはどうですか?一時代まえの「家族」を前提とした24条に絡めて男女平等を主張するというせこいことはやめて、正面から正々堂々と闘い続けようよ。例えば南アフリカ共和国の憲法では、第1章第1条で「 人種差別主義と性差別主義(女性差別)に反対すること」を国家の基本的な価値として明記しています。


 自民党の改憲試案に対する一部フェミ業界の反発に対して、わたしがなぜぴんと来ていないのか(と言うよりなぜ違和感があるか)についての説明でした。実際には、女性差別に反対しジェンダーフリーを進めてきた人たちこそが、「男女という制度」を総体として相対化しようとしていた先駆者であるし、また真っ先にクイア系の運動を支援してきたという面もあります。ですので、ことさら敵対したいわけではありませんが、せっかくなのでざっと思っていることを書いてみました。このあたり議論になるところかと思いますので、是非どこかでお話ししましょう。サイトでのコメント歓迎です。

 このテキストは、ひびのが2004年に「国際バイセクシュアリティ会議」に参加するにあたって、米国で講演ツアーを行ったことの報告として書かれたものを、一部改訂したものです。元は以下にあります。

【米国便り17】自民党の改憲試案


資料


●日本国憲法

第14条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。


自民党「憲法改正プロジェクトチームの論点整理(案 )」(2004/6/10)

各論>四 国民の権利及び義務>4 見直すべき規定

婚姻・家族における両性平等の規定(現憲法24条)は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。

 http://www.kenpoukaigi.gr.jp/seitoutou/20040610jiminkaikenPTronten2.htm


●STOP!憲法24条改悪キャンペーン

 http://blog.livedoor.jp/savearticle24/


●南アフリカ共和国憲法(1996年5月8日)

第1章 基本的な条項  南アフリカ共和国

1.南アフリカ共和国は、以下のような価値に基づく、民主的な1つの主権国家である。

  (a)人間の尊厳、平等の達成、人間の権利と自由の前進

  (b) 人種差別主義と性差別主義に反対すること (以下略)

第2章 権利の章典  平等

9.(3) 国家機関は、以下の1つ又はそれ以上を理由として、いかなる人に対しても、直接的に又は間接的に、不当に差別してはならない。

人種、ジェンダー(社会的性別)、セックス(生物学的性別)、妊娠、配偶者の有無(結婚の状態)、民族的又は社会的な生まれ、肌の色、性的指向、年齢、障害があること、宗教、良心、信念、文化、言語、家柄。




セックス・恋愛・結婚・家族に関する、解体するべき神話の例

  • 世の中には男と女がいる。男女はそれぞれ別のもので、区別出来る。

(←「男/女」の分割線は社会的・文化的につくられた恣意的なもの。ある人たちが「女性」のラベルを貼られるのは、その人たちを差別することが主たる目的。男/女の厳密な区別は不可能)

  • 人は恋愛やセックスに興味があるし、大人になれば必ず結婚する。

(←性愛強制社会は迷惑。恋愛やセックスはしたい人だけがすればいい。まして結婚なんて、そういう趣味の無い人に押しつけるのは迷惑千万)

  • 相手が男か女かということは、恋愛やセックスに大きく関係ある。

(←そういう人もいるが、恋愛やセックスの対象選択において、相手の性別が重要でない人もいる。それは人による)

  • 年頃になれば、異性のことが気になる。

(←強制異性愛は迷惑。さらに、性愛強制も迷惑。異性を好きになる趣味の人も、セックスに関心の無い人もいる。それらは対等)

  • たった一人の連れあいを見つけて家族を持つことが幸せに繋がる。

(←1対1の対関係/モノガミーを望む人もいるが、そういう生き方を皆が望んでいるのではない。1対1の相互独占的/排他的な対関係ではない恋愛やセックスのあり方、「家族」という枠組みとは異なる形で助け合う人々の支え合いのシステムだってある。「家族」という形態はたくさんの選択肢の中に一つに過ぎず、それを特別扱いするのは間違い)


  • ちなみにひびのは、相互独占的/排他的ではない恋愛やセックスが好きです!


編集・発行・著作

ひびの まこと

http://barairo.net/

hip@barairo.net

携帯(AU) 090-1156-3039

2004年10月30日発行



2013-12-06

「国民!国民!」って言わないで!


 いま現在も、国会の周りでは秘密保護法案の廃案を求める抗議活動が続けられています。国会の中の議員の数では、自民党が圧倒的多数で、可決しようと思えば何でもすぐ可決できる状況なのに、現在まで可決させないで今日までくることができました。これはひとえに、国会の外で、全国各地で、様々な人達が法案反対の声をあげ続けたおかげです。もし時間と体力がある方は、今も抗議行動が続く国会前に!

 京都では、一昨日昨日と大規模なデモが呼びかけられ、それぞれ平日の夜にも関わらず1000人以上の参加がありました。その昨日のデモの直前にもたれた京都市役所前の集会で、主催者の方にお願いして、少しだけアピールをさせてもらいました。それは「国民という言葉を使わないで!」というお願いでした。昨日は時間も短くて、ひびの的には今ひとつ上手く言えなかったので、昨日言いたかったことを、改めてここに書いてみます。まさに今も続く抗議活動をしてくれている人達にも届きますように!




 初めましての方も多いと思いますが、京都で活動しているひびのといいます。ずっと、ジェンダーやセクシュアリティー、性的マイノリティー、今はLGBTという言葉が流行っていますが、性の多様性や性的マイノリティーの権利のための運動をしてきました。少数派も尊重される社会、マイノリティーの権利の運動をしてきました。

 今日は、秘密保護法案にいてもたっても居られなくなり、反対の声をあげたくて、デモに参加することにしました

 実は私から、今日のデモに参加される皆さんに、お願いがあって、発言の時間を頂きました。

 秘密保護法に反対するチラシやシュプレヒコール・発言などにおいて、しばしば「私たち国民の声を無視するな」「国民の声を聞け」「たくさんの国民が反対しているぞ」などと「国民、国民、国民!コクミン!…」と、しばしば「国民」という言葉が使われます。でも、思い出してください。秘密保護法案に反対して集まっているいまこの場にも、日本国民ではない人が居ます。日本国民だけではなく、たくさんの国民ではない市民が、秘密保護法案に反対の声をあげ、デモにも参加しています。

 もしかしてご存じない方も居られるかも知れませんの念のために言うと、日本国籍がない人は国民ではありません。実際に、日本国籍がないこと、つまり国民ではないことを理由として、国民ではない人は日本社会で権利を不当に制限されています。私と同じように日本で生まれ日本で育ち、加えて日本語でモノを考えて日本語で暮らしていたとしてさえ、親が日本国籍を持っていなかったために、選挙権もなく公務員にすらなれない人達が居ます。

 その中でも特に、植民地支配に起源を持つ在日朝鮮人の人権が、まさに今の安倍政権によって、特に狙い撃ちのように攻撃されているのは、朝鮮学校だけを高校無償化から排除していることからも明らかです。

 「国民」っていう言葉は、「やつら」の言葉です。国民と国民ではない人の間に線を引いて、差別や人権侵害をする、そのための言葉が「国民」なんです。

 私たちはずっとこう言ってきました。「この教室にも1人か2人は、性的マイノリティーがいる」「どの職場や学校にも、どの集会やデモにも、カムアウトしていないだけで、性的マイノリティーが居る」。いるのに、居ないことにされるのは、とてもつらいことです。少数派だからと言って、いつもいつも無視されるのはごめんです!

 秘密保護法案の審議の進め方は、あまりに分かりやすいくらい、少数派を無視し蔑ろにするものでした。多数派だったら何をしてもいいのか!という怒りを、私は強く覚えました。

 繰り返しますが、今この場にも、デモや抗議の場にも、国民ではない人が居ます。たくさんの国民ではない人たちが、秘密保護法案に反対の声をあげています。

 私は、「私たち」の中に分断をつくりたくない。私は、「私たち」の一部の人を無視するような運動は嫌です。私は、「私たち」の一部の人に対する無視攻撃に知らんフリをしたくない。私自身は、たまたま日本国籍を持つ日本人で国民ですが、そういう私こそがこうやって声あげ、国民ではない人を排除するような言い方に反対していかなければいけないと思って、いま発言しています。

 「国民」は、代わりに「人々」「市民」「民衆」などで置き換えられる場合がほとんどです。この程度のことは、今すぐ、私たち1人1人の努力でできることです。

 少数派を無視して強行採決する安倍政権自民党、国民ではない人達を差別する安倍政権自民党、そういった「やつら」に正面から反対するためにこそ、ぜひ、一度考えてみてください。少数派が差別されない、少数派が無視されない、そんな社会をみんなで創っていきましょう!

 ありがとうございました。




 実はこのアピールは、発言後、とてもとても大きな拍手で迎えられました。また、デモの前後には何人にも「私もそう思っていた」「よかった」と言われ、また見知らぬデモ参加者にも「私は在日3世ですが、始めの発言、ありがとう」とさえ言われました。実は「国民」に違和感を持っている人は、既に一定数いるんです。

 「『国民』はやめよう」ということは、私自身でもずいぶん前から言い続けています(1999年の例)(松浦大悟参議院議員の例・2010年)。「国民」と書かれている署名とかする時には、いつも時間をとって、「この『国民』という言葉はよくないので改めてくれ」と、何度も何度も話してきました。2013年の今になってさえ、いまだにこのことを言い続けないといけないこの現実こそ、日本社会が日本人中心主義のレイシズム社会、民族差別社会であることの意味です。この状況は、必ず変えないといけません。

 これも昨夜言い続けたことですが、「あなた自身で、あなた自身の言葉で、『国民』に反対して!あなたが自分で言って!」。特に日本人や日本国民のアナタには、何度でもそう言いたいです。発言する人が増えない限り変わらないし、この件については、ある程度の数の人が言い出したら、確実に流れが変わるからです。

2013-11-03

同性カップルを含む全て人への差別に反対するためにこそ、私は「同性婚を含む結婚制度に反対」 と主張します


 今年の関パレ(関西レインボーパレード)&フェスタで、「日本人中心主義と同性婚の問題点を考える会(仮称)」名義でブースを出して、以下のチラシを配布しました。遅くなりましたが、こちらにも掲載します!




同性カップルを含む全て人への差別に反対するためにこそ、私は「同性婚を含む結婚制度に反対」 と主張します

日本人中心主義と同性婚の問題点を考える会(仮称)

hip【あっとまーく】barairo.net 090-1156-3039 ひびの まこと

ブース出してます!意見交換したいです!


 「私たち」の運動は、これまで性やライフスタイルの多様性を社会に訴えてきました。今の社会では、異性同士の性愛を選んでいる人たち、異性同士で同居し、支え合い、セックスし、暮らしている人が多数派であるのは事実。でも、なぜそういう生き方をする人たちだけを想定して社会を作るのか。異性関係のみを優遇する社会制度、異性関係を教え込む教育やメディア、つまり異性愛中心主義の社会制度文化に対して、異議申し立てをして来ました。ポイントは「仮にそれが社会の多数派の生き方であっても、特定の生き方(例えば異性愛)を優遇したり推奨したりすべきではない」つまり「仮に社会の多数派が望んでも、社会全体で目指すような『望ましい生き方』を設定するな」「多数派による社会の私物化を許さない」ということです。多数派の都合に基づいて多数派のために制度文化を作るべきではなく、出来る限り、多数派であっても少数派であっても対等に扱われる社会、多数派に同化しなくても少数派が少数派のママで生きられる社会を、私たちは目指すべきではないでしょうか。


 これと同じ理由で、私は、結婚制度(同性婚を含む)にも、反対です。

 もし「結婚する事」によって、社会生活を送る上で何らかのメリットを手に入れる事が出来るのであれば、それは結婚に人を誘導し、結婚を推奨し、場合によっては人に結婚を強いる社会的な圧力にもなります。そしてそれでも結婚しない人には「なぜ結婚しないの」「結婚しないのなら仕方ないね、自業自得」と、不利益が押し付けられます。

 今の社会では「結婚する」というライフスタイルを選択したい人が多数派であるのは事実でしょう。でもなぜ結婚したい人の都合ばかり優先するのでしょうか。同性同士の性愛を大切にしながら生きている人にも、結婚をしたい人もいますが、結婚したくない人もいます。一人の人と恋をして付き合ってセックスして同居して結婚するーそれが幸せな人生。こういうライフスタイルをしたい人はすればいいですが、このようなライフスタイルが、ただ単にそう望む人が多いというだけのことに留まらず、「当たり前」「お祝いするおが当然」だと扱われている現状、そしてその認識を前提に社会制度が作られている現状には、我慢ができません。

 結婚することによって得られるメリットとは何でしょう。例えば、遺産や保険金を受け取る権利、刑務所での面会権、配偶者ビザの取得などのことでしょうか。ではこれらの権利は、「結婚した人だけ」が得られればいいものでしょうか。逆にいうと、結婚をしない人にはこれらの権利は認められなくてもいいのでしょうか。現在の日本では、結婚制度は、人であれば当然だれでも行使できるべきこういった権利を、「結婚した人」にだけ制限する(制限しようとする)たぐいの、そもそもが差別的な制度です。

 【結婚特権:結婚したら権利をあげるよ】というのが現在の結婚制度です。その特権を享受する資格が異性間に限られているのはひどい、同性同士でも「結婚する人」が結婚特権を享受できるようにしてほしい!そんな、特権を要求するたぐいの運動は、果たして本当に「全ての人」の平等を目指す運動たり得るのでしょうか。もし同性婚の目的が異性愛特権の廃止であるのなら、ぜひ一度、結婚制度の廃止(反婚)や、結婚制度に代わるしくみ(私的関係を個々人が自由にアレンジして契約できる仕組み)の可能性を、真面目に考えてもらえないでしょうか。同性婚に賛成の人に考えてほしい1番の点は、この点です。

 実は、結婚特権との闘いは既にあります。結婚していない夫婦の子供が相続時に差別される婚外子差別裁判は、つい先日最高裁で違憲判決が出たばかりです。また結婚しない異性カップルの地道な取り組みがあったからこそ、住民票にさえ記載されるくらい、内縁関係が広範囲な法的な保護を受けるに至っています。パートナーシップを保護する、同性関係の権利を獲得するという時の道筋は、同性婚以外にもたくさんあります。


 実は結婚にはいろんな側面があります。上に書いたような社会制度としての結婚結婚特権)以外にも、パートナー関係のあり方としての結婚もあります(「付き合う」「恋人」とかと同様の私人間の約束の名称)。でもこれは、例えばディズニーランドで結婚式をあげた同性カップルがいたように、(異性関係のようにどこでも自在にという訳にはいきませんが)今でも性別を問わず自由にできます。この意味では「同性婚は今すぐ可能」ですし、結婚したい人はじゃんじゃんしてください。他人の人生のことなので、私は特に反対とかしません。でも、結婚をお祝いするおが当たり前であるかのような言い方は、止めてください。


 同性婚を求める意見には、最初の「私も結婚特権がほしい」という主張とは別に、もう一つ文脈があるように思います。特に、結婚するとどういうメリット/デメリットが有るかを丁寧に検討したことがないのに、同性婚を認めてほしい、と思っている人に多いと思うのが「とにかく何でもいいので、同性同士の性愛のあり方を『公的な形で』認めてほしい」というものです。「性同一性障害者の性別変更の特例法」が成立してから一気に性同一性障害(GID)の社会的認知が拡大した歴史を知っていれば、とにかく一度、法律などで、同性関係を公的に認めてほしいと思うのはあり得ることですし、一定の説得力があります。

 でも考えてみてください。それは同性婚という手段でしか実現できないものですか。もし本当に「全ての人に平等な制度社会」を考えるのであれば、同性婚の実現ではなく、結婚制度をなくす事をこそ、目指すべきなのではないでしょうか。

(そしてそれでもまだあなたがどうしても同性婚を実現したいのなら、結婚制度を特権のない制度に作り変えること、結婚しなくても同じ権利が得られるようにすること、結婚しても得られるメリットがないようにすることも、同性婚を実現したい人自身が引き受けるべき仕事であることは、覚えておいてください。)


●同性婚あるある●

同性婚をするのは同性愛者

   →違います。既に様々な性指向の人達が異性婚をしています。同性婚ができるようになっても、様々な性指向の人達が様々な理由で同性婚をするでしょう。

同性婚は結婚制度の差別性を解体する一歩になる

   →一歩にはなるがその先には行かない。同性婚は、結婚制度の中の異性愛主義を解体しますが、それ以外のことは解体しません。そして同性婚を欲する人の多くは、異性婚を欲する多くの人がそうであるように、そもそも結婚制度自体に賛成していることが多く、結婚制度を解体したいとは思っていません。


リネハン米国総領事は、なにか悪いことしたんですか?

質問者:リネハン米国総領事は、なにか悪いことしたんですか?

ひびの:私はよく知りません。

質問者:じゃあ、なぜリネハン領事にいろいろ言うんですか?

ひびの:米国政府を代表している人として、ここに来ているからです。

質問者:え??

ひびの:同性婚をしているゲイのカップルなんていくらでもいます。リネハンさんは、米国領事だから、発言の時間を与えられています。リネハンさんが人として何か素晴らしいことをしたから発言時間を与えられているのではありません。

質問者:まぁ、そうだね。で、何が言いたいの?

ひびの:米国政府は世界最大の人権侵害大国の一つです。イラク侵略戦争での大量殺人やグアンタナモ基地での拉致監禁は有名ですし、沖縄の米軍基地やオスプレイ配備も身近な問題です。そういうことをしている政府の代理人が「米国政府は人権を大切にしています」と言うのには強い嫌悪感を覚えたのが最初です。

質問者:リネハンさんを追い出したいの?

ひびの:今はその意図はありません。

 私は、まずリネハンさんの個人としての意見を知りたいと思いました。もし本当にリネハンさんがLGBTの人権が大切だと思うのなら、その思いは、イラクで空爆されるLGBTや、沖縄のLGBTの人権をも尊重することに繋がるべきだからです。リネハンさんが、米国政府の内部において、例えば沖縄の人たちの人権を尊重する立場からオスプレイ配備に反対する意見をオバマに伝える、そうなればいいと思っています。

質問者:なるほど。

ひびの:そのためにも、まず日本の私たち一人一人が「オスプレイ反対」の意見をリネハン領事に対して事あるごとに伝えるべきです。

質問者:だからポストカードを配ったんだね。

ひびの:ゲイの領事がいるからって、米国が人権を守る国だってことにはなりませんよね?LGBTの人権を掲げるんだったら、率先して他の人権も問題化していくような、そんなLGBT人権運動であるべきです。そしてもしリネハン領事が、例えばオスプレイ配備を開き直るのなら、もちろん強く抗議していくことも必要でしょう。



PDFはこちら

 

 

 

 

2011-11-09

クィア学会の中にある人種差別と権威主義


今週末に、東京でクィア学会研究大会があります。

そこで、以下の発表をします。

大会プログラムには英語で要旨を載せていますが、発表自体は日本語で行います。

クィア学会の中にある人種差別と権威主義

 今回の発表では、クィア学会の中にある人種差別と権威主義について、特に第1期幹事会の責任を問題化します。また、昨年度の総会における風間孝代表幹事の発言を、人種差別的な発言であるとして批判的に検証します。


Racism and Authoritarianism within JAQS

This presentation will address racism and authoritarianism within JAQS, with emphasis on the responsibility of the 1st KANJIKAI. The statement made by Kazama Takashi, chairperson of KANJIKAI, at the general meeting last year must also be critically examined as racist statement.


なぜ英語で要旨が掲載されているのか


 クィア学会の昨年までの幹事会は、全くの独断で、学会における会員の研究発表を日本語に限定してきました。実際に日本語以外での発表申し込みもあったそうですが、結局その発表は流れています。

 昨年度の総会で、幹事会にはそのようなことを勝手に決める権限がないこと(越権行為)が大問題になりました。しかし昨年の幹事会がその越権行為を認めず、また何の謝罪もなかったので、昨年度も幹事会提案の活動報告と決算が総会で否決されるに至っています。

 にも関わらず、今年の幹事会は、今年の学会報告の募集に当たり以下のような制限(日本語での要旨)を勝手に求めてきました。


応募要項:

<個人報告の場合>

(1)タイトル

(2)お名前

(3)ご所属(あれば)

(4)要旨(日本語、200-300文字)

(5)発表言語

(6)発表時に使用する機材(機材は希望に添えない場合があります)


 幹事会による越権行為がまた繰り返されています。

 このような幹事会に対して、「幹事会の越権行為を許さない」という意図から、敢えて英語で要旨を出し、学会プログラムに掲載させることにしました。

 結局は掲載させることができたのですが、しかし相変わらず、幹事会の権威主義的体質は一向に改善されていません。つまり、幹事会の独断でまたもや要旨の日本語要件を勝手に設けたことについて、「1:そもそも幹事会にはそんな権限がない越権行為であることの明示的な確認」「2:自らの越権行為によって会員に迷惑をかけたことの謝罪」が行われず、ただ単に、私への何の連絡もなく、学会プログラムに私の要旨が載っただけ、という状況だからです。



クィア学会事務局とのやり取り


 なお、この件に付き、以下の内容を含むメールを、クィア学会事務局(幹事会)にあてて、7/24に送りました。


【2011年7月24日付けクィア学会事務局宛メール】


せっかくですので、幾つか書いておきます。


●今回の要旨は、通常でしたら日本語で書いて出すものですが、現在までの幹事会の越権行為と権威主義に抵抗するという「学会内の運動」としてあえて英語で出しています。幹事会の独自の判断では「要旨の日本語要件」を設けることが出来ない、ということを、幹事会に対して実践で課すことこそが目的です。ですので「日本語での要旨を出せない」のではなく「出す意思がない」のです。また、幹事会の無効な「決定(と称するもの)」に従わないことで何らかの不利益(たとえばプログラムへの非掲載など)を受けた場合には、幹事会に対する「責任の追求」という動き方にならざるを得ません。


●昨年の総会で問題になったのは、そもそも幹事会には「個人報告の日本語要件」を設ける権限がない、それを勝手に設けたのは規約に反する越権行為である」という主張でした。総会における会員からのこの極めて重要な問いかけに対して、現幹事会は一切応答せず、無視という対応です。この現在の幹事会の態度は、まさにそれこそが「権威主義的である」として批判を浴び続けてきたこれまでの幹事会の行動様式と全く同じものです。


●現在の幹事会が「募集要項から日本語要件を削除することで合意*1」というのは、意味がわかりません。そもそも過去の幹事会にはそのような要件を設ける権限がないので、「そもそも無効だったものが、現在も無効であることを確認した」でなければなりません。執行部が規約を無視して越権行為を行なうことを容認することは出来ません。


●幹事会には、個人報告の申込み時に、「要旨」に日本語要件を設ける権限はありません。

本来なら、次回の総会に対して、幹事会から「要旨は日本語で記載すること」という要件の提案がなされ、それを総会で話しあう、という手順で事が進むべきでした。こういった当然の手続きさえ取られないのは、なぜでしょうか。

確かに「全て」についてこういう丁寧さを求めるのはやり過ぎの場合もありますが、事は、まさに前回の総会で問題になった点そのものなのです。

まさに前回の総会で「幹事会の越権行為である」と批判を浴びていた「日本語要件」について、再度、越権行為となる無効な「決定(と称するもの)」を勝手にしたことは、とても残念です。

この件については、ひびのからの批判を受けて、越権行為であることを確認して謝罪の上で幹事会の方針を撤回し、その撤回の経緯を明らかにすることをおすすめします。


●ちなみに、たとえば仮に「要旨は日本語で記載すること」が望ましいと考えるにしても、なぜその方がいいと幹事会が考えるのか、会員に対して一切その理由が明らかにされていないままに、勝手に「要旨の日本語要件」だけが会員には通知されています。

せめて「要旨にもとづいて部屋割りをしているということ、および何らかのミスで申し込みが行われていないかどうか確認するために、要旨は日本語で作成してほしい」という理由を付して「決定(と称するもの)」の報告を会員にする、ということさえ出来ていないのはなぜなのでしょうか。まさに会員に対して「日本語要件」を課したことこそが問題として批判されている時に、それと同じことを、しかも何の理由の説明もなく、再度できるという感性が、全く理解不能です。

理由が説明されたとしても、越権行為であることには違いないので、同じといえば同じですが、まさにこういう会員への上から目線の対応や幹事会の態度こそが、これまで何年も「幹事会の権威主義的な体質」として批判を受け続けているのです。あえて言いますが、「幹事会は、執行部のくせに、必要な説明責任すら果たさず、偉そうです。まるで大学のセンセイや官僚みたい!」。こういった振る舞いの作用は、権威主義的な今の日本社会では、通常の標準的で典型的な行動様式ですが、そういった権力者の権威主義的行動様式をなぞるようなグループは、クィアなどと掲げるべきではありません。事の重大さに真面目に向き合ったほうがいいと思います。


●私は、総会で「要旨の日本語要件」が提案されたら、現状では反対します。

そもそも英語といえば欧米の学者を想定する、というあり方自体が、インテリエリートの不当な前提です。

例えばフィリピンから来日した人たち、英語を第一言語としないアジアから来日している人たち、そういった「既に日本にいるけど、日本語以外のほうが意思疎通しやすい人たち」、つまり、日本国内の言語的マイノリティーたちがクィア学会の主体となって活躍するその可能性、そちらの方にこそ、私は関心があるからです。

日本語ユーザーは日本では超多数派なのであり、「多数派の便利のため」に制度設計をするのはそもそもクィアではないです。(でも、もしそうするなら恥を持ってそうすべきです。)

旧幹事会が主張した「外国語を使用される場合は、必ず日本語の通訳をつけてください」が、いったい誰のための、誰にとっての分り易さのためのものなのか。「少数派の権利」を大切にするのであれば、「誰のための通訳を用意する責任が、多数派や制度側にあるのか」。マジョリティーとしての日本語ユーザーは、真面目に考えるべきだし、だからこそ「人種主義」が問題になるのです。形の上だけで「個人報告の日本語要件」を撤廃してもダメで、旧幹事会や現在のクィア学会全体に「日本人特権の開き直り」が存在することをはっきりと確認し、かつそれこそが人種主義であると確認し、会としての体制を根本的に変革することが伴わないのであれば、単なる形式だけのアリバイであり、意味がありません。


●このメールは、幹事会メンバーや会員に対して公開していただいて構いません。


ひびの まこと


 さて、おそらくこれを受けてのつもりなのでしょうが、「クィア学会ニュース No.32 (2011年9月13日配信)」では、以下のような記述がありました。


1. 大会報告における使用言語について意見募集【重要】


■大会における報告使用言語について幹事会より意見募集のお願い


従来、幹事会は大会報告応募要綱において報告使用言語を日本語としておりましたが、それについて去年の総会において問題が指摘されました。


それを受けて今期幹事会では報告使用言語自体については定めないこととしましたが応募のさいに報告要旨については日本語での記入をお願いすることにしました。


その後、会員の方から要旨の記述を日本語とする点につき説明不足ではないかとのご指摘をいただきましたので、その点について説明させていただきます。


要旨の日本語による記入は、事務手続き上、内容を幹事会が確認する必要があるために(具体的には当学会での報告申し込みであることを確認することや報告プログラム・部屋割りのさいに参照すること等)お願いいたしました。


ご指摘いただいた会員の方にお礼を申し上げますとともに、会員のみなさまに説明不足をお詫び申し上げたいと思います。


その上で、次年度以降の報告使用言語について、2011年度総会(2011年11月12日)で審議するために、あらかじめ会員のみなさまよりご意見を募りたいと思います。いただいたご意見は(個人情報は除いて)総会の場でご覧いただきます。


 あらま、またやっているよ、という感じです。本当に、何の反省の色も見えない、相変わらず権威主義的/官僚主義的な幹事会対応です。

 改めて、以下の点を指摘しておきます。


「越権行為」についてスルーして、総会決定や会員の意見を無視する幹事会

 昨年の総会で幹事会が厳しく批判を受けた主たる論点の一つが、「そもそも幹事会には『日本語要件』を設ける権限が規約上ないにも関わらず、越権行為を行った」という点です。にも関わらず、この主要な論点について、幹事会としての検討をしたあとも、また幹事会としての返答もなく、完全のスルーしてただ単に「それを受けて今期幹事会では報告使用言語自体については定めないこととしました」とのみ書いています。

 別にどのような方向性の意見(例えば「越権行為ではない」という意見)でもかまいませんが、総会で幹事会が厳しく批判を受けた主たる論点について検討も反論もせず、スルーしても良いという態度は、総会軽視ですし、まさにそれこそが権威主義的態度としてずっと批判を受けてきた態度にほかなりません。


「説明不足」に論点を矮小化する幹事会

 上に掲載した私から事務局宛のメールを見ると分かるように、私が主として問題にしているのは幹事会の越権行為であって、説明不足ではありません。「説明不足」という表現は、本来幹事会に決定の権限があるが、充分な説明をしなかった点においては不十分だった、と開き直っていることと同じです。つまり、形の上で謝っているような素振りを見せることで、主要な論点に回答することを拒否し、つまり会員からの意見を無視して自分の都合の良いように利用し搾取する、ということです。繰り返しますが、まさにそれこそが権威主義的態度としてずっと批判を受けてきた態度にほかなりません。



 今年の学会総会では、上記の点についての今期幹事会への責任追及から始めることになります。越権行為を開き直り、総会決定を軽視し、会員に対して権威主義的な態度をとるこれまでの幹事会の態度が根本的に改められる必要があります。またそれを踏まえた必要な謝罪が行われないのであれば、残念ながら今期幹事会を(も)私は一切信任することができません。

*1:ウェブ掲載にあたっての注:「クィア学会第3期幹事会議事録 第2回( 2011年3月22日)」に記載の記述です

2011-11-05 今日は関パレ!

関パレって「LGBTと支援者」のパレード、じゃないの?

 関西レインボーパレードは「性の多様性をお祝いするお祭り」です。しかし幾つかの所で、関パレのことを「LGBTと支援者のパレード」と説明しているのに出会い、ちょっと残念に思いました。関パレの実行委員からは、「LGBTと支援者のパレード」という言い方は実行委員会ではしていない、と教えてもらいました。

 「私たち」のことを、どういう言い方で表現するのか。多分いろんな人が、いろいろ悩みながら、試行錯誤しつつある状況なんだと思います。私は、「LGBTと支援者」という認識枠組みは、とても嫌いです。その理由を簡単に説明します。

 この認識枠組みがよくないと思う理由は、2つあります。一つは「LGBT」というラベル、もうひとつは、「…と支援者」という発想です。


なぜ「LGBT」がダメなのか

 歴史的には、「レズビアン&ゲイ」みたいな言い方で「私たち」を表象するのが流行っていたころ、「その言い方が同性愛者中心主義で良くない」という意味で、明示的に「同性愛者ではないセクマイ」を可視化する意図で「LGBT」を使ったこともあります。その当時においては、「同性愛者中心主義」への抵抗として、一定の意義のある言葉ではありました。しかし、今の時代にLGBTを使うことは、以下のような弊害があります。

 ・最近は、性別二元主義に依拠する「バイセクシュアル」という言葉よりは、「パンセクシュアル」などのほうが流行り。

 ・最近は、アイデンティティー語として公的に可視化している語としてすら、最低限「Aセクシュアル」「クエスチョニング(模索中)」「クィア」「インターセックス」などがある。

 ・上記の通り「私たち」は必ずしもレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーといった、分かりやすい言葉にアイデンティファイしている訳ではない。にも関わらず、特定のアイデンティティー語を用いることは、そのアイデンティティーを持つことを結果として促し、またそのアイデンティティーを違和感なく引き受けている人たちを特別に優遇することに繋がる。

 ・アイデンティティー語を看板として使うことには、「レズビアン&ゲイ」と掲げた時の問題点と同じ問題点を持つことが避けられない。アイデンティティー語を用いて集まると、必ず「中心となるアイデンティティー」が形成され、しかもその線引きをどこにするかが問題となる。

 ・その弊害を避けるためにも、アイデンティティーや属性で集まるのではなく、「テーマ」で集まるべきではないか。


【参考】

●【米国便り19】Queer クイア ってなぁに?*1

http://barairo.net/UStour2004/archives/000033.html

●クイアー(Queer)ってなあに?

http://barairo.net/works/TEXT/zadannkai.html



なぜ「…と支援者」がダメなのか

 ・「差別に反対する」ということをもし真面目に考えるのであれば、マジョリティー(多数派・例えば「性別違和のない異性愛者男性」)がすべきことは、少数派を「支援」することではない。そうではなく、多数派が不当に保持している特権を認識し、その特権によって自分自身が不当に保持している権力や富・利益を、本来持っているべき(自身が奪ってきた)少数派に返還することが、当然の義務として要請されているに過ぎない。「少数派を支援する」などという言い方は、本当に傲慢で、無知を開き直った、『盗っ人猛々しい』言い方に他ならない。

 ・同性関係嫌悪(ホモフォビア)やトランス嫌悪(トランスフォビア)、性別二元主義や女性差別をテーマとして考えた時、人々は、それぞれ自身の立場からこれらの問題の当事者です。これらのテーマの幾つかについては多数派だったり、その他の面では少数派だったりと、置かれる位置はいろいろですが、それぞれの位置から、これらのテーマについて、当事者なんです。抑圧され差別される側面についての当事者性は「損する」から比較的分かりやすいし可視化しやすいです。でも本来、「不当に得している側」の人だって、問題の当事者です。そして、「不当に得している側」の人にも、当事者としてしなくてはならない仕事があります。それは、決して『支援』ではありません。

 ・「バイセクシュアルの権利擁護運動」の立場からは、「異性関係」を「同性関係」と同様に肯定的に認識し表象することは必要不可欠の課題となります。その意味で、「私たち」の枠組みを考える時に「異性関係」を外部化する事はあり得ません。「異性関係」を外部化することは、同性愛者中心主義に場が支配されてしまっていることを結果的に示しています。過激に言い切ってみると、これは同性愛者中心主義を温存・拡大したい活動家の陰謀(笑)です。

 ・女性の(正確には非男性の)セクマイにとっては、現実的に、性的指向を問わず「女性であること」の方が話が通じたりしやすいし、居心地がよく「私たち」な感じがする場合があります。「女性である」ということはそれだけで「性的に少数派である=性的な不利益を被っている」ことを意味します。性をテーマにして社会的正義や平等・人権を考える時に、「異性愛女性(レズビアンやバイセクシュアル女性ではない女性)」を「私たち」の枠組みから外すアプローチには、場合によっては、女性差別の当事者として男性特権を問われることを忌避したいゲイ男性やバイ男性の隠れた(無自覚の)意図を勘ぐることが私はあります。


【参考】

「アライ/ally」って何?ー「私たち」と「それ以外」とを分ける線をどこに引くのかを考えるー

http://kansai-qff.org/2010/j/allies.html


 強引にまとめると、「LGBTと支援者」という言い方は、アイデンティティーに固執した言い方だし、「私たち」の一部の人達だけを優遇しているし、マジョリティ(多数派)の責任や主体性を問うことを避けているし、男性特権や同性愛者中心主義に鈍感な感じがするし、「既に登録=認知されたマイノリティ」だけを考えている感じもするので、私は大嫌い!



「土肥いつきさん問題」について

 関パレを支持する私の立場からは、今年の実行委員会は(おそらく内部にはいろんな意見があったんだと思うけど)それなりにちゃんと頑張って、「みんな」の場をつくろうとしているように見える。いつものように「ゲイゲイしく」なってしまうのを避け、いろんな立場の人が参加できるようにそれなりに工夫されているのが、随所にうかがえます。なので、まずなにより、断固支持!といいます。

 ただ、「土肥いつきさん( https://twitter.com/#!/ituki0309 )問題」は、私にはどうしても無視できない問題です。関パレ実行委員会は、これまでの経緯や土肥いつきさんのことをあまり知らないでいつきさんを呼んでいると思われるので、実行委員会に向けて文句をいう事は私はないですが、しかしそれにしても、今になってノコノコと出てくる土肥さんは、本当に許しがたい。

 関パレ関連に限定しても、土肥いつきさんは、関パレに極めて冷淡な立場を当初から公然と取って来ました(「パレード行ってきました」 http://d.hatena.ne.jp/ituki/20061022 )。第1回の関パレに沢山の問題があったこと、その問題の中には、トランスジェンダーの問題が不可視化されたりないがしろにされていること、パレードが警察に権力に屈していることなどは、当初から私には明らかなことでした。その意味では「(ゲイの人はパレードで「自分はゲイです」などと言って解放感/カタルシスを得ているけど)トランスの人間にとって、その手のカタルシスなんて日常イヤというほど味わっているし、逆にカタルシスのない瞬間がほしいわけです」などという主張、全くその通りです。でも、でも、だからこそ、私を含む何人ものトランス活動家たちが、関パレに敢えて関わり、関パレに関わる人にトランスジェンダーの話をし、トランスジェンダーの可視化を図り、トランスジェンダーの問題を共有しようとして来ました。また、当初は警察の言いなりだったパレード実行委員会ですが、実行委員会に本当に地道に働きかけて、みんなで合意形成を作っていったからこそ、現在の関パレがあります。参加の注意事項を年代順に見て比べるだけでも分かります。デモ申請をする時に大阪府警は、デモ=パレードの最中の歩道とデモ隊との出入りを規制したがるし、フロート間の移動も規制したがるし、歩道でのビラの配布も規制したがります。そういうのを一つ一つ「警察の言うことには従う必要はない」「デモ申請は必ず許可されるので、警察と喧嘩しても全く問題ない」ということを、みんなで確認してきたから、今日の関パレがあるんです。関パレの実現や改革、よりよい関パレを作るための何の努力も協力もせず、よそからあれこれ批評していたいつきさんが、ほう、今になってトークに出演ですとな。自分では具体的な努力も協力も全くしないでおいて、他人の努力して創り上げた場所にお越しになるそうです。いかにも、いつきさんらしい。

 また更に、そもそもいつきさんは、暴力を容認し暴力に加担する行動をとっています(「田中玲さんの問題」 http://togetter.com/li/85299 )。本人にも直接問題提起をしましたが、未だに全く何の対応もとられていません。二次加害者としてのいつきさんに猶予をしばし与えていた、という感じなのですが、もうそれも無理かもしれません。

 またまたさらに、いつきさんは、ヨシノユギさんの裁判( http://www.geocities.jp/suku_domo/ )を明示的に肯定していません。関西のトランスジェンダーの活動家として、本当に失格です。

 GID学会でセンセイたちとはいい関係を持とうとし、「ハートを繋ごう」ではわざわざ自費で東京まで人と会いに行ったりするのに、身の周りの暴力に反対せず(むしろ加担し)、また関西の活動家として闘っている仲間の支援すらしませんでした。つまり、いつきさんは、権力を持っている人になびく人です。だからこそ、今回も、「権力の有る側の人」つまりパネラーとして呼ばれたら、ノコノコと出てくるんです。

 こういうタイプの人が、社会運動を食い物にして、現場の活動家を搾取して踏み台にして、「運動利権」を上手いこと使って、有名になり、権力を取っていくのは、あまりによく見る「いつもの」パターンです。そう、こういうあり方を許してはなりません。

 今回、土肥いつきさんが関パレのトークに出演することは、まさに、土肥さんから関西の原則的な活動に対しての宣戦布告です。

 冒頭にも書いたとおり、関パレ実行委員会を支持する立場から、今回は現場での抗議行動とかはしません。しかし、今後土肥いつきさんが「メジャー」になるその時には、今回の関パレ企画への厚顔無恥な出演は、いつきさんの「メジャー化」を効果的に阻止するための批判の材料としてとても大きなものとして有効に使わせていただくことになります。だからこそ、最前列で、鑑賞したいと思っていますw。

 今晩、お会いできることを楽しみにしています、いつきさん。



本日→レインボー・アクション第4回主催イベント

『差別発言を許す社会を問い直す

〜石原都知事による差別発言のその後とこれから〜』


 企画において「三国人」発言を取り上げ、民族差別をテーマにするのであれば、是非、松浦大悟 参議院議員の国会質問に潜む日本国民中心主義も、セクマイやゲイの側から、「私たち」内部にもある民族差別/日本国民中心主義の例として、明示的/批判的に言及して欲しい。というか、それをしないのであれば、形だけ、自分の都合の良い形でしか民族差別を利用しないという開き直りに、なってしまうよ。マジで。


●レインボー・アクション第4回主催イベント

『差別発言を許す社会を問い直す

石原都知事による差別発言のその後とこれから』

http://blog.rainbowaction.net/rainbow-action/event/2011/10/659

*1:11/9追記

2010-03-15

すべての運動課題は「沢山ある運動課題の中の一つ」(「橋下知事の朝鮮学校脅迫に抗議する!」への意見)

橋下知事に断固として抗議する。

肖像画を掲げるか外すかが問題の本質ではない。

日本人が「外させる」ことが問題なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/mujige/20100312/1268417059


 id:mujigeさんのこの意見、日本人による暴力、日本人による在日朝鮮人差別を可視化して問題にするという点では、とても鋭いいい言い方だと思います。しかし、私は、この言い方には賛成できない部分があります。


1:橋下大阪府知事が大阪朝鮮高級学校を訪れ、府独自の補助金の支給を提案しつつ、同時にいま支給しているなけなしの補助金を打ち切ることを示唆しながら、総聯との関係断絶や、共和国指導者の肖像画を外すことを要求したことは、大阪府知事として全く不当なことだと思います。


2:私は、そこがどこであれ日の丸の掲揚に反対です。また、そこがどこであれ、金日成さんや金正日さんの肖像画を掲げることには反対です。しかし、行政府の長がその権限や影響力を行使して、学校のあり方や教育内容に介入することは、不当ですし、反対です。


3:日本政府には、在日朝鮮人の民族教育を保障する責任があります。しかし実際にしてきたことは、民族教育を破壊し弾圧することでした。現在の朝鮮学校の民族教育は、そういう度重なる日本政府による国策による民族教育つぶしに抗して、維持されているものです。この歴史的経緯をふまえる時、橋下知事の言動は、単なる意見表明というよりは旧来から続く民族教育への弾圧の現在風の表現であると考えざるをえません。


4:そういった観点から、橋下知事に対しての「民族教育と思想・信条への公権力の介入であり、相手の足下を見た脅迫」「踏み絵を踏ませ、朝鮮人を思うように操ろうとすること。それこそが朝鮮人の主体性を無視し、人間性を破壊し、民族をずたずたに分断しようとする、最悪の差別行為」というid:mujigeさんのこの意見には、賛成です。


5:しかしながら、「肖像画を掲げるか外すかが問題の本質ではない」と言うことは、賛成できません。なぜなら、「拉致犯罪者の肖像画を何故掲げる?」という疑問には一定の正当な根拠と説得力があり、肖像画が問題になる事自体は、社会的には正当なことだからです。「肖像画の件は、避けることのできない重要な問題の一つ」なのです。


6:橋下知事(や日本政府や日本社会)の朝鮮人差別を問題化/可視化したり批判/抗議することの代償として、それ以外の問題が不可視化されたり「より重要ではない問題」的な扱いをされることを「やむを得ない」と許してはいけません。

 すべての運動課題は「沢山ある運動課題の中の一つ」でしかありません。自分が取り組む運動課題を中心化しようとする(他の問題よりもこの問題の方が重要だ)発想や言説は、「公平な社会」を創るのではなく、「自分たち」が社会的権力を取って自分に都合良い社会を創ろうとする(昔風の)間違った運動です。


7:こういったことを書くのには理由があります。それは、在日朝鮮人への差別に反対する運動の側に、二重規範があると感じるからです。日本政府や日本社会そして「国際社会」の状況があまりにひどいという事実をいい訳として使うことで、北朝鮮政府への批判を躊躇したり、運動内部の問題点を批判することが妨げられていると感じるからです。

 そしてまたそれは、「単一課題のみを扱う(シングルイッシューの運動)」という発想や運動のあり方に起因している、とも言い換えられます。フェミニズム以降、「単一課題のみを扱う」という運動のあり方はさんざん批判されてきたはずですが、そういった運動の積み重ねが反映されているように思えないことがあります。「私は日本人だから、朝鮮人の批判はできない」みたいなものの見方は、本当に一掃しないともう先がないです。

 現在の運動内部の問題を可視化して改めていくことは、社会運動が社会的な説得力を獲得するためには必要不可欠なことだと私は思っています。本当に日本社会のあり方を変えるためにこそ、本当に様々な差別に反対するからこそ、まず「社会運動のあり方」を変えないといけないと私は思います。

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【参考サイト

*1:私自身の個人的な経験からは、既存の運動団体や活動家に「利用される」という危惧を抱いたところから来ています。善意で良心的に動こうとしている人さえも、権威主義的な運動の側の歴史の(負の)影響を大きく受けており、付き合いきれないと感じることもあります。なるほど、だから人が運動から去っていくのね、と感じました