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フツウを求めない、
ワタシの、ボクの、
バラ色の人生を創り出すために!

2014-10-14

関西レインボーフェスタで「天皇制社会日本に抵抗するクィア有志」としてブースを出し、米国領事館の人に『NO U.S. BASES in OKINAWA or KYOTANGO』『沖縄にも京丹後にも どこにも 米軍基地いらない』ののぼりを見せて抗議しました


 この前の土曜日は大阪の扇町公園で関西レインボーフェスタがありました。そこで、「天皇制社会日本に抵抗するクィア有志」としてブースを出し、展示を行い、ビラを配りました。黒くて大きなバナーはフェスタ会場でも、そしてパレードの時もとても目立っていて気持ちよかったです♪また実は、ブースではのんびり寝ていられると予定していたのですが、当日はそうならず、何人もの人達がブースを訪れてくれて、展示を読み、また意見交換することが出来ました。とても充実した一日でした。

 やっぱり、フェスタで沖縄のこと・基地問題を取り上げることについて「そんなこと、ここでやることか?」と思っている人もいて、丁寧に議論できたのは収穫です。私自身も、より一層言語化が進みました。また同時に、基地問題を取り上げていることをほんとうにうれしいと思って来てくれた人もいて、フェスタみたいな場、セクマイ関連の集まりで言い出しにくいことがあること、暗黙のタブーがあることを可視化する効果が実際にあったようにも思いました。


 また、今年は初めて関西でも、米国領事館関係者がステージに登壇してのスピーチがありました(去年は、リネハン領事米国政府機関一時閉鎖のあおりを受けてーという理由でー登壇はなかったんです)。そこで、写真のような大きなのぼりを掲げて、抗議しました。前から言っていますが、辺野古や高江、京丹後での現地での闘いも不可欠ですが、それだけでは一時的に工事を止めるのが精一杯で、そういう現地闘争の一方で、他の様々な場所で、1人1人が「米軍基地いらない」の声をちゃんとあげていくことが、絶対に必要です。それを、各自が、各自に自分の場所ですべきなんです。そういう強い思いがあり、大きなのぼりになりました。

 米軍基地問題は、実は日本政府こそが新基地建設を進めているという面もあり、米国政府にだけ抗議しても不十分ではあります。でもやはり、実際に目の前に米国政府の代理人がいたとき、米軍基地の抗議をしないことこそ、無責任だとの思いからの行動になりました。こういった行動を見て、米軍基地問題を考え始めてくれる人が一人でも増えることを願っています。



 単に日本人マジョリティーにとってのLGBT運動ではない、沖縄や京丹後の新基地建設にも反対する、マルチイシューな視点を持った社会運動を、もっともっと作っていきましょう!



展示の様子(写真をクリックで拡大版)




2014-07-21

仲パレでビラを配りました!

昨日あった「仲良くしようぜパレード」で、以下のビラを配りました!

表面のテキストを掲載し、PDF/JPEG版をリンクします。

JPEG版の方では、裏面の文章「なかパレ2014によせてー「仲よく」をめぐるわたしの葛藤となかパレのその先へ」なども読めます。


なお、「STOP!日本人中心主義」などと掲げた当日のバナーこちら


仲良くしよう

 女性差別/セクシズムに反対するという点から、「仲良くしようぜ」というパレード名称(に象徴される仲パレのあり方)への批判が、以前より出ています。



 「ぼく」や「オレ」を自称する女子がいるのと同様に、「仲良くしようぜ」と言うのは男子だけではありません。しかし一般的にまだ「男言葉」のニュアンスが強い「ぜ」を公的な企画の名称に冠することは、仲パレが男性文化の企画であること、男性中心主義に反対する気が無い企画であるとの印象を与えるには、十分でした。


 いくつかの批判を受け、仲パレのウェブには「仲良くしようぜ」が、カウンター行動の中からきた言葉だという旨が説明されています。寄せられた批判に答え説明しようという姿勢に、私も誠実なものを感じます。とはいえそれは、排外主義者と対峙するカウンターの現場ではない仲パレの場で、街を通行する一般市民に向けて、あえて「仲良くしようぜ」と直接発話することの必要性を十分に説明するものとは、私には思えませんでした。


 これもよく誤解されますが、「ぜ」と発話したり企画名にするのに、女性を差別する意図があるかどうかは、始めから問題ではありません。そうではなく、問題は「女性差別に反対するという目的や効果基準」から考えたときに、「ぜ」の表現が他に比べて望ましい選択であるかどうか、です。言い換えると、「ぜ」の文言それ自体ではなく、パレードとして「女性差別に反対するという目的や効果基準」を判断基準(の一つ)として採用/重視しているか、が問われていたと思います。さて、「仲良くしようぜ」と掲げることは、それ以外の選択に比べて、女性差別を無くすという目的から考えた時、どのように効果的な選択なのでしょうか。誰か、教えてください。

 もちろんパレードには様々な目的がありますので、カウンターとの繋がりを強調する意図から「仲良くしようぜ」とあえて掲げる、という選択もあります。しかしそうであれば、まず「仲パレには女性差別がない」なんて言わないで下さい。全ての問題を一度に全部出来る訳ではない!ーもちろんそうでしょう。だからこそちゃんと、仲パレはセクシズムの問題を後回しにしている、と認めて下さい。


 どうしてそれが必要かというと、他の目的を達成するために女性差別を後回しにしているという点が「仲良くしようぜパレード」の不十分点であると明確に確認できれば、その不十分点を他の方法で補うという対策を取ることも可能になるからです。


 更に逆に言うと、単に「ぜ」をやめても、そのことでパレードに女性差別が無いことにはなりません。仮にパレードに来る人が全員フェミニストで、仮にパレードの場では一つも女性差別的言動が無かったとしても、パレードは女性差別のある場所です。それは、その場にいる人1人1人の主観や努力の問題ではなく、社会全体の仕組みの問題です。個人が最大の努力で女性差別に反対していたとしてさえも、女性差別と無縁に生きれる訳ではないんです。


 パレードの中で女性を差別する分かりやすい暴言がなければ、セクシズムがない、と言えるのでしょうか?パレードの中で、痴漢や盗撮などの性的な暴力がなければいい?女性らしさが強制されたり、女性だからとちやほやされたり、逆に意見が無視されたり、いつもいつも「彼女」「女の子」と呼ばれたりしなければ問題が無いのでしょうか?


 セクシズムとは、私たちが毎日生きる日常生活の、いつものあり方のことです。それは例えば、何か特別な悪意がなくても結局は男性がたくさん発言したり、男性がいつも代表者になってしまう文化のことです。なぜか女性だけが脇毛を剃ったり化粧するのが「あたりまえ」と思われている毎日のことです。女性の平均賃金が男性の約半額(短時間労働者を含む)もしくは約7割(正社員だけで比較)という毎日の状態です。まんこの造形物を作ると「わいせつだ」と逮捕されてしまう社会のことです。男性特権の存在が社会的な常識になっておらず、女性差別に反対することが人々の当然の責務になっていない社会のことです。



 仮に「反日」と掲げてさえも、そのことによって外国人を差別する日本の文化や法制度/日本の植民地主義から逃れられる訳ではないのと同様、仮に「ぜに×」のビラを配ったところで、企画名に「ぜ」を使わなかったくらいで、女性差別のない状態を作れるわけではありません。


 私たちがもし「本当に差別をやめよう」と思うのなら、ただ単に目の前にいる人に失礼なことをしなければいいのではなく、私たちを取りまく社会関係の不公平を解消するために、各自で行動する必要があります。本当に日本の排外主義に反対しようと思ったら、ただ単に仲パレに参加したり「ぜ」批判をするだけではなく、カウンターをすること/朝鮮学校の無償化排除や北朝鮮への経済制裁に反対すること/生活保護法を始めとする国籍要件を撤廃する法改正をすること…など、きりのない取り組みが必要ですが、女性差別に反対するためにも、同じくらい広範囲な取り組みが不可欠なのです。




※ちなみに、このテキストの最大の弱点は、「仲良くしようぜ」と掲げないこと/「ぜ」を使わない方が、排外主義に反対するという目的効果基準からみて一層有効である、という説明を出来ていないことかもしれません。短い文章では全ては書けませんので、今日この点ははご容赦ください。(でも、私には手に余る気もします)


リンク




STOP!日本人中心主義


 昨日の「仲良くしようぜパレード」では、大きなバナーを掲げて歩きました。パレード中は、自分たちの写真を撮るのをすっかり忘れてしまったのですが、昨日写真を撮って下さった皆さん、よければ送って下さい(苦笑)


STOP!

 植民地主義

 日本人中心主義

 異性愛中心主義

 男性特権

 帝国主義

天皇制社会日本に抵抗するクィア有志



レイシズムの場になんで天皇制の話を持ち込むの?」という方は、一つのいい例として、2000年の12月に、東京で開催された「女性国際戦犯法廷」という民衆法廷のことも知ってみて下さい。「女性国際戦犯法廷」では、被告人天皇裕仁には「人道に対する罪」である強かんと性奴隷制についての責任で有罪であるとの認定をしました。当時は私自身も、急に天皇の話が出てきた感じ、突飛な印象を受けたのですが、よく考えたら、確かに筋が通った話でした。




なお、当日配布したビラはこちら





2012-12-23

報告:関パレ前夜の作戦会議☆彡

 ちょっと間が空いてしまいましたが、関西レインボーパレード(関パレ)でのアクションのための「「関パレ前夜の作戦会議☆彡」」の報告です!

 ところでみなさん、関パレで配ったカードは郵送しましたか?「忘れていた!」というかたは、ぜひ年内に、郵便局に行きましょう!!




 ほんの数日前の呼びかけにもかかわらず、「関パレ前夜の作戦会議☆彡」には9名が参加(うち1名はメッセージで参加)、遅くまで熱く語り合い、呑み、そして明け方までプラカードを書いていた人もいました!


フェミニズムにおける沖縄への植民地主義(玉城福子)

 まず福ちゃん(玉城福子さん)の発表から。「天皇裕仁は有罪」という判決を出した女性国際戦犯法廷という民衆法廷を扱った発表だったんだけど、最大の驚きは、この法廷のことを知らない人が作戦会議にいた事!そうか、ううん…。確かに、12年前のことだしね。

 せっかくなので、この法廷について当時の私が書いたテキストはこちら→共犯者には、ならないよ!

 改めて少しこの法廷についても話し合ったんだけど、従軍慰安婦問題を正面から取り上げたことなどの意義は大きいというのを前提に、しかし日本人慰安婦として挙げられていたのが沖縄の人だったこととか、植民地支配のことがあまりクローズアップされていなかった印象があることだとか、今から見ると考えるべきこともあるようです。


米国総領事館とのこの間のやり取りについて(ひびの まこと)

 そもそものきっかけは、東京のパレードに参加した時。米国大使館の人が来ていてステージ上で「米国政府は人権を尊重します」と挨拶をしていたのがあまりに不快で、にも関わらず何も準備をしていかなかったのでその時できたことはただ単に「オスプレイ反対」とヤジを数回飛ばすことだけ。これではイカン、というのがきっかけでした。

 その後、10月6・7日の「AIDS文化フォーラムin京都」では、パトリック・リネハン米国総領事が来て「ゲイの人権」についての講演もするとのことで、ならばちゃんと声を届けようと思いました。そこで総領事宛のお手紙を書き、またそれを印刷して講演会場で配る予定だったんですが…フォーラム主催者に取り囲まれ、配布は物理的に妨害されてしまいました。なのでやむを得ず、その場で「オスプレイ反対」「沖縄に基地を押し付けるな」と野次を飛ばすことしか出来ませんでした。

 次は10月27日の「虹色どまんなかパレード」。ここにも総領事が来るとのことで、プラカードを作りました。


◯「人権はみんなのもの 本土のLGBTだけを考え 沖縄やイラクの人を差別するのは ニセモノの人権」

http://bit.ly/S4iTvm

◯「No! オスプレイ 米軍基地いらない 米国はイラクのLGBTを殺した」

http://bit.ly/S4izgg

◯総領事の挨拶中にプラカードを掲げている様子

http://i-margin.net/post/34480770279


 なんとここでも、パレードの実行委員長には「パレードには参加できない」と言われてしまい、ステージでも「LGBTと関係のないプラカードを持った人の参加はお断り」とか言い出す始末。フロート参加用のリボンをもらおうとしても「実行委員長の許可がないと渡せない」と邪魔する人もいて、3回も足を運び直すことを強いられました。(もちろんそんな不当な主張は無視して、勝手にパレードに参加し、プラカードを掲げて最初から最後まで歩きました)


◯名古屋でのアクションのまとめ

http://togetter.com/li/397796

◯「虹色どまんなかパレード」会場でのひびのインタビュー

http://youtu.be/IKoYWzahAZU


 あと、関西クィア映画祭に対しても米国領事館広報担当部門の後援がついたこと、またその間のやり取りも紹介されました。


関パレ当日での行動提起

 これらの経験を通じて分かったのは、まさにこのような日本の企画主催者の態度によってこそ、オスプレイ配備が可能になっている、ということです。f:id:hippie:20121223021512j:image:w360:right

f:id:hippie:20121223021511j:image:w360:right「参加者の意見の多様性を認めない権威主義と排他性」「宗主国たる米国への批判を許さない植民地根性」「本土のLGBTのことだけを考え沖縄のLGBT無視する沖縄差別」という観点からも批判はできますが、実際のところは、オスプレイのことにも沖縄のことにも全く関心がない、ごく普通の一般的な日本人だ、ということなんだと思います。沖縄への植民地主義に対して全く関心がなく、それ故、植民地主義を支え実践している。しかもそのことに気がついていない。つまり、典型的な「鈍感なマジョリティー」。

 そこから導かれる答えは一つです。そう、もっともっと目立って、もっともっとちゃんと広報する!それから、相手は無知に開き直っているのでそれを批判しても無駄(必要なことだけど、伝わらないことが多い)で、沖縄の事実を一つ一つ伝えることがまずは大切。本当は、ちゃんといろいろ説明したチラシを作ると良かったんだけど、そんな時間はなかったこともあり、そしてひとりひとりの主体性を問い引き出すために、メッセージカードを作って配る事が提案されました。


ひびのにとっての「沖縄問題」

 実は私自身も、十数年ほど前に、ハヤブサ人生に厳しくきびしく怒られて、初めて沖縄への植民地主義を自覚した、という経験を持ちます。


バイセクシュアルについて (末尾参照)

日本の、そして米国の植民地としての沖縄


 そういう意味では、私も同じ穴のムジナです。京都上空では米軍機も飛ばないので、普通に暮らしているだけでは沖縄のことは分からない、知りようがないのです。というのんきさと、その一方で、沖縄県議会を含む全自治体の議会がオスプレイ反対を決議し、知事も反対し、オスプレイ反対集会には何万人もの人が集まるという状況。「レッドカード!」だと言っていることの切実さ。


作戦会議のようす

 わたしにとっては、ハヤブサにいろいろ教えられて以来、沖縄は日本と米国によって植民地にされている、という認識が前提としてあったんですが、「そんなこと、考えたこともない」という人も作戦会議に来ていて、「自分のことを日本人だと意識していなかったけど、いろいろ聞いて、いま『日本人アイデンティティーの危機』です」と言っていて、とても面白かった。

 また逆に、沖縄で祖国復帰運動などを担ってきた人達にとっては、「沖縄が日本の植民地だ」というのは受け入れがたい認識らしいとのことで、言われてみればなるほどと思いました。この作戦会議は、関西沖縄文庫で開催したんですが、沖縄文庫の金城馨さんも参加してくれて、いろいろお話できて嬉しかったです。(会場の提供をありがとうございました。)

 更に、今は米軍基地の「県外移設」「本土移設」を言うことが必要だとの意見が出され、いろいろ考えました。これを言わない限り、日本の人は真面目に基地問題を考えないから、「米軍基地を本土に!」と言うべきなのだそう。なるほど、一理ある(橋下が、一度、米軍基地を関空に持ってきてはどうか、と発言したことがあったけど、沖縄県知事が問い合わせたら「関空ではなく神戸空港を見て欲しい」とか言って結局撤回された、らしいです)。


 それから、沖縄からの報告もありました。「沖縄のゲイコミュニティーと植民地主義」という報告もメッセージで頂来ました。また別に、「save the pride」に沖縄のことを訴えるパーティーを申し込んだら「政治的だ」という理由で断られた事実があったことも、報告がありました。


 とこんなかんじで、あまりまとまりはなかったですが、あっという間に時間が過ぎて行きました。私は既に自前のプラカードがあったので、お酒のんでさくっと寝てしまったのですが、深夜まで看板を書いていた人もいた模様。お疲れさまです。


関パレ当日

 そして、関パレ当日。パトリック総領事はどうも来ていなかったようで、集合会場となっていた中ノ島公園でカード(50円切手を貼って送れる)を配ったりしました。プレ集会で総領事のメッセージが朗読されたときは、その横でプラカードを掲げたりもしました。もちろん、パレード参加者にはいろんな意見の人がいるのが関パレではあたりまえになっているので、名古屋のパレードでのように妨害を受けることもなく、実際に「たくさんある、様々な参加者の意見の一つ」として、メッセージをパレード参加者に伝えることが出来ました。このあたりは、エイズ文化フォーラムや名古屋のパレードの人達は、見習うべきだと思います。「意見の多様性」を否定したり隠蔽しようとするから、大声で野次る必要が出てきたりして、場が混乱し、話がますますややこしくなります。それはそれで、メッセージを明確に表現できていいのですが、そもそも「意見の多様性」が尊重されていれば、そんな揉め事には全くならないのにね…。


福ちゃんによる関パレアクションの報告

 沖縄市レインボーパレードのプレイベントで、福ちゃんがアクションの報告をしてくれました。その記事を、以下で読めます!

プレイベントで行われた関西パレード参加者による報告の内容


ポストカード

 そして最後に繰り返しますが、ポストカード、あなたもちゃんと書いて、郵送してね!!お忘れなく!!

2011-11-10

ひびのさんインタビュー


 関西クィア映画祭2011の開催中に、京都会場の西部講堂でインタビューを受けました。

 収録が朝早かったのもあって、なんかとても温厚な感じになっています(笑)


D

「生き方は多様だ〜関西クィア映画祭」OurPlanetTV




 インタビューは、関西クィア映画祭の共同代表として受けたので、いま見返すとやはりその枠組みでの発言をしています。特に冒頭の「クィア」の説明とかがその違いが分かりやすいのですが、やはりこれは映画祭としての説明。やはりラディカルさが足りない(苦笑)。私が、個人として自由に「クィア」を説明すると本当はこうなるはずなんです!


クィア:

「男女という制度」に挑戦する人たちの名乗り。レズビアン・ゲイの メインストリームの運動に満足できない人たちの名乗りでもある。

【米国便り19】Queer クイア ってなぁに?


ワタシ個人は、クィアとは、性/ジェンダー/セクシュアリティの領域におけるアナーキズムのことだと考えています!(Twitter


【参考 映画祭版】

ところで「クィア」ってなんですか?


ヘンタイに生きる―

ひとりひとりが自分の性や生き方を選び決めていこうというありかたです。

これまではレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー(LGBT)など、性の領域で「ふつう」ではないと考えられている人々への蔑称でした。これを逆手にとって使うことで、様々な少数派を肯定し、LGBTだけでなく「普通ではない」生き方をポジティブにとらえ直す意図があります。

http://kansai-qff.org/2011/about


 映画祭をしている時の不自由感の一つが、こんなところなんですよね。みんなと一緒に何かをするってことは、何かを断念することなんです。そのせめぎあいは、楽しくもあり、しんどくもあり…

 ともあれ、カニカニに「いつもひびのさんがいっていることだった」と言われてしまったインタビュー、感想お待ちしています。

2011-11-07

楽しかった!みんなお疲れ様でした@関パレ

 去年ほどじゃないけど雨の中、523人の参加者(昨年の雨天実施時とほぼ同じ)での関パレ。お疲れ様でした〜!今年は実行委員じゃなかったのですが、アフターパーティも含め、楽しませてもらいました(^^)v


 パレードでは、何よりわたし持参のトラメガ(携帯拡声器)が大活躍(苦笑)。携帯につないで音楽を出したり、皆のアピールに使ってもらったり、、、。雨のせいで楽器部隊(LA)がパレードを歩けなかったのが、ホントに残念でしたが、少しはその代わりになったかなw。

 協賛上映会の時に聞いた話では「スタッフが足らない!!!!!」てなことだったので、当日スタッフで参加したんだけど、当日の感想は「いっぱいいるじゃん!」な感じ。聞いたら、「スタッフ足らない!!」という呼びかけに応えて参加した人もいるみたいで、今年のスタッフの人望でしょうか。

 去年までダサダサだったスタッフのゼッケンも、新たなスタッフ証になっておしゃれになっているし、スタッフの仕事の割り振りも(これまでになく?)なんかしっかりしている感じで、いい雰囲気でした。今年はトップスターが5人もいたので、「関パレンジャー」の登場シーンもあったりと、なんかいろいろ芸が細かくて楽しんでる感じがGoodでした。

 てことで、せっかくなので、まとまりも無いですが徒然と感想を。


パレード

  • パレードを歩く時に掲げるプラカード、何を書くかいつも迷うのだけれど、「スケッチブックを持って行って、沢山いろんなメッセージを各ページに書いて書いて、順にめくって次々にアピール!」というのをスバルさんがしていて、なるほど、そういう手があったか、と新たな発見。
  • いつも思うんだけど、関パレは周囲の一般歩行者への訴求力がなぜかあるね。沿道でのフライヤーの配布が、毎年大好評で、だいたい受け取ってもらえる。今年もあっという間に用意していたフライヤーがなくなってしまいました。一般向けの表現として、パレード沿道でのフライヤー配付は、もっと真面目にするといいかも。
  • 今年も雨で、いろんなことを私も初めから断念していたんだけど、御堂筋を横断する場面や、なんば駅前付近、ホントは見せ場なので、大きなフラッグや横断幕で、「関西レインボーパレード」やその趣旨を街頭に人にアピールできると良かったなぁ。(あと、この横断箇所は、慌てるとまじめに危ないので、慌てないで走らないで落ち着いて渡っていいんだよ!って参加者にアナウンスする係がいるといいな、と思いました)
  • 今年も例年通り警察が早く歩かせようとせかしてきて(要するに、とっととデモを終わらせたいの、あの人達は。仕事を早く終えたいのです)、またその口調もなんとも偉そうだったんで、ちょっと口論になったんだけど、乱暴な大声での言い合いは場の「楽しい」雰囲気に水をさしてしまうので、ちょっと反省。まだ修行が足らないなぁ、と。でもパレード後、「あの警察にむかついていたので、言いたいことを言ってくれていたのがうれしかった」とも言われて、私も嬉しかった!あと、この口論のお陰で先頭部隊が一時ゆっくりになったので、後続部隊と切り離されずに済んだのがよかったです。

  • 今年は関パレで初めて風船飛ばしが出来ました(風船がちゃんと飛んだw)!6回目にして初めて!

アフターパーティ

 360人以上の参加(ミッチのTwitterによると過去最大)となったらしいアフターパーティー、個人的にも、とてもよかったです。パレードのあと、「ゲイ+ミックス」ではなく、「女子+ミックス」で、これだけ盛り上がるパーティーを今後数年続けていくことができたら、多分パレードそのものの雰囲気もかなりいい方向に変えることが出来ると思う。準備はホント大変だったと思うけど、お疲れさま&ありがとう。私は、パーティー開始からすぐに焼酎をじゃんじゃん飲んでいたので(非主催者特権www)、というか朝から大阪に出てきていたので体力も持たず、加えて途中で超ハードなやり取りも少ししてしまい、朝5時まで居残ることが出来ず途中で退出してしまったのがとても残念でした(T_T)。


  • 日本国内の「女子+ミックス」のクラブは、まじめに新鮮だった。新しい場所と経験は、いつになってもワクワク。
  • 「女子」イベントの、参加者のジェンダー(性表現)の幅が、実際に広いという事実を体感できてよかった。外見だけじゃ分からないし(男子にしか見えないシス女子なんていくらでもいる)、FtMだけではなくMtFにも比較的慣れているね。これはゲイ系/男子系の場所とは、ぜんぜん違うなと思った。
  • これまで何度も「女性系クラブイベント」の愚痴をいろんな女子たちから聞いていたけど、それも分かった。なんか、簡単にラベルを使うし、カテゴライズするね。てかそういう人もいるね。

  • トークですが、いろんなスタッフのやりたいことを尊重し実現すること、いろんな外部の人を巻き込むこと、それから、トランスジェンダーの立場から関パレの不十分な点を批判して欲しいという主催者の選択は、全く正しいしステキ。そうでなくっちゃね、って感じ。かっこいいよ。(主催側の意図は支持)
  • 笹野さんは、肩の力も抜けて、お互い歳をとったなぁという印象と共に、とてもいい雰囲気でした。
  • 私達の世代にとっては、笹野みちるさんを知らないなんてことはまずないんだけど、いま20代の若い友人達が全く笹野さんのことを知らなくて、ちょっとびっくり。ほんとに、こうやって人やいろんなことが忘れ去られていくんだなぁ、と。
  • 「友達になれば、差別しない」という笹野さんのセリフ、実は私は厳密にはそうは思わない*1んだけど、でもそういうふうに言いたい気持ちや、実際にそうしていきたいという事も分かる気がしました。

  • 会場のトイレのマーク、私の経験の中で最良のものの一つだった。今後の選択肢の1つとして、まじめに使える。

  • ただ、実際のお客さんはマークと言うより「女子トイレ」「男子トイレ」として認識して並んで待っている人も多くて、それは残念だったけど。でも、主催者がトイレ問題をまじめに考えているということは十二分に伝わってくるし、自分の主催イベントにまじめに取り組んでいるその姿勢が、ステキです。

 ざっと、こんな感じかな。翌日は、ゴミ拾いピクニックには行けなかったけど、ブックフェアに寄ってせっかくなので「放浪息子」を一冊かって帰りました*2。でも、新井さん本人もTwitterで書いていたけど、新井さんのポスターなのに新井さんの本がない!のはちょっと残念。あと私がセレクトするなら、伏見憲明の本はすべて撤去してビアンやバイ系の本を増やすんだけどね(笑)。まぁそこは、いろんなアプローチの人がいるのも関パレらしいということで。


 なお、関パレではアンケート絶賛募集中です。11/20が締切。

  関西レインボーパレード2011 アンケートのお願い


 ともあれ、何より実行委員やボランティアの皆さん、お疲れ様でした!

*1:個人間の差別は友達同士だとあまりないけど、社会構造に根ざした差別、各自が置かれてしまう社会的位置に起因する差別などは、個人的な「おもい」だけでは何も解決できない、ってこと

*2:こういう取り組みを通じて実際に売上があることが大事なので

2011-04-17

「原発も、日の丸も、いりません」


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 今日4/16(土)、大阪の御堂筋で反原発デモがあり、参加して来ました。

 せっかくなので、プラカードとチラシを作ったので、掲載します。

 派手な緑のコートで参加したので、チラシの受け取りもよく、よかったです!

 日の丸といえば、レゲエ系の方たちが、ホントに、日の丸をベビーカーにくっつけてデモに参加していたりして、正直ちょっとびっくり&私の看板のタイムリーさにびっくり。在特会が難波で日の丸を掲げてデモに抗議していたのには、びっくりしたけど、これに対しても「日の丸いらない」の看板はタイムリーだったかな、と。


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以下は、今日配布したチラシの文面。



原 発 も 日の丸も いりません

★原発は、自民党政権や電力会社が流し続けた「安全です」というデマの象徴です。

★日の丸は、もともとアジアを侵略する時の旗でした。今では、意見が違う人を抑圧・排除する象徴であり、日本人優遇への無知、在日外国人への差別に無関心であることの、象徴です。



下請け労働者も 福島県民も 在日朝鮮人も 性別越境者も セクマイも「みんな」の安全を!

★下請け労働者を被曝させ、福島を始めとする「田舎」に原発という危険物を押し付けているのは、都会に住む「私たち」です。

★「頑張ろう日本」という言い方は、現状では、在日朝鮮人や在日中国人など在日外国人の存在と権利を不可視化する効果を持つことが多いです。

★男女別しかないトイレ、性自認を無視した法的性別での取り扱い、パートナーとして扱われない同性カップル…震災や事故などの緊急時でも、性的な面で多様性を持った人たちが消えるわけではありません。

★緊急時だから、新しい社会を作る時だからこそ、多数派だけを優遇するのではなく、「みんなが安全な社会」を作っていこう!



不作為の責任、が気になる。

 別に私が積極的に原発を推進した訳ではない。しかし、日常生活の忙しさの中で本気で反原発運動に取り組んで原発をなくさなかったツケが、事故となって現れ、既に放射能汚染が進んでいる。この感覚は、日中戦争や太平洋戦争について「なぜ戦争に反対しなかったの?」と後から問われたときの感覚に、似ていないか?

 「頑張ろう日本」「日本人ってすごい!」とか言って日の丸アイコンを掲げる人たちの多くは、外国人を敢えて意図して差別しようとしている訳ではないのだろう。しかし文科省は、朝鮮学校への高校無償化手続きを再開しない口実として震災を挙げた。日本国民だけを優遇し外国人を差別してきた日本政府の方針と日本社会のあり方が、震災復興において急に自動的に変わるとは考えられない。

 同じ仕事をしていても時給が違う。いや、そもそも女子は雇用されない。こんな状況を変える取り組みに関心を示さない男性正社員の労働運動の歴史もある。目の前で不正が行われているのに「気が付かなかった」は本当?「無知は罪」という言い方もある。

 「みんなで作る」企画なのに、壇上で話す人は男ばっかり。会議でも発言するのは男ばかり。「みんなのパレード」なのにパンフレットはまるでゲイの広告誌。「クィア」を掲げるのにトランスジェンダーが少ない学会。特に誰かの悪意がなくても、普通に話が盛り上がると、いつもこうなる。

 運動の中のハラスメント。抗議や批判の声を、受け流したりしていないか?外部に悪者を作ることで、仲間内で盛り上がっていないか?誰かを仲間はずれにしてしまった自分の過ちに、ちゃんと責任をとったか?

 不正や抑圧、差別は、一人ひとりの善意な日常生活、つまり「知らないふり」や「見て見ぬふり」によって支えられている。だから、敢えて意図して方向を変えるための作為的な介入をしない限り、不正や抑圧や差別は、いつものように実践されていく。

 自身が受けている(と感じている)被害について声をあげることは、自分自身の人生を引き受けるためにまず大切なこと。そして、他者加害への傍観者にならないためにも不可欠なこと。「知らないふり/見て見ぬふり」によってつらい思いをしている自分が、不作為による加害というその同じ構造に加担するのは、カッコ悪すぎる。

 なにより、自分の場所で、自分のことについて声を上げ、そして自分の周りのこと他者の声に耳を傾けようとすることが大切だ。それぞれがそれぞれの場で、それぞれのやり方で、出来ることをしよう!ともに闘わん♪

ひびの まこと

http://barairo.net/

これを転用しています)

発行:ひびの まこと http://barairo.net/ 携帯 090-1156-3039

2010-01-16

1.14 在特会の集会とデモの報告

在特会の集会とデモの目撃に行ってきました。簡単な報告です。


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 わたしが現地に着いたのは14時頃だったんですが、地下鉄の出口をでるとすぐ、警察(機動隊)の金網付きの青いバスが2台停まっていました。初級学校の表の入口の前にも1台、学校と公園の間の道路に3台、ほかに公園の周りと併せて合計8台の機動隊のバスと2台の指揮車が停まっていました。また初級学校の門は閉じられ、その2つの門前には盾を持った警官が立ち、門前の道路も警官が立って規制していました。パッと見た感じ、警察がそれなりに本気で学校の警備をしているということが伝わってきました。確かにこれなら、本当に「学校に手は触れさせない」という方針であったのだろうと感じました。


 公園前にはまず多数の公安がおり、公園の中にはぱらぱらと集会参加者がいました。公園の向かいの土手に登ると、公園と初級学校がよく見えます。最終的には在特会側の集会・デモの参加者は30名くらいでしょうか。日の丸を掲げ、いつものようにビデオを撮っています(見た人います?)。軍服姿の参加者もいたそうです。そして公園を挟んだ反対側の土手の上には、初級学校の保護者の人たちと支援者とおぼしき人たちが、こちらも30人以上で成り行きを見守っていました。


 初級学校は、私が着いた時には既に閉門され警察に警備されており、また生徒たちは既に学外実習に出かけて留守で、学校内部には生徒の姿は見えません。窓にはカーテンがかかっています。数人の先生方の姿が見えます。


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 在特会の集会は、なんか元気がなく、特にはじめは何を言っているか土手からはよく分からない感じでした。途中で小型拡声器を持った集会参加者が土手にいる人たちに向かって「言いたいことがあるなら、ここに来て言ってみろ」「お前らキムチ臭いぞ」「日本から出て行け」と挑発しますが、それには多少言い返すくらいで、土手の上から集会参加者を皆で冷笑している感じです。そもそも集会参加者自体が少なく(写真参照)、しかもこっちも人が多くてしかも上から見下ろしているので、挑発も迫力を欠いています。また、警察が本気で警備していることも、集会参加者の士気をくじいている印象でした。


 集会では、「戦後日本は領土を奪われてきた。国後、択捉、竹島、そして児童公園」などと本当に言っており、私は正直ビックリしました。デモのタイトル「1・14 朝鮮学校による侵略を許さないぞ!京都デモ」は、どうもネタと言うより、本気でそう思っているかのようでした。その後のデモでは、街宣車が大音量であじります。軍歌が流れたりもします。でも集会趣旨を読み上げることの他は、「お前ら日本人をなめるなよ」みたいなホントにベタな罵倒ばかりです。12月の時のビデオを見た時も思ったんですが、今回のデモのマイク(在特会京都支部の人たち?)は、桜井みたいなインテリ系のもの言いがほとんどできず、街宣車でただがなり立てるだけの旧来の右翼そのものでした。


 デモは、学校の横を通って近所を一周して、ローソンのあたりまで戻ってきて流れ解散、だったらしいです。でもデモ終了後も在特会側は粘って学校に近づこうとしますが、警察が警戒線を張って阻止しています。警戒線を突破しようとした在特会側の参加者の一人が警察のバスに連行されたようですが、逮捕されたのかどうかその後は知りません。


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 在特会側は、罵倒し侮蔑する対象が目の前にいないので、肩すかしを食らってやることがない、という感じだったのかもしれません。土手などにいる人たちを意識して挑発しようとするのですが、「無視」「黙殺」という方針の通り基本的に相手にしないという対応なので、あちらも盛り上がりません。

 学校自体は完全に無防備、警備は警察に任せる、集会とデモに対しての抗議等もなく黙殺、そのため、ガーガーと騒いでいるのは在特会側だけで、閑静な住宅街の中で集会とデモが浮いている感じでした。近隣住民がこれを見ても、在特会側への嫌悪感が増すことはあるとしても、初級学校に対する印象が悪くなることはない、と思いました。

 私の感想ですが、今回の「黙殺」の方針は、結果から見ると一定成功だと感じました。争いを起こしているのは誰か、暴力的・攻撃的なのは誰か、それをとても分かり易く対外的に示すこともできています。また、朝鮮学校に対する不当な暴力を許さないという立場にはっきりと警察を立たせることができているのも、さすがだと思いました。私のように外の人があれこれ考えるより、現場の学校の方たちの方が状況が分かっているし、適切な判断と選択をされたんだな、と(当たり前のことを改めて)感じました。(「警察によっても守られている」と思うことができないと、「常時自分たちで防衛の警備をしないと安心できない」ということになってしまうので、学校側としても、「警察にちゃんと警備させる」ということは大事なことなんだろうな、とも感じました)


 以上を見届け、私は17時頃現地をあとにしました。


 途中、土手に立っていると、通りすがりの近所の人から「何があるの?」と2回も声をかけられました。「あそこに朝鮮学校がある。公園使用をめぐって右翼が嫌がらせに来ている」と説明すると、「そうやね、いつも子供たちが使っているね」「別に使ったらええやん」と2人共に言われました。うち1人は、そもそもそこにある建物が朝鮮学校だという事も知らなかったようで、「そうか、グランドがないのか」とビックリしていました。民族学校がどういうものであるか、そして公園使用がどのように行われているか、などをコンパクトにまとめた資料があれば渡せて良かったかも、と思いました。うん、やっぱりファクトシートはあるといいかも。


 それから、土手にいるときに、学校の保護者の方に「ありがとう」と言われて、やっぱりそれは正直辛かったです。くやしい。


 今回の「黙殺方針」が良かったなと思うことももう一つあって、もし現場で対抗行動をとって在特会を相手に実際にもめると、それで「私たちの側(支援者)」が何かしたような気になってしまう可能性があります。でも今回は何もしなかったので、そういうカタルシスがありません。実際には在特会のデモや罵倒を「私たち」は防ぐことができなかったし、通常の授業を行うことができない状況を作ってしまった訳ですが、現場での対抗行動をしなかったおかげで、そういう事実が不可視化されないで見えてくる気がします。言い換えると、在特会による攻撃を知っておきながら見て見ぬふりをした、私たちは何もできなかった、そういう事実を踏まえて、「では、何をするのか」を私たち支援者1人1人に問うことができているような気がしました。f:id:hippie:20100114164744j:image:left


 夕日に照らされる校舎が綺麗でした。小学生時代私は日向ぼっこが大好きでしたが、当時私が過ごしていた時間の感覚を少し思い出しました。初級学校の生徒たちも、楽しい思い出をここでたくさん作れるといいな、と思いました。




参考



2009-12-23

私の友人に手を出すな! -簡単な集会報告と雑感-

 「朝鮮学校への攻撃を許さない!12・22緊急集会―日本社会の排外主義を問う―」は、主催者発表600人、私の実感でも、数百人の参加があり、会場は満席、立ち見座り見が多数あり、資料も不足し、会場カンパも20万円以上集まったようです。これだけ短期間の広報、(休日前日とはいえ)年末の平日夜の集会であるにもかかわらず多くの人が集まったことは、今回の事件に対して強い思いを持っている人が多数いることを私自身でも感じることが出来、素直に良かったと思います。

 昨日のブログでこの集会のことを「この事件に対する抗議集会」と私は書いていました。これは、「この集会は、取りあえず集まって抗議する場」という内容のものになるだろうという直感からだったんですが、この点については私の予想を裏切って、少なくとも集会主催者が、集会サブタイトルの通り「日本社会排外主義を問う」というところまでを目指していたことを、感じることが出来ました。

 集会では、朝鮮学校を紹介するビデオ、在特会が押し掛けてきたときの映像が流され、また、京都朝鮮第一初級学校の校長先生、同オモニ会の方、在日韓国青年同盟京都府本部の人、そして他の京都の様々なグループ等のメンバーの発言が続きました。それらは、ただ単に在特会を非難するようなものではなく、民族学校が自分にとってどういうものかを伝える声であったり、現に日本社会に存在する民族差別と闘うことの必要性を伝えるものでした。



 実は私もこの在特会の押し掛け事件の後、今月初めに、友人の呼びかけに便乗して初めて朝鮮学校を訪問する機会がありました。訪問した朝鮮学校では、体育館もなく、もちろんプールもなく、日本の小学校とのあまりの違いをリアルに実感しました。その明らかに古い校舎は、私が小学校時代に通っていたオンボロ校舎を思い出させるものでした。最近の京都の小学校がどんどん綺麗な建物になり設備が充実している(ように見える)のと比べて見て、本当に日本の学校は、日本政府と日本社会によって厚く厚く守られているんだ、ということを実感しました。22日の集会でも「国庫からの助成が得られるような小学校に転換しようとすれば、とたんに民族教育が不可能になる」という状況こそが日本の民族差別だという趣旨の発言がありましたが、まったくその通りだと思います。日本に住む在日朝鮮人が朝鮮語での民族教育を行うのは、多文化・多民族の社会を創るという観点からは当然の権利であり、日本政府はそれを支持・支援する責任があります。でも、実際に日本政府がやって来た/いることはそれとは正反対のことばかりです(例:学校閉鎖令とは。阪神教育闘争とは?)。


 今回の事件と訪問以降いろいろ考えているのですが、もし今回の在特会の事件を扱うのであれば、その目標は、まず在特会が再度朝鮮学校に押し掛けてくることを防ぐこと、そして朝鮮学校がより充実した教育が出来るようにしていくこと、だと思います。在特会が来て騒いだおかげで、結果的に朝鮮学校に支援が集まり、また民族教育の重要性が社会に認知されるようになった、というような状況を創ることこそが、(対在特会という観点からも)大切なんだ、と感じています。

 在特会について言うと、私は、「在特会に反対することは、『私たち』の闘いの中心にはならないし、なってはならない」「仮に万が一、在特会に反対する闘いが高揚して、在特会を『包囲』して、解散に追い込んだとしても、そのことによって日本国内の民族的マイノリティーが置かれている差別的状況が改善する訳ではない」「『私たち』がしなくてはいけないことは、在特会に反対することではなく、実際に日本にある民族差別を無くすこと」だと思っています。そして、6/13の京都での在特会のデモ以降、そんなことを機会があった活動家などと話してきました。確かに在特会は「強烈」です。しかし本当の意味で怒るべき対象は「在特会」ではなく、民族教育を保証するのではなく弾圧し、在日朝鮮人への差別政策と朝鮮民主主義人民共和国への敵視政策を現在も実践し続けている日本政府であり、その方針を支えている「私たち善良な日本人」のマジョリティーとしてのあり方だと思います。

 今回の事件について考える時は、在特会に対する直接の怒りに引きずられるのではなく、むしろ今回のことをきっかけにして朝鮮学校の置かれている状況を少しでも改善することにこそ、焦点が当てられるべきだと、一層感じます。



資料





集会アピール

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●以下に原文あり

http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/sasaerukai091222api.htm


【ひびののコメント】

アピール文案のうち、「『在特会』はほんのひと握りの集団であり、大多数の日本人は彼らに同調しているわけではありません」の部分には、わたしは同意しません。



私の友人に手を出すな!

集会で配布されていた幾つかのメッセージのうちの一つです。

<<朝鮮学校への攻撃を許さない!12・22緊急集会>>へのメッセージ

(板垣竜太)


 在外研究でボストンに来ている関係で、本日の集会に参加できませんが、いてもたってもいられず、メッセージを送らせていただきました。

 在特会らによる攻撃の様子をビデオ、メール、電話を通じて知り、身が震えるような憤りを感じました。真っ昼間に公然とレイシスト的な集団行動をくり広げるかれらの言動は、明らかに一線を越えたものがありました。これを許せば、次には何があるか分かりません。歴史が私たちに教えてくれるのは、こうした突出した動きを許容することが、ファシズムやレイシズムを蔓延させてきたということです。決して許すべきではありません。


 かれらが「特権」とよんでいる公園については、ただでさえ道路工事にともなって、利用が困難な状態においこまれてきました。そんな状況で、かろうじて確保してきた、ほんのちっぽけな空間ですら、かれらは「特権」だとして奪い去ろうというのです。


 かれらの言動があからさまにひどいので、多くの日本人は「こいつらとわれわれは違う」と思うでしょう。ですが、レイシスト的な言動さえしなければ、自動的にレイシズムへの荷担から免れるという話にはなりません。「ひどい」と思うだけで何もしなければ、レイシズムと暗黙の共犯関係を結ぶことになります。


 私は、これが単にごく一部の特殊な連中の動きだとは思っていません。運動場が確保され、国庫からの助成が得られるような小学校に転換しようとすれば、とたんに民族教育が不可能になるような、そんな日本の制度的な制約のなかで起きていることです。また、人種差別撤廃法が存在しない国で起きていることです。マスメディアが「北朝鮮」バッシングを煽る状況で起きていることです。ですから、今回の事件を一部の輩の問題としてだけ片付けたとすれば、そうした、より大きな問題が見えなくなってしまいます。むしろ、今回の事件は、そうした構造的問題を問い直す機会にすべきだと思います。


 かつてフランスで移民排斥を声高に主張する新右翼が台頭してきたとき、それに反対する市民団体が掲げた有名なスローガンがあります。「私の友人に手を出すな!」非常に簡明で力強いことばです。ただ、「友人」ということばは、単に仲がよいとか、同じ国に住んでいるという程度の意味で理解してはならないと私は思います。植民地支配の時代から続くレイシズムの構造に立ち向かって、はじめて、かろうじて発することのできる言葉ではないかと思います。そのような意味をこめて、最後に申します。


 私の友人に手を出すな!


http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/sasaerukai091204gekirei.mht


※上記アドレスは、htmlファイルではなく「mht」という形式のファイルになっています。これは、WindowsのIE専用のファイル(またか!)で、Macや他のブラウザでは通常は読めません(怒)。ただ、専用のアドオンをインストールすれば、MacでもFirefoxでは見れるようです。(Safariも見れるらしいけど、面倒だよ〜)

【ひびののコメント】

「私の友人に手を出すな!」というのは、感覚にもピッタリ来るし、いいスローガンだなと思う反面、(板垣さんのメッセージにも書かれているが)危惧もある。それは以下の二点。

  1. 話者である「私」が無垢で無実な人であるという、事実とは異なる認識を持っていても、このスローガンを言うことが出来る。自身の「マジョリティーとしての特権」を問う視点は、このスローガン自体に含まれていない。
  2. 仮想敵(今回は在特会)の存在や行動を「私たちのあり方」とは全く異質なものとして切って捨ててしまえる鈍感/傲慢なあり方への危惧。「敵」の主張には耳を傾ける必要はなく、「敵」には「自分たち」とは異なる二重規範を適用してもいいという発想に基づいていてもこのスローガンを言えてしまう。(これは、方向を逆にすれば、「違法外国人を叩き出せ」という在特会の発想方法や、「テロリストには人権はない(→グァンタナモ収容所は必要)」という発想と同じ。「過激派」への死刑重刑攻撃を支持したり、暴力団新法やオウム真理教への国家による弾圧を黙認することとも同じ。私はこういった発想方法にこそ抵抗したいので、気になるの。)

こういった限界も気にはなりつつ、でも、とりあえず今回はエントリーのタイトルにしてみた♪


●09年12月23日付け京都新聞

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2009-07-31

朝鮮総聯の李東一さんのお話がかっこよかった件


 7/28(火)の夜、「宇宙への兵器と原子力の配備に反対するグローバル・ネットワーク」のブルース・ギャグノンさんという人の講演会*1に行ってきました。「日本では、核軍拡問題と宇宙の軍事化問題とは、別の問題であるかのように論じられてきた歴史がありますが、両者を結びつけて理解する絶好の機会」という集会の趣旨に関心を持ったからです。ただ残念なことに、ブルースさんのお話は、通訳がとても良くなかったのもあって何となく今ひとつでした。当日の配布資料には面白いのがあったので、この後、スキャンして載せます。

 そして、ブルースさんのお話の後に、朝鮮総聯の李東一さんが短時間でしたがお話をしました。これがとてもかっこよかった!集会に行って良かったな、と感じました。というか、ブルースさんのお話よりも、李東一さんのお話をもっと聞きたかったです。

 今の日本社会には朝鮮民主主義人民共和国(以下、文脈によって「共和国」「北朝鮮」とします)を仮想敵国としてまるで「悪魔」のように扱い、まともに取り合う必要のない国、相手の意見を聞かなくてもいい国、として扱う論調があふれています。言い換えると、共和国を「自分と対等な権利を持った存在」として扱わなくても良い、という二重規範が日本社会には蔓延しています。私自身はそういった論調には批判的に生きているつもりだったんですが、実はそうではなく、私自身の感覚の中にも、共和国を二級国家扱いする二重規範が入り込んでしまっているという事実に、気付かされるお話だったからです。

 まず李東一さんは、直近のタイムスパンで見た時、現在の日本の過剰な共和国攻撃が、共和国の人工衛星打ち上げを理由に行われていることに触れました。共和国に対する差別的な攻撃は、国策としても民間レベルでも本当に長年日本で続いていますが、確かに、最近の「北朝鮮特定貨物の検査等に関する特別措置法案」(解散により廃案)や、世論の雰囲気は、「北朝鮮のミサイルは怖い」という雰囲気に基づいています。



第一条 この法律は、北朝鮮による核実験の実施、大量破壊兵器の運搬手段となり得る弾道ミサイルの発射等の一連の行為が国際社会の平和及び安全に対する脅威となっており…

北朝鮮特定貨物の検査等に関する特別措置法案


 上の法案を始め、4月の人工衛星打ち上げ時の日本の政府の迎撃態勢や、報道は全て、「北朝鮮が弾道ミサイルを発射した」という前提で動いていました。特に報道の力は大きく、「北朝鮮がミサイルを発射したのが怖かった」というイメージが日本では定着しています。この大前提の部分について、李東一さんは、共和国の政府の見解を幾つか紹介しました。時間が短いので少ししか紹介できないが、帰ってからネットで自分で読んでほしい、と添えながら。で、以下は、ネットで読める共和国の声明などからの一部抜粋です。


 宇宙空間を開拓して平和的な目的に利用することは、地球上のすべての国が平等に持つ合法的な権利である。

 彼らは衛星運搬ロケットと長距離ミサイルの技術が区別されないことから、われわれが衛星を発射すれば自分たちへの脅威になるという論理を主張し、国連安全保障理事会で問題視すべきだと騒いでいる。


 わが国に最も大きな罪を犯した日本が騒動の先頭に立っている。


 米国と日本をはじめ、われわれの衛星発射を非難する国々はすべて、われわれよりも先に衛星を打ち上げた国々である。


 衛星発射技術が長距離ミサイル技術と同じならば、これらの国々こそミサイル技術もいち早く開発し、多くの内容を蓄積してきたことを示すことになる。


 自分たちはいくらやってもよいが、朝鮮はやってはいけないという強盗のような論理は、われわれに対する敵対感の表れである。


 自分たちが敵視する対象は自衛の手段も所持してはならないばかりか、平和的な発展もしてはならないという破廉恥な強権と専横が通じると考えるなら、それは大きな誤算である。


 世界で衛星を打ち上げている国は1つや2つではないが、国連安全保障理事会が個別の国による衛星発射を取り扱って問題視したことはない。


 平和的な宇宙研究開発と利用に関する主権国家の自主的な権利に干渉できる、いかなる権能も持たないからである。


 衛星発射技術が長距離ミサイル技術と区別できないからといって、国連安保理で取り扱われるべきだというのは、テーブルナイフも銃剣と同じ点があるから軍縮の対象にすべきだという強引な主張も同然である。

 対話で敵対関係を解消することができないなら、われわれには敵対行為を抑止するための力をさらに強化していく道しかない。

[朝鮮新報 2009.3.27]


朝鮮外務省スポークスマン談話(全文) 「強権と専横は通じない」


 Q 現在まで人工衛星を打ち上げた国はどれくらいあるのか。


 A 自国で開発したロケットで衛星を打ち上げた国は世界的に見ても決して多くはない。旧ソ連が1957年10月、世界で最初に打ち上げた。その後、米国、フランス、日本、中国、英国、インド、イスラエル、朝鮮と続いた。今年2月にはイランが打ち上げを成功させた。


 98年の「光明星1号」について、日本は「弾道ミサイルの可能性が高い」(防衛庁最終報告)として認めようとしなかったが、米国、南朝鮮は人工衛星だと認めている。米航空宇宙局(NASA)のウェブサイトにも、朝鮮が98年8月29日に「光明星1号」を打ち上げたと明確に記されている*2


そこが知りたいQ&A―人工衛星「光明星2号」発射の意義は?


 4月22日発朝鮮中央通信の報道は、…「ばく大な量のプルトニウムを備蓄し数多くのロケット発射実験を経てミサイル防衛システム樹立を進めている日本が朝鮮の衛星打ち上げに対して言いがかりをつけることはできない」と述べた。


 日本の宇宙開発戦略本部は「光明星2号」が打ち上げられる2日前に発表した「宇宙基本計画」に、外国の衛星を含め今後5年間に34基の衛星を打ち上げると同時に弾道ミサイル探知のための早期警戒衛星技術の研究に着手する内容を盛り込んだ。


 日本は2004年から2008年までの5年間に16基の衛星を打ち上げた実績がある。


人工衛星打ち上げ 日本の過剰反応を非難


Q 議長声明の何が問題なのか。


A 最大の問題点は、宇宙の平和利用に関する国際法上の権利に関して明白な2重基準を犯していることだ。歴史上、国連安保理が衛星打ち上げを問題視したことはない。平和目的の宇宙利用権および開発権の平等性は宇宙条約によって確認されているが、今回の議長声明はこれを完全に黙殺している。宇宙条約は国連が関わって作成されたということを考えるとき、安保理の措置は主権平等、公正といった理念を自ら否定する行為になる。


 外務省声明も議長声明を「国際法じゅうりん行為」と非難。衛星を数多く打ち上げている国々が常任理事国を占める安保理が、国際法の手続きを経た朝鮮の衛星打ち上げに対して2重基準を適用していることをやり玉にあげた。


 「衛星打ち上げであれ、長距離ミサイル発射であれ、だれが行うかによって安保理の行動基準が変わるというところに問題の重大性がある」という朝鮮側の指摘は正鵠を射ている。「自分たちの手先である日本の衛星打ち上げは問題なく、自分たちの言うことを従順に聞かない朝鮮の衛星打ち上げはいけない」という米国の論理を安保理が受け入れたと不信感をあらわにした。


 議長声明は朝鮮側が追加の人工衛星打ち上げを行う権利も否定しているが、「宇宙条約で確認されている、すべての国に認められた宇宙の平和利用という権利を安保理決議が奪いあげる権限はない」(浅井基文・広島市立大学広島平和研究所所長)はずだ。


そこが知りたいQ&A―国連安保理議長声明後、朝鮮の反応は?


 言っていることは、すごくまともです。全ての国は人工衛星打ち上げの権利がある、共和国の2ヶ月前にはイランだって打ち上げている、そもそも日米はいくつの人工衛星を打ち上げているのか。

 にもかかわらず、なぜか日本の世論では、共和国が何か悪いことをしたことにされてしまっています。そして安保理さえ共和国を非難しました。もし日本の人達が「北朝鮮が人工衛星を発射するのが怖い」と感じるのであれば、逆にこれまで何度も日本が人工衛星を発射してきた時に、共和国の人が怖いと感じているとは考えないのか。「衛星打ち上げであれ、長距離ミサイル発射であれ、だれが行うかによって安保理の行動基準が変わるというところに問題の重大性がある」という主張は、全くもって正しいです。

 共和国を二級国家扱いしておいて、自分たちとは対等な権利を持った国家として扱わないでおいて、自分では何回も(弾道ミサイル発射にも転用できる)人工衛星を打ち上げをしておいて、「怖い、怖い」とまるで被害者であるかのように振る舞う日本政府と日本の世論。こういう圧倒的な情報と状況の中で、「北朝鮮にも問題があるからなぁ」と思わず思ってしまっている部分が、私にもあったことに気が付かされたのが、李東一さんのお話でした。


 そして私自身にとってショックだったのは、こういった共和国側の第一次情報に自分で直接あたるという基本中の基本を私が怠っていたことに気が付いた時でした。意見の違いがある時、トラブルがある時、特に相手のことを良く思っていない時、そういう時こそ、相手の主張を直接聞いてみることこそが最も大切だという当たり前のことを、私はしていなかった。しかもそういう基本的な情報は何とネットにも載っている。家にいて、ちょっとキーボードを叩けば知ることができる情報を知ろうともせず、「北朝鮮にも問題があるからなぁ」というイメージを(少しであるとはいえ)私自身が持っていたんです。あぁ、何と恥ずかしい。本当に情けない。


 そして、そういったことを気付かせてくれるお話を冷静にしてくれた李東一さんに「お話かっこよかったです」と帰り際に伝えたら、返ってきた答えがこれ。「『かっこよかった』というのはちょっと抽象的ですが、どういう意味ですか」と。いやぁん。私と同じ返し方ではありませんか。私も時々人前でお話をすることがあります。話の後、「良かった」とか言って貰えることもあるんですが、そう言われても意味不明なので、私もいつも聞き返します。「それは、どういう意味ですか、どこが良かったんですか?」と。私はコミュニケーションをしたいとは思っていますが、別に褒めて欲しい訳でも、仲良しごっこをしたい訳でもないからです。


 一度、ちゃんと時間をとって、李東一さんのお話を聞いてみたいなと思いました。また、日本人はもっと李東一さんのお話を聞くべきだ、と思いました。共和国政府についての話をするなら、直接、朝鮮総聯の人の話を聞いてみようというのは、当たり前の態度のハズ。しかもすぐ近くに住んでいて普通に日本語で共和国政府の主張を教えて貰えるんですから。特に共和国政府に批判や違和感がある人こそ、お話を聞くべきだと思います。

 誰か一緒に、企画化しません?


(在特会問題についても、京都で公的に開催された討論集会が私の知る限り一つもなくて抗議デモと署名だけがあったのは変。児童ポルノ法も賛否を話し合うような集会とか全然無い。平場で人々が討論する機会が最近全然無い感じが変だと最近思っているのです。共和国への攻撃問題に限らず。)



附記:

  • 私自身はアナキスト系左翼であり、特に旧来型の組織のあり方には批判的です。というか、極めて相性が悪いです*3。そしてそれは、朝鮮総聯についてもおそらく同じです。ただ、今回は論点を人工衛星打ち上げのみに絞って検討しています。
  • 本記事のコメント欄は原則として人工衛星関連に限定します。その他の論点については、コメントではなくトラックバックを使って下さい。


8/2追記

NASAにおける共和国の衛星打ち上げの記述は以下にあるみたい。

「1998 Worldwide Space Launches」

http://www.hq.nasa.gov/osf/1998/launch98.html

 

 

 

 

*1http://list.jca.apc.org/public/cml/2009-July/000741.html

*2:どこのことを言っているか分からないが、例えば「COMMERCIAL SPACE TRANSPORTATION: 1999 YEAR IN REVIEW」 http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/nexgen/Nexgen_Downloads/FAA_AST_CommSpace_99_Rev.pdf のPAGE 9にはこう書いてある「1998年にブラジルと北朝鮮が人工衛星を打ち上げようとしたが失敗した/Brazil has made two launch attempts, and North Korea attempted to deploy a satellite in 1998. None were successful.」

*3:参考→「みんな」にとって公平な運動と社会を創るために〜社会運動内部の権力について考えてみる〜 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-6.html

2009-07-19

LIKEオフ会


 報告シリーズ第2弾です。てか、ちと遅いですが。

 以前の記事イケメン雑誌「LIKE-boy」で紹介した雑誌「LIKE-boy」のオフ会が5月にあったので、参加してきました。

 実は正直なところ、私が「オフ会」なるものに参加したのはこれで人生2回目。LIKEのオフ会はもちろん初めてなので、どんな感じか楽しみでした。

 私の印象を結論から書いてしまうと、「ちゃんと責任を持って創られていたイベント」でした。とても気持ちよかったです。もちろん久しぶりに「お客さん」として企画に参加している気楽さもありますが、「ちゃんと」主催者が主催者として責任を持って企画が創られていることを感じられ、私もだんだんと安心してその場にいることができるようになっていきました。なるほど、これだから、LIKE誌は部数も拡大し、広がっているんだな、と思いました。




 まず、頂いた案内の紙には、会場にいたる案内と、スタッフの紹介が書いてあります。とってもアトホームな感じです。ビルの入口ではスタッフが待っていてくれて、場所もすぐ分かりました。他のスタッフに引き継いで、エレベーターで会場まで案内をしてくれます。これなら迷いません。会場ではお金を払って席に着きます。奥のステージでは、発売したばかりの新しいLIKE-boy誌の販売や、スタッフ(なのかな?)のお手製のオリジナルTシャツの販売もありました(買って帰って着てみましたが、結構良い感じでした)。出し物も色々あり、飽きません。印象的だったのは、出演者やスタッフが皆楽しそうにしていたことです。まず何より、それにつきます。

 席で話していると、スタッフの人がいろんな人を紹介してくれます。既に何回もオフ会に参加している参加者もいるようで、そういう参加者をスタッフがちゃんと覚えていて、各参加者の関心のありそうなことを話せそうな人と引き合わせたりしているようです*1。「FtMゲイに会ったことがない、自分がそうかもしれない」という人も来ていて、いろいろお話ししました。場の雰囲気としては、そうですね、ゲイリブ初期の感じ、つまりいろんなセクシュアリティーや立場・考え方の人が来ていて、お互いの距離を測りつつも交流している感じでしょうか。今では「ゲイはゲイ」「女子は女子」「ミックスの場」などと嗜好別に別れて場が創られることの方が多くて、それぞれの場には、隠された暗黙のルールや、目指すべき(あるべき)振る舞いの作法などが確立してしまっており、そういう意味で現在のセクマイ系の場は、実は今の私にとっては退屈な場の方が多いです。でもLIKEのオフ会は、そういう感じではなく、トランスといってもいろいろいるということが理念としてではなく現実として目の前にあるので、1人1人が出会う感じがあったように思いました。「トランスなんだから、こうあるべき」「性同一性障害だったら、こうであるはず」とかいう感じではなく、その逆で、1人1人の実感や生き方の方を起点として、出会う感じです。私が気分よく楽しめた理由の一つは、ここにあると思います。


 後半は、実は私はある参加者につかまってしまい(というか、話し込んでしまい)、ずっとその1人の人とヨシノユギさんの裁判のことについて話していました。内容は後で触れますが、そこで私がすごくいいなと思ったのは、私たちが話し込んでいる間にもスタッフが何人も声をかけていってくれたことです。今回私は別にその人と話すのは嫌ではなかったので全然OKだったのですが、特定の人にしつこくからまれたり、場合によっては望まないアプローチをされたりすることは、特にお酒のはいる場ではよくあることです。そういう時、第三者が場に入ってくると、うまく逃げることができたり、NOを言いやすくなったりするものです。イベント内でのセクハラ対策を私自身も考えていたことがあるのですが、そういう観点から見てもスタッフの振るまいが完璧でした。声のかけ方も自然で、正直、感服です。

 その後もスタッフの方と少し話す機会もあって、いろいろ考えたのですが、多分、オフ会の主催側スタッフは、本当にみんなで楽しい場を創りたいと思っているんだと思います。参加者に嫌な思いをしたりして欲しくない、全員に楽しい思いをして帰って欲しい、その為にどうしたらいいかを、ごく普通に真面目にオーソドックスに考えて、それをちゃんと実践しているんだな、と感じました。特に社会運動系の場では、主催者側の無責任なあり方*2に出会うことは全然珍しくないです。自分のことをマイノリティーとか被害者として認識している場合、その不全感や被害感情を補填するために、主催者側の人であってもその責任を自覚できず、場から何かを回収しようとする場合が多いのだと思います。「何をもらえるか、ではなく、自分には何ができるか、を考えよう」とは言ってはいるのですが…

 そして今回のオフ会では、それとは全く異なる形で、主催側の人として責任を持って行動している人が何人もいた感じがあり、とてもうれしかったし安心しました。


 あと、このオフ会は実は私的なつくりになっています。つまり企画の意志決定の過程が一般に公開されておらず、端的に言えば「ボスが存在する」ということです(強権的に振る舞っている人がいる、ということではありません)。これは以前からハヤブサ人生と何度も議論になり、必ず意見が合わなかったことなのですが、私はどちらかというと「一般参加者こそが主権者」「ボスを創ってはいけない」ということを、社会運動の中でず〜っと主張してきました*3。ハヤブサは、「民主的なやり方、をやろうとすると、必ず無責任体制になる。そうすると、場でのセクハラや暴力が起きやすいし、その被害は弱いものに行く。すぐれたボスがいて、権力と責任を持っていてちゃんと仕切っている方が、そういうことを防げる」と言うのです。実際、LIKEのオフ会はそういうちゃんとした場になっていました。そしてまた、民主的に創ろうとしている場が実は単なる無責任体制になりやすいことも、私自身の経験からもよく分かります。あ〜負けてる。私もがんばらないと!と、改めて思いました。



ヨシノユギさんの裁判について議論に!


 実は全く予期していなかったのですが、このLIKEのオフ会の後半、ある参加者につかまってしまいヨシノユギさんの裁判について延々と議論をしてました。他のオフ会参加者と話す時間が無くなってしまったという点では残念ですが、じっくり話せたことは収穫でした。「手術に失敗はつきものだ」「壊死程度のことでは失敗とは言わない」「もっとひどい例もいっぱいある」「そんなに失敗したくなかったら、もっとオペの上手いところで手術すべきだった」「ちゃんと事前に医者の下調べをすべきだ」「そもそも大阪医大で第一例目の患者として手術することを選んだのが失敗」「裁判のおかげで(医者側が萎縮し)他のFtMが迷惑を被っている」「性同一性障害と言うな」など、ヨシノ裁判やヨシノさんへの批判点は特に新しい論点ではなかったのですが、その批判も実際にFtMとしての人生経験に裏付けられた感情や感覚に基づいての批判ではあり、実はそんなに距離の遠い人との議論だとは私は感じませんでした。


 例えば、水俣病の患者としての告発が、多くの水俣病の患者や水俣の市民には(当初は)受け入れられ難いこと。不当な労働条件のもとで働く労働者が、労働者としての権利を主張する労働組合を支援ではなく非難したり裏切ったりする側に廻ることは決して珍しくないこと。多くのゲイは、ゲイとしての権利主張には必ずしも積極的ではなく、逆にゲイリブが嫌いな人も多いこと。こういうことは、社会運動の分野では別に珍しいことではないです。社会的な不正や不適切な力関係が社会にある時、それを告発する声は、その社会的不正となれ合って(共犯関係の中で)普通に生活している多くの人達の日常生活の欺瞞性まで告発することになるのですから、権利主張が特に少数派や被害者の当事者に反発を受けるのは、当たり前のことなんだと思います。そしてだからこそ、最も厳しい批判を浴びせてくる関係者達の中に入っていてこちらから語り掛けるというコストを負担することこそ、活動家が引き受けるべき仕事なのです。

 「壊死程度のことでは失敗とは言わない」「もっとひどい例もいっぱいある」などの意見は、実は今のFtMの医療がどれほど劣悪な状況に置かれているのかを示す証言な訳です。こういった事実認識を持っている人は、FtM医療の現実には実は深い関心もなく無責任にヨシノ裁判を支援するような人達より、本当はもっと「仲間」になれる可能性があります。だって、こんなにひどいFtM医療の状況は、変えたいじゃないですか―という根本の利害は一致しているんですから。

 「裁判のおかげで(医者側が萎縮し)他のFtMが迷惑を被っている」というのも、短期的に見れば当然そういう側面もあるでしょう。権利を主張する、闘う、ということは、「周りに迷惑を掛けること」と同義です。だからこそ、特に関係者に対してこそ、積極的に丁寧な説明をすることが必要なんだと思います。

 積極的にFtMコミュニティーや自身を批判する人達に語りかけるのではなく、ヨシノさんを無責任に持ち上げることができる人達に支援を求めているように見えること*4など、ヨシノさんの言動には私にとって不十分に思える点もあります。また支援グループの「ヨシノ支援プロジェクト」のあり方にも、ここでは今は具体的には書きませんが、やはり不十分・無責任な点があると私は考えています。そういった観点からは、オフ会での批判者の気持ちにはいくつかは納得も共感もできました。ただもう一歩、考えを進めて欲しい。仮にヨシノさんやヨシノ支援プロジェクトに不十分な点があったとしても(それはそれとして批判したらいい)、いまのひどいFtM医療のあり方をより良くするための試みとして、ヨシノ裁判は大筋で正しい主張をしていると思いませんか?ヨシノさん個人には共感できなくても、ヨシノさんの主張を支持することはできませんか?ヨシノさんは単に手術が失敗したから訴訟を起こした訳ではなく、手術後に大阪医科大と直接話し合いもし、医者側との合意を創るための努力もしたけれど、しかし大阪医大側のあまりに不誠実な対応に怒って裁判を選択せざるを得なかった、という部分があるとは思いませんか?オフ会でもお誘いいただいた「ヨシノさんを批判する意見が圧倒的だというFtMの人達の集まり」にも私は是非参加したいです。FtM医療については私は素人ですので、もっといろいろ教えて欲しいし、ここに書いたようなことももっとお話ししたいです。意見が違うからこそ、対話が必要なんです。お名前は書きませんが、是非是非誘って下さい〜♪

*1:私が優遇されていたのか?

*2:例:へなへないとでの出来事と反省

*3:例:【パレード3】関西レインボーパレードの何が問題なのか

*4:そして付け加えておくと田中玲さんの問題に主体的に対応していない(ように見える)こと