やっぱり『やもり通信』

海外生活一区切り。これからは日本の生活メインの内容になりそうだけど、タイトルはやっぱり『やもり通信』・・・で、いいかなっと。

年の初めに2011年を振り返る: 2011年の我が家の【キーワード】は・・・やっぱり、あれです。

皆さま 
あけましておめでとうございます。
どんなところでどんなふうに新年を迎えられましたか?

 我が家は、年末の12月23日(金)夕方にカイロを発ち、ドーハ経由のカタール航空で(エジプト航空さん、早く直行便飛ばして!!)24日の夜19:30ごろに成田に到着。
 そのまま夫の実家である埼玉県坂戸市で、2012年を迎えました。

 年末の一時帰国ですっかりバタバタしてしまい、ゆっくりと2011年を振り返る時間が無かったため、新年早々「年頭所感」を書く訳でもなく去年の振り返りですか? と言う感じになってしまいますが、お時間のある方は少々お付き合いくださいませ。

 
<エジプトでも大雨・・・?> 
 振り返ってみると幕開けからして既に今までの年とは明らかに違った2011年でした。

 砂漠の国エジプトに赴任してきて初めての年越しを紅海をのぞむ観光都市「ハルガダ」で過ごし、1月1日にそこからバスでエジプトを代表する古代遺跡の街ルクソールに移動するはずだったのですが・・・・


 まさかの「大雨による主要道路の通行止め」で、ルクソール行きは断念。エジプトってほとんど雨が降らない国じゃなかったんだっけ?年間降水量が80mmを超えるところがほとんどなく、カイロでも30mm以下、ルクソールのあるエジプト南部では10mmそこそこ・・・のはずなのに、大雨による通行止めですと?

しかも、カイロ−ハルガダ間の道路もあちこちで「閉鎖」と「一時的な開通」を繰り返しているようで、陸路でカイロに戻るのは厳しそう。となると飛行機。しかしこんな状態になってしまっているので、私たちがルクソール行きを断念して急きょカイロへ戻る事を選択した時にはハルガダ−カイロ間の飛行機は軒並み満席。一番早く帰れても1月4日の午後になる、というではないですか。夫の年末年始の休暇は3日まで。4日からは出勤しなくてはなりません。他にカイロへ戻る選択肢はないのか??


 はい、ありました。


 ハルガダから飛行機で地中海沿岸の街アレキサンドリアに飛び、そこから長距離バスでカイロに帰る というルート。
これならその日(1月1日)の午後にハルガダを発ち、アレキサンドリアに着いたらそのままバスターミナルに向かい、そこからすぐにカイロ行きのバスに乗れば夜にはカイロに到着可能。

 そんなわけで優雅な年末年始の休暇は“元日にアレキサンドリアから長距離バスで帰宅”という想定外の結果となったのでした。 

 しかも、カイロの自宅にたどり着いてから知ったニュースにびっくり。

 そう。2011年1月1日未明、新年を祝うミサに集まったコプト教の教会がターゲットにされた自爆テロが起こったのは、つい数時間前に私たちが素通りしてきたアレキサンドリアだったのでした。 ※アレキサンドリア自爆テロ:http://bit.ly/yk9fmK



<それでも実現したルクソール再訪は、ただのマラソン大会では終わらなかった> 
 そんなこんなでルクソール観光が先送りとなってしまったものの、そのリベンジ訪問が意外に早くやってきた私たちだったのですが・・・
この時の「母子のみでのルクソール行き」が、まさかその後のエジプト革命、そして退避一時帰国へ直結していくなどとは、本当に思ってもいませんでした。

 この年18回目の開催となったエジプト国際マラソン「ルクソール・マラソン」に参加するために、私と子どもたち二人は1月27日(水)からルクソール入りし、翌28日(金)に古代遺跡を眺めながらの爽やかなランを楽しんだのですが、この時すでにカイロはとんでもないことになっていました。
 仕事があるから、という理由で今回の「ルクソール・マラソン」参加を断念した夫は、タハリール広場を中心としたカイロ市内の治安の悪化により、26日(水)より【自宅待機】となっており、実はエジプト全体が不穏な空気に包まれつつある状況の中、私たちはカイロを離れ、ルクソールにやってきていたのでした。

 その後のルクソールからカイロに戻るまでの、今思い出しても心臓の奥がキュッとなってしまうような体験や、その後の退避一時帰国にまつわる一連の出来事が、今、私がこうして書いている≪やもり通信≫を始めようと思ったきっかけになったことは言うまでもありません。※≪やもり通信:退避帰国日記≫ http://bit.ly/AhqmHc



<再び始まったカイロ生活> 
 エジプト情勢も、ムバラクの退陣という大きな山を一つ越えたということで落ち着き始めたため、一足早くカイロに戻った夫。
 そろそろ私たちも帰国準備(エジプトへの)・・・と思っていた時に日本を襲った巨大地震
 震災後の混乱で一時交通網もマヒし、今度はエジプトへ帰るタイミングを逸した私と子どもたち。

 再びカイロで家族4人での生活が始まったのは3月24日。
 その2週間ほど後には、長女みどりの入学式。
 カイロ日本人学校の1年生となったみどりは、毎朝7時頃に迎えに来てくれるスクールバスで元気に登校。
 一方、私は7時に娘を送り出すために、5時起き+弁当作りの日々のスタート。この試練のお陰で(?)毎日があっという間に過ぎていきました。

 夏休みと、それにかぶさるようにやってきたラマダン(イスラム教徒の断食月)。
 学校行事テンコ盛りで、これまたあっという間に過ぎていった2学期。

 そして、その2学期の後半には、またカイロ・タハリール広場を中心になにやら騒がしい事になってしまい、職場がタハリール広場と目と鼻の先にある夫は、何度となく【自宅待機】を余儀なくされることとなったのでした。


<近づく選挙と再び荒れるタハリール広場> 
 2月のムバラク退陣後長らく続いていた最高軍事評議会による暫定内閣に国民からの不満の声が徐々に上がり始め、その動きが表面化してきた11月からはタハリール広場は、1月に始まった政変の再来か??と思うほどの凄まじさとなってきました。(ただし混乱はタハリール広場周辺に一極化している、というのがこの時期の特徴でした)
 11月20日の草太の5歳の誕生日も夫は【自宅待機】。 結局この週に出勤できたのは、たった一日。

 11月28日からムバラク政権崩壊後初の人民議会選挙が行われていますが(1回でスパッと決まるような形ではなく、何度にも分けられて行われる今回の選挙は、現在進行中で続いています)、12月半ばの第2回目投票時もタハリール広場周辺は予断を許さぬ状態が続いており、その翌週から夫は再び【自宅待機】
 その週の金曜日からは日本人学校が冬休みに入るのに合わせて年末休暇をもらっていた夫。12月はほとんどまともに出勤できないまま一時帰国先である日本へ来てしまいました。


 そんなわけで、2011年を振り返った時、我が家としてはどうしても【自宅待機】がダントツ1位になりそうです。 本当に【自宅待機】で始まり【自宅待機】で終わった2011年でした。

 また、【タハリール(広場)】という名前を何度も何度も聞いた年でもありました。

 そして、次に頭に浮かぶのが【負けるもんか、日本!!】あるいは【がんばれ!日本!!】
 あの地震体験は子どもたちにとってもかなり強烈だったようで(いえ、ただ震度5強程度の揺れを体験しただけなのですが)、カイロに戻って来てからも思い出したようにいろいろな絵を描いて壁に貼り始めたり、(※http://bit.ly/hwqFjV

上記の言葉を書いた横断幕を真似たようなものを窓に貼ってくれと頼まれたり・・・。

特に草太(カイロに戻ってきた当時4歳)は、遊んでいる最中に突然「負けるもんか!ニッポン!」などと叫んだり。


 私自身もチャリティーバザーに足を運んだり、家族でがんだるまTシャツ(※http://bit.ly/kQBCQ4を着て出かけたり・・・と、意識しなければふと忘れがちになってしまう遠い日本での復興活動を細々と応援してきたつもりです。


 それにしても、今思い出しても、本当にいろいろな事がありすぎた2011年でした。
 
 みなさんにとっての2011年の【キーワード】は、何でしたか?
 

 2012年が始まって、まだ数日。
 今年はいったいどんな年になるのでしょう?

 今年を締めくくる時期になったら、どんな言葉が我が家の【キーワード】となるんだろう・・・

 そんなことを、子どもたちが寝静まった後に北海道の実家でぼんやり考えています。