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2013-11-29

【Anime】【感想】家族の愛と再生の物語『京騒戯画』

 誤解を恐れずに言うのであれば、『京騒戯画』は、東映アニメ版『輪るピングドラム』だと思うんですよ。
 久々に、というか、それこそ2年ぶりに根幹揺さぶられる面白いTVアニメを見ているような気がします。

 おさらいになりますが、『ピングドラム』という作品は、林檎ー「特異点たる愛」をめぐる話なんですね。

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「だからさ、苹果は宇宙そのものなんだよ。掌に乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。」
「あっちの世界?」
「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ。」
「それと苹果に何の関係があるんだ?」
「つまり、苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。」
「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
「おしまいじゃないんだよ。むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ。」
「全然わかんねぇよ。」
「愛の話なんだよ、なんでわかんないかな。」
輪るピングドラム』第1話「運命のベルが鳴る」

 始まりと終わり、そのどちらにも存在する、掌に乗る宇宙ー林檎。
 『ピングドラム』において、林檎とはいのちの証であり、愛であり、同時に呪いでもある。つまり、すべてのきっかけとなる始まりの愛と終わりを導く呪い、そしてそれらに関わるいのちを担保しているものなんですよね。どの世界線にも特異点的に存在する運命の果実・林檎。
 終わりも始まりも含めた林檎を巡るすべてを「愛の話」と称して展開していたのが、『輪るピングドラム』という作品だと私は思っているわけです。

 『京騒戯画』もまた、愛と呪い、いのちを巡る「特異点たる愛」の物語なんですよ。

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かつていくつかの星々が存在し
人と神々の世界が曖昧だったころ
これはとある一家をめぐる愛と再生の物語である
『京騒戯画』毎話アバン

 描いた絵を実体化させる力を持った僧・明恵上人と、彼に描かれ、彼に恋をした黒兎・古都。いつの間にか、彼らは、人間の子ども・薬師丸と、絵から生み出した子ども・鞍馬、八瀬と家族として暮らし始める。家族たちは、平穏で幸せな時間を過ごしていた。
 しかし、京都の人間たちは、奇怪な力を持つ明恵と、彼に生み出された存在を不穏に思い、支配下に置こうと画策していた。そこで、古都は提案する。いっそ、絵の世界に移ってしまえばー。
 こうして、彼らは、死なず生まれず、時が止まった妖怪と人間が共存する鏡都へと移り住んだ。
 しかし、ある日突然、明恵上人と古都は鏡都を去り、取り残された三兄妹は……。
 というのが、『京騒戯画』1話の大まかなあらすじ。

 おとぎ話のように語られる明恵上人と古都のはじまりの物語は、子どもたちにとって、大きな枷となってしまう。愛ゆえに創り上げられた鏡都が象徴的で、あの都が檻となって三兄妹に不自由を強いるんですね。鞍馬と薬師丸(明恵)は、鏡都と両親を愛しながらも外の世界へ出たいと考えている。
 歪んだ気性を持つ明恵上人と彼を愛する古都がはじめた家族の物語は、どのように着地するのか。

 その答えは、WEB配信時代の視聴者が知っているわけですが、『ピングドラム』はタイトル通り、林檎(=ピングドラム)が「輪る」ことでひとつの終わりを迎えるんですね。実体としての林檎が、晶馬や冠葉、陽毬たちのあいだで手渡される。そうして生まれた「特異点たる愛」の輪は、『ピングドラム』では家族の絆の象徴となっている。いずれ離れ離れになってしまったとしても、林檎の輪が出来たことが真理として、残り続けるわけです。愛が巡ることによって起きる混乱ではなく、愛が手渡された事実こそを重要とするんですよ。愛による呪いから逃れた代わりに、家族たちの生活は終わってしまう、だけど、林檎のある新しい物語の始まりは迎えられる。
 『京騒戯画』では、愛と呪いを残された三兄妹たちが、再び、明恵上人と古都に干渉できる話みたいなので、愛と呪いを残した両親には干渉されるだけで、積極的に接触をすることがなかった『ピングドラム』とはまた違う結末になるのではないかなと今から楽しみです。

2013-09-30

【雑記】『艦隊これくしょん〜艦これ〜』始めました

 今さらながら『艦これ』始めました。
 DMMのIDを取得してから、着任(サーバー確保)するまでが長かった。パソコン開いたときは必ずカチカチしてます。おかげで、本来やりたかったことが全く進まない。パソコンだと触れる時間がかなり制限されてしまうので、スマホ対応してくれないかなーと待機する日々。アニメ化もするらしいし、そっちも期待したいですね。

 『艦これ』の魅力といえば、まず艦隊擬人化の艦娘の可愛さや、歴史・艦隊好きには夢のタッグを編成出来ることにあるのですが、個人的に面白いと思うのは、「女の子の下着を見ると焦ってしまう」ことですね。
 『艦これ』の女の子たち、艦娘たちは戦闘でダメージを受けて、「中破」もしくは「大破」すると服が破れて下着が見えるという設定なのですが、その状態になると提督としては気が気ではない。戦闘に負けることももちろんそうなのですが、それ以上に、艦娘が「撃沈」してしまう可能性が恐ろしい。艦娘は、撃沈されるともう二度と会えないんですね。肌が露出されて、ボロボロになって、限りなく色っぽさを漂わせた瞬間から「永遠の別れ」を予感してしまう。女の子の肌が露出される快楽と、その女の子とは二度と会えないかもしれない恐怖が一緒くたになる。
 あと、単純に「ごめ…ごめんよ…ヘボ提督が全部悪いんだ」って気分にもなる。この辺は、自分が手塩をかけて育てた娘が、自分の不手際のせいで変な男にかっさらわれた気分に(きっと)よく似ている。自分の欲望とはまったく関係なく無理やり脱がされているっていうのも、NTRっぽいし。
 艦娘がダブるときなんかも面白い。「第1艦隊」でコツコツと育てている艦娘とまったく同じ娘がステータス違いで、船隊にいるのはけっこう不思議な感じがする。ちなみに、私は一度、レベル上げしてた電を間違えて「合成」してしまって、すごく切なくなりました。合成する予定だった電を育て始めたり時には、水子の話っぽいとか思った。

 ブラウザゲームなので、操作自体は単調なゲームではあるんですが、欲望をかなり突き動かされます。気づけば、編成が自分好みの子に偏ってたりね……。キャラ的に好きじゃないから消費しちゃえと思ってたら意外にレベルアップしてしまって、気づけば頼りにしてることも。あと、被ってる子は何の容赦もなく、合成している自分に気づく。駆逐艦と重巡洋艦の性能差とかねー。シビアです。

 そんな感じで、『艦これ』楽しんでます。陽炎がとても好きです。他の艦娘に比べると地味だけど、台詞がものすごく可愛い敷浪もいいです。龍田に至っては、軽巡洋艦だから使ってただけなのに、喋り方がだんだんクセになったりしてます。

2013-08-11

甲野善紀講義『武術が明かす世界』参加レポート

 池袋コミュニティ・カレッジの甲野善紀先生の講義「武術が明かす世界」に参加してきました。
 忘備録代わりに簡単なレポートを置いておきます。

 参加の経緯を少しばかり。
 少し前に、『マルドゥック・スクランブル』を読んだのですが、ルーン=バロットって、人間が達成しうる地点で、最強の能力を兼ね備えているよなと思っていて。バロットは全身に金属繊維による人工皮膚を移植されることで常人より遥かに優れた身体能力と体感覚を持っている少女なんですが、彼女の能力があれば「察知」・「分析」・「対処」の三つの動作をシームレスに行うことが可能なんですね。
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 漫画版を見ると、わかりやすいですね。たった2ページで説明してしまう大今良時版『マルスク』の素晴らしさですよ。このように、彼女は自分のいる空間を「皮膚感覚」で察することが出来るんです。かつ、その多大な情報をひとつにまとめて認識することができる。まぁ、この認識と対処は、人語を解する金色のネズミ型万能兵器であるバロットのパートナー、ウフコックによる力も大きいのですが。
 『マルスク』を読んでいて思ったのは、察知する力が強いことと「察知→分析→対処」この過程がシームレスな状態であることが役立つのは何も戦闘や格闘術だけではないんだなということです。実際、『マルスク』はカジノシーンに多くのページが割かれていて、バロットは自身の能力を使って大儲けするし。

 そんなことを思っていたら、ちょうど奈須きのこ作品に触れる機会が増えまして。彼の作品群は、身体の記憶や人格、盟約をかなり重視していると思ったんですね。
 一番印象的だったのは、『Fate/staynight』の桜ルート。「正義の味方になる」という理想を胸に生きてきた衛宮士郎が、その理想を「捨てて」しまうのですが、そのあと、彼は自身の「身体」を失ってしまうんですよ。つまり、彼や彼の周りの人間は、彼の理想が「借り物」であると認識しているんだけど、実は衛宮士郎の身体には「盟約」として刻まれていたということだと思うんです。身体に刻まれた盟約。
 これ、『空の境界』でも同じような認識があって、なぜ、両儀式は「不殺」を誓っていたのか、白純里緒を殺したことに悲嘆していたのかに対する回答になるんですね。式が祖父から教えられた「殺人の定義」は、彼女の身体に「盟約」として刻まれていた。だからこそ、式が「人を殺してしまったという事実」は彼女の心持ちでどうにかなるものではない。精神的なトラウマではないし、例え記憶を忘失してしまっても意味がない。式の「直死の魔眼」が、彼女の目を抉ったところでモノの「死」を視ることを逃れられないのと同じ。
 さらに、『空の境界』のラストでは、肉体に宿った人格としての「両儀式」も現れる。肉体に宿った「両儀式」は、『 』(=アカシックレコード)の一部と繋がっている。彼女が得た実感は、すべて『 』にも記憶/録されてしまう。だから、いかなる手段でも、書き換え不可能。それぐらい、両儀式にとっては、「実感」というのは絶対的なもので。(『空の境界』の美しいところは、本来達成しえない理想のはずなんだけど、理想を持った人格が亡くなっても身体が残ることで達成されてしまうとこだと個人的には思う。切り/継がれる物語。)
 身体的人格や記憶というと、『DDD』もそうですよね。「左腕はある」という身体の認識とは裏腹に実際には身体と繋がっていない左腕、石杖所在の身体から左腕が離れると同時に、欠けてしまった記憶保持能力と「脅威」を感じる能力。四肢のない迦遼海江が持つ感情を形にした黒色の義肢。奈須きのこ作品には、今あげたような「身体的記憶」がかなり頻繁に出てくるように思います。

 人間には「身体の記憶」が確かにあって。「酔ってて、記憶がないんだけど、いつの間にか家に着いてた」なんて話がよくありますけど、あれはやっぱり、精神的な人格がトンでる間に、身体が普段している動作の記憶を再演しているということなのかなと。
 そういう「身体の記憶」を突き詰めたところに、ルーン=バロットのような、強い察知力と「察知→分析→対処」この過程がシームレスに実行できる能力が備わるのではと。最も、「身体感覚」を研ぎ澄ませるのはやっぱり「格闘技」だなと。『Fate』の英霊も身体とずっと対話をしてきたはずだし! バロットも戦いの中でその能力を研ぎ澄ませていくし!
 私は、「自分の人生を物語として捉えたときに、意味が出来る一連の流れやそのきっかけを「運命」と呼んでいる人間なので、これはどうにか生の感触がほしい。そう思って、私の周りで一番そういったことにお詳しそうな方にご連絡したところ、今すばらしい身体操作法を身につけていらっしゃって、スケジュールが合いそうなのは甲野善紀先生ですと、素敵な回答をいただきまして。

 これはもう行かねばならんと思い、一昨日言ってきました。そのときの感想ツイートが以下。完全に興奮している。



 終わったあとは、味わったこともない感触にさらされ続けたせいか、身体がぐったりしていて驚きました。甲野先生の立ち振る舞いには枝葉はなく、すべてが幹のようだった。予め見た動画からは「流水」の印象だったけど、実際に見ると「変幻自在の鉄」と言った方が近いかもしれないですね。
 甲野先生を拝見すると、腰を中心にすべてがきちんと繋がっている。最初に驚いたのは、片足に重心をかけつつも、腰の位置や姿勢が両足に均等に重心をかけたときと変わらなかったことで。「体幹」という言葉は、生易しく使ってはいけないものだということをつくづく思わされる。
 人間は、ここまで無駄がなく立ち振る舞えるものなのかと。実は、「投げて」もらおうとか考えていたんだけど、この時点で考えがふっとびました。そういうものではないんだと。最近見たアニメで言えば、『風立ちぬ』の堀越二郎の立ち振る舞いに近い。甲野先生は以前スタジオジブリの作画スタッフの人たちに武術の実演をされたらしいです。甲野先生のことを教えていただいた方も、『もののけ姫』のサンが屋根の上を走る動作や宮崎駿監督自身の動きも、甲野先生の教えに感化されている部分があるとおっしゃっていました。実際に、甲野先生のコメントを見ると、この辺ですね。

私は以前スタジオジブリ宮崎駿監督からの要請で、ジブリの作画スタッフの人達に武術の実演をして、気配なく動くことが武術にとって大切であるという話をしたところ、宮崎監督が「甲野さんのような動きをアニメにしたら、手抜きのアニメと見られてしまう」と苦笑いされたことを思い出していた。
 つまり、宮崎監督が、刀で斬るシーンの迫力を出すために、大きく振りかぶってタメをつくり、体をうねらせることで、観ている人達に凄い威力を実感させる手法を使わないとリアル感が出ないと考えられている
随感録

 これは完全に余談ですが、『王様のブランチ』で宮崎監督が『風立ちぬ』を「シンプル」と評しているのを見たが、それは甲野先生のような「気配のない動き」を走るときなどの一部分だけでなく、堀越二郎の一挙一動のほとんどに取り込んでいるということでもあるのではないかと思うんですよね。見たときは、「和服が前提にある動き」だと思っていたけど、あれは武術家の無駄のない美しい動きも組み込まれているからなのだろうと。
 甲野先生のお話を伺っている中で、意外だったのは「江戸の武士は胸や肩は落としていて、胸を張るようになったのは西洋の文化が入ってきて以降」という話。実技中も、意識的に肩を前に丸める動作をされていて、筋肉が覆いかぶさる感じですね。あちらの方が力が入るらしいです。

 実技も交えた少人数の講義だったので、一度竹刀で軽く打ち合わせをさせていただきました。と言っても、高校時代に少しだけ剣道をやっていただけなので、竹刀を持って、甲野先生の竹刀を少し弾いていただけなのですが……いつの間にか、小手に入れられていて驚きました。綺麗に寸止めされていたのですが、一瞬手首から先が無くなったような気分でありました。
 通常、剣道で小手に竹刀をいれようと思ったら、|歸瓩鬚△欧 竹刀をまたぐ 小手に落とす という3つの動作がいるのですが、甲野先生の振り方ですと、竹刀を振りあげるのではなく、「いなずま形に落とす」らしいです。言われればわかるが、見ていてもまっったくわからん。いや、言われてることを素直に呑み込める気もしない。竹刀って別に軽いものじゃないし、軽かったとしてもいなずま形に落とすって難しいどころの話じゃないですよ。しかし、自分の左側にあった竹刀は確かに、小手に振り下りているわけで。
 なっ、なんじゃこらぁああとか叫ぶ暇もなく、あれやこれやと技をかけていただき、しまいには地面に手をついておりました。なのに、大きな力をかけられたって、認識はなかったし、トンと押されただけで。むしろ、自分から転んでいたんじゃないかと思うぐらい。普段の甲野先生の講義からすれば、恐らく異分子だったので、かなりお手柔らかにしていただいたのですが(座ってるときからかなり目線も送っていただいた!)、とにかく翻弄されっぱなしで何もコメントが出来なかったです。
 まさか、ルーン=バロットのようになりたいとか、そんな理由で受けに来ているとは、さすがにあの短い時間では言えない。いやまぁ、武術の達人ではなく、身体操作をしたくて来ているんですと言えば、もっと何かあったかもしれないなぁ。それはまた機会があればの話ですね。(どうやら10月からも3回講義を開かれるようです。そっちに参加してこようかな。)

 あとは、手の形を変えると力の入り方が変わって、本来持てるはずのないものも持ちあげられるようになるということも教えていただきました。甲野先生は、介護の方にも技を教えていらっしゃっているので、その一端としてだったのですが、こちらもびっくりしました。力の入り方が全然違うというか、むしろ、力が入っている気がしない。親指を内側に折りたたみ、「撃鉄を起こす」と言われたのですが、もうこれが本当に的確な表現で。こういうのがあれば、介護はもっと楽になるんだろうなと。しかし、教えられる人も少ないんだろうなぁ。もったいない話です。

 2時間弱の講義でしたが、未知の世界の感触にとにかく驚くしかありませんでした。個人的に一番感動したのは、「人間は目からの情報よりも、感触の方を重視している」ということ。人間は、常に空気の流れをはじめとして様々なものに触れていて、そこから情報を得ている。甲野先生が講義中に何度かおっしゃられていた「力に反発しようとするのではなくて、受け流しす」ということと掛け合わせると、人間は触れたものに反発するのではなく、一度受け止めることが大事で、それが出来るということだと思うんですね。
 私個人としては、やっぱり、「懸隔を埋める」というのはとても心惹かれることで、その結果、あんなに美しい動作が行えるようになるんだと思うと感動してしまったのでした。
D
D

2013-08-10

【Anime】【感想】『ガッチャマンクラウズ』と共に、『C』も見てほしい

 世間では、どうやら『ガッチャマンクラウズ』が騒がれているらしい。見ていてやっぱり思うのは、中村健治監督の『C』も面白いアニメだったってことなんですよね。「経済アニメ」とか放送から2年たってるけど、珍しいと思うんですよね。みんな『C』も見てください!

[ C ] OFFICIAL SITE
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あらすじ
主人公の余賀公麿は、都内の経済学部に通う父母を亡くし、奨学金をもらいバイトをしながら一人暮らしをする貧乏大学生。自立して安定した生活を獲得することを夢見ている公麿のもとへ、怪しい男が現れる。
「あなたの未来の可能性を担保に、お金をお貸しします。そのお金を、あなたの才覚で運用してみませんか?」
その日から、公麿の運命は大きく変わってゆく……。

 このアニメを見ていると、金に対する信頼が揺らぎます。果たして、私の財布に入っている一万円札は本当に現実のもの? もしかしたら、『C』に出てくる黒いお札・「ミダスマネー」かもしれないなんて思ったりする。(金融街で「ディール」=取引をしない者には、ミダスマネーは普通のお金に見えるのだ)
 『ガッチャマンクラウズ』でもSNS「GALAX」の描写が評価されてますよね。「GALAX」は、決して現実から遠く離れたものではなくて、被害の縮小や事件の未然防止、人命救助など、今のTwitterFacebookでも出来る範囲で描かれています。大きく違うのは、人工知能コンシェルジュ・「総裁X」がいないぐらい。『ガッチャマンクラウズ』では、現実的な便利さだけでなく、SNSの暗部をも描いていて面白い。

そして面白いのが、本作ではこうしたSNSを単純に肯定的に描いているわけではないのである。今回の描写に関しても、GALAXのユーザーたちは、自販機のコンセントを抜くなどして被害の軽減に努めたが、そこではGALAXから与えられた情報を疑う様子などいっさいない。そうしたGALAXを過信する彼らの様子がどこか薄気味悪いのだ。
『ガッチャマン クラウズ』を薦めたくなる三つの理由。 - 脳髄にアイスピック

アニメの随所には『世界をアップデートするのはヒーローじゃない。僕らだ。』という看板がたてられており、多くの人達の善意と信頼によって、世界を少しずつよくしていく、アップデートしていくという思想の元に動いていることがよく分かる。

だが、この『GALAX(ギャラックス)』滅茶苦茶キナ臭いのだ。
物語中の登場人物がほぼ疑い無しでこのSNSに依存している姿を見ると、不気味で不安になってしまう。

そんな善意が担保として運営されている場所に悪意が入り込んでしまったら?
もし、みんなの善意があらぬ方向で突然不幸な事件を起こしてしまったとしたら?
さらに、この思想がヒーローという個別の存在が人を救うという思想と対立してしまったら?

それを匂わせるような展開がいたるところに散りばめられており、目が離せない。
『ガッチャマンクラウズ』が盛り上がっていないのは絶対におかしい。:屋上百合香のポエムノート - ブロマガ

 また、「GALAX」「総裁X」の開発者・累は、世界のアップデートを望みながら、数々の星を滅ぼしてきたベルク・カッツェから与えられた「NOTE」の力を利用し「GALAX」を運営している。
 正義を成すために、悪の力を利用せざるをえないという矛盾した状態は、『C』でも見られるんですよ。

 金融街のお金であるミダスマネーの使用は、現実の未来の可能性を奪っていく。そのことを承知の上で、金融街の大物である三國壮一郎は、大量の国際をミダスマネーで買い取り、日本を支えていて。「未来の安定」を望む主人公の公麿と、「現在の保持」を望む三國は、ミダスマネーや金融街でのディールを通し、様々な形で関わり、対立していくのが『C』の面白さなんですよ。
インフラは生きていくための必需品。とはいえ、影響する規模が大きいということは、様々なリスクを孕んでいることと同義で。『C』は、当たり前すぎて気づくことを忘れてしまった「金」に対する認識を揺がせる作品になっています。『ガッチャマンクラウズ』のSNSの描写の幅広さに驚いた人は、ぜひ『C』の金に対する描写も見てほしいですね。

 両作品の共通点は、「現実と未来、どのように限りある資源を配分するのか」だと思います。「どちらか」ではなく「どのように」。『ガッチャマンクラウズ』がどのような配分をしていくのか行く末を見ていくと同時に、『C』の結末も見てみてはいかがでしょう。

 ちなみに、当時のノイタミナ枠ではあの花が圧倒的に話題をかっさらっていましたよね。『あの花』一話と『まどか』一挙2話放映が、あの時のアニメの大きな話題だったといっても過言ではないはず。夏の終わりには劇場放映されるし、今クールでは再放送してるし、『あの花』人気は留まることを知らないわけですが、2011年春クールの「ノイタミナ枠」はやはり2作品でひとつなんですよ。『あの花』が「過去との再会と和解」を描くアニメであるなら、『C』は「未来との邂逅」を果たす作品。二作品両方が揃うことで初めて、私たちは2011年春クールのノイタミナを楽しんだことになるのではないかなと。「今ある日常が過去と未来の繋がっていること」を再考する機会を、『あの花』の再放送と共にぜひ。

 今なら、Youtubeで配信も行っています。
- YouTube

2013-07-06

【Book】【感想】小説『輪るピングドラム』の著者・高橋慶が描く『暗闇に咲く』の「匂い」と「色彩」

暗闇に咲く

暗闇に咲く

あらすじ
雨森小夏がひとり切り盛りする小さな美容室を訪れた、見知らぬ女。
長くぼさぼさの黒髪に黒ずくめの出で立ち、青白い顔をした幽霊のような女は、一年前、母の葬儀の折には年頃の女性らしく身ぎれいにしていた従妹の芙美だった。
あまりの変貌に驚きながらも、小夏は家を出てきたと話す芙美を居候させることに。同居生活を続けるうち、子どものように明け透けで飾らない芙美をいとしく思い、彼女を自らの手指で美しくすることに昂ぶりを覚え始める小夏。
だが、芙美は遠く離れた土地にいる元恋人・冬馬からの手紙を読んで以来、様子がおかしい。やがて嫉妬にかられた小夏に「私は冬馬のことを愛してた」と告げた。芙美の両目から大きな大きな涙の粒があふれ出し、部屋いっぱいを埋め尽くす涙の球体に、芙美は閉じ込められてしまう――。

【ネタばれなし】
 小説というのは、言葉の羅列で成り立っているものなのに、時折何か「匂い」を放っているものがある。それは、熱気ある夏の匂いや静謐な冬の匂いだったりする。『暗闇に咲く』から香ってくるのは、水の匂い、花の甘ったるい匂い、そして、誰かの家の匂いだった。その人と話をしたり、すれ違ったり、はたまた家にあがったとき、明らかに「他人」だと感じることがある。原因のひとつに「匂い」が関係しているのではないかと思う。生活を共にしない限り、人は「同じ匂い」を獲得することはない。その匂いは、洗剤やシャンプーだけでなく、住居にも影響されるものだからだ。

 『暗闇に咲く』は、主人公の雨森小夏と、彼の従妹である芙美が「匂い」をめぐる物語なのではないだろうか。元々あまり仲が良いわけではない親戚同士である彼らは、それぞれ愛する者の喪失と悲しみを抱えたまま、同居を始める。芙美は小ぎれいなOLをやめ、ほとんどの化粧品や服飾を手放している。その喪失を埋めるように、美容師である小夏が自身の仕事のもので芙美に化粧を施したり、くちなしが香るシャンプーを貸し、髪を乾かしたりている。その過程で、小夏は母の死を悼みつつも芙美に思慕の念を抱き始める。その様子は、小夏が母から受け継いだ「アムール」という美容室とその家の「匂い」で、芙美を侵食しているように見える。
 しかし、芙美自身の「匂い」が小夏と同質になってしまうことはない。彼女の匂い=涙の匂いは、彼女の喪失感による孤独を象徴する「色彩」へと繋がっている。「モノクロームラブストーリー」と題された本作において「色彩」は重要な要素のひとつだ。特に、芙美の「色彩」は大きな変化を見せる。彼女は、茶髪を黒髪へと変え、きれいで大人っぽかった頃からは想像できないようなポップカラーのTシャツとデニムのスカートを着ており、最後には彼女のすべては「白」に変化する。芙美の「色彩」はお洒落な化粧を施す小夏に影響されて変化するのではなく、彼女の孤独の原因である冬馬を象徴する「モノクロ」に近づいていくのだ。

 愛する者の喪失した小夏と芙美は、同居しながらもそれぞれの孤独を共有することなく、強い悲しみを抱えている。共有されることも、癒されることもない悲しみに直面したために起きる進化とも退化ともいえるひとつの現象は、ふたりだけではなく、芙美と別れた冬馬や小夏に好意を抱くすみれをも孤独にしていく。
 しかし、本作はただバッドエンドで終わる物語ではない。本作が示すのは、孤独を抱えたままでも「匂い」や「色彩」があること、その意味だ。彼らが孤独に直面し、悲しみから逃避するように幻想的な現象に飲み込まれていく、その舞台は「アムール」であることを忘れてはならない。孤独とは、誰かと生活を共にすることから始まり、匂いも色彩も誰かと生きた結果のひとつだ。それらは、総じて、「愛」と呼ばれるものなのではないだろうか。
 『暗闇に咲く』は、雨の匂いに始まり、美しい花を予感させて終わる。夢を見ているようなぼんやりとした風景の中にある匂いと色彩を感じ取たとき、彼らの思い描く「アムール」を少し垣間見れたような気がした。それは、美しくも切ない彼らがほのかに愛する日々の営みだったのだと思う。