街場のメディア論

内田樹さんの”街場のメディア論”を読みました。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

内田さんの著作は、独自の視点からきちんと書かれており、いつもいつも刺激的です。
今回の著作は、”メディアと知”と題して2007年に大学で講義されたものがベースとなっています。
前半は、いまのメディア界を批判的なスタンスで書かれています。それは、内田さんの信じる”メディア”と現在の日本のメディアがかけ離れたものになっているからです。
内田さんの考える”メディア”とは”命がけの知を発信する”のが真の”メディア”であると書かれています。非常に手厳しい言葉です。今は、旧来のメディアがインターネットに飲み込まれようとしていますが、それは”ジャーナリストの知的な劣化”がインターネットの出現によって顕在化したものであると言い切っています。”新聞とテレビを中心として組織化されていたマスメディアの構造そのものを瓦解させつつある。”と言っています。
また、インターネットの脆弱性もきちんと指摘しています。インターネットは”社会インフラが安定している社会でしか「使い物にならない」”ということです。正しくその通りです。天変地異が発生し、社会インフラがぼろぼろになったらインターネットを利用することは出来ません。
未来永劫に残せるメッセージは、太古の昔から残されている、石に刻みこむ方法が一番いいのかもしれませんね。
本書の後半から、かなりディープな講義となります。”メディア”を切り口としていますが、社会論へと発展します。
社会には変わらなくてよいものがあります。その代表例が、教育と医療です。ただ”メディア”側の要求は、常に変革を求めています。このため、変わらなくてもよいものに対しても、変革を求めることに”メディア”は迎合したのです。
宇沢氏の唱える”社会的共通資本”という考え方は重要ですね。要はインフラ(人的インフラ、それは教育を意味します。)の整備方針ががその時の政府の方針により、ころころ変わってしまってはインフラの整備はできません。要は、政治にも市場経済にも左右されないものが、世の中には存在しているということなのです。
一番楽しく読めたのは、”第六講義 読者はどこにいるのか”の章でした。ここでは、本棚の有用性を熱く語っています。
まず、電子書籍の真の優位性が語られます。真の優位性とは、”読者が読みたかったけれど、読むことの難しかった本”を読者が読めるようになったことです。これは同感ですね。従来の紙ベースの出版物ですと、ビジネス的にあわない本はどんどん絶版にされ流通しなくなりましたが、電子書籍はコストの面から読者が少ない、または読者が存在しないかもしれない本も流通させることが可能です。
ただ、電子書籍の弱点は”書棚を空間的にかたちづくりことができない”ことです。そのとおりですね。
次に本棚の優位性を次のように語ります。”紙の本が電子書籍に対して持ちうる最大のアドバンテージは、電磁パルスは「自我」の幻想的な根拠を構成することができないがゆえに、他社の欲望を喚起することができないということです。”
本棚とは、”知”というものをその前にたつ人間に喚起させることができるのです。これは実感できます。本文にも書かれていますが、知り合いの家にいき、知り合いがその本棚(蔵書)の前に立つと、バックにある多くの書物(自分が読んだこともないような題名の書物がずらりと並んでいます。)から”知”のオーラが湧きでてくるのです。本棚に収まっている蔵書は、そこに存在しているだけで、その前に立つ人間に”知”を喚起してくれるのです。

最後の講義では、”ミドルメディア”が語られています。”ミドルメディア”をマスメディアとパーソナルメディアの中間に位置する”メディア”と定義しています。佐々木俊尚氏の著作から引用して次のように定義付けています。”特定の企業や業界、特定の分野、特定の趣味の人たちなど、数千人から数十万人の規模の特定層に向けて発信される情報”としています。
”ミドルメディア”というキーワードはとても気になります。ただ、ちょっと気になるのは、マスメディアとの比較において対象とする人数で定義していることです。”ミドルメディア”という言葉は、まだ漠然とした対象を現しているにすぎません。
Wikipediaを引用すると”ミドルメディア”とは、マスメディアと、インターネットの掲示板やブログ・口コミといった個人メディアの中間にあるメディアのこと。ジャーナリストの藤代裕之が定義した”とあります。具体的には、さらに引用すると”プラットフォーム提供型:集合知というWeb 2.0的な手法を元に、ユーザーが参加して記事やサイトのランキング、重要度などを評価していく。ソーシャルブックマークやソーシャルニュースなどが該当する。編集型:編集者が情報をさがし、価値があると判断した情報をユーザーに紹介する。J-CASTニュースまとめサイトなどが該当する。”とあります。これを読むと、なんやら中規模のマスメディアといった印象を受けますが、おそらく”数”の話ではなくて、その存在とその発信するステータスの違いにあると、おいらは考えています。”マスメディア”は大多数に向けて、一方的に同時に放出される情報を意味します。”パーソナルメディア”とは、一方的に放出されたメディアを、個人のためにストックすることを意味しています。そのメディアを加工しても、個人の楽しみの為です。”パーソナルメディア”とは、獲得した情報を自分の引き出しにしまい込むことでもあります。
この一方的な大多数対象の情報の流れに対し、”ミドルメディア”とは、ある種、一方的に放出される情報に対し、ストップや一旦停止や保留を求めているのです。
そう、一度情報がストックされることによって、その情報に対する吟味が始まります。そして、最終的には”マスメディア”のご意見番(分析を主とする)となることなのです。
”マスメディア”とは、結局多くの対象者を相手にすることになるので、最終的にはあたりさわりのない”発言”(メッセージ)になってしまうのは、その宿命かもしれません。ただ、本音の部分と、その隠された真実を解き明かすのが”ミドルメディア”の役割のひとつなのではないでしょうか。
ミドルメディアを実現させたその中核にあるのが、インターネットなのです。インターネットは、メディアを開放したのです。メディアを万人のため開放したのです。
ミドルメディアと類似するかもしれませんが、インターネットの時代にあって、ダイレクトメディアというものを定義してもいいのではないでしょうか。(ダイレクトメディアという言葉はすでに存在しています。個人を対象としたダイレクトメール等を利用したマーケティングの呼称です。でも、これは個人の意思を反映し、個人から発信されたものではありません。インターネットの時代にあって、さらに再定義する必要があるでしょう。)
ダイレクトメディアは個人のためにもそうですが、ソーシャルな面でもはさらに威力を発揮します。
カナダや米国では、Non Emergency Callとして311の番号があります。このアイデアをインターネットに取り込んだ活動も活発です。311とは苦情専用の電話番号です。この対応をインターネットに広げた活動が広く普及しています。この311の仕組みは、インターネットにはぴったですね。例えば近くの道路に穴ぼこが開いてるぞとか、近くの通りの街灯の電球が切れていて、夜道は危ないとか、その地域に密着した情報がリアルに正解に行政側に伝わります。それもTwitterを利用してです。
このようなサービスは日本では聞いたことがありません。米国の方が、インターネットをソーシャルなサービスとしてうまく活用しているようです。
話がかなり横道にずれましたが、いい本というのは、色々な思いを沸き立たせてくれます。その一言に尽きます。